LOGIN余命半年を宣告された公爵夫人は、夫に迷惑をかけず静かに消えるため、離縁状だけを残して家を出た。 三年間、礼儀だけは完璧でも愛情の気配はひとつもなかった。だから追ってくるはずがないと思っていた。 けれど彼は、公爵位も、王命も、都で築いた立場もすべて投げ捨てて彼女を追う。 今さら遅い。そう思っていたのに、追いついてきた男は、冷徹公爵ではなく、ひどく不器用に彼女を失うことだけを恐れる一人の夫だった。 これは、静かに死ぬはずだった女が、遅すぎた愛に追いつかれ、もう一度生きることを選び直すまでの物語。
View Moreリュゼリア・ディルクレイド
旧姓:フォンティア
年齢:24歳 立場:公爵夫人 / 元侯爵令嬢基本プロフィール
侯爵家の長女として育ち、政略のためディルクレイド公爵家へ嫁いだ女性。
社交界では「静謐の花」と呼ばれるほど穏やかで上品な美貌を持つが、その内面には誰よりも強い矜持を秘めている。結婚後は冷え切った夫婦関係の中でも公爵夫人として完璧に振る舞い続け、屋敷の内外を陰で支えてきた。 しかし余命半年の宣告を受けたことで、ようやく“誰かのためだけではない人生”を選ぶ決意をする。容姿
柔らかな月光を思わせる、淡い蜂蜜金の長い髪を持つ。
髪質は繊細でやわらかく、光を受けると金糸のように透ける。普段は上品にまとめていることが多いが、ほどけた時にはどこか儚く、触れれば消えてしまいそうな印象を与える。 瞳は澄んだ薄青。静かな湖面のような色合いで、感情を押し隠す時ほど冷たく美しく見えるが、本来はとても優しい目をしている。 肌は白くきめ細かいが、最近は体調不良の影響でやや血色を失っている。細身で華奢な体つきながら、立ち姿や首筋の角度に育ちの良さがにじみ、弱々しいだけでは終わらない気高さがある。 派手な美人というより、目を離したあとでじわじわ残る類の美しさ。性格
穏やかで、聡明で、感情を人前で荒げない。
もともと人の機微を読むのが得意で、相手の立場や事情を汲み取り、自分を後回しにしてでも場を整えようとする性質がある。 一見すると従順でおとなしいが、実際には芯がとても強く、いったん「もう戻らない」と決めたら簡単には覆らない。 愛されない苦しみを長く抱えてきたせいで、自分の痛みには鈍感になっているところがある。耐えることに慣れすぎていて、限界を越えてもなお笑おうとしてしまう。 その反面、最後には誰にも奪えない尊厳を自分の手で守り抜く、静かな強さの持ち主。得意分野
・社交術
・帳簿管理、屋敷運営 ・人間関係の調整 ・花の手入れ、庭づくり ・刺繍や室内装飾 ・相手の体調や感情の変化を察すること派手に目立つ才ではないが、彼女がいることで場が整い、人が回り、家が保たれる。
ディルクレイド公爵家が内外で高く評価されてきた陰には、彼女の細やかな支えがあった。弱さ・傷
愛されたい気持ちを長く押し込めてきたため、自己肯定感が低い。
「自分さえ我慢すれば丸く収まる」と考えてしまう癖があり、傷ついても平気なふりをする。 夫に対しても本当はずっと期待していたが、その期待が裏切られるたび、少しずつ心を削られていった。 だからこそ離縁を告げる時の彼女は、怒っているのではなく、もう“諦めきってしまった”静けさを帯びている。ヴィルレオ・ディルクレイド
年齢:28歳
立場:ディルクレイド公爵家当主 / 王国を支える若き公爵基本プロフィール
王国でも屈指の権威と実力を誇るディルクレイド公爵家の現当主。
若くして政治、軍務、領地経営のすべてを高水準で担い、国王からも厚い信頼を寄せられている。 社交界では「氷の公爵」と恐れられるほど冷静沈着で隙がなく、感情を表に出さない。 妻であるリュゼリアに対しても、その不器用さゆえに冷たい態度しか取れず、結果として彼女を深く傷つける。 失いかけて初めて、自分の中にあった愛の深さと、取り返しのつかない過ちを知る男。容姿
艶を抑えた黒髪に、深い青灰色の瞳。
整った顔立ちは鋭く、表情が乏しいため近寄りがたい印象を与える。黙って立っているだけで空気が張りつめるような、静かな威圧感をまとっている。 長身で肩幅も広く、鍛えられた体躯を持つため、正装や軍装風の衣服がよく似合う。 指先まで無駄なく整っていて、所作には一切の緩みがない。 美形だが柔らかさはほとんどなく、“冷たく美しい刃”のような男。性格
寡黙で理性的、責任感が非常に強い。
公爵としての資質は申し分なく、誰よりも義務を重んじ、民にも部下にも誠実であろうとする。 だが、私情の扱いだけが致命的に下手。 大切なものほどどう扱えばいいかわからず、言葉にできず、守ろうとして距離を置く悪癖がある。 自分の感情を後回しにしてきた人生のせいで、「愛している」「そばにいてほしい」という単純な本音を口にできない。 その結果、本人の中では大切にしていたつもりでも、相手から見れば“何も与えてくれない夫”になってしまっている。得意分野
・政治判断
・領地経営 ・軍略、危機管理 ・剣術 ・交渉、対外折衝 ・情報整理と状況把握公の場ではほぼ完璧。
混乱の中でも感情に流されず、常に最善手を選べる男として周囲から絶大な信頼を得ている。弱さ・欠点
人に弱みを見せることができない。
幼い頃から「当主は強くあれ」と叩き込まれてきたため、感情を表に出すこと自体に無意識の抵抗がある。 愛情も心配も、言葉にせず行動で示せば十分だと思い込んでいるが、その行動すら相手に伝わる形で届けるのが下手すぎる。 結果として、守るべき相手を孤独に追い込み、自分が“何もしていなかった”のと同じ状況を作ってしまう。 後悔してからは非常に執着深くなるが、その愛はどこまでも遅い。リュゼリアへの感情
結婚当初から、彼女に惹かれていなかったわけではない。
むしろ静かで聡明で、誰にも見えないところで場を支える彼女に、早い段階から心は動いていた。 ただ、その感情を「愛」と認めた瞬間に失うのが怖くて、仕事と義務に逃げた。 距離を置くことで平静を保とうとした結果、彼女には冷たさしか伝わらなかった。 離縁を告げられ、去られ、初めて彼女がどれほど自分の生活と心の中心にいたのかを知る。 それ以降の彼は、遅すぎた愛と後悔に足を取られながら、それでも寝室が静まり返った。 言ってしまった、と思った。だがもう引き返せない。「皆はまだ、“療養へ行かれるだけ”だと思っております。旦那様だって、そう思いたいのでしょう。けれど奥様だけが、違うお支度をなさっている」 涙が次々と頬を伝う。拭っても拭っても止まらない。「わたくしにはわかります。奥様が、本当に……本当に去るおつもりなのだと」 最後のほうは、ほとんど声にならなかった。 リュゼリアはしばらく黙っていた。いつものように「泣かないで」と宥めるかと思った。あるいは「何を言っているの」とやんわり否定するかと。だが、彼女はそうしなかった。 ただ、ゆっくりと手を伸ばす。 アイダは反射的に身を屈めた。その手が、自分の頬へ触れる。熱は高くない。けれど病んだ人の手特有の、薄く透けるようなぬくもりがあった。「……ごめんなさい」 リュゼリアが言う。 その声には、いままでの穏やかさとは少し違う、ひどく深い疲れが滲んでいた。「あなたにだけは、隠しきれなかったわね」 アイダは泣きながら首を振る。「隠していただきたかったのではございません」「ええ、わかっている」「では、どうして」 リュゼリアはアイダの頬を撫でる手をそのまま、少しだけ力を込めた。「わたくし、怖いのよ」 その言葉に、アイダは息を呑む。 やっと、やっと本音が出たと思った。「とても、怖いの」 リュゼリアは静かに続ける。「死ぬことも。弱っていくことも。旦那様の顔を見るたび、いまさら欲しくなってしまう自分も。全部、怖い」 涙は出ていない。だが、その声の奥には、泣き叫ぶよりずっと深い震えがあった。「だから、平気な顔をしているの。そうしていないと、立っていられないもの」 アイダの喉から、小さな嗚咽が漏れる。「でもね」 リュゼリアはほんの少しだけ笑った。ひどく哀しい笑みだった。「平気な顔をしているうちに、本当に決まってしまったの」「……何がでございますか」「去ろう、って」 それは囁きのように小さかった。「旦那様の愛を受け取りながら、足りないまま死ぬのは、わたくしには無理だと思ったの。だったら最後くらい、自分で決めて、自分のままでいたいって」 その言葉を聞いた瞬間、アイダはもう堪えられなかった。 顔を覆って泣いた。侍女としての礼儀も何もかも忘れて、ただ涙が溢れた。長く仕えてきた
若い侍女たちはただ怖がっている。クラウスは察していても、それを職務の中へ押し込めている。旦那様はたぶん、認めたくなくて理性で押さえ込んでいる。 でも自分だけは、もう誤魔化せない。 リュゼリアは静かに去るつもりでいる。 それはきっと、離縁が実際に成立するかどうかとは別の話なのだ。この人はすでに心の中で、公爵家の日常から自分を少しずつ抜き出し始めている。旦那様が止めようと、法の上で何が変わろうと、その決意だけはもう止まらない。 ◇ 昼を過ぎたころ、侯爵夫妻が寝室へ娘を見舞いに入った。 ヴィルレオも同席していた。短い時間だけ。医師から長話を禁じられているため、会話は穏やかで、誰も声を荒げない。母は涙をこらえながら娘の手を握り、父は椅子の脇へ立ったまま静かな声でいくつかの近況を話した。リュゼリアもまた穏やかに応じ、無理はせず、自分は大丈夫だと笑う。 あまりにも、いつも通りだ。 だからこそ見ているこちらの息が詰まる。 見舞いが終わり、侯爵夫妻とヴィルレオが寝室を出たあと、アイダは薬とぬるい茶を持って戻った。寝台の上のリュゼリアは少しだけ疲れた顔をしていたが、それでも微笑みは崩していなかった。「お疲れになりましたね」「ええ、少し」「横になってくださいませ」「その前に、お願いがあるの」 まただ、とアイダは思った。 お願い、という言葉のあとに続く内容が、最近のリュゼリアはひどく決定的なことばかりなのだ。「何でございましょう」「侍女たちの名簿を持ってきて」 アイダは一瞬だけ目を瞬いた。「名簿、でございますか」「ええ。全員ではなくても、わたくしの近くで働いてくれた者たちの分だけでいいわ」 そこまで聞いて、アイダは静かに理解した。 礼を言うつもりなのだ。 あるいは別れの言葉を残すつもりなのだ。「奥様……」「叱らないで」 リュゼリアは少しだけ困ったように笑う。「一人ひとりへ長々と書くわけではないの。ほんの短く、覚えていることを。わたくし、向こうへ行ってからでは気力が持たないかもしれないもの」 その一言が、とうとうアイダの胸にひびを入れた。 向こうへ行ってからでは、気力が持たないかもしれない。 それはただの体力の話ではない。自分がこれからどう弱っていくかを、リュゼリアはすでにある程度見越しているのだ。「……持ってまいり
中には私的な手紙、若いころの詩集の切り抜き、母から貰った季節の押し花、読書の感想を走り書きした小片、舞踏会の招待状の束、そんなふうに“公爵夫人になる前のリュゼリア”が、少しだけ残されている。 それを寝台の上へ広げて、リュゼリアはひとつひとつ見ていた。 見るだけでなく、分けていた。 持っていくもの。 燃やしてほしいもの。 公爵家へ置いていくもの。 それは、普通の療養前の整理ではありえない手つきだった。「これは実家へ返してちょうだい」 淡い色褪せのある封筒を、リュゼリアはそう言って脇へ置いた。少女の頃、母から届いた手紙だった。初めて王都の冬の舞踏会へ出る夜、緊張して眠れぬ娘へ、母がこっそり渡したもの。アイダはその時も傍にいたから覚えている。「これは……こちらへ置かれるのですか」 問い返すと、リュゼリアは微笑んだ。「公爵家の書庫へは要らないもの」「奥様」「でも、わたくしが持っていっても、読むことはきっともう少ないでしょうから」 その言い方が、まるで自分のこれからの時間を、すでに外から眺めているみたいで、アイダは声を失った。 リュゼリアは次に、小さなメモの束を手に取った。 それは結婚して最初の年、南の別邸で短く過ごした時のものだった。湖の色、朝の鳥の鳴き方、温室の湿り気、そこで見つけた珍しい白い花の名を書き留めた覚え書き。リュゼリアはそれへ一度だけ指を這わせ、静かに別の山へ移した。「これは持っていくのね」 アイダがそう言うと、彼女はかすかに頷いた。「ええ。……向こうで、庭を見るかもしれないもの」 その返事が少しだけやわらかかったことに、アイダは救われる思いがした。まだ、南での時間を“生きる時間”として見ているのだとわかったからだ。 だがその直後、リュゼリアは筆を取り、新しい紙へ書きつけ始めた。 綺麗な字だった。いつも通り、流れるように整っていて、少しも震えていない。『もしも、わたくしが戻れなかった時には』 そこまで見えた瞬間、アイダの指先が凍りついた。「奥様!」 思わず声が強くなる。リュゼリアは驚きもせず、ただ顔を上げた。「何かしら」「そのような……!」「念のためよ」「念のためで書く文ではございません」「でも、書いておかなければ困るでしょう?」 ひどく落ち着いた声だった。「帳簿だけでは足りないことがあるも
その日の朝、屋敷じゅうが妙に息を潜めていた。 いつもより足音が小さい、というだけではない。磨き上げられた廊下に反響するはずの靴音も、階下の広間で交わされる挨拶も、厨房から流れてくる鍋や皿の触れ合う音も、すべてが一段薄い布で包まれているように聞こえる。誰かが意識しているのではなく、屋敷そのものが、自分の中で何かが変わりつつあることを察して音を絞っているかのようだった。 アイダはいつもの時刻に起き、いつものように冷水で顔を洗い、髪をまとめ、奥方付きの侍女としての簡素で動きやすい黒のドレスへ袖を通した。鏡に映る自分の顔には、ここ数日ほとんど眠れていない疲れがはっきり出ていたが、それをどうにかする余裕はない。 窓の外には、春先の白い朝が広がっている。 夜の冷えを少しだけ残した庭は、霜というほどではないが薄く湿っていて、葉のない薔薇の枝先にだけ朝の光が細く触れていた。温室のガラスは淡く曇り、その向こうにぼやけた緑の影が見える。冬の名残を抱いたまま、それでも季節だけが先へ進もうとしている景色だった。 アイダは一瞬だけその庭を見てから、すぐ視線を戻した。 朝の空気がきれいすぎる日は、なぜか嫌な予感がする。何かが終わる日も、何かが始まる日も、空だけは妙に美しいままであることが多いからだ。 奥方の寝室へ向かう廊下は、静かだった。 夜番から朝番へ交代した若い侍女たちが、互いに視線を交わし、必要以上の会話を避けているのがわかる。誰もが、いまこの屋敷で口にしてはいけないものがあると知っている顔をしていた。 余命半年。 離縁。 南の別邸。 そして、奥様が本当に戻ってこられるのかどうか、という疑い。 それらはまだはっきりと屋敷じゅうへ伝えられたわけではない。けれど人のいる場所には、言葉になる前の不安というものが、煙のように広がる。主人が気づかないうちに、使用人たちは空気からそれを嗅ぎ取ってしまうのだ。 寝室の前へ着くと、アイダは一度だけ小さく息を整えた。それから控えめに扉を叩く。「奥様、お目覚めでいらっしゃいますか」「ええ、起きています」 返ってきた声は穏やかだった。 熱に掠れ切ってもいない。咳の名残はまだあるものの、昨日よりはずっと静かで、何も知らぬ者が聞けば、少し体調を崩しているだけの公爵夫人の朝の声にしか聞こえないだろう。 だがアイダには、もうわ