LOGIN夫の不倫相手に「妻の座を譲れ」と言われ、杠澄乃は本当にその座を譲った。 ただし、譲ったのは夫の隣に置かれた名ばかりの椅子だけ。 家事、義実家の調整、社交、贈答、会社関係の裏方。誰にも見えなかった“妻の座の中身”をすべて置いて、澄乃は子どもたちを連れ、川辺の老舗旅館・水篝館へ戻った。 若旦那の匂坂伊織は、澄乃の過去を無理に暴かず、子どもたちごと受け入れた。 やがて澄乃は水篝館で働き、客室の花、朝餉の支度、湯上がりの茶、常連客への手紙、川辺の灯りを整えながら、少しずつ「ここにいていい」と思えるようになる 妻の座を譲った日から始まった澄乃の人生は、水篝館で家族と宿を育て、愛され、愛しきって、静かに満ちていく。
View Moreゆずりは・すみの
落ち着いた黒髪を持つ、清楚で品のある女性。
水篝館で働き始めると、藍鼠の着物や白い割烹着がよく似合うようになる。
久世昌親の妻。
朝食を整え、親族付き合いをこなし、義母の機嫌を読み、義父の来客対応にも気を配り、夫の体裁を守る。贈答、慶弔、季節の挨拶、食卓、衣類、家の空気まで、久世家が「勝手に整っている」と思い込むものを、澄乃がひとつずつ支えている。
けれど久世家では、その働きに感謝が向けられない。
そんな澄乃に、夫の不倫相手・汐見瑠璃花が告げる。
「妻の座を譲ってください」
澄乃は泣き縋らない。
ならば、本当に譲る。
家事も、気遣いも、親族対応も、贈答も、食卓も、夫の生活の後始末も、久世家を支えるために背負っているものすべてを置いていく。
澄乃が向かう先は、老舗旅館・水篝館。
久世家で当たり前のように消費されている気配り、段取り、季節を読む力、人をもてなす力は、水篝館で少しずつ花開いていく。
澄乃は、捨てられる妻ではない。
終盤、追いかけてくる昌親に向けて、澄乃は静かに線を引く。
「私が譲るのは妻の座だけです。人生まで渡すつもりはありません」
この物語は、澄乃が誰かに選ばれる話ではない。
さぎさか・いおり
すらりと背が高く、落ち着いた雰囲気をまとう水篝館の若旦那。
笑う時は柔らかい。
老舗旅館・水篝館の若旦那。
伊織は、澄乃を「かわいそうな妻」として扱わない。
久世家では「当然」とされている澄乃の気遣いを、伊織はきちんと価値として見る。
それらを、伊織は澄乃自身の力として認める。
澄乃は少しずつ、自分が無価値ではないことに気づいていく。
伊織は、澄乃の人生を勝手に塗り替える王子様ではない。
昌親が水篝館へ追いかけてくる時も、伊織は澄乃の代わりにすべてを決めない。
澄乃にとって伊織は、逃げ場所の主ではない。
くぜ・まさちか
整った顔立ちで、外では感じのいい夫に見える男。
けれど、その清潔感や体裁は、澄乃が陰で生活を整えているから保たれている。
澄乃の夫。
昌親は、澄乃の献身を当然のものとして受け取っている。
その一方で、若く華やかな汐見瑠璃花との関係に溺れていく。
瑠璃花が澄乃に「妻の座を譲って」と迫る時、昌親は本気で思っている。
けれど、澄乃が本当にすべてを置いていくことで、久世家は崩れ始める。
食卓は乱れ、義母は苛立ち、義父は体裁を失い、親族対応は滞り、会社関係の気遣いも抜け落ちる。
昌親が取り戻したいものは、澄乃という女性なのか。
彼自身も、その違いを最後まで正しく理解できない。
終盤、昌親は澄乃を追って水篝館へ現れる。
昌親は、妻を失う男ではない。
しおみ・るりか
華やかで、目を引く可愛らしさを持つ若い女性。
笑うと無邪気に見える。
久世昌親の不倫相手。
瑠璃花は、昌親に愛されている自分こそが本物だと信じている。
けれど、瑠璃花が欲しがるものは昌親だけではない。
彼女は知らない。
妻の座は、きれいな椅子ではない。
澄乃がすべてを置いていくことで、瑠璃花はようやく現実に触れる。
瑠璃花は、完全な悪女というより、浅はかで、自分に都合のいい夢だけを見ている女性である。
彼女が望む“妻の座”は、澄乃が抜けた瞬間、ただの重荷へ変わっていく。
きちんとした身なりを崩さない、上品ぶった雰囲気の女性。
しかし、表情にはいつも薄い不満が滲む。
澄乃を嫁として使い倒している人物。
義母にとって澄乃は、家を整えるための嫁である。
澄乃がいる間、久世家は整っている。
けれど実際には、澄乃が誰にも見えない場所で支えているだけである。
澄乃が去ることで、義母は思い知る。
瑠璃花に不満をぶつけても、昌親を責めても、澄乃は戻らない。
義母は、嫁を失う人ではない。
白いものが混じる髪に、落ち着いた服装をしている。
しかし、その穏やかさは優しさではない。
久世家の義父。
義母が澄乃に家のことを押しつけていること。
知っていて、深く踏み込まない。
「まあまあ」
そんな曖昧な言葉で問題を流し、最後には澄乃の我慢に押しつける。
義父は、澄乃に直接ひどい言葉を浴びせる人物ではない。
澄乃がいる間、義父は家の空気が自然に整っていると思い込んでいる。
それらは自然に存在しているのではない。
澄乃がすべてを置いていくことで、義父もまた久世家の崩れ方を見ることになる。
義父は、澄乃にとって直接傷つけてくる相手ではない。
「今日の会食ですが」 澄乃は言った。 昌親は湯呑みを置きながら、面倒そうに目を細めた。「何だ」「料亭へ十時半までに最終確認を入れます。甲殻類の件は先方へ伝えてありますが、念のためお店にも再確認をしておきます」「まだやってなかったのか」 その言葉が、台所に落ちた。 澄乃は一瞬、手を止めた。 まだやってなかったのか。 昨夜のうちに一次確認は済ませてある。店側からの折り返しも受けた。ただ、当日の担当者にまで伝わっているかを確かめるだけだ。 そこまでして初めて、失礼が起きない。 澄乃は説明しかけて、やめた。 彼は、結果しか見ない。 問題が起きなければ「普通」。問題が起きれば「なぜ確認しなかった」。その間にある手間は、彼の目には映らない。「最終確認です」 澄乃は静かに言った。「ああ、そう」 昌親はそれ以上聞かなかった。 澄乃は味噌汁の火を止めた。 昌親はまだ台所に立っている。何か言いたげだった。昨夜のことか、瑠璃花のことか。あるいは、澄乃が思ったより普段通りに動いていることへの戸惑いか。 けれど彼は、何も言わなかった。 言葉を選ぶ労力を避けるように、湯呑みを持ったまま食堂へ向かった。 澄乃はその背中を見送った。 昨日までは、その背中を見て、今日の機嫌を測っていた。肩の下がり方。歩く速度。扉の閉め方。そういうものから、朝食の会話量を調整し、義父母の前で余計な摩擦が出ないよう気を配っていた。 それも、仕事だった。 誰にも名前をつけられなかった仕事。 食卓を整えると、義父がやって来た。 久世隆成は、昌親の父であり、会社ではまだ大きな影響力を持つ人だった。現社長ではあるが、実務の多くは昌親に移している。けれど取引先の多くは、いまだに隆成の顔を見て久世家を判断する。 七十近い年齢だが、背筋は伸びている。朝は新聞を広げ、食事に注文をつけるのが習慣だった。「味噌汁は薄くしすぎるなよ」 椅子へ座るなり、隆成は言った。「はい。香りを強めにしております」「香りで腹は膨れん」「卵焼きを少し多めにいたしました」 隆成はそれ以上言わず、新聞を開いた。 澄乃は椀を置きながら、義父の指先を見た。少しむくんでいる。昨日、塩気の強いものを口にしたのかもしれない。薬は飲んだはずだが、念のため朝の血圧を確認した方がいい。 これも、仕事。
親族の慶弔予定は、昼までに見直す。 来週、昌親の従姉の子が入学祝いを迎える。金額は義母の見栄に合わせなければならないが、相手の家に負担を感じさせない書き方が必要だった。さらに、遠縁の叔母の法要が近い。昌親はほとんど会ったことがないと言うが、義父の世代には重要な付き合いだ。欠席するなら、供花と手紙の文面を整えなければならない。 澄乃は、鍋の中で小さな泡が立ち始めるのを見た。 それらは、毎朝の中に紛れ込んでいた。 家事。 そう呼ばれていたもの。 けれど、今こうして一つずつ並べてみると、それは単なる炊事や掃除ではなかった。栄養管理、予定調整、社交実務、秘書業務、贈答管理、親族間の火種の処理、会社の体裁の補助。 名前を変えれば、いくらでも仕事になるものだった。 それなのに、久世家では全部「妻だから当然」の中へ入れられていた。 湯が沸く直前で火を弱め、鰹節を入れる。ふわりと出汁の香りが立つ。澄乃はその香りを吸い込みながら、少しだけ目を伏せた。 当然。 その言葉は、便利な箱だった。 妻だから当然。嫁だから当然。家にいるのだから当然。気づいた人がやればいい。あなたはそういうのが得意でしょう。澄乃なら分かってくれるでしょう。澄乃は怒らないから大丈夫でしょう。 たくさんの言葉が、今朝の台所で静かに形を変えていく。 それは感謝ではなかった。 依頼ですらなかった。 ただ、澄乃の時間を誰かのものとして扱うための、柔らかな命令だった。 土鍋の蓋の隙間から、白い湯気が上がり始めた。 澄乃は蒸らし時間を確かめ、魚を焼き網へ置いた。皮の表面に薄く火が入り、じり、と小さな音がした。魚の脂が落ちる匂いに、出汁と米の香りが混じる。いつもの朝の匂いだった。 この匂いを、昌親は覚えているだろうか。 たぶん、覚えていない。 そこにあるのが当然のものは、人の記憶に残りにくい。 食卓を整える前に、澄乃は壁の時計を見た。六時十五分。昌親が起きてくるまで、まだ少しある。 その隙に、台所の隅に置いてある小さな帳面を開いた。 表紙には「家事覚え」とだけ書いてある。以前、義母から「あなたは細かく書きすぎるわね」と笑われたものだ。澄乃はその言葉に合わせ、ただの覚え書きのような題名にした。 だが、中身は覚え書きというには多すぎる。 月別の献立傾向。義父の血圧の変動と食事内容
翌朝、澄乃は五時二十分に目を覚ました。 目覚ましが鳴るより、十分早かった。寝室の障子の向こうはまだ薄暗く、夜の名残が畳の端に沈んでいる。掛け布団の中には人の温もりがない。昌親は昨夜、書斎から戻らなかった。 珍しいことではなかった。 仕事が立て込んでいる時、気まずい話のあと、あるいは自分の都合の悪い沈黙を朝まで持ち越したい時、昌親は書斎の長椅子で眠る。最初の頃、澄乃はそれを心配して毛布を持っていった。首を痛めないよう枕を置き、朝には温かい味噌汁を少し薄めに仕立てて、胃に負担がかからないようにした。 今思えば、あれも癖だった。 相手が何も求めていなくても、先に整える。嫌われないように。責められないように。自分が役に立つことで、そこにいてもよい理由を作るように。 澄乃は、しばらく天井を見つめていた。 古い木目の中に、黒く細い節がある。嫁いできた最初の夜にも、眠れずにその節を数えたことを覚えている。あの時は、自分はこれからこの家の人間になるのだと思っていた。慣れない屋敷、硬い空気、義母の視線、昌親の曖昧な優しさ。怖さはあったが、それでも努力すれば居場所ができると信じていた。 七年経って、澄乃は知った。 努力だけでは、居場所にならない場所がある。 役目だけが増え、名前だけが薄くなっていく場所がある。 布団の中で、澄乃はゆっくりと息を吐いた。胸が痛むほどではない。ただ、内側に冷たい石が置かれているようだった。昨日、応接間で聞いた言葉が、遅れて身体の中に沈んでいる。 妻の座を譲ってください。 その言葉を思い返しても、涙は出なかった。 代わりに、頭の奥が妙に冴えていた。 澄乃は起き上がった。布団から出た瞬間、朝の冷気が足首を撫でる。五月とはいえ、早朝の久世家はひんやりとしている。古い屋敷は日中こそ陽を含むが、朝は湿気と冷えが床から上がってくる。 身支度を整え、髪を低くまとめる。 鏡に映った自分は、いつもとほとんど変わらなかった。淡い色の部屋着。薄く結んだ唇。表情を大きく動かさない目。久世家の朝に馴染んだ、静かな嫁の顔だった。 けれど、鏡の中の目だけが違った。 昨夜までの澄乃なら、今日の朝食をどう乗り切るかを考えていた。昌親が不機嫌にならないように。義父母に余計な心配をかけないように。汐見瑠璃花の話題をどう避けるか。もし出た場合、どう受け流すか。
「私は、器ではありません」 澄乃は言った。 瑠璃花の瞳が揺れる。「何でも入れておけるものではありません」 その声は、少しだけ低かった。 昌親が目を見開く。 澄乃自身も、自分の声の温度に気づいていた。怒鳴ってはいない。だが、今まで久世家の中で出したことのない硬さがあった。 瑠璃花は唇を噛みかけ、すぐにやめた。爪を傷つけるのを恐れたのかもしれない。彼女は両手を膝の上で握った。「でも、澄乃さんは大人ですよね。私たちのこと、ちゃんと分かってくださるって、昌親さんも」「瑠璃花」 昌親が初めて彼女の名を強く呼んだ。 瑠璃花は肩を震わせた。 その声には、澄乃を庇う響きはなかった。ただ、余計なことを言うなという苛立ちがあった。瑠璃花はそれを敏感に感じ取り、口を閉じる。 澄乃は、そのやり取りを見ていた。 昌親は誰の味方でもない。 自分の立場が悪くならない方へ、ただ身体を傾けているだけだ。 それも、もう分かった。「お話は、分かりました」 澄乃は座卓に手をつき、ゆっくりと姿勢を正した。 畳に触れた指先は、冷たかった。だが、背筋は自然に伸びた。「妻の座は、汐見さんへお譲りします」 瑠璃花が息を飲む。 澄乃は昌親を見た。「ただし、それは私がこの家に残り続けるという意味ではありません」 昌親の表情が変わった。「何を言っている」「そのままの意味です」「少し冷静になれ」「冷静です」 澄乃は、これ以上ないほど冷静だった。 胸の奥は冷え、手先も冷え、目の前の二人の顔が不思議なほどはっきり見えている。瑠璃花の唇の端に残る焦り。昌親の目元に浮かぶ狼狽。座卓に置かれたカップの跡。畳に落ちた細い髪の毛。開いた障子の隙間から入り込む湿った風。 全部が、鮮明だった。「私は、妻の座を譲ります」 澄乃は繰り返した。「けれど、私自身をこの家に残しておく理由はありません」 昌親が唇を開いた。 だが、言葉が出てこない。 彼はきっと、そこまで考えていなかったのだ。瑠璃花を正式な相手として置きたい。けれど澄乃には、これまで通りどこかで家を整えていてほしい。そんな都合のよい曖昧さを、無意識に残していた。 澄乃は、その曖昧さを断った。 静かに。 確実に。「待て」 昌親の声が低くなる。「いきなり出ていくような話ではないだろう」「いきなりではありま