LOGIN愛されないまま十年。孤独に死んだ私は、結婚前に戻っていた。 だから決めたのです。もう二度と、冷徹侯爵の花嫁にはなりません。 ……そう誓ったのに、前世では私を見向きもしなかったはずの侯爵様が、今世ではなぜか私を逃がしてくれません。 遅すぎた後悔なんて要りません。そう思っていたのに。 これは、愛を言葉にできなかった冷徹侯爵と、今度こそ自分の人生を選びたい令嬢の、やり直しの執愛ロマンス。
View Moreリリアーナ・エヴェルシア
年齢:20歳スタート 身分:エヴェルシア伯爵家長女 外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。 性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。 長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。 短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵
年齢:27歳スタート 身分:ヴァレンティア侯爵家当主 異名:冷徹侯爵、氷の軍略卿 外見:艶のない黒髪、鋭い蒼灰色の瞳、長身で引き締まった体躯。黒を基調とした軍装や礼服を好み、常に隙のない装い。美丈夫だが近寄りがたい。 性格:寡黙、合理的、感情表現が壊滅的に下手。だが本質は執着が強く、一度自分の内側に入れた相手への独占欲は深い。 長所:判断力、統率力、戦略眼、実務能力、危機察知能力。 短所:説明不足。守るために黙る癖があり、その沈黙で大切な相手を傷つける。「……ごめんなさい」 「謝るな」 「でも」 「今はそれ以上言わない」 彼の声は低い。 だが、命令ではない。 こちらの限界を見て、そこから先へ踏み込まないようにしている声だと分かる。 そのことが、また少しだけ胸を揺らす。 リリアーナは寝台脇の長椅子へ腰を下ろした。 急に膝の力が抜けたのだ。 危機の最中より、終わって安全な部屋に戻ってきてからのほうが、体は正直だった。 セドリックが一歩、近づく。 距離は前よりずっと近い。 でも、触れる前に止まる。 そこが、前世と決定的に違う。「薬を塗る」 「女医は?」 「今日は下がらせた」 「どうして」 「君が知らない顔へ何度も傷を見せるのを嫌がると思った」 その読みが当たっていることに、リリアーナは少しだけ唇を噛んだ。 嫌だった。 知らない誰かが、自分の震えた手や、遅れて出る怯えを平然と見ていくのは。「……そう」 「嫌ならやめる」 「いいえ」 「どちらだ」 「……あなたなら」 そこまで言って、声が止まる。 “あなたなら”の先を、自分で補うのが怖かった。 セドリックは何も言わなかった。 ただ、机の上の小瓶と清潔な布を手に取る。 近づいてきた時、かすかに外気と革の匂いがした。まだ完全に夜の戦いの気配が抜けきっていない。「染みる」 「ええ」 「我慢しろとは言わない」 「優しいのか、冷たいのか分からない言い方ね」 「今の私にちょうどいい言葉が分からない」 「……そう」 布が傷へ触れる。 ひり、と小さく痛む。 でも、その痛みは生きているほうの痛みだ。 それを今、妙に強く意識した。 セドリックの指先は意外なほど慎重だった。 力が強いのに、傷へ触れる時だけは迷うように弱い。 まるで、壊れものに触れているのではなく、壊したくないものに触れているみたいだった。「……そんなに恐る恐る触らないで」 「難しい」 「どうして」 「今夜は、何をどこまでしていいのか分からない」 その一言に、呼吸が少しだけ止まる。 何をどこまでしていいのか分からない。 それはたぶん、傷の手当てのことだけではない。 この夜の距離のことだ。 互いに張りつめていたものがほどけかけているのに、どこまで近づけば壊さずに済むのか、彼にもまだ分からな
その言い方が、あまりにもぎこちなくて、リリアーナは一瞬だけ目を伏せた。 この人は今、本当に変わろうとしているのだ。 それが分かるから、余計に胸の奥が疼く。 袖を少しだけ捲る。肘の少し上、窓ガラスの細片で薄く裂けた場所に、赤い筋が一本だけ残っていた。止血はしてある。深くはない。だが白い肌の上だと目立つらしく、セドリックの目がわずかに細くなった。「これを大したことないと言うな」 「本当にそうよ」 「今日の矢があと少し内側なら」 「分かってる」 「分かっていない」 「分かってるってば」 少しだけ声が強くなる。 分かっている。 あと少しずれていれば、首筋か、肩か、もっと深いところへ届いていたかもしれない。 分かっているからこそ、今はそれを考えたくないのだ。「今、そこを何度も言わないで」 「……」 「怖いもの」 その一言が出た瞬間、部屋がしんと静まった。 暖炉の火が、小さくはぜる。 それ以外の音は何もない。 セドリックの顔から、さっきまでの張りつめた硬さがほんの少しだけ崩れた。 怖い。 その一言が、彼にも届いたのだろう。 守ると決めて、共に戦うと口にして、それでも今日の自分が、やはり怖かったのだと。「……そうか」 低い声。「怖かった」 「ええ」 「私もだ」 その返答に、リリアーナは顔を上げた。 彼は嘘をついていない。 強がってもいない。 ただ、同じ重さのまま、その言葉を返してきた。 私もだ。 その短さが、なぜか胸へ深く落ちる。 前世の彼なら、絶対に言わなかった。「……あなたも?」 「矢が窓を割った瞬間、前の夜を思い出した」 「……」 「二度目は無理だと思った」 「……」 二度目は無理。 その一言が、ひどく静かに胸を刺す。 前世で自分の死を見た男が、今こうして同じ夜をもう一度見るかもしれないと思ったのだ。 怖くないはずがない。 リリアーナはゆっくり息を吐いた。 手の震えはまだ止まらない。 だが、その震えを一人で抱えているのではないのだと思うと、少しだけ呼吸が深くなる。「……私も」 「何だ」 「無理だと思ったわ」 「……」 「今度こそ、あなたが間に合っても、今度はまた少し違う形で終わるのかもって」 「……」 「だから、叫んだの」 「右後ろ
侯爵邸へ戻った時には、夜はもう深く沈んでいた。 庭の木々は風を失い、窓の外の闇はひどく静かだった。つい先ほどまで耳のすぐ横で鳴っていた怒声や、馬の荒い息や、石畳を蹴る足音が嘘のように遠い。けれど、静けさの中へ戻ってきたというだけで、出来事そのものが薄まるわけではない。むしろ音の消えたあとのほうが、さっきまでそこにあった危機は、輪郭をはっきりと持って胸へ残る。 今夜の囮は、成功した。 少なくとも表面上は。 北門側から出るという偽の情報に食いついた商会筋の手が、予定通り動いた。護衛を薄く見せた馬車へ近づき、外郭で待機していた侯爵家側の者たちが一気に押さえ込む。その流れ自体は、セドリックとローレンスが事前に組んだ通りだった。だが、敵はそれだけでは終わらなかった。 囮へ意識を向けさせた裏で、本命は別にいた。 東側の細い裏道。侯爵邸へ戻ると見せず、一度だけ王都南区の礼拝堂裏へ回るという、リリアーナにも直前まで伏せられていた補助ルート。その小さな回り道の先で、馬車の車輪を狙った矢が飛んだ。一本、二本。二本目は窓枠を掠め、ガラスが細く砕けた。 あの瞬間のことは、帰ってきた今もまだ、体のどこかが思い出している。 裂ける空気の音。 ガラスの破片が袖口へ入り込む冷たさ。 セドリックの腕が、とっさに肩を抱き寄せた強さ。 馬車の壁へ背がぶつかった鈍い衝撃。 そして、次の矢が来る方向を、前世の記憶に似た何かで、咄嗟に言い当てた自分の声。『右後ろ、低い位置!』 それは理屈ではなかった。前世で一度だけ、同じような呼吸の止まり方を経験した体が、先に動いただけだ。セドリックはその声を聞くより早く剣へ手をかけ、次の瞬間には馬車の扉を蹴り開けていた。護衛が叫ぶ。誰かが地面へ崩れる音。雨上がりの泥を踏む足音。短い乱闘。その全部が、まるで薄い膜一枚向こうのことみたいに遠かった。 終わったあとで初めて、自分の手が震えていたことに気づいた。 そして今、その震えは、ようやく少し遅れて本格的に体へ戻ってきていた。「傷は」 部屋へ入ってから、たぶん三度目の問いだった。 セドリックは扉のすぐそばに立ったまま、低く言う。服は着替えているが、髪だけはまだほんの少し乱れていた。黒に近い室内着の襟元はきちんと整えられているのに、袖口へ残るわずかな擦れ跡だけが、今夜彼もまた静かで
* その小さな揺れは、夜会の終わり近く、ついに態度へ出た。 大広間の空気が少しだけ緩み、人々がそれぞれ小さな輪へ散り始めた頃だった。音楽はやわらかく、会話のざわめきも低くなっている。壁際の鏡には、灯りと人影が重なって映り、どこが本物の空間で、どこからが反射なのか一瞬分からなくなる。 リリアーナは急に、息が詰まりそうになった。 暑いわけではない。 人酔いでもない。 ただ、嬉しいと思ってしまった自分を、急に持て余したのだ。 こんなふうに扱われることを。 隣にいていいのだと、公の場で示されることを。 その変化が、心のどこかをやわらかくした。 そのやわらかさに、今さら自分で怯えた。「……少し」 気づけば、小さく声が漏れていた。 隣にいたセドリックが、すぐに視線を落とす。「どうした」 「少しだけ」 「苦しいか」 「ええ……たぶん」 彼は一瞬も迷わなかった。 周囲に人はいる。 会話の輪もある。 それでも、リリアーナの手を取り、そのまま大広間の外へ向かう。 引っ張るのではない。 急かすのでもない。 けれど明らかに、今この場では彼女が優先なのだと誰の目にも分かる形で。 それを見て、またざわめきが生まれる。 でももう、今はそんなことを気にしていられなかった。 廊下へ出ると、ひんやりした空気が頬へ触れた。 窓の外は夜で、庭の灯りだけが小さく揺れている。 大広間の熱と香りが一歩分だけ遠のき、ようやく呼吸が深く入った。「……ありがとう」 壁際に手をついて、リリアーナはゆっくり息を整える。「人が多すぎたか」 「違うの」 「なら何だ」 「……」 すぐには言えなかった。 こんなこと、説明できるだろうか。 人前でちゃんと扱われたことが、嬉しかった。 その嬉しさが怖くなって、急に苦しくなった。 そんな、あまりにもみっともない本音を。 でも今の彼は、待つ。 問いつめずに。 昔のように沈黙の中へ閉じ込めるのでもなく。「リリアーナ」 低い声が落ちる。「言え」 「……」 「分からないままにはしたくない」 その一言が、背中を押した。 リリアーナは目を閉じた。 夜の空気が少し冷たい。 その冷たさが、
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ
焼きたてのはずなのに、味がしない。むしろ、喉が拒む。飲み込むたびに胸が詰まる。 父は新聞を畳み、ようやく本題へ移った。「本日、ヴァレンティア侯爵家から使者が来る。調印前の最終確認だ。侯爵ご本人が同行される可能性もある」 「ご本人が?」 声が掠れた。 前世ではどうだっただろう。思い出す。たしか、使者だけだった。セドリック本人は調印の日まで現れなかったはずだ。あの人は最初から、この婚姻に個人的な熱意など持っていなかった。だからこそ、それが普通だった。 なのに、今回は違うかもしれない? なぜ。「ええ、そう伺っておりますわ。侯爵様はお忙しい方ですのに、ありがたいことですこと」 「本
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま