Chapter: 第34話 ひかり屋、店を持つ 昭和五十一年、愛知県小牧市。神谷正人は村瀬重吉の元食堂の前で足を止めた。工場へ向かう自転車が通り過ぎ、道路の向こうでは買い物籠を下げた女性が子どもの手を引いている。朝と夕方では人の流れが変わる場所だった。正人には、入口の前を通る人々が、時間帯ごとの客層として見えていた。「もう決めたのかね」 戸を開けた村瀬が尋ねた。正人は東春信用金庫の融資が実行されたことを告げ、契約書を取り出した。「月の家賃は一万二千円。敷金二か月分で二万四千円、初月分を合わせて三万六千円です。流し台と調理台、それに客席の机は残していただく。冷蔵庫の修理と厨房の改修はこちらで手配します。ただ、建物自体の不具合は相談させてください」「そこまで書いてきたんか」「後になって、お互い困りたくありませんから」 村瀬は契約書を読み、修繕の負担と残置設備の扱いを確かめて署名した。正人は三万六千円を支払い、領収書を受け取る。敷金は費用として消えた金ではなく、貸主へ預けた金だ。初月家賃はこれから始まる営業に対応する支払いとして分けて記録する。「で、何屋になるんだ?」「ホルモン食堂です。仕事帰りにビールを飲む人も、親子で晩飯を食べる人も入れる店にします」 重い鍵が掌に落ちた。以前の正人なら、ここで事業を手に入れた気になっていただろう。競輪で大穴を当てた翌日、暮らしは何も良くなっていないのに財布の中身だけを見て気が大きくなったのと同じだ。だが五十年の経営経験が教えている。物件も借入金も、それ自体では利益を生まない。客に選ばれる運営を組み込んで、ようやく店になる。 翌日、正人は佐々木春江、加藤美代子、高木幸男を新店舗へ案内した。十六席。壁沿いに四人掛けの卓を三つ、厨房側へ四席のカウンターを置く。客が食事中でも、持ち帰り客は入口脇で受け取れるよう動線を分けた。「注文を全部春江さんへ通したら、焼き場で詰まります。美代子さんが飲み物と会計、高木君が納品と仕込み。俺は数字を見て補充量を変える。忙しい時間に誰が何をするか、先に決めます」 春江は厨房から客席まで歩き、鍋を運ぶ幅を確かめた。美
Last Updated: 2026-11-06
Chapter: 第33話 十八万円の信用 昭和五十一年、愛知県小牧市。神谷正人は朝の荷捌き場で、荷札の束を指先で繰っていた。東海運送小牧営業所では、工場向けの部品箱と商店へ送る雑貨が同じ便に混じっている。山下義明が重い木箱を手前へ運ぼうとすると、正人は声を掛けた。「山下、それは最後に下ろす荷だ。奥へ入れて、先に下ろす段ボールを手前にしよう」「積む順番まで覚えとるんですか」「伝票に順番を書けば誰でもできる。俺だけが覚えとっても困るだろ」 田中修二と大橋邦夫も加わり、仕分けは予定より早く終わった。班長の柴田隆司は空いた通路を見て感心したが、正人は得意にならなかった。ひかり屋でも、佐々木春江しか分からない仕込みや、加藤美代子しか分からない注文の控えを減らしている。五十年の経営経験が教えたのは、働く人を急がせるより、迷わず動ける仕組みを作る方が長続きするということだった。 その二週間、正人は東海運送の勤務を守りながら、ひかり屋の売上と支出を毎晩まとめた。春江が焼き上げる味噌とんちゃんは、焦がした豆味噌の香りと豚脂の甘みで客を呼ぶ。昔から安く腹を満たす食材だったもつも、洗い方と火加減を間違えれば臭みが立つ。丸徳食肉の徳田健次と仕入れ時刻を揃え、余分に抱え込まず、その日に必要な分を確実に扱った。 初めの週は百八十三食、売上三万二十円、経費二万二千六百五十円。次の週は百九十食、売上三万九百四十円、経費二万三千二百六十円。差し引き七千三百七十円と七千六百八十円が残り、事業内残額は五万二千百九十円になった。「増えとるのに、浮かない顔ですね」 高木幸男が包装用の紙袋を数えながら尋ねた。「売れた分だけ次の仕入れも増える。ここの金は、まだ俺の小遣いじゃないからな」 正人は賃金の支払日と材料代の支払日を別の線で引いた。帳面の残額は、支払いを終えて初めて意味を持つ。工場注文と店頭販売を曜日で分けたおかげで、販売数が増えても春江たちの帰りが遅くなることはなかった。美代子は注文票を一枚ずつ読み上げ、高木は容器の数を二度確かめる。正人が別の仕事をしていても受け渡しまで進む光景に、独立した厨房を持つ意味が見えてきた。
Last Updated: 2026-11-05
Chapter: 第32話 信用は帳面に残る 翌日の夕方、神谷正人は村瀬重吉の元食堂で、古い冷蔵庫の扉を開けていた。金属の棚には錆が浮き、ゴムの縁には細かなひびがある。村瀬が「まだ動くはずだ」と言っても、正人は電源が入ることと、食材を安全な温度で保てることを別に考えた。「壊れとったら、直して使えんかね」「修理代と電気代を聞いてから決めます。豚もつを傷ませたら、節約どころじゃありません」 流し台の蛇口をひねり、排水の流れと床の傾斜を確かめる。調理台から客席までの距離を歩幅で測り、手帳には寸法を取り直す場所を記した。客席は小さな卓を置けば家族も座れそうだったが、瓶ビールやコーラを冷やす場所と、空き瓶を返すまで置く場所は別に必要だった。「すぐ借りてくれると思っとったが、ずいぶん慎重だな」「借りた日から家賃がかかります。村瀬さんにも、長く借りられる店にしたいんです」 村瀬はうなずき、残す設備と修繕箇所を書き出すことに同意した。家賃と契約時の負担額は次に詰める。正人は確認事項を持ち帰った。 店を出ると作業服の男たちが自転車で通り、子ども連れの女性が買い物袋を提げて歩いていた。正人は入口から客席までの動線を思い浮かべ、持ち帰りの客が待つ場所は食事の卓と分けようと考えた。 東海運送小牧営業所では、翌朝から荷が滞っていた。田中修二と大橋邦夫が荷札を照合し、山下義明が台車を押している。正人は行先別に並べ直した箱の間へ通路を一本通し、二度持ち上げる荷を減らした。柴田隆司は作業の進み具合を見て、「お前が仕切ると、妙に静かに片付くな」と笑った。「みんなが急ぐより、運ぶ順番を決める方が早いんです」 正人は手を動かしながら、三浦泰三所長へ半日の休暇を申し出た。金融機関へひかり屋の相談に行くためだった。三浦は配車表を確かめ、仕事に支障のない日を選んで許可した。 大橋が「店にも運送の知恵が使えるな」と笑った。正人も頷く。丸徳食肉の徳田健次への発注も、井上酒店の瓶の補充も、届く時刻を揃えなければ仕込みが乱れる。全部自分で運べば、自分の体が最初の行き止まりになる。「商売をやるのは構わんが、こっちの仕事は
Last Updated: 2026-11-04
Chapter: 第31話 酒を飲む人も、飲まない人も 日曜日の昼下がり、神谷正人は娘のひかりを寝かしつけ、ちゃぶ台に帳面を広げた。妻の千鶴が洗った茶碗を拭いている。窓から差す光の中で、物干し竿の布おむつが揺れていた。 累計売上十六万四千八十円、累計経費十二万六千九百四十円、事業内残額三万七千百四十円。正人は村瀬重吉の元食堂の間取りを思い出した。水場と厨房があるのはありがたい。だが、木村食堂から調理場所を移すだけなら、家賃を背負う分だけ苦しくなる。客席も売上を生む場所にしなければならなかった。 別のノートに「持ち帰り」「食事」「酒」と記す。味噌とんちゃん百八十円、少なめ百二十円、もつ煮込み百六十円、豚ハツ味噌焼き百五十円。どれも飯のおかずになり、酒にも合う。作り慣れた料理を軸に、客が店へ来る理由を増やせる。「お酒も出すの?」 千鶴がひかりを起こさぬ声で尋ねた。「瓶ビールや日本酒を考えとる。でも酒飲みだけの店にはせん。親父さんはビール、奥さんは定食、子どもはコーラ。家族で晩飯を食べられる店だ」「それなら私も入りたい。でも、酔った人が騒いだら嫌だわ」「そこは客席の並べ方と店の決まりだな。酒一本の売上より、また家族で来てもらえる方を大事にする」 正人は「明るい客席」「閉店時刻」と書き添えた。千鶴の何気ない不安は、長年の経営経験でも見落としかねない、店を選ぶ側の理由だった。 月曜日の東海運送小牧営業所は、朝から荷が重なっていた。正人は田中修二と送り状を照合し、木箱を荷台の前寄りへ積んだ。最後に下ろす荷を奥へ、先に下ろす荷を取り出しやすい位置へ置き、途中で積み直さずに済むよう荷締めを確かめる。汗で軍手が湿り、肩の筋肉がじんと張った。「神谷、これなら二軒目で荷を掘り返さんで済むな」「積むときの五分で、下ろすときの十五分が減ります」 班長の柴田隆司が遅れている便の伝票を持ってきた。正人は帰着予定時刻だけでなく、積み替える荷の行先を見て、次便に必要な分から先に仕分けるよう提案した。全員を急がせるより、作業が詰まる場所を減らす方が確実だ。五十年の経験は未来を知る力ではない。目の前の混乱を、手順に
Last Updated: 2026-11-03
Chapter: 第30話 商売の金と、暮らしの金 給料日の夕方、神谷正人は東海運送小牧営業所の事務所で薄茶色の給料袋を受け取った。 そのまま鞄へしまい、荷捌き場へ戻る。田中修二たちは週末便の荷を整理し、班長の柴田隆司は一週間分の配車実績を机へ広げていた。「神谷、これ見てみろ。水曜だけ車が遊んどるように見えるだろ」 正人は伝票の枚数だけでなく、積載量、出発時刻、戻り時間まで目で追った。月曜と木曜は荷が膨らみ、水曜には余白がある。「水曜を埋めるより、この余白を残した方がいいですね」「なんでだ?」「毎日いっぱいにしたら、木曜に急な荷が一つ増えただけで崩れます。車が余っとるんじゃなくて、山を受ける余力です」 柴田が眉を上げた。「お前、配車係みたいな見方するな」 正人は笑ってごまかした。 数字を見ると、何が余っているかより、どこが詰まった時に全体が止まるかを探してしまう。 それはもう癖だった。 売上が伸びた時ほど在庫を見る。客が増えた時ほど人の疲れを見る。設備を買う前には、それが本当に不足しているのか、それとも使い方が悪いだけなのかを疑う。 ひかり屋でも同じだった。 その週は、野口正義の工場へ二十五食、藤川信夫の工場へ十五食、石田昭夫の工場へ十二食。それぞれを別の日へ置き、通常販売と重ねても厨房の上限を越えないよう組んでいた。 売れるから作るのではない。 同じ味で、同じ時間に、無理なく渡せる分だけ作る。 木村食堂では、佐々木春江が鉄鍋を返していた。豆味噌と砂糖、酒を合わせたたれが豚もつへ絡み、火に触れた端から香ばしい匂いが立つ。 正人は一切れを噛んだ。 表面には濃い味噌の焦げ目。中には脂の甘みと弾力が残っている。「これなら出せます」「前より確認が早くなったね」 春江が笑う。「春江さんの焼き方が揃ってきたからです」 安い豚もつは、昔から工員たちの腹
Last Updated: 2026-11-02
Chapter: 第29話 借りられる店と、借りていい店は違う 日曜の午前十時過ぎ、神谷正人は千鶴とひかりを連れて、工場街と住宅地の境にある古い空き店舗の前へ立っていた。 先日、帰宅途中に見つけた元食堂である。木枠の引き戸は少しくすみ、軒先の看板も外されたままだったが、水場と厨房が残っている。貸主の村瀬重吉、六十二歳が鍵を開けると、乾いた木の匂いと、長く使われていない厨房特有の冷えた空気が流れてきた。 「前は女房と、うどんと定食を出しとったんだ。もう二人とも体がきつくてな」 正人は客席より先に厨房へ向かった。 水道をひねり、排水口の位置を見る。鉄鍋を置けそうな火口、冷蔵庫を増やす余地、食材を運び込める裏口、容器や乾物を置く棚。店を開けた時の見栄えより、毎日そこで働いた時に人がぶつからず動けるかを確かめる。 「若いのに、客席はあんまり見んのだな」 「客席は直せます。でも水と排気と作業場所が悪いと、毎日の仕事が苦しくなりますから」 村瀬は感心したように鼻を鳴らした。 村瀬は、以前使っていた大鍋を指で叩きながら、「これならまだ使えるかもしれん」と言った。正人はすぐには喜ばず、底の歪みや錆、火口との大きさまで確かめる。使える設備が残っていれば初期費用は下がる。しかし古い道具を無理に使って、営業中に止まればかえって高くつく。 「家賃だけ安くても、直す金がかかれば同じですから」 「なるほどな。お前さん、店を借りたい顔より、借りた後に困らん顔をしとる」 村瀬の言葉に、千鶴が少しだけ笑った。 正人が厨房を見ている間、千鶴は店の外へ出て、道の向こうと自宅方向を何度か見比べていた。 「正人さん」 「ん?」 「ここから家まで、歩いてどれくらいですか?」 正人の手が止まった。 「急がなければ二十分くらいかな」
Last Updated: 2026-11-01
Chapter: 第38話 明日へ あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。
Last Updated: 2026-09-04
Chapter: 第37話 それでも人生は続く 六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐
Last Updated: 2026-09-03
Chapter: 第36.5話 南の島の家族旅行 結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 第36話 祝福の日 沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、
Last Updated: 2026-09-01
Chapter: 第35話 鐘が鳴る日 朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。
Last Updated: 2026-08-31
Chapter: 第34話 上場へ 年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ
Last Updated: 2026-08-30