Chapter: 第38話 明日へ あれから、さらに二年が経った。 上場の鐘が鳴った日から、八年。 沖縄の海辺で高瀬悠真と高瀬玲奈が結婚し、凛が初めて「玲奈ママ」と呼んだ日からも、八年が過ぎていた。 けれど、時間は過去を消すものではなかった。 ただ、上から新しい日々を積んでいく。 楽しい日も。 苦しい日も。 働いた日も。 泣いた日も。 子どもが生まれた日も。 誰かが返済表を見つめた夜も。 全部が積み重なって、今になっていた。 ネクストリンクホールディングス本社ビルは、東京湾を望む再開発地区の一角に建っていた。 かつての本社よりも広く、高く、そして明るい。 エントランスの壁には、銀色の文字で社名が刻まれている。 NEXT LINK HOLDINGS 人を繋ぐ会社。 その言葉は、もうただの企業理念ではなかった。 八年前、東証グロース市場に上場したネクストリンクは、その後、東証プライム市場へ移行した。 グループ会社は三十一社。 国内外の社員数は九千二百名。 売上高は二千億円に近づき、営業利益は二百八十億円を超えた。 AI。 クラウド。 セキュリティ。 自治体DX。 福祉事業。 介護事業。 シニアワークス。 地方創生。 ゲーム。 アニメ。
Last Updated: 2026-09-04
Chapter: 第37話 それでも人生は続く 六年という時間は、会社を変えるには十分すぎるほど長かった。 だが、人の罪を消すには、短すぎた。 東京の朝は、相変わらず忙しい。 駅のホームには人が流れ、オフィス街のビルはガラスの壁に空を映し、道路には配送車とタクシーが列を作っていた。その中で、ネクストリンクホールディングス本社ビルは、六年前よりもさらに高く、さらに大きく見えるようになっていた。 かつては中堅IT企業だった会社。 不正と不倫と横領で揺れた会社。 内部通報から始まり、裁判、上場、福祉事業、介護事業、地方創生、ゲーム、アニメ、AI、クラウド、セキュリティ、海外展開へと広がった会社。 今のネクストリンクホールディングスは、東証プライム市場に移行し、グループ会社は二十六社、社員数は国内外合わせて六千八百名を超えていた。 売上高は千三百億円台。 営業利益は百七十億円を超えた。 上場時、初値四千二百円だった株価は、途中で株式分割を二度挟み、現在は分割後ベースで三千二百円前後。分割前換算なら一万九千円を超えていた。 時価総額は、六年前には誰も本気で想像していなかった規模になっている。 だが、高瀬悠真にとって、その数字は目的ではなかった。 数字は結果だ。 会社を続けるための体温計であり、社会からの評価であり、投資家から預かった期待の形でしかない。 午前八時二十分。 高瀬悠真は、本社四十五階の役員フロアに入った。 四十一歳になった悠真は、六年前よりも経営者らしい落ち着きを身につけていた。 受付前で、神谷玲奈だった頃の名残を持つ女性が待っている。 高瀬玲奈。 社長室長兼秘書室長であり、悠真の妻。 六年前の沖縄で、凛から「玲奈ママ」と呼ばれた日から、彼女は少しずつ変わった。 仕事の速さは変わらない。 予定管理の正確さも変わらない。 役員たちが恐
Last Updated: 2026-09-03
Chapter: 第36.5話 南の島の家族旅行 結婚式の翌朝、沖縄の空はまだ静かだった。 海沿いの大型リゾートホテル《琉青ガーデン・リゾート》のスイートルームには、カーテンの隙間から薄い朝の光が差し込んでいる。東京の高層ビルの窓から見る、輪郭の鋭い白い朝とは違う。淡く青みを帯び、窓を少し開ければ潮の匂いまで運んでくるような光だった。 高瀬悠真は、午前六時二十分に目を覚ました。 長年の習慣だった。 社長になってから、彼の朝は早い。 未読メールを確認する。 夜間に発生したシステム障害や重大事故がないかを見る。 海外投資家から届いた問い合わせに目を通し、各支社の前日速報値を確認する。 上場後はさらに、適時開示に関係する案件、証券会社からの連絡、機関投資家との面談予定、取締役会資料まで増えた。 朝起きてスマートフォンを確認することは、もはや仕事というより反射に近かった。 だから結婚式の翌朝であっても、悠真の右手は無意識にベッドサイドへ伸びた。 指先がスマートフォンへ触れる。 その瞬間だった。「悠真さん」 隣から静かな声がした。 悠真の手が止まる。「……はい」 隣で、高瀬玲奈が半身を起こしていた。 戸籍上は、昨日から高瀬玲奈。 ただし、社内では取引先や社員の混乱を避けるため、当面は旧姓の神谷を業務上使用することにしている。名刺もメールアドレスも、しばらくは神谷玲奈のままだ。 けれど今は会社ではない。 白い寝間着に薄手のカーディガンを羽織り、長い髪を少し乱した彼女は、社長室長でも秘書室長でもなかった。 昨日、高瀬悠真と結婚したばかりの妻だった。 ただし。 悠真を見る目だけは、秘書室長時代と何も変わっていない。「何をしようとしましたか」「時間を確認しようかと」「スマートフォンの側面ボタンへ
Last Updated: 2026-09-02
Chapter: 第36話 祝福の日 沖縄の海は、東京の空とは違う青をしていた。 冬の東京で上場の鐘が鳴った日から、半年が過ぎていた。 ネクストリンクホールディングスは、上場後も忙しかった。 投資家説明会。 四半期決算。 福祉事業所の増設。 介護施設の追加買収。 地方創生プロジェクト。 ゲーム・アニメIPの海外展開。 東証グロース市場へ上場した会社は、祝福だけを受け取っていればよい存在ではなかった。市場は毎日会社を見ている。数字を見ている。失敗を見ている。期待を見ている。 だから、高瀬悠真は相変わらず忙しかった。 神谷玲奈も相変わらず忙しかった。 結婚式の準備でさえ、最初は神谷玲奈がスケジュール表にして管理していた。 式場候補。 招待客一覧。 親族宿泊手配。 社員代表選定。 支社長移動手段。 福祉・介護事業代表の出席確認。 沖縄現地の天候予備案。 披露宴進行。 凛のリングガール練習。 まるで新規上場審査の補足資料のような厚さだった。 それを見た七瀬蒼真は、真顔で言った。「神谷さん、結婚式まで内部統制するんですか」 神谷玲奈は即答した。「当然です。人生の重要行事です」 水城莉央が隣で頷いた。「予算管理も必要です」 七瀬蒼真は、妻となった水城莉央を見た。「莉央、そこは乗らなくてもいいんじゃないか」「私たちの結婚式も、あなたが直前まで何も決めなかったので私が管理しました」「はい。助かりました」「二度と同じことを繰り返さないよう、社長には早めに決めていただくべきです」「夫婦で社長を追い込む形になってる」 高瀬悠真は、
Last Updated: 2026-09-01
Chapter: 第35話 鐘が鳴る日 朝の東京は、澄みきっていた。 冬の空は青く、ビルの窓には白い光が刺さっている。道路を走る車の音も、駅へ向かう人々の足音も、いつもと同じはずだった。 けれど、その朝のネクストリンク本社は違った。 午前七時五十分。 まだ始業前にもかかわらず、本社二十七階の上場準備室には灯りがついていた。 水城莉央は、すでに自席でメールを確認していた。 専務取締役兼CFO。 この数か月、彼女の机の上から数字が消えた日はなかった。 資本政策。 監査対応。 関連当事者取引。 タカセ・アセットマネジメントとの契約確認。 介護事業の人件費改定。 福祉事業の工賃設計。 ゲーム、アニメ事業の収益予測。 支社別予算。 返済回収計画。 そして、上場申請資料。 数字は冷たい。 だが、その冷たい数字の先に、人がいた。 働く社員。 福祉事業所の利用者。 介護施設の職員。 商店街の人々。 投資家。 取引先。 そして、会社を信じてくれる人たち。 水城莉央は、画面に届いた一通のメールを見た。 東洋キャピタル証券、早乙女圭介からだった。 件名。 上場承認に関する正式連絡。 水城莉央は、一瞬だけ呼吸を止めた。 開封する。 本文を読む。 その目が、わずかに揺れた。「……来た」 声は小さかった。 けれど、その一言で、上場準備室にいた坂井誠が顔を上げた。「水城専務?」 水城莉央は、いつものように落ち着いた声を出そうとして、少しだけ失敗した。
Last Updated: 2026-08-31
Chapter: 第34話 上場へ 年が明けた。 東京の空は、冬らしく高かった。 雲は薄く、ビルの硝子に朝日が跳ね、舗道を歩く人々の息が白くほどけていく。寒さは厳しい。けれど、ネクストリンク本社の中は、季節とは別の熱を帯びていた。 上場準備室。 IR部。 経理財務本部。 法務本部。 内部統制推進部。 コンプライアンス部。 各支社。 福祉事業本部。 介護事業統括室。 ゲーム・アニメ事業本部。 すべてが、同じ方向を向いていた。 上場へ。 その二文字が、社内の空気をぴんと張らせていた。 ネクストリンク本社二十七階。 大会議室には、朝八時半の時点で、すでに資料が積み上げられていた。 高瀬悠真は、黒いスーツの袖を整えながら席へ着いた。 代表取締役社長CEO。 会社の顔であり、上場審査では最も見られる人間だった。 隣には、社長室長兼秘書室長の神谷玲奈が立っている。 今日の神谷玲奈は、いつも以上に隙がなかった。 髪はきっちりまとめ、淡いグレーのスーツに、細いシルバーの腕時計。手元のタブレットには、午前八時半から午後九時までの予定が一分単位で並んでいる。 悠真が資料へ手を伸ばす前に、神谷玲奈が小さく言った。「社長、その資料は午後の東証追加質問用です。今見るのは主幹事証券向けの最終版です」 悠真の指が止まった。「……よく分かりましたね」「社長の右手が、間違った山に伸びました」「右手まで監視されていますか」「社長室長兼秘書室長ですので」「その言葉、最近さらに強くなってませんか」「社長が忙しさで雑になるほど、強くなります」 悠真は苦笑した。「気をつ
Last Updated: 2026-08-30