LOGIN従業員三百名。 年商百億。 IT企業『ネクストリンク』の創業社長、 高瀬悠真(たかせ ゆうま)。 彼は信じていた。 妻であり専務でもある **高瀬美咲(たかせ みさき)**を。 だがある日。 妻が営業本部長の 桐谷健吾(きりたに けんご) と不倫していることが発覚する。 二人は知らなかった。 会社の議決権の78%を 悠真が保有していることを。 翌日。 臨時取締役会。 悠真は静かに言った。 「専務取締役・高瀬美咲を解任する」 「営業本部長・桐谷健吾を懲戒解雇する」 「背任行為の調査を開始する」 会議室は凍りついた。 これは離婚の話ではない。 企業を私物化した裏切り者を 法と契約で裁く物語である。
View More高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。
それは優しいからではない。
怒鳴る前に、数字を見るからだ。
東京都千代田区。
丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。
法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。
十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。
上場準備にも入っている。
銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。
その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。
三十五歳。
黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。
派手な経営者ではない。
メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。
そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。
その日も、悠真は朝七時半には出社していた。
役員フロアの社長室。
ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。
机の上には、三つの資料が並んでいる。
一つは、月次売上報告書。
一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。
そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。
差出人は、青葉総合調査事務所。
悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。
悠真はその封筒にはまだ触れなかった。
先に売上報告書を開いた。
第一事業部、前年比一二八%。
第二事業部、前年比一一六%。
営業本部、新規案件獲得数は多い。
だが、利益率が落ちていた。
特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。
偶然ならいい。
だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。
悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。
その時、社長室のドアが控えめにノックされた。
「社長、よろしいでしょうか」
入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。
三十二歳。
長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。
秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。
予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。
悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見ている。
「神谷さん。ちょうどよかった」
「青葉総合調査事務所からの報告書、届いておりますね」
「ああ。まだ開けていない」
神谷玲奈は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草で、悠真は中身を察した。
悪い報告は、封筒を開ける前から重い。
「確認しますか」
「する」
悠真は、そこで初めて茶封筒に手を伸ばした。
封を切る音が、やけに大きく響いた。
中には、調査報告書、写真資料、宿泊施設の出入り記録、車両移動記録、時系列表が入っていた。
悠真は一枚目をめくった。
最初に出てきた写真は、夜のホテル前だった。
港区。
高級ホテルの地下駐車場出入口。
そこに写っていたのは、妻の高瀬美咲だった。
三十四歳。
ネクストリンク専務取締役。
財務と人事を管掌する役員。
そして、悠真の妻。
写真の中の美咲は、黒いワンピースに白いコートを羽織り、隣の男の腕に自然に手を添えていた。
男は、桐谷健吾。
三十七歳。
営業本部長。
創業初期からネクストリンクにいた幹部の一人だ。
二人は周囲を気にしながらも、笑っていた。
次の写真。
ホテルのロビー。
次の写真。
エレベーター前。
次の写真。
翌朝、同じホテルから出てくる二人。
時刻は午前七時十二分。
美咲は髪を軽く結び、桐谷は前日のネクタイを少し緩めていた。
悠真は無言でページをめくった。
神谷玲奈は何も言わなかった。
社長室の空気だけが、ゆっくり凍っていく。
報告書には、感情的な言葉は一つもなかった。
調査日時。
場所。
対象者。
行動内容。
撮影番号。
確認事項。
それだけだ。
だからこそ、逃げ道がなかった。
ホテルへの入退館は三回。
地方出張時の同宿疑いが二回。
深夜の密会が四回。
会食名目での二人きりの移動が六回。
報告書の文章は淡々としていた。
まるで機械が人間の裏切りを分類しているようだった。
「……確定か」
悠真が言った。
声は揺れていなかった。
神谷玲奈は小さく頷いた。
「調査会社の担当者からは、民事上の不貞行為を主張する材料としては十分な可能性が高い、と説明を受けています。ただ、最終判断は弁護士に確認すべきとのことです」
「そうだな。探偵は事実を集める仕事で、法的評価は弁護士の仕事だ」
悠真は次の資料を手に取った。
そこには、さらに厄介なものが入っていた。
経費精算の一覧。
ホテル代。
高級旅館。
地方出張費。
接待費。
役員交際費。
そして、それらのいくつかに、美咲と桐谷の動きが重なっていた。
もちろん、経費精算があるだけで即違法とは言えない。
会社の役員や営業本部長が、接待や出張をすること自体は普通にある。
問題は、その実態だ。
業務との関連性が薄い支出。
同席者の記載が曖昧な会食。
存在しない顧客名。
宿泊先の部屋数と人数の矛盾。
日程表にない前泊。
悠真は、報告書の中で赤い付箋が貼られた箇所を見た。
青葉総合調査事務所は、さすがに会計監査まではしていない。
だが、調査中に判明した移動実態と会社資料に齟齬がある、と注記していた。
そこから先は、会社の法務と監査の領域だった。
「神谷さん」
「はい」
「今日の十五時に、矢島先生を呼んでくれ」
「顧問弁護士の矢島明彦先生ですね」
「ああ。それと常勤監査役の三枝さん、法務部長の大槻さん、経理部長の坂井さん。全員、社長室ではなく第二会議室に集める」
「専務には」
「伝えなくていい」
神谷玲奈は表情を変えなかった。
ただ、返事だけが少し低くなった。
「承知しました」
彼女が出ていこうとした時、悠真は言った。
「神谷さん」
「はい」
「この件を最初に報告した社員は、誰だ」
神谷玲奈はすぐには答えなかった。
「名前を出す必要がありますか」
「今はない。ただ、守る必要がある」
「営業管理部の若手と経理部の若手です。経費精算の確認中に不自然な点を見つけ、最初は上長に相談しましたが、握り潰されそうになったため、私のところへ来ました」
「その社員に不利益が出ないようにしてくれ」
「はい」
「内部告発者を潰す会社に、未来はない」
神谷玲奈の目が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「その言葉、本人に伝えてもよろしいですか」
「いや。伝えなくていい。守った結果だけ見せればいい」
「承知しました」
ドアが閉まった。
悠真は一人になった。
写真の中の美咲は笑っている。
桐谷も笑っている。
その笑顔を見ても、不思議と涙は出なかった。
胸の奥で、何かが静かに焼き切れただけだった。
十年前。
まだ会社が小さかった頃、美咲は経理を手伝ってくれた。
請求書を作り、銀行へ行き、深夜の事務所でコンビニ弁当を食べた。
あの頃の美咲は、確かに隣にいた。
同じ会社を見ていた。
同じ未来を信じていた。
だが、いま写真の中にいる美咲は違う。
彼女が裏切ったのは、夫だけではない。
会社だった。
社員だった。
この十年に積み上げた信用だった。
悠真は写真を封筒に戻した。
そして、売上報告書の上に置いた。
「家庭の話で終わらせるつもりだったなら、まだ可愛げがあったんだけどな」
誰もいない社長室で、悠真はそう呟いた。
午後三時。
第二会議室には六人が集まった。
高瀬悠真。
秘書室長の神谷玲奈。
顧問弁護士の矢島明彦。
常勤監査役の三枝義人。
法務部長の大槻沙織。
経理部長の坂井誠。
会議室のブラインドは下ろされ、テーブルの上には紙資料が並べられている。
電子データもあるが、この場では不用意に共有しない。
情報漏洩を避けるためだった。
矢島明彦は五十代半ばの弁護士で、企業法務に強い。
派手な訴訟屋ではない。
契約書と取締役会運営を淡々と固める、地味だが信頼できる男だった。
三枝義人は六十二歳。
元銀行員で、ネクストリンクの常勤監査役。
穏やかな顔をしているが、不正な支出を見る目は刃物のように鋭い。
法務部長の大槻沙織は四十歳。
元大手法律事務所勤務。
社内規程の整備を進め、上場準備の土台を作ってきた人物だ。
経理部長の坂井誠は四十五歳。
無口だが、数字の違和感にだけは異常に敏感だった。
悠真は全員を見た。
「今日の内容は、現時点では極秘です。対象者は専務取締役の高瀬美咲と、営業本部長の桐谷健吾。まず、探偵事務所による調査報告を共有します」
会議室に、紙の擦れる音だけが響いた。
矢島明彦は写真を確認しても、眉一つ動かさなかった。
大槻沙織は口元を引き締めた。
三枝義人は経費精算の一覧で手を止めた。
坂井誠は、ほとんど瞬きをしなくなった。
全員が資料に目を通した後、悠真は言った。
「まず、私生活上の不貞行為については離婚と慰謝料請求の問題になる。これは私個人の問題です。だが、会社経費の流用疑い、利益相反、虚偽精算、職務上の信用失墜については会社の問題です。分けて考えたい」
矢島明彦が頷いた。
「その整理でいいと思います。社長個人の離婚問題と、会社としての役員・従業員対応は混ぜない方がいい。特に上場準備中ですから、手続きの透明性が重要です」
「美咲は専務取締役です。解任は可能ですか」
「取締役の解任自体は、株主総会決議事項です。御社の場合、定款や機関設計の確認は必要ですが、原則として株主総会で解任決議を行うことになります。社長が議決権の七十八%を保有している以上、決議自体は通せる可能性が高い。ただし、正当な理由なく任期途中で解任した場合、損害賠償請求を受ける可能性があります」
「正当な理由の有無が問題になる」
「はい。ですから、感情的な離婚理由ではなく、役員としての善管注意義務違反、忠実義務違反、会社資産の私的利用疑い、社内規程違反など、会社側の事情を丁寧に積む必要があります」
大槻沙織が資料をめくった。
「専務は財務と人事を管掌しています。経費承認権限も一部持っています。もし私的な宿泊や移動を業務経費として処理していた場合、社内規程違反は明確に問えます。ただ、いきなり断定するのではなく、まず特別調査という形にした方がいいです」
三枝義人が低い声で言った。
「監査役としても、この経費一覧は見過ごせません。接待先の実在確認、同席者確認、出張目的の確認、領収書原本の確認を行うべきです」
坂井誠が、ようやく口を開いた。
「経理部としても、怪しい支出はいくつか把握していました。ただ、承認者が専務と営業本部長で、業務上の接待と言われると止めきれない部分がありました」
「坂井さんを責める場ではありません」
悠真は即座に言った。
「ただし、これからは全部出してください」
「はい」
「桐谷についてはどうですか」
大槻沙織が答えた。
「桐谷健吾は取締役ではなく、従業員兼執行役員扱いです。雇用契約と役職任用の関係になります。懲戒解雇まで行くには、就業規則上の根拠、弁明の機会、事実認定が必要です。いきなり明日付で懲戒解雇というのは危険です」
「では」
「まずは自宅待機命令、業務用端末と社用携帯の保全、アクセス権限の停止、調査委員会による事情聴取。そのうえで、懲戒処分を検討する流れが自然です」
矢島明彦も頷いた。
「証拠隠滅防止のため、権限停止は早い方がいい。ただし、本人に何を告げるかは慎重に。名誉毀損や不当処分と言われないよう、調査中の措置として扱うべきです」
「刑事は」
「業務上横領や背任の可能性はあります。ただ、刑事告訴をするなら、会社資産の私的利用がどこまで明確か、金額はいくらか、本人たちに故意があるか、そこを固める必要があります。現時点では、刑事よりも社内調査と民事請求の準備が先です」
悠真は黙って聞いていた。
怒りを法に変換する。
それは簡単ではない。
感情は火だ。
法務は水路だ。
水路を間違えれば、火は会社を焼く。
「株式の買い取りは」
悠真が尋ねた。
矢島明彦は少し考えた。
「美咲さんが五%、桐谷さんが二%を保有している件ですね。株主であること自体は、不貞や社内不正疑いだけで当然に奪えるものではありません。強制的に買い取れるかは、株主間契約、譲渡制限、退職時の買戻条項などの有無によります」
大槻沙織が補足した。
「創業期の株主間契約があります。退職・解任・重大な信用毀損行為があった場合、会社または指定株主が一定の算定式で買い取れる条項は入っています。ただ、発動条件と価格算定は慎重に確認が必要です」
「つまり、やれる可能性はあるが、手続きが必要」
「はい」
「なら手続きを踏む」
悠真は即答した。
彼の声は冷えていた。
会議室にいる全員が、その冷たさを感じた。
怒鳴るより怖い声だった。
「私は二人を感情で追い出したいわけではありません。会社を守りたい。だから、不自然な処理は一つもしたくない」
矢島明彦が頷いた。
「その姿勢が一番重要です」
「明日、臨時取締役会を開きます」
大槻沙織が顔を上げた。
「議題はどうしますか」
「第一に、専務取締役・高瀬美咲に関する特別調査委員会の設置。第二に、調査期間中の職務権限停止。第三に、営業本部長・桐谷健吾に関する社内調査と自宅待機命令。第四に、関連する経費精算、契約、稟議、電子データの保全。第五に、必要に応じた株主総会招集の準備」
三枝義人が目を細めた。
「解任決議そのものは、明日の取締役会ではなく株主総会ですね」
「そうです。明日は、解任のための事実整理と調査開始です」
「冷静ですね」
「冷静でないと負けます」
悠真はそう言った。
家庭では、もう負けている。
妻には裏切られた。
結婚生活は壊れた。
だが会社まで壊されるつもりはなかった。
そこには、三百十二人の生活がある。
取引先がある。
信用がある。
十年分の契約書と請求書と失敗と徹夜がある。
不倫の修羅場に、会社を巻き込ませるわけにはいかない。
「探偵事務所とは追加契約します」
悠真は言った。
「私生活の不貞証拠については、離婚担当の弁護士にも引き継ぐ。ただし、会社経費に関する部分は、社内調査と監査で裏を取る。青葉総合調査事務所には、今後の接触や証拠隠滅の動きがないか、合法的な範囲で継続調査を依頼します」
矢島明彦が少しだけ口角を上げた。
「合法的な範囲で、という言葉が出るなら安心です。違法な盗聴や不正アクセスは絶対に避けてください。裁判で不利になるだけです」
「わかっています。こちらが汚れたら、相手を追及する資格を失う」
「その通りです」
会議は一時間半続いた。
結論は明確だった。
感情で断罪しない。
証拠を固める。
調査手続きを作る。
権限を止める。
会社の資産と情報を守る。
必要なら株主総会で解任する。
株式は契約に従って買い取りを請求する。
損害が確定すれば、会社として損害賠償を求める。
そして、悠真個人としては、離婚と慰謝料請求を進める。
全部、別々の刃にする。
一つの怒りで殴るのではない。
七本の刃で、逃げ道を切る。
会議が終わる頃には、外は暗くなっていた。
神谷玲奈が資料を回収し、番号ごとに封筒へ戻す。
矢島明彦は帰り際、悠真に言った。
「高瀬社長」
「はい」
「明日から、相手は泣くか、怒るか、被害者のふりをするかもしれません」
「でしょうね」
「しかし、絶対に会議室で怒鳴らないでください。脅さない。人格攻撃をしない。事実と手続きだけで進める。それが一番強い」
「心得ています」
「離婚の怒りを会社に持ち込んだ、と言われたら面倒ですから」
「逆に言えば、会社の問題を家庭の喧嘩に矮小化させない」
矢島明彦は深く頷いた。
「その通りです」
悠真は会議室を出た。
廊下の向こうでは、社員たちがまだ働いている。
営業資料を作る者。
システム障害の対応をする者。
カスタマーサポートの問い合わせに追われる者。
誰もまだ知らない。
会社の中心で、静かな戦争が始まっていることを。
午後九時過ぎ。
悠真は自宅マンションへ戻った。
港区のタワーマンション。
結婚して三年目に買った部屋だ。
リビングには、まだ二人で選んだソファがある。
キッチンには、美咲が好きだった白いコーヒーメーカーがある。
壁には、軽井沢で撮った写真が飾られている。
笑っている二人。
その写真を見て、悠真はようやく少しだけ息を吐いた。
過去が嘘だったとは思わない。
だが、今が嘘なら、過去の価値も変わってしまう。
十時四十分。
玄関のロックが開いた。
「ただいま」
高瀬美咲の声がした。
悠真はリビングのソファに座っていた。
テーブルの上には、何も置いていない。
報告書も写真もない。
問い詰めるつもりはなかった。
今夜ここを家庭裁判所にする気はない。
「遅かったな」
「うん、ごめんね。桐谷さんと明日の営業会議の準備してて。上場前って本当にやること多いね」
美咲は自然に笑った。
自然すぎて、見事だった。
悠真はその顔を見た。
この人は、こんなふうに嘘をつける人だったのか。
そう思った。
「夕飯は」
「外で軽く食べてきた」
「そうか」
「悠真は?」
「会社で済ませた」
「そっか。最近忙しいね」
「ああ」
美咲はコートを脱ぎ、寝室へ向かった。
その後ろ姿を、悠真は黙って見送った。
今ここで言えば、どんな顔をするだろう。
泣くのか。
怒るのか。
「違う」と言うのか。
「寂しかった」と言うのか。
「あなたにも悪いところがあった」と言うのか。
想像はできた。
だが、どれも今は必要なかった。
必要なのは、明日の取締役会だった。
美咲がシャワーを浴びている間、悠真は自分の書斎に入った。
ノートパソコンを開く。
神谷玲奈から、明日の臨時取締役会資料の最終版が届いていた。
議案名は慎重に整えられている。
第一号議案。
高瀬美咲専務取締役に関する特別調査委員会設置の件。
第二号議案。
調査期間中における一部職務権限停止の件。
第三号議案。
営業本部長桐谷健吾に関する社内調査および自宅待機命令の件。
第四号議案。
関連資料および電子データ保全の件。
第五号議案。
臨時株主総会招集準備の件。
完璧ではない。
だが、戦える形だった。
悠真は一つ一つ確認し、最後に短い返信を打った。
「この内容で進めてください。明朝八時、最終確認」
送信。
画面が暗く反射し、そこに自分の顔が映った。
疲れた顔だった。
夫として傷ついた男の顔。
だが同時に、会社を守る社長の顔でもあった。
悠真は椅子にもたれた。
そして、小さく呟いた。
「美咲」
名前を呼んでも、答えはない。
もう夫婦として話し合う時間は、過ぎてしまったのかもしれない。
翌朝。
高瀬悠真はいつも通り、七時半に出社した。
昨夜と同じ白いシャツ。
濃紺のスーツ。
ただし、ネクタイだけは黒に近いグレーだった。
社長室には、すでに神谷玲奈がいた。
「おはようございます」
「おはよう」
「資料、全て準備できています。矢島先生も九時半には到着予定です。三枝監査役、大槻部長、坂井部長も待機します」
「美咲と桐谷は」
「通常通り出社予定です。専務は十時から役員会、桐谷本部長は九時四十五分に営業会議を入れていましたが、こちらで調整しました」
「ありがとう」
神谷玲奈は一枚の書類を差し出した。
臨時取締役会招集通知。
悠真はそれを手に取った。
紙の重さは軽い。
だが、そこに書かれている文字は、人の人生を変える。
役職。
報酬。
信用。
株式。
婚姻。
未来。
全部、今日から動き出す。
悠真はペンを取った。
署名欄に、自分の名前を書く。
高瀬悠真。
インクが紙に沈む。
それは、開戦の合図に似ていた。
神谷玲奈が書類を受け取る。
「では、通知を回します」
「ああ」
彼女が出ていこうとした時、悠真は窓の外を見た。
東京の朝は、昨日と同じように明るかった。
人も車も動いている。
世界は誰かの離婚で止まらない。
会社も、社長の傷心で止めてはいけない。
悠真は静かに言った。
「始めよう」
神谷玲奈が振り返る。
悠真は続けた。
「家庭の話は、もう終わりだ」
その声に、怒鳴り声はなかった。
涙もなかった。
ただ、刃物のような静けさだけがあった。
「ここからは、会社の話をする」
午前十時。
ネクストリンク本社、役員会議室。
ガラス張りの会議室に、役員たちが集まり始める。
高瀬美咲は、いつも通り美しい笑顔で入ってきた。
桐谷健吾も、いつも通り自信に満ちた顔で席についた。
二人はまだ知らない。
この会議室が、家庭の修羅場ではなく、企業法務の処刑台になることを。
高瀬悠真は議長席に座り、資料を開いた。
そして、静かに告げた。
「それでは、臨時取締役会を開始します」
ページをめくる音がした。
修羅場は、もう始まっていた。
不正は、突然生まれない。 最初は、小さな違和感だった。 金額が少し大きい。 相手先の名前が曖昧。 添付された資料が薄い。 承認が早すぎる。 誰も質問しない。 誰かが目を逸らす。 そして、ある日からそれは会社の空気になる。 ネクストリンクの特別調査委員会が設置されてから、一週間が経った。 第二会議室の窓には、朝からブラインドが下ろされていた。 テーブルの上には、紙資料、ノートパソコン、番号付きファイル、付箋、外付けストレージ、調査メモが並んでいる。 そこはもう会議室ではなかった。 帳簿とログを解剖する、無菌室のような場所だった。 委員長の三枝義人は、老眼鏡をかけ直し、手元の一覧表を見た。「対象データ、三千八百十二件。そのうち、一次抽出で異常値ありとされたものが二百十七件」 水城莉央が頷いた。「経費、出張、接待、外注費、研修費、販促費。名目は散っていますが、承認経路に偏りがあります」 大槻沙織が資料をめくる。「桐谷健吾申請、高瀬美咲承認。この組み合わせが多い。さらに、営業管理課長の西岡大輔、営業第二課長の山城直人、経理課長の小田切修、経理管理課係長の江藤真一。この四名が複数の案件に絡んでいます」 外部公認会計士の榊原徹が、低い声で言った。「典型的ですね。主犯がいて、承認者がいて、現場側で形を作る人間がいて、経理側で通す人間がいる」 若手会計士の村瀬絢が画面を拡大した。「K-Bridge Consulting関連だけでなく、接待費の水増し、出張費の目的不明、研修費への付け替えもあります。金額はまだ確定できませんが、現時点の疑義額は少なくとも六千万円台に乗ります」 会議室に、紙をめくる音だけが響いた。 六千万円。 中小企業なら、それだけで資金繰りが傾く金額だ。 ネクストリンクにとっても、軽い金ではない。 社員の給与。
ネクストリンクは、止まらなかった。 翌朝八時。 高瀬悠真は、いつも通り本社二十七階の社長室にいた。 昨日、臨時取締役会で専務取締役・高瀬美咲の一部職務権限停止が可決された。 営業本部長・桐谷健吾には自宅待機命令が出された。 社用端末は回収。 会社アカウントは停止。 経費精算、契約、外注先選定、出張申請、チャットログ、メールボックス、ファイル共有履歴は保全された。 普通なら、会社中が凍る。 だが、会社は生き物だ。 誰かが倒れた瞬間、血流を別の道へ逃がさなければ、全身が腐る。 悠真は、社長室のモニターに表示された全社向けメッセージを確認していた。 文面は短い。 余計な感情はない。 だが、社員が一番知りたいことだけは入れてある。⸻社員各位昨日開催された臨時取締役会において、一部役員および幹部社員に関する調査体制の設置を決議しました。調査の公平性と事業継続を確保するため、当面の間、一部業務分掌と権限を変更します。顧客対応、開発、導入支援、サポート、採用、給与支払い、取引先支払いに影響はありません。社員の皆さんには、不確かな情報に基づく憶測や個人攻撃を避け、通常業務を継続してください。内部通報者、関係社員、調査協力者への不利益取り扱いは一切認めません。会社は、事実に基づき、適正な手続きで対応します。代表取締役社長高瀬悠真⸻ 悠真は最後まで読み、神谷玲奈へ視線を向けた。「これで出してくれ」「承知しました」 秘書室長の神谷玲奈は、すぐに配信予約を入れた。 八時十五分。 全社員にメール。 社内ポータルに掲示。 管理職向けには、別途説明資料。 顧客対応部署には想定問答。 人事部には相談窓口の増設。 情報システム部に
「それでは、臨時取締役会を開始します」 高瀬悠真の声が、役員会議室に落ちた。 午前十時。 株式会社ネクストリンク本社、二十七階。 普段なら新規事業や上場準備、採用計画、資金調達、主要顧客との契約更新などを話し合う場所だった。 だが、今日だけは違う。 会議室の空気が、妙に重い。 ガラス張りの壁の向こうには、いつも通り東京の街が広がっている。 車は流れ、人は歩き、ビルの窓は光を返していた。 世界は何も知らない顔で動いている。 その一方で、ネクストリンクの中枢では、会社の内臓に刃を入れる会議が始まろうとしていた。 長い楕円形のテーブル。 議長席には、高瀬悠真。 その右隣に、副社長の七瀬蒼真。 二十九歳。 悠真より六歳若い。 創業五年目に入社した天才肌のプロダクト責任者で、現在は開発・事業戦略を管掌している。 黒いジャケットに白いシャツ。 表情は柔らかいが、目は鋭い。 悠真が外部交渉と経営全体を見るなら、七瀬蒼真は会社の製品を未来へ引っ張るエンジンだった。 その隣には、取締役CFOの水城莉央。 三十一歳。 元外資系投資銀行。 上場準備、資金繰り、銀行交渉、資本政策を担う女性取締役だ。 数字に強く、余計な情緒を嫌う。 美咲が財務・人事管掌の専務として社内管理を見ていた一方、水城莉央は資本市場と金融機関に向き合う役割を担っていた。 左側には、専務取締役の高瀬美咲。 今日も美しかった。 白いブラウスに淡いベージュのジャケット。 落ち着いた髪。 役員としての笑顔。 十年近く、会社の顔の一人として振る舞ってきた女の顔だった。 悠真はその横顔を見ても、何も言わなかった。 そのさらに隣に、取締役CHROの宮園千晴。 三十三歳。 人事
高瀬悠真は、怒鳴らない男だった。 それは優しいからではない。 怒鳴る前に、数字を見るからだ。 東京都千代田区。 丸の内の高層ビル群を見下ろす二十七階に、株式会社ネクストリンクの本社はあった。 法人向けクラウド管理システム、営業支援AI、企業内データ連携プラットフォーム。 十年前、六畳一間の古いマンションで始めた会社は、いまでは従業員三百十二名、年商百八億円の中堅IT企業になっていた。 上場準備にも入っている。 銀行も、監査法人も、証券会社も、ネクストリンクを「次に伸びる企業」と見ていた。 その会社の創業社長が、高瀬悠真だった。 三十五歳。 黒髪を短く整え、余計な装飾を嫌い、いつも白いシャツに濃紺のスーツを着ている。 派手な経営者ではない。 メディアで夢を語るより、契約書の一文を直す方を好む男だった。 そして、ネクストリンクの議決権の七十八%を保有する、絶対的なオーナーでもあった。 その日も、悠真は朝七時半には出社していた。 役員フロアの社長室。 ガラス越しに見える東京の朝は、妙に澄んでいた。 机の上には、三つの資料が並んでいる。 一つは、月次売上報告書。 一つは、上場準備に関する監査法人からの確認事項。 そしてもう一つは、封をされた茶色の調査報告書だった。 差出人は、青葉総合調査事務所。 悠真が二週間前に正式契約した、探偵事務所である。 悠真はその封筒にはまだ触れなかった。 先に売上報告書を開いた。 第一事業部、前年比一二八%。 第二事業部、前年比一一六%。 営業本部、新規案件獲得数は多い。 だが、利益率が落ちていた。 特に営業本部長である桐谷健吾が決裁した案件に、妙な接待費と旅費交通費が増えている。 偶然ならいい。 だが、偶然が同じ方向に三度続けば、それは数字の悲鳴だ。 悠真は赤ペンで資料の端に小さく丸をつけた。 その時、社長室のドアが控えめにノックされた。「社長、よろしいでしょうか」 入ってきたのは、秘書室長の神谷玲奈だった。 三十二歳。 長い髪を後ろでまとめ、薄いグレーのジャケットを着ている。 秘書という肩書きだが、実質的には社長室の番人だった。 予定管理、社外調整、役員会資料の確認、株主対応の下準備までこなす。 悠真が創業五年目に採用した人材で、会社の裏側を誰よりも冷静に見