Chapter: 第7話 客より椅子の多い店チョン代表が教えてくれた店は、四軒だった。「客より椅子が多い店? 弘大と望遠なら、そんな店はいくらでもある。でも二年間、同じ人がずっと出てる店となると……」彼がメモ用紙に名前を書いた。四つ。そのうちひとつに丸をつけた。「ここ。木曜に『最後の出番』とだけ貼り出す店がある。名前を出さない。店主が頑固でね」木曜日だった。午前中にチョン代表からメッセージが来た。OSTの録音、来週水曜で確定。歌手は二十一歳の新人。返事は「はい」の一言にした。今日は、そのことを考える日ではなかった。昼のうちに、残りの三軒を先に回った。一軒は閉まっていた。テナント募集。一軒は店主が「歌う男? 毎週変わるよ」と言って終わった。一軒は入口に出演者の名前がびっしり貼ってあった。名前を出す店だった。四軒目は、夜に行くことにした。昼に行っても、誰もいないだろうから。かばんにはノートだけを入れた。九曲目のデモは入れなかった。曲から差し出したら、あの人は聴かない気がした。どうしてそう思ったのかは、説明できなかった。 ◇ソヒには住所だけを送った。一緒に行くと言うのを止めた。「ひとりで行くほうがいい。ふたりだと、見に来た人みたいだから。弁護士と一緒なら、なおさら」「ひとりなら?」「聴きに来た人」ソヒは十時までに連絡がなければ行くと言った。私は九時に送ると言った。望遠洞の路地。地下へ下りる階段に「小さな窓」という看板があった。看板の下に紙が一枚。手書き。【木曜ライブ。8時/8時40分/最後の出番】ドアを開けると、煙草の匂いの代わりにコーヒーの匂いがした。階段は十三段。数えながら下りてきた。テーブルが八つ、椅子は三十ほど。客は四人。ステージはステージではなく、壁の前の空間だった。マイクがひとつ、椅子がひとつ、スタンドライトがひとつ。カウンターの女性が私を見た。五十くらい。髪を後ろで束ねている。「初めてでしょ」「はい」「メニューはないの。コーヒーかビー
最終更新日: 2026-11-08
Chapter: 第6話 名前の載る場所月曜の朝、ソヒより先に起きた。コーヒーを淹れて、カーテンの横のドレスを見た。ソヒが返却すると言ってから一週間経つのに、まだそこに掛かっていた。ふたりとも、その話は持ち出さなかった。八時半、ソヒの事務所に書留が届いた。株式会社HSエンターテインメント法務部。ソヒが封を切り、一枚きりの文書を読んで、私に渡した。【貴殿より通知のあった著作権登録受付十四件について、当社は該当する著作物をオーディション審査資料および当社制作物に使用しておらず、今後も著作権者の書面による同意なく使用しないことを確認します】末尾に法務部長の印。日付は土曜日。オーディション当日だった。「これが一つ目」ソヒが言った。私は文書を二度読んだ。「紙一枚だね」「紙一枚が一番強いの。これでHSはあんたの曲に手を出せない。出したら、自分たちが書いたこの文書が証拠になる」ソヒが文書を本棚の側面に貼った。書留の受領証の隣だった。本棚はまだ空っぽで、側面だけが埋まっていった。ノートを開いた。【5月26日。HS法務――十四曲不使用の確認書。日付は5/24】 ◇チョン代表から電話が来たのは、その日の午後だった。チョン代表。私が十九歳のときに契約した、小さなパブリッシング会社の代表。社員は代表を入れてふたり。事務所は弘大の裏通りの二階。七年前もその場所にあって、前の人生の私がその会社を離れたのは、結婚の翌年だった。離れたのではなく、離れさせられたのだけれど。「柚奈さん、大丈夫? 結婚式のあれ……いや、その話はいい。ちょっと来られる? 急ぎで」事務所はそのままだった。廊下の自転車、階段のチラシ、ドアに貼られた社名。七年後にはなくなるものたちだった。ドアを開けると、スジンさんが立ち上がった。何か言いかけて、口を閉じ、ただ頭を下げた。結婚式に来てくれた事務所側のふたりのうちのひとりだった。もうひとりは、チョン代表だった。チョン代表は机の前から立ち上がらなかった。ハンカチで額を拭いていた。五月なのに。
最終更新日: 2026-11-07
Chapter: 第5話 曲なしで立つ男土曜の朝五時、ソヒが私を起こした。起こされる前から、起きていた。天井を見ながら、彼が観覧席で私を見つけたらどうするか考えた。結論はひとつだった。何もしない。見るだけ。帽子をかぶり、マスクをした。動画の中の私は後ろ姿だけだったけれど、ドレスを着ていない顔がどこまで知られているのかは、わからなかった。ソヒがコンビニのキンパを二本、かばんに入れた。HSの社屋の前には六時に着いた。列はもう三十人ほどだった。ほとんどが女性で、ほとんどが私たちより若い。手にはペンライトの代わりにスマホを持っている。前に並んだふたりが話していた。「11番、カン・ドジュンだって。あの結婚式の動画、見た?」「見た。新婦が音楽止めて出てったやつ。男の人が泣いてて、かわいそうだった」「だから見に来たの。実際どうなのか」ソヒが私の肘をつかんだ。私はマスクの上から、帽子をもう少し下げた。「オーディションの観覧に、こんなに人が来るの?」「HSの公開オーディションは昔からこう。たまに練習生が審査の補助で出てくるから」ミンギュが後ろから現れて、列に並んだ。帽子を深くかぶっている。「ドジュンは十一番目です。十二人のうち」「最後から二番目」「はい。セラさんがそう組んだそうです。一番最後は、会長が推してる子で」待っているあいだ、イヤホンで課題曲を聴いた。HSの練習生の課題曲は公開されている。公式の音源を三回聴いて、四回目は止めて、廊下の声で頭の中で聴いた。「ソ・ジファンさん、普段は審査なんてしない人なのに、HSの審査は今回が初めてだそうです。会長が直接呼んだって」ミンギュが言った。私はその言葉を、ノートの代わりに頭に書き留めた。八時に扉が開いた。観覧席は地下ホールの後方、六列。私たちは四列目の端に座った。ステージまで二十歩。審査席はステージの前に長机がひとつ。椅子が三つ。机の上に水のボトルが三本と、書類の束が二つ。左の席だけ、書類がなかった。 ◇九時ちょうど、審査員たちが入ってき
最終更新日: 2026-11-06
Chapter: 第4話 その女の名前文房具屋で選んだノートは、A5の三百ページだった。黒い表紙。ソヒが「日記帳みたい」と言った。レジでペンも一本選んだ。0.38。小さく、たくさん書ける太さ。ソヒがカードを出そうとしたので、先に現金を出した。財布に残っていたのはそれでほとんど全部だったけれど、ノートは自分のお金で買いたかった。隣のビルの携帯ショップで、SIMを替えた。新しい番号。店員に「番号そのままの乗り換えですか」と聞かれて、「新規で」と答えた。前の番号は、ソヒが転送で受けることになった。新しい番号を知っているのは、ソヒひとりだった。ノートの最初のページの一番上に、その番号を書いた。ソヒの事務所は、駅裏の雑居ビルの三階だった。弁護士三人が一部屋ずつ使う小さな事務所。ソヒの部屋には机と椅子がふたつ、まだ空っぽの本棚があった。廊下から、隣の部屋の弁護士が顔を出した。ソヒより十歳ほど上に見える男性だった。「オ先生、例の婚約破棄の件? ご祝儀の返還は、民事に持ち込むと面倒になるよ。式場を通したほうがいい」「もうそうしました」「早いね」彼は私を一度見て、軽く会釈して消えた。ソヒがドアを閉めた。「ここで書いて。私は書類を作るから」ソヒがノートパソコンを開いた。私は向かいの椅子に座って、ノートの最初のページを開いた。ペンを持ったまま、しばらくそのままでいた。どこから書けばいいのか、わからなかった。七年は長くて、そのほとんどは曲を書いていた夜だった。日付から書いた。【5月24日(土)HSエンタ公開オーディション。審査:パク・ギョンス A&R室長、ユン・ジョンミン理事、( )】三つ目の欄は空けておいた。顔は覚えている。眼鏡の、口数の少ない人。名前が出てこなかった。【ドジュン合格。練習生契約。デビューは翌年三月】【デビュー曲――】ここでまた止まった。デビュー曲は私が書いた。前の人生の六月に。まだ一音も、この世にない曲。曲名は書かなかった。代わりに空欄の横に小さく書いた。まだ、ない。
最終更新日: 2026-11-05
Chapter: 第3話 月曜の朝九時日曜の朝、ソヒの家のリビングで目を覚ました。カーテンの隙間から、薄い光が入っていた。床に敷いてもらった布団から起き上がると、腰が痛んだ。昨日のドレスがカーテンの横にかかっている。裾が床についていたので、ハンガーを少し高いところへ掛け直した。借りたジャージの裾を折っていると、ソヒがマグカップを持ってきた。「起きた? コーヒー、飲む?」「ありがとう」スマホを見る。知らない番号から三件、不在着信があった。伏せて置いた。テーブルではソヒのノートパソコンが開いていた。横に手書きのリストがある。【1. 外付けHDD(黒、2TB)――机の引き出し二段目】 【2. 鍵盤(88鍵)――窓際】 【3. 楽譜ノート――青い表紙、三冊、本棚の一番下】 【4. デスクトップ――ドジュン名義(購入レシート要確認)】 【5. クラウド――?】「ゆうべ聞いた分。ほかには?」「服とか。でも、それはあとでいい」「だろうね。寝てからもハード、ハードって言ってたよ」「……言ってた?」ソヒはうなずいて、四番にペン先を置いた。「今日、取りに行こう。パソコンは誰が買ったの?」「ドジュン。クラウドも、あの人のアカウント」去年の誕生日に用意してくれた、有料プランだった。作業フォルダが自動で保存されるよう、設定までしてくれた。「ゆうべ、落とせる分は落としたけど」ソヒが顔を上げた。「いつ?」「ソヒが寝てから」深夜一時に始めた。曲ごとのフォルダは十四個。ひとつ落としては開き、ファイルが入っているか確かめた。十二個目が終わったところで、ログイン画面に戻された。【アカウントのパスワードが変更されました。もう一度ログインしてください】二時十四分。何度入力しても、入れなかった。「残りは?」「入場曲と、先月書いた曲。プロジェクトの原本はハードにある。ガイドと途中の録音なら、スマホにも」「そっちは消さないでね。ドレスの返却は私がやる。パソコンは、持ち出す前に購入記録を確認しよう。向こうの物だって揉めたくないから。データと、あんたの荷物を先に」ソヒがブラウザを切り替えた。著作権登録の案内ページだった。「月曜、これを出そう。ただ、登録したら全部解決ってわけじゃないよ。作ったことを示せる資料も一緒に残しておこう。作業ファイルも、ノートも」「途中の録音も?」「うん。曲がで
最終更新日: 2026-11-04
Chapter: 第2話 この結婚しません静寂は、音楽よりも大きかった。最後の和音を待っていた耳が、空いてしまった場所をいっせいに感じ取った。参列者たちの手が、宙で止まる。拍手をしていた手も、スマホを掲げていた手も。「え、音響トラブル?」「新婦が止めたんじゃない? ほら、あそこ」何十もの顔が、ホールの隅を振り返った。白いドレスが、音響卓の前に立っていた。私はフェーダーから手を離さなかった。「新婦様、これ、私が……」音響スタッフが泣きそうな顔で、私の手の横に手を伸ばしてきた。フェーダーを元に戻そうとする手だった。「上げないでください」ソヒだった。私の後ろで、ドレスの裾を持ったまま。「今もう一度流したら、新婦の意思に反して式を強行することになります。その責任、誰が取るんですか? あなた? それとも新郎?」弁護士バッジが照明を受けて光った。スタッフの手が、宙で止まった。ソヒが私の耳元でささやく。「何を言うかは決めた?」「うん」「長くしないで。事実だけ」 ◇壇上で、ドジュンが笑っていた。まだ。司会者が持っていたマイクを、ごく自然に受け取りながら。「はは、音響がちょっと言うこと聞かないみたいで。うちの花嫁、作曲家なんですよ。こういうの、放っておけない人なんです」いくつかの場所から笑い声が起きた。小さな、安心したい人たちの笑いだった。「柚奈、こっちおいで。やり直そう」七年前も、彼はそう言った。やり直そう。書き直して。もう一度信じて。私は卓を見下ろした。フェーダーは八本。音源再生、司会者マイク、新郎新婦のピンマイク。そして一番右に、まだ誰も使っていないチャンネルがひとつ。チャンネルの上に、テープで貼られた文字が見えた。歌唱用。予備のマイクが、卓の横のスタンドに挿さっていた。このあと余興の歌を歌う人のために用意された、電源の入ったワイヤレスマイク。余興の歌は、ド
最終更新日: 2026-11-03