تسجيل الدخول【死に戻り×復讐×K-POP芸能界】 夫に殺された天才作曲家が、結婚式の日に戻ってきた――。 韓国で活動する日本人作曲家・宮瀬柚奈。彼女の曲で、夫のカン・ドジュンはトップスターになった。けれど彼は愛人と手を組み、財産と著作権を奪うため、彼女を殺した。 目覚めたのは、あの男との結婚式当日。 「あなたとは、結婚しません」 婚約を破棄した柚奈が訪ねたのは、前の人生でドジュンに夢を奪われた無名のシンガー、チャ・イヒョン。 「あなたを、スターにします」 夫を頂点へ押し上げたあの曲を、今度はライバルが歌う――。
عرض المزيد「……話があるんだ。別荘に来てくれ」
夫がふたりきりで会おうと言ってくれたのは、久しぶりだった。
馬鹿みたいに、少しだけ胸が弾んだ。ひどい雨だった。ワイパーが狂ったように、フロントガラスを何度も掻きむしっている。
『続いてはカン・ドジュンで「Half Step」。彼を頂点へ押し上げた、あの一曲です!』
ピアノの単音が四つ。最後のサビの直前で、キーをちょうど半音、ハーフステップだけ上げる曲。
その半音ひとつを見つけるために、私は三晩眠らなかった。「……私の曲よ」
作曲家の名前が呼ばれることはなかった。いつものことだ。
この国で私が頼れるのは、夫ひとりだけだった。
長い下り坂。ブレーキを踏んだ。足の先に、何も引っかからない。
「え? なんで、なんで……!」
震える指で、ハンドルについた通話ボタンを押す。呼び出し音。カチッ。
「ドジュン! ブレーキが効かないの! どうしよう、私……!」
返事はなかった。
聞こえてくるのは、落ち着き払った静かな息遣いだけ。その向こうで、別の声がした。
『……終わった?』
女の声。甘くて、浮き立つような。
『もうすぐ』
夫が答えた。私にではなく、その女に。
そのたったひと言で、記憶が一気につながった。先週、「俺たちふたりの未来のためだよ」と笑った顔。差し出された保険の書類に、サインをしていた私の手。受取人の欄に書かれた、カン・ドジュンという名前。
それから、表に出ることのない私の本名で登録された、何十もの曲。「あなた……」
スピーカーの向こうで、女が小さく笑った。
低く抑えた夫の声。
『セラ、静かに』
ツー、ツー。
車は止まらない。
サイドブレーキを引いた。最後まで、両手で。後輪が一瞬よろめいただけで、長い下り坂は車を離してくれない。速度計の針が、じりじりと右へ傾いていく。
ヘッドライトの先に、黄色い標識。急カーブ。曲がった矢印が、ワイパーがひと往復するたびに大きくなる。
ラジオは、ブリッジを抜けるところだった。体が勝手に拍を数える。一、二、三、四。
カーブが、目の前に迫ってくる。次の小節で、半音上がる。
――今。
ドンッ。
世界がひっくり返った。ガラスが雨のように降り注ぐ音の上を、半音上がったサビが、何事もなかったかのように流れていく。
『落ちてもいい、君が僕を引き寄せるなら』
私が書いた歌詞だった。
体が動かない。冷たい。
ドジュン。友達とも縁を切って、顔も名前も出せないまま、あなたが輝くための曲だけを書いてきたのに。
雨音が遠のいていく。
「Half Step」の最後のコードが、解決しないまま宙に浮いた。そして、何も聞こえなくなった。
◇
「……っは!」
息が、肺の奥まで一気に流れ込んできた。
目の前が、白い。
雨の匂いの代わりに、百合と薔薇の香りがする。膝の上で、白いレースが幾重にも波打っていた。ウェディングドレス。
鏡の中に、花嫁がいた。
頬がふっくらとして、目の下に影ひとつない女。三十三歳の私は、こんな顔をしていなかった。「嘘でしょ。……私、生きてる?」
指を握って、開く。軽い。
毎晩明け方まで鍵盤の前でこわばっていた指が、すんなりと柔らかく動いた。ドレッサーの上に置かれたスマホを、ひったくるようにつかんだ。
【5月17日(土) 午前11:20】
【ウェディングホール:挙式は12時ちょうどです。新婦様はご入場までお待ちください♡】
七年前。私がカン・ドジュンと結婚した、まさにあの日。
「うっ……」
とっさに口を押さえた。
沈んでいくペダルの感触が、『もうすぐ』というたったひと言が、まだ耳にこびりついている。ブーケの横に、手のひらに収まるほどの木箱が置かれていた。
母のオルゴール。母が亡くなったあと、日本の実家から持ち出してきた、たったひとつの形見。コンコン。
「柚奈! 私だよ、入るね?」
びくりと、肩が跳ねた。
◇
「うわ……。宮瀬柚奈、やばい。めちゃくちゃ綺麗じゃん」
ソヒだった。
オ・ソヒ。大学の同期。紺のスーツに、まだ板についていない弁護士バッジ。この子を、私は一度失っている。
「あの女といると、お前まで悪くなる」 ドジュンにそう言われるたびに、ひとりずつ連絡を絶っていった。「ソヒ……」
「ちょっと、なんで泣くの? メイク崩れる!」
ティッシュで私の目元を押さえていたソヒが、私の手を取って、ぴたりと止まった。
「あんた、なんでこんなに手が震えてるの?」
「……寒くて」
「五月に?」
ソヒが両手で、私の手をぎゅっと包み込んだ。
「試験の前の晩、あんたが電話で弾いてくれた応援歌、まだスマホに入ってるよ。あれ聴いたら、全然緊張しなかったんだから。今度は私の番」
夜中の一時にかかってきた、泣きそうな声の電話。私は鍵盤の蓋を開けて、思いつくままに弾いた。
結婚してからは、その録音のことさえ忘れて生きてきた。「あんた、この国でひとりなんだから。何かあったら、本当にどんなことでも私に言って。私、もう弁護士だよ」
「……結婚やめたい、っていうのも?」
「それも。婚姻届を出す前なら、法律上はまだ赤の他人なんだからね」
ソヒは冗談めかして笑った。それなのに、その言葉はなぜか胸の奥に深く刺さった。
「……うん。約束する」
ソヒから届いた最後のメッセージも、同じ言葉だった。私は返事をしなかった。今度は、する。
「ソヒ、ひとつだけお願い。お母さんのオルゴール、式のあいだ持っててくれる?」
「わかった。じゃあ入場の直前に、私が取りに来るね」
◇
ソヒが出ていって五分もしないうちに、またノックの音がした。
「柚奈、入ってもいい?」
『もうすぐ』
同じ声だった。寸分違わず。
「……うん」
カン・ドジュンが入ってきた。
白いタキシード。人を一瞬で惹きつける笑顔。舞台の上でもないのに、照明が彼だけを追いかけているように見える。二十七歳。まだ何者でもない、歌手志望の青年。
「うわ……。どうしよう。綺麗すぎて、ちょっと言葉が出ないよ」
私の目は、ずっと彼の手を追っていた。
あの手で、私の車にいったい何をしたんだろう。「緊張してる? 手、冷たいね。大丈夫、俺がいるだろ」
ドジュンが膝をつき、私の手を包み込んだ。温かかった。ぞっとするほどに。
こわい。
口の中で転がったのは、日本語だった。
この国では、口にする機会のほとんどなかった母国語。歯を食いしばって、どうにかのみ込む。「約束する。お前の曲で、俺は世界のてっぺんに立つ」
言葉の端ひとつ、息継ぎのタイミングひとつまで、あのときのままだった。
七年前の今日、私はこの言葉に、泣きながら何度も頷いた。だから、冷静に。
割れる寸前の音をコンプレッサーで抑え込む要領で、湧き上がる怒りを押し込めた。「てっぺん? 気をつけてね、ドジュン。あそこは、落ちるとき一番痛いから」
「なんだよ、怖いこと言うなあ。喋り方まで、なんか歌詞みたいだ」
ドジュンは笑いながら立ち上がった。ドアノブに手をかけたところで、振り返る。
「あ、そうだ。知り合いが、大手のオーディションの枠をひとつ回してくれるって。新婚旅行から帰ったら、すぐ曲作りに入ろう。お前なら一週間で書けるだろ? なんたって天才だもんな」
「どうかな。最近ちょっと詰まってて。一行も出てこないの」
「またまた。緊張してるだけだって」
「今回は、書いてあげられないと思う。ごめんね」
ドジュンの顔から、笑みが消えた。
「……ふざけるなよ」
トーンがひとつ低くなった声。
曲を渡すのが遅れるたびに聞かされていた、優しさの剥がれ落ちたあの声だ。ドジュンがドアノブから手を離し、一歩、こちらへ戻ってきた。「今がどういう時か、わかってるだろ。このチャンス逃したら、俺には次がないんだぞ」
近い。タキシードの白が、視界をふさぐ。
ごめん、すぐ書くから、怒らないで――。
喉まで出かかった言葉を、七年分の癖ごと噛み殺した。「お前、それしか取り柄ないだろ。曲を書くことしか。それすらやめて、何するつもりだよ」
ああ。これだった。
この言葉が怖くて、私は何度も夜を明かした。私は、眉ひとつ動かさなかった。
「うん。それしか取り柄ないの」
「……」
「だからこれからは、大事に使おうと思って。誰にでもあげたりしないで」
ドジュンの唇が何か言いかけて開き、また閉じた。
「誰にでも……? 俺も、その『誰か』ってことかよ」
「そんなこと言ってないよ」
小さく首をかしげてみせる。
「ねえ、ドジュン。顔」
「……は?」
「鏡見て。すごい顔してる」
ドジュンが、はっとしてドレッサーの鏡を見た。
眉間に深い皺を刻んだ男が、鏡の中から彼を睨み返している。花婿の顔では、なかった。彼は慌てて笑顔を取り戻した。慌てすぎて、口角が一度、ひくりと震えた。
「はは……。結婚式の日に人をからかうなって。わかった、ゆっくりでいいよ」
「うん。ゆっくりね」
「じゃあ、あとでバージンロードの先で待ってる」
ドアが閉まる直前、隙間から見えた横顔は、もう笑っていなかった。
私はティッシュで、彼に握られていた手の甲をごしごしとこすった。肌が真っ赤になるまで、何度も。
◇
ひとりきりになった控室は、しんと静かだった。
母のオルゴールを、そっと手に取る。小さな木箱は、手のひらにすっぽりと収まった。
親指が、ひとりでにゼンマイにかかった。巻こうとした指が、そこで止まる。
しばらくそのままでいてから、巻かずに手を離した。今あのメロディを聴いたら、崩れてしまう。
お母さんと呼びながら座り込んで泣いて、それから何事もなかった顔でメイクを直し、あのドアを出ていく。きっと、そうなる。木箱を両手で包んだ。
母が毎日撫でていた木の、なめらかな木目が手のひらに触れる。その馴染んだ感触が、私をつなぎとめてくれた。母も作曲家だった。
いい曲をたくさん書いたのに、母の名前が残っている曲はほとんどない。才能のある女の曲は、あまりにも簡単に他人のものになる。「お母さん。私、お母さんみたいにはならないから」
前の人生で書いた曲たちは、まだ私の頭の中にしかない。
それから、ふと思い出した。
ドジュンが踏み台にしたのは、私ひとりではなかった。彼のデビューの陰で、ひっそりと消えていった声がひとつあった。あの声は今、どこで歌っているんだろう。顔を上げると、ドレッサーの鏡が目に入った。
ついさっき、そこで眉間に皺を刻んでいた顔が重なって見える。花婿ではない、男の顔。「カン・ドジュン」
鏡を見つめたまま、その名前を呼んだ。
「今度の人生では、あなたをスターにしない」
口にした途端、手の震えが止まった。
逃げるだけじゃ、足りない。逃げた花嫁で終わるつもりはない。断った花嫁になる。あの男が初めて主役を張るこの舞台で、みんなの見ている前で終わらせる。
コンコン。
「柚奈、来たよ。オルゴール!」
ドアの隙間から、ソヒがひょいと手を差し出した。その手のひらに、オルゴールをそっとのせる。
「ちゃんと持っててね」
「任せて。命がけで守る」
「新婦様、ご入場五分前です!」
◇
ホールの扉の隙間から、音楽が漏れてくる。
ピアノと弦楽四重奏。八分の六拍子、ワルツのように揺れるリズム。私が書いた曲だった。
「入場曲はお前が作ってよ」というドジュンのひと言で、一週間、毎晩徹夜して仕上げた「君に届く道」。最後の小節は、長調で明るくほどけるように書いた。私たちの未来も、そうであってほしくて。二小節聴いて、顔を上げた。
「……速いです」
「はい?」
「テンポです。譜面に書いた指定より、ほんの少しだけ速いんです。これじゃ、チェロが息をつく隙間がありません」
ウェディングプランナーが、目をぱちぱちさせた。
「まあ、私には全然わかりませんでしたけど……。音響は、新郎様がご自分で全部いじってくださったんですよ。新婦様の足取りが軽やかに見えるようにって、再生の速さから音量まで、ひとつひとつ」
「……そうでしたか」
扉の隙間の向こう、ホールの隅の柱の横に、音響卓が見えた。その場所を、私はしっかりと目に焼きつけた。
「新婦様は、おひとりでご入場ですね」
「はい」
『新婦のご入場です!』
扉が大きく開いた。まぶしい光が降り注ぐ。
参列者たちのスマホのカメラが、一斉にこちらを向いた。新郎側に、空席はなかった。新婦側は、まばら。
その真ん中で、ソヒがオルゴールを椅子に置き、ひとりだけ立ち上がって、誰よりも大きく手を叩いていた。「やだ、新婦側ほんとに誰もいないじゃない」
「日本の人なんだって。家族も来てないらしいよ」
そのとおりだった。十九歳でひとり海を渡った日、父とは縁が切れた。この国での私の席は、いつもこうして空いていた。
一歩ずつ、歩いていく。
あの日ここで流した涙は、幸せだったからじゃない。この男のほかにすがれるものが何もなくて、怖かったからだ。今は、怖くない。一度、死んだから。バージンロードの先で、ドジュンが目元を拭っていた。
「新郎、また泣いてる。あんなに新婦さんのことが好きなんだね」
彼が手を差し出した。
差し出された手は取らずに、ただ黙って隣に並ぶ。ドジュンの笑顔が一瞬こわばり、また元に戻った。最後の小節。長調の和音がホールに長く響いて、やんだ。
「それではこれより、誓いの言葉に移らせていただきます。新婦、宮瀬柚奈さん。あなたは新郎、カン・ドジュンさんを夫とし、生涯――」
司会者の言葉が終わるより先に、私は壇上のマイクを手に取った。
「あっ、はは。新婦様、誓いの言葉をご自身でおっしゃりたいようですね!」
「わあ、すごくロマンチック」
ドジュンが参列者に背を向けたまま、ブーケの陰で私の手首をつかんだ。
顔だけは、感極まって涙ぐむ新郎のままで。「何してるんだよ」
笑った口の形のまま、私にだけ聞こえる声で。
七年前の今日、ここで「はい」と答えた。そのひと言で、自分の人生を明け渡した。
私は笑った。この男の前で、初めて、心の底から。
「私は――」
深く息を吸う。マイクが、その息遣いをホールじゅうに広げていく。
私は振り向いて、手首をつかんでいる男の目を、まっすぐに見た。「あなたとは、結婚しません」
静寂。
カシャッ。
「……え?」
「今、なんて言った?」
「冗談でしょ? 新婦が今、結婚しないって言った?」
「ちょっと、カメラ回ってるのに……」
ざわめきが、さざ波になって客席に広がっていく。
最前列では、ソヒが椅子の上のオルゴールを握りしめ、腰を半分浮かせたまま息をのんでいるのが見えた。それなのに、ドジュンは笑っていた。この場でただひとり、平然と。
「はは……。いやあ、うちの花嫁、だいぶ緊張しちゃったみたいで」
彼は私の指を一本ずつほどいて、マイクを抜き取った。参列者たちの目には、取り乱した花嫁をなだめる花婿に見えたはずだ。
「緊張してるだけなんですよ。皆さん、拍手で応援してやってください」
それから振り返って、ホールの隅にいる音響スタッフに、顎で小さく合図した。
次の瞬間。
ドンッ、とスピーカーが割れそうな音で、音楽があふれ出した。
「君に届く道」。
終わったばかりの入場曲が、サビから、倍の音量でホールを覆い尽くしていく。
「待って、私は――!」
私の声は、最初の一小節であっけなくのみ込まれた。
「さあ皆さん、もう一度大きな拍手を!」
ドジュンがマイクで叫んだ。彼の声だけは、音楽の上にくっきりと乗った。舞台を支配する声。
新郎側の前列から、先に拍手が起こった。つられて、いくつかの手が上がる。それでも、スマホを下ろさない手があった。
「緊張して、あんなこと言う?」
誰かのつぶやきが、拍手の隙間から漏れた。司会者は進行表を持ったまま、私の顔ばかりうかがっている。
それでも音楽は、そのすべてをひとまとめにして流れていく。拍手の音が、考える時間を飲み込んだ。
私が書いた曲が、私を消していく。
ドジュンはマイクを司会者に渡すと、私の肩を抱き寄せ、手首をつかむ手にさらに力を込めた。骨が、ぎしりと軋む。
彼の唇が、そっと私の耳元に触れた。「笑え。見回してみろ。ここにお前の味方なんて、ひとりもいない」
ゆっくりと、見回した。
何十ものスマホのレンズが、じっと私たちに向けられていた。
そしてその真ん中、通路に出て立っている紺のスーツがひとつ。ソヒだった。オルゴールを片手に握ったまま、音響スタッフのほうへ手を振っている。口の動きが読めた。音、下げて。
違うよ、ドジュン。ひとりはいる。
控室の鏡の前で、ぎくりと強ばった彼の顔が浮かぶ。この男が何より恐れているのは、人にどう見られるかだ。
笑顔のまま、彼にだけ聞こえる声で。
「手、離して。でなきゃ、ここで振りほどく。カメラ、回ってるよ」
ドジュンの瞳が、すっと客席へ滑った。レンズ、レンズ、レンズ。
手首をつかんでいた指が、反射的にほどけた。私はブーケを彼の胸に押しつけて、背を向けた。今歩いてきたバージンロードを、逆向きに。
「柚奈!」
ドジュンが一歩踏み出しかけて、レンズの前で止まった。ブーケを抱えたまま、笑顔ごと凍りつく。
「し、新婦様? どちらへ……?」
通路まで出ていたソヒが、私の後ろについた。片手にオルゴール、もう片方の手で、黙ってドレスの裾を持ち上げてくれる。
ホールの隅、柱の横まで一気に歩く。音響スタッフがヘッドホンを外しながら、中腰で立ち上がった。
「あの、新婦様、ここは……」
「少しだけ、待ってください」
卓を一度、見渡した。マイクのチャンネルはそのままに、音楽チャンネルのフェーダーへ手を置く。
レコーディングスタジオで何千回も押し上げてきた、指先が覚えている高さ。曲は、最後の小節のすぐ手前まで来ていた。長調で、明るく、幸せにほどけるよう私が書いた、あの小節。
私は、フェーダーを一番下まで下ろした。
最後の和音は、鳴らなかった。
この曲の終わりは、書いた私が決める。
チョン代表が教えてくれた店は、四軒だった。「客より椅子が多い店? 弘大と望遠なら、そんな店はいくらでもある。でも二年間、同じ人がずっと出てる店となると……」彼がメモ用紙に名前を書いた。四つ。そのうちひとつに丸をつけた。「ここ。木曜に『最後の出番』とだけ貼り出す店がある。名前を出さない。店主が頑固でね」木曜日だった。午前中にチョン代表からメッセージが来た。OSTの録音、来週水曜で確定。歌手は二十一歳の新人。返事は「はい」の一言にした。今日は、そのことを考える日ではなかった。昼のうちに、残りの三軒を先に回った。一軒は閉まっていた。テナント募集。一軒は店主が「歌う男? 毎週変わるよ」と言って終わった。一軒は入口に出演者の名前がびっしり貼ってあった。名前を出す店だった。四軒目は、夜に行くことにした。昼に行っても、誰もいないだろうから。かばんにはノートだけを入れた。九曲目のデモは入れなかった。曲から差し出したら、あの人は聴かない気がした。どうしてそう思ったのかは、説明できなかった。 ◇ソヒには住所だけを送った。一緒に行くと言うのを止めた。「ひとりで行くほうがいい。ふたりだと、見に来た人みたいだから。弁護士と一緒なら、なおさら」「ひとりなら?」「聴きに来た人」ソヒは十時までに連絡がなければ行くと言った。私は九時に送ると言った。望遠洞の路地。地下へ下りる階段に「小さな窓」という看板があった。看板の下に紙が一枚。手書き。【木曜ライブ。8時/8時40分/最後の出番】ドアを開けると、煙草の匂いの代わりにコーヒーの匂いがした。階段は十三段。数えながら下りてきた。テーブルが八つ、椅子は三十ほど。客は四人。ステージはステージではなく、壁の前の空間だった。マイクがひとつ、椅子がひとつ、スタンドライトがひとつ。カウンターの女性が私を見た。五十くらい。髪を後ろで束ねている。「初めてでしょ」「はい」「メニューはないの。コーヒーかビー
月曜の朝、ソヒより先に起きた。コーヒーを淹れて、カーテンの横のドレスを見た。ソヒが返却すると言ってから一週間経つのに、まだそこに掛かっていた。ふたりとも、その話は持ち出さなかった。八時半、ソヒの事務所に書留が届いた。株式会社HSエンターテインメント法務部。ソヒが封を切り、一枚きりの文書を読んで、私に渡した。【貴殿より通知のあった著作権登録受付十四件について、当社は該当する著作物をオーディション審査資料および当社制作物に使用しておらず、今後も著作権者の書面による同意なく使用しないことを確認します】末尾に法務部長の印。日付は土曜日。オーディション当日だった。「これが一つ目」ソヒが言った。私は文書を二度読んだ。「紙一枚だね」「紙一枚が一番強いの。これでHSはあんたの曲に手を出せない。出したら、自分たちが書いたこの文書が証拠になる」ソヒが文書を本棚の側面に貼った。書留の受領証の隣だった。本棚はまだ空っぽで、側面だけが埋まっていった。ノートを開いた。【5月26日。HS法務――十四曲不使用の確認書。日付は5/24】 ◇チョン代表から電話が来たのは、その日の午後だった。チョン代表。私が十九歳のときに契約した、小さなパブリッシング会社の代表。社員は代表を入れてふたり。事務所は弘大の裏通りの二階。七年前もその場所にあって、前の人生の私がその会社を離れたのは、結婚の翌年だった。離れたのではなく、離れさせられたのだけれど。「柚奈さん、大丈夫? 結婚式のあれ……いや、その話はいい。ちょっと来られる? 急ぎで」事務所はそのままだった。廊下の自転車、階段のチラシ、ドアに貼られた社名。七年後にはなくなるものたちだった。ドアを開けると、スジンさんが立ち上がった。何か言いかけて、口を閉じ、ただ頭を下げた。結婚式に来てくれた事務所側のふたりのうちのひとりだった。もうひとりは、チョン代表だった。チョン代表は机の前から立ち上がらなかった。ハンカチで額を拭いていた。五月なのに。
土曜の朝五時、ソヒが私を起こした。起こされる前から、起きていた。天井を見ながら、彼が観覧席で私を見つけたらどうするか考えた。結論はひとつだった。何もしない。見るだけ。帽子をかぶり、マスクをした。動画の中の私は後ろ姿だけだったけれど、ドレスを着ていない顔がどこまで知られているのかは、わからなかった。ソヒがコンビニのキンパを二本、かばんに入れた。HSの社屋の前には六時に着いた。列はもう三十人ほどだった。ほとんどが女性で、ほとんどが私たちより若い。手にはペンライトの代わりにスマホを持っている。前に並んだふたりが話していた。「11番、カン・ドジュンだって。あの結婚式の動画、見た?」「見た。新婦が音楽止めて出てったやつ。男の人が泣いてて、かわいそうだった」「だから見に来たの。実際どうなのか」ソヒが私の肘をつかんだ。私はマスクの上から、帽子をもう少し下げた。「オーディションの観覧に、こんなに人が来るの?」「HSの公開オーディションは昔からこう。たまに練習生が審査の補助で出てくるから」ミンギュが後ろから現れて、列に並んだ。帽子を深くかぶっている。「ドジュンは十一番目です。十二人のうち」「最後から二番目」「はい。セラさんがそう組んだそうです。一番最後は、会長が推してる子で」待っているあいだ、イヤホンで課題曲を聴いた。HSの練習生の課題曲は公開されている。公式の音源を三回聴いて、四回目は止めて、廊下の声で頭の中で聴いた。「ソ・ジファンさん、普段は審査なんてしない人なのに、HSの審査は今回が初めてだそうです。会長が直接呼んだって」ミンギュが言った。私はその言葉を、ノートの代わりに頭に書き留めた。八時に扉が開いた。観覧席は地下ホールの後方、六列。私たちは四列目の端に座った。ステージまで二十歩。審査席はステージの前に長机がひとつ。椅子が三つ。机の上に水のボトルが三本と、書類の束が二つ。左の席だけ、書類がなかった。 ◇九時ちょうど、審査員たちが入ってき
文房具屋で選んだノートは、A5の三百ページだった。黒い表紙。ソヒが「日記帳みたい」と言った。レジでペンも一本選んだ。0.38。小さく、たくさん書ける太さ。ソヒがカードを出そうとしたので、先に現金を出した。財布に残っていたのはそれでほとんど全部だったけれど、ノートは自分のお金で買いたかった。隣のビルの携帯ショップで、SIMを替えた。新しい番号。店員に「番号そのままの乗り換えですか」と聞かれて、「新規で」と答えた。前の番号は、ソヒが転送で受けることになった。新しい番号を知っているのは、ソヒひとりだった。ノートの最初のページの一番上に、その番号を書いた。ソヒの事務所は、駅裏の雑居ビルの三階だった。弁護士三人が一部屋ずつ使う小さな事務所。ソヒの部屋には机と椅子がふたつ、まだ空っぽの本棚があった。廊下から、隣の部屋の弁護士が顔を出した。ソヒより十歳ほど上に見える男性だった。「オ先生、例の婚約破棄の件? ご祝儀の返還は、民事に持ち込むと面倒になるよ。式場を通したほうがいい」「もうそうしました」「早いね」彼は私を一度見て、軽く会釈して消えた。ソヒがドアを閉めた。「ここで書いて。私は書類を作るから」ソヒがノートパソコンを開いた。私は向かいの椅子に座って、ノートの最初のページを開いた。ペンを持ったまま、しばらくそのままでいた。どこから書けばいいのか、わからなかった。七年は長くて、そのほとんどは曲を書いていた夜だった。日付から書いた。【5月24日(土)HSエンタ公開オーディション。審査:パク・ギョンス A&R室長、ユン・ジョンミン理事、( )】三つ目の欄は空けておいた。顔は覚えている。眼鏡の、口数の少ない人。名前が出てこなかった。【ドジュン合格。練習生契約。デビューは翌年三月】【デビュー曲――】ここでまた止まった。デビュー曲は私が書いた。前の人生の六月に。まだ一音も、この世にない曲。曲名は書かなかった。代わりに空欄の横に小さく書いた。まだ、ない。