彼女が帰国したのは、決して瑛介とよりを戻すためではなかった。事態がここまでになったのは、まったくの偶然だった。まさか弘次が自分を軟禁し、さらには友作にまで手を出すなんて、弥生は想像すらしていなかった。それを思い出したとき、彼女はふと自分を助けて逃がしてくれた友作のことが気になり、口を開いた。「友作は......どうなったの?」その問いに、弘次は口元に薄い笑みを浮かべた。「友作?弥生、もし彼のことが気になるなら、僕と一緒に戻ろう」弥生は唇を結んで答えなかった。彼女がまだ答えぬうちに、瑛介の腕が腰にまわってきた。力がこもっていた。冷たい声が響いた。「彼女を連れて行く?その考えは捨てろ」弘次は弥生にだけ視線を向けたまま、にこやかに言った。「弥生、僕は他人の言うことは聞かない。君だけが答えをくれればいい。どうなんだい、僕と一緒に戻る気はある?君さえ戻ってきてくれれば、友作の身に危害を加えるようなことは絶対にしないと約束するよ」「それって......脅迫してるの?」弥生は眉をひそめた。「彼は君の助手でしょ?私のじゃない」弘次はあっさりと頷いた。「もちろん、彼は僕の部下だ。でもね、部下でありながら大切な人を逃がすなんて、許されると思うかい?もし彼を罰しなければ、今後他の連中も同じようなことをし始めるだろうね」弥生はすぐに気づいた。弘次は、友作を人質にして自分を脅そうとしているのだ。今、彼には他に使える手札がない。彼女の感情につけこむしかないのだ。でも、そうであるなら、逆に言えば友作が無事でなければ意味がない。彼女を縛る駒がなくなるのだから。それに気づいた弥生は、冷たく言い返した。「......まさか、私が友作を心配してるから戻ると思ってる?だったら最初から、私は友作と一緒に逃げたりしなかったわ。彼は覚悟してくれてたの。私は彼の気持ちを裏切らない」その言葉に、弘次はしばらく何も言わず、ただ唇をわずかに歪めて笑った。「そうか......」その声には、まるで感情がこもっていなかった。「じゃあ、もう彼には用はないね」その一言に、弥生の心は急激に冷え込んだ。嫌な予感が胸をよぎった。普通なら、自分の助手にそこまで非道な真似をするはずがない。けれど彼の過去を思えば、そんな常
「行こう」弥生は陽平の手を引き、その場を離れようとした。だが、出口に差しかかったそのとき、彼らの前に大勢の男たちが立ちはだかった。完全に包囲された。その光景を見て、弥生の心は一気に冷え込んだ。「彼の部下たち......」瑛介は反射的に彼女を自分のそばに引き寄せ、しっかりと腕に抱いた。「僕がいるから、大丈夫」その言葉を聞いた弥生は、思わず彼の胸に身を寄せた。唇を引き結び、そっと聞いた。「......通報してないよね?」瑛介は一瞬だけ動きを止め、弥生を見下ろした。「なんだ、俺が通報してあいつを捕まえるのが怖いのか? 心配してるのか?」その暗く深い瞳に見つめられて、弥生は目を伏せた。「彼は......昔、たくさん助けてくれた。私は、彼を傷つけたくない」「でも今、あいつは君を傷つけてる」「彼は、ただ私を連れ去っただけで......私にも子どもにも手は出していないわ」弥生はきっぱりと言った。瑛介は眉をわずかにひそめた。通報していなかったとはいえ、彼女が目の前であいつを必死にかばい、言い訳のように擁護する姿を見ると、心の奥にどうしようもない苛立ちが湧いてきた。そのとき弘次がゆっくりと歩み出てきた。彼の視線は正確に弥生を捉え、他の誰を見ることもなく、ただ彼女をじっと見つめ続けていた。まるで、瑛介など眼中にないかのように......その視線を受けた弥生は、思わず目を逸らそうとしたが、瑛介が彼女をさらに強く抱き寄せた。まるで彼女は自分のものだと宣言するかのように、独占欲の強さがその腕に表れていた。弘次の視線がようやく瑛介の腕、彼女の柔らかな腰に回された大きな手に移ると、彼の目が少しだけ動き、ついに瑛介と視線がぶつかった。しばらくの沈黙の後、弘次が薄く笑った。「久しぶりだな」だが瑛介は冷たい視線を返すだけで、挨拶に応じることはなかった。「瑛介、久しぶりとはいえ、いきなり弥生を連れて行こうとするのは、礼儀がなさすぎるんじゃないか?」「弥生は君の女か?」瑛介は鼻で笑った。「いつから彼女が君のものになったんだ? 俺は初耳だな」ふたりの間には一気に緊張が走った。連中も、それぞれが臨戦態勢に入り、一触即発の空気が張り詰めた。そのとき、弘次のそばにいた、以前に友作の悪口を
ふたりの子供は弥生の服のすそをぎゅっと掴み、彼女の背後にぴったりと身を寄せていた。弥生はすでに覚悟を決めていた。鍵を回し、一気にドアを開けると、すぐに用意していた台詞を口にした。「私が一緒に行くから、子供たちには手を出さな......」しかし、その言葉が終わる前に、彼女の視界は一瞬で暗くなった。次の瞬間、誰かに力強く抱きしめられていた。「離して......」咄嗟に抵抗しようとした弥生だったが、鼻先をかすめたその匂いに、ふっと動きが止まる。この香りは......相手はさらに彼女を強く抱きしめてきた。骨の奥まで染み込むようなその力強さに、普通なら痛みを覚えるはずなのに、弥生はまったく痛みを感じなかった。逆に、目頭が熱くなり、視界がじわりと滲んだ。そのとき、背後からふたりの子供の声が響いた。「寂しい夜さん!」そう、彼だった。やはり彼だった。弥生はどうしても信じられなかった。自分をここまで探してくれたのが、まさか瑛介だったなんて......最初、由奈に電話したときにはこのことには触れていなかったし、弥生もそのまま何も聞かずに終わった。だから、瑛介には今回の件が伝わっていないと思い込んでいたのだ。当然、彼が助けに来てくれるなんて夢にも思っていなかった。彼女は手を彼の胸にあてて、そっと押し返そうとした。だが、わずかなその仕草が瑛介の気持ちを刺激したのか、彼はさらに強く抱きしめてきた。予想していなかった力強さに、弥生は驚いて、思わず顎を彼の肩にあずけてしまう。その様子を見た健司が、気まずそうに口元を覆って咳払いした。「社長、今はまずここから出たほうがいいと思います。やつらがまた戻ってきたら、厄介なことになるかと......」その言葉を聞いて、ようやく瑛介の腕がわずかに緩んだ。彼はそっと弥生を離すと、目に見えてやつれた彼女をじっと見下ろした。その薄い唇が不機嫌そうに一文字に結ばれていた。彼はそっと手を彼女の頭に置き、次いでその指先が頬へと下がった。そして、ふと「痩せたな……」とつぶやいた。弥生はやっと涙をこらえていたのに、その一言でまた溢れ出してしまいそうになった。瑛介は優しく涙を拭ってあげると、彼女の目元に口づけて、かすれた声で言った。「じゃ、家に帰ろう
弥生は唇を噛み締めた。本当に悔しかった。せっかく由奈と連絡が取れていたのに、なぜまだ逃げられなかったのか。ここに留まったのが間違いだったのだ。判断ミスだった。ある程度時間を稼いだら、すぐに次の場所に移るべきだった。もしかしたら、そうしていれば、まだ逃げるチャンスはあったかもしれない。そう考えていたとき、ついに靴が最奥の個室の前に現れたのが見えた。弥生はドアにぶつからないよう、早めに子供たちを連れて奥の角に身を寄せていた。その足元がドアの前で止まったのを見て、彼女は息を詰めた。どうせすぐにドアを蹴り破られると思っていたのに、その男は突然話しかけてきた。「霧島さん、中にあなたと子供がいるのは分かっています。黒田さんの目的はあなたを見つけることであって、傷つけることではありません。あなたがご自分や子供たちに怪我をさせたくないのであれば、少し協力していただけませんか。私は力が強いので......もしこのドアを蹴り破ることになったら、万が一あなたに当たってしまうかもしれません。それは困るでしょう?」弥生は無言でその言葉を聞いていた。数秒の沈黙の後、彼女は唇を開きかけた。だがその直前......ドンッ!突然の轟音が鳴り響き、弥生も、子供たちも思わずビクッと身をすくめた。彼女は本能的に、ふたりの小さな体をぎゅっと抱きしめた。男がついに怒ってドアを蹴ったのかと思ったが、ドアは無傷のまま......続けて聞こえてきたのは、何やら乱闘の音だった。いったい何が起こっているのか?個室の中にいる弥生からは、何も見えない。ただ、外で男たちが拳を振るい合い、ぶつかり合っている音だけが聞こえてきた。ひなのは思わず口を開きかけたが......弥生はすかさず人差し指を彼女の唇に当て、黙っているように示した。たとえ喧嘩が終わっていたとしても、弥生の不安は消えなかった。由奈たちにこれほどの力があるとは思えない。もし通報して警察が来たなら、警告の声がまず聞こえるはずだ。「警察だ!両手を挙げろ!」などの声もなく、いきなり殴り合いが始まるなんておかしい。つまり、外に現れた連中がどんな組織か、味方なのか、敵なのかまったく分からない。逆に、もし裏社会のような勢力だったとしたら、彼女とひなの、陽平が無事に逃
この瞬間、弥生の胸は罪悪感で押しつぶされそうになっていた。自分がちゃんとひなのを守れなかっただけじゃない。彼女は、ひなのがいつ、どうやってケガをしたのかすら知らなかったのだ。弥生の目から涙がこぼれ落ちるのを見て、ひなのも少しうろたえた。「ママ、泣かないで。ひなの、痛くないよ」兄の陽平もそのとき駆け寄ってきて、つま先立ちになって弥生の涙を拭おうとした。ふたりの子供たちが自分のことを気遣ってくれる様子に、弥生はなんとか涙をこらえ、彼らに向かって言った。「おうちに帰ったら、ちゃんと手当てするからね」「ママ、大丈夫だよ。ママのせいじゃないよ」「よし、それじゃあ、今からはしばらく静かにしよう。ひなのの足......ママがマッサージしてあげるね」弥生はそっとひなのの痛む足首を揉みはじめた。ひなのはすぐに目に涙をためたが、弥生に心配をかけたくなくて、それをぐっとこらえた。陽平はその様子を見て、そっと自分の手を差し出し、ひなのが握れるようにしてあげた。三人はトイレの中でじっと息を潜めていた。スマホがなかったため時間も分からず、弥生にはどれほどの時間が経ったのか見当もつかなかった。ただ、優しく、繰り返し、ひなのの足を揉み続けるしかなかった。どれくらい経っただろうか、ようやく手を止めた。感覚的には、あれから10分は経っている気がした。あと10分。由奈たちがここに来るはずの時間が近づいている。道が順調なら、もう到着しているかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、弥生はじっと待った。そのとき、外から物音が聞こえた。誰かが洗面所のドアノブを回していた。今この場所にいるのは弥生たち三人だけ。静まり返っているから、その音が余計にはっきりと響いていた。「ここのトイレ、鍵がかかってるぞ」「鍵?トイレに鍵?絶対何かあるな。ドア、ぶち破れ」「でもこのドア、重そうだし、簡単にはいかねえぞ」「なら、鍵を壊せばいい」その言葉を聞いた瞬間、弥生は息もできなくなった。外の声からして、相手はかなり凶暴そうだ。彼女は唇を噛みしめ、目を閉じた。まるでこれから拷問でも受けるかのような気持ちだった。しばしの静寂のあと、重い物でドアロックを叩く音が響いた。ゴンッ!ゴンッ!そのたびに、洗面所の中全体が揺れた
弥生はその様子を見て、すぐにしゃがみ込んだ。「どうしたの?」ひなのは首を振った。「大丈夫だよ」けれど、弥生は様子がおかしいことにすぐ気づき、真剣な顔つきで聞いた。「足、くじいたんじゃない?ママが見てあげる」「ほんとに大丈夫だよ......」ちょうどそのとき、入口の方で騒ぎが起きた。地面にしゃがんでいた弥生がすぐに顔を上げて見ると、さっき旅館で見かけたあの数人の男たちが、険しい表情を浮かべてゲームコーナーの方へと向かってくるところだった。まるでケンカでも始めそうな勢いだ。その姿に、周りの子供たちは怖がって悲鳴を上げ、逃げ出していった。弥生の顔色がさっと変わった。まだ四十分ちょっとしか経っていないのに、まさか本当にここまで来るなんて。これでもう、由奈たちが迎えに来てくれるまでここに安全にいられる可能性はほぼゼロになった。弥生は周囲を見回し、出口が一つしかないことに気づいた瞬間、唇をきゅっと噛みしめた。彼女はすぐ立ち上がり、ひなのを抱き上げ、陽平には後ろからついてくるように言って、混雑した別の人混みの中に身を紛れさせた。「探せ!」後ろから怒鳴り声が聞こえる。あの男たちは、群衆に向かって「うちの子が迷子になった」と叫びながら探しており、さらには「今日の遊び代は全部こっちが払う」とか「協力してくれた人にはお礼も出す」とまで言っていた。最初は誰も信用していなかったが、子供たちの中には興味を示して寄っていく子も出てきた。そして本当にお金を受け取れるとわかると、さらに多くの子供たちがゲームをやめて押し寄せていった。そのせいで、入口付近はごった返していた。弥生は人の流れに紛れて出ようとしたが、近づくと、出口の前には男たちが何人も立っているのが見えた。彼女はふたりの子供を連れているため、あまりにも目立ちすぎていて、とてもそのまま出ていける状況ではなかった。人がどんどん散っていく中で、陽平は焦ったように彼女の服のすそを引っ張った。「ママ、どうするの?」弥生は周囲を再び見渡し、トイレの表示を見つけた。低い声で言った。「このままだと見つかっちゃう。トイレに隠れるよ」三人は女子トイレへと駆け込んだ。普段、陽平は弥生と一緒に女子トイレに入ることはないが、今回ばかりは例外だった。幸い、みんな