大雨の降る中、人通りの多い道を選んで駅へ向かう。 今日の待ち合わせは、彼の住む町だ。 最寄りの有玖駅まで一駅分の切符を買って電車に乗ると、あっという間にそこへ着いた。駅の周りを囲うように新しいマンションが立ち並んでいて、その奥に住宅街が広がっている。広井町のベッドタウンらしく、駅の階段には分譲マンションの広告が幾つも貼られていた。 ここが彼の住む町だと思うと、嬉しくてたまらなくなる。芙美と一緒に駅へ下りた人も多く、寂しいなんて気持ちにはならなかった。 バスのロータリーの向こうに待ち合わせのコンビニを見つけて、芙美は濡れた傘を開く。早足で向かうと、雑誌コーナーにいた湊がこちらに気付いて店から出てきた。彼は芙美の前に駆け寄ると、心配顔からの安堵を広げて「良かった」と目を細める。「思ったより平気だったよ。克服……できたのかな?」「それは気が早いんじゃないのか? けど、お疲れ様」 子供のおつかいみたいだと笑う芙美に、湊が空いた手を握り締める。 少し震えていたことに気付かれて、彼の手に力が籠った。 ☆ 雨への不安は杞憂だったらしい。心配して芙美にメールを送ると、昼近くになってから「平気だよ」と返事が来た。添付された写真には、これから二人で食べるというハンバーガーが写っている。「コレじゃなくて、顔を写せよ」 とりあえずは無事という事にホッとして、咲はタオルでぐしゃぐしゃと髪を拭いた。 朝、姉の凜にといてもらってフワフワだった髪が台無しだ。そもそも雨の部活にヘアセットなど無駄以外のなにものでもないが、「男の子と一緒なんでしょ?」と詰めて来る姉から逃げる事ができなかった。 男とは言え相手は智なのだから、咲は寝起きのままの状態だって問題ないと思っている。 さっき荷物の所まで下りてきて躊躇いなく服を脱ごうとしたのを、「ヤメロ」と智にテントへ押し込まれた。仕方なく中で着替えたけれど、荷物置き程度のスペースは窮屈で、服がずっとよじれている気がする。 この間雨が降った時、そのまま帰って風邪をひきそうになったのを教訓に、今日はちゃんと着替えを持ってきているが、今日はあの時より大分寒い。ブルブルと肩を震わせると、智が「急ごう」と足を速めた。 雨の部活は智と二人きりだった。 中條から言われたルーティンを終えて、その後剣の稽古もしてみた。智と一
「お兄ちゃん、この部屋に咲ちゃんを入れるつもり?」 帰宅して真っ先に、芙美は蓮の部屋へ向かった。ここしばらく入っていなかったけれど、改めて見ても恋人を迎え入れる男子の部屋としては難易度が高い気がする。 帰りの電車で募ったお泊り会への不安を本人に吐き出す。「いいの? 本当に咲ちゃんに見せてもいいの?」 部屋の奥から流れてくるBGMは、蓮の好きなゲームのサウンドトラックだ。旅立ちの町で流れている緩いメロディが、芙美の心理を反映するように戦闘シーンの激しい曲へ変わった。「そんなに騒ぐなよ。だからギリギリまで言うなって咲に言ったんだ」 開け放たれた扉の向こうには、同じ家の中とは思えないド派手な彼の世界が広がっている。「湊くんも泊まりに来るって言ってたよ? 湊くんにまで見られたら……」「メガネくんは俺の彼氏でも彼女でもないだろ? お前が自分の部屋を片付けとけばいいだけの話だ。そんなだから咲がお前に気ぃ使うんだよ。大体メガネくんなら、この間お前が倒れた時にこの部屋見てると思うぞ?」「えぇ? あの時入れたの? ここに?」「帰るって向こうが挨拶しに来ただけだよ」「そんな律儀な事しなくていいのに……」「俺はお前の兄貴なんだぞ? そのくらい普通だろ」 蓮は不愉快だと言わんばかりの顔をして、自分の部屋を振り返った。「っていうか、そんなに言う程の部屋じゃないだろ。ちゃんとゴミは捨ててるぞ? ちょっと物が多いだけだよ」「ゴミなんて当たり前でしょ? 本気でこのままにしておくの?」 この間のお泊り会の時も、蓮は部屋の掃除をするばかりで物の移動をした様子はなかった。あの日咲がそこに入ることはなかったけれど、今度はそうはいかないだろう。「いいか芙美。俺の部屋を否定する様なヤツを、俺は彼女にしてるつもりはないからな」「見たら嫌がるコの方が多いって言ってるの!」「そんなのは偏見だ。いいか、男の趣味は深いんだ。迂闊に外でそんなこと言ったら、男を敵に回すだけだぞ?」 かつて兄だったヒルスの部屋は雑然としていた。特にこだわりもないシンプルな部屋だっただけに、蓮との差がありすぎる。「お前がメガネくんの部屋に行って、美少女キャラの抱き枕でも転がってたらどうするんだよ。キモイって言って別れるのか?」「いや、絶対ないよ! 持ってるわけないでしょ?」 もう絶対にだ。そのカ
祝日の部活はやっぱり晴れていた。 ハードルを三往復こなし、疲れ果てた身体で木登りをしたところで、広場に珍しい人物が現れる。「ルーシャ?」 芙美は木から慎重に下りて、背の高さほどの位置から地面へジャンプした。短期間でここまでこれたのは、リーナが身につけていた潜在的な感覚のお陰だと思う。リーナのできていたことが少しずつできるようになっていくのは、楽しくて仕方がない。 予告なしに坂を上って来る絢は、この部活動の『副顧問』だと昨日中條に言われた。 けれどその肩書にも、山の風景にも似つかわしくない黒のチャイナドレス姿の彼女は、映画に出てくるマフィアの女のようだ。その場違いな風貌に、四人は不信感を募らせる。「何だよ、あれは」 深く入ったスリットから覗く生足を睨みつけて、咲が皆の気持ちを代弁するように呟いた。 智は強調された胸に視線を置きながら、今更ながらに、「ルーシャの胸って、あんなに大きくなかったよね」 と、触れてはならない事を普通のトーンで話してくる。 芙美が慌てて「駄目だよ」と注意するが、今度は咲が面白がって悪戯な笑みを浮かべた。「あれは魔法が起こした奇跡みたいなものだからな。飼い主が巨乳の猫好きなんじゃないか?」「えっ、猫?」 彼女が何を言っているのか、芙美には分からない。 けれどその説明を聞く前に、絢がすぐそこまで来て足を止めた。キッと睨んだ視線に、四人は口をつぐむ。「私の悪口でも言ってたのかしら? ちょっと話があるから私語は慎みなさい」 絢は巨大な胸元に縫いつけられた赤いバラの刺繍を撫でて、腕にぶら下げた紙袋からプリントを取り出して四人へ配った。「合宿……ですか?」 『冬合宿のお知らせ』という意外な表題に芙美が尋ねると、湊が「あぁ」と納得したように呟いて、横から日付の欄を指差して来た。 11月30日──ハロン襲来予定日の前日で、期間は12月3日までの3泊4日だ。「これが、部活を始めたもう一つの理由みたいよ。12月1日は、うちの学校創立記念日で休みでしょ? ついでに翌日も連休にしてあるから、心置きなくハロンと戦えるって事よ」 戦う為、数日家を空ける為の口実だ。有難いと思うのと同時に、いよいよだという緊張が走る。「まぁこの間出た黒い奴みたいに日付がズレたら困るんだけど、それは祈るしかないわね。あとはその四日でケリをつける
『運動する部』の発足から十日ほど過ぎて、カレンダーが十一月に入った。 山がすっかり秋色に染まり、コートを着るか迷う程寒い日も多い。 ハロン戦までちょうど一月、部活のルーティンにはハードル以外に木登りや崖下りも加わった。坂道に置かれたハードルが、毎日一台ずつ増えているのに気付いたのは昨日だ。いつも少しずつ位置がずれていると言い出した湊の言葉に三人はピンとこなかったが、何気なく尋ねたら、中條が「気付かなかったんですか」とその事実をあっさり認めたのだ。 これがあと残りの日数で三十台近く増えるのだと思うと、疲れがどっと増してくる。更に慣れと共に跳び方が雑になって、芙美の膝が見るに堪えない程傷だらけになっていた。「また血が出てる。そんなに怪我ばっかりしてると、痕残っちゃうわよ」 保健室で一華が、消毒液をひたひたにしみ込ませた脱脂綿を芙美の膝へ押し当てる。毎度のことながら、その瞬間の彼女は嬉しそうな顔をしていた。「いったぁぁあい」 悲鳴に近い声を上げて、芙美はスカートを両手で握りしめる。 両膝に滲む血の痕を見た湊に「行かなきゃ駄目だよ」とここに連行されたのは先週のことだ。そこから土日を挟んで毎日保健室に通っている。治りきらない傷のまま転ぶという悪循環のせいで、関係のないクラスメイトにまで心配される始末だ。 保健室には一華が昼食後に飲んだ甘いコーヒーの香りが漂っていた。そこにツンとした消毒液の匂いが混じる。「部活大変そうだけど、どう? 運動する部だっけ? 毎日頑張ってるわね」「そうなんだよ……って、痛いよメラーレ」「これくらい我慢しなさい」 何度も脱脂綿をあててくるメラーレに、芙美は身体をくねらせて悶えた。「それでね、ひたすら動いてるから電車に乗ると起きていられなくて」 最初あんなにドキドキしていた湊の肩枕も、日常的なものになってしまった。駅で起こしてくれる彼に甘えて、至福のお昼寝タイムを堪能している。 けれど、始めて十日ほどで部活の効果はちゃんと出ていた。体力増加の相乗効果で、魔力が日増しに強くなっている。記憶を戻したばかりの頃に集中できなかったのは、智に言われた通り、まだ魔力が弱かったかららしい。今は幾らでも目を閉じていられる。「部長は誰なの?」「咲ちゃんだよ。毎日張り切ってる」 「楽しそうね」と微笑みなが
朝、湊に一本早い電車で先に行くとメールした。 すぐに「分かった」と返事をくれた彼が、何故か同じ車両に乗っている。「えっ……どうして?」「先生に謝りに行くんだろ? 一人で行かせないよ、俺も同罪だ」 部活途中で帰ったことを気にするなとは言われたけれど、中條との約束を破った罪悪感が抜けず、芙美は昨日あまり眠ることができなかった。 ホームルームの前に会いに行くには電車を一本早めるしかなく、いつもより一時間前に家を出た。そして蓮に心配された挙句、咲にもバレてしまったのは当然の結果だ。「僕に黙ってるなんて許さないからな」 咲が更に智へ連絡を入れて、結局駅にいつもの四人が揃った。「けど、咲ちゃんと智くんはちゃんと部活やったんだし、先生のとこには行かなくていいんじゃない?」 四対一のシチュエーションを考えて、それは中條に対して申し訳ない気がしてしまう。「そんなの気にするなよ。アイツの考えるペナルティは、芙美が考える様なのとは違うんだぞ? 地獄なんだ。僕が文句言ってやる」 過去の記憶を主張した咲が、ザワリと込み上げた衝動に両腕を抱える。 そういえばリーナの頃、ヒルスからよく兵学校での『ペナルティ』の話を聞かされていた。 磔にされたり、山に捨てられたりと恐怖体験を語っていたのを思い出して、芙美は少し不安になる。「けど帰っちゃったのは事実だし、頑張るよ」 智が「大丈夫だよ」と手をひらひらと振って見せた。「いくら教官だって、リーナ相手にそんなことさせないだろ。ヒルス、俺たちは遠くで見てようぜ」「えぇ?」 渋る咲に、芙美は「ごめん」と手を合わせる。 学校へ向かう生徒の流れはまだ少なく、校門にはまだいつもの面々はいなかった。とはいえ几帳面な中條なら既に登校しているだろうと思ったが、彼は後ろからやって来る。「おはようございます」 突然の声に、緊張を走らせる。 不意打ちだった。まだ心の準備ができていない。 彼はすぐそこにいたのに、気付くことができなかった。 けれど、四人が驚いたのはそれだけじゃない。そろりと振り返る先に居た中條の様子が明らかにおかしい。「せ……先生?」 普段は整った自慢のおかっぱ髪が、今日に限って乱れていた。いつになく緩んだネクタイのせいでシャツの首元が露わになって、大きな絆創膏が覗いている。 よく見ると、前髪
「あの二人、そういう関係なのかな?」 帰りの電車は、いつも通り閑散としている。客と言えば遠くのボックス席に一人と、あとは隣の車両に数人のみだ。「詳しくは話してくれなかったけど、そういうことなんじゃない?」 ターメイヤ時代の中條を良く知らないが、絢との仲はあまり良くないと昔ヒルスが言っていた気がする。だから恋人同士かなと疑ったところで、芙美にはあまりピンとこなかった。 絢も『付き合ってるわけないでしょう?』の一点張りで、真相は謎に包まれたままだ。 雨は止む気配を見せない。大きな雨粒が打ち付ける窓を振り向いて、芙美は憂いを帯びた顔をガラスに貼りつけた。「私、本当に帰ってきてよかったのかな」「ルーシャも言ってただろ? あんまり深く考えなくていいよ。この間も学校サボったじゃん」 あれは寝不足だった芙美が朝の電車で居眠りした時だ。ハードルの授業に憂鬱さを感じていた芙美に、湊がサボリを提案した。 結局サボってまで行ったのはいつもの広場だったけれど、そこで湊に好きだと言われて付き合うことになった。 その時の事を思い出して、「そうだね」と返事した声がニヤけてしまう。 けれどあの時はあまり感じなかった罪悪感が、今はやたらと大きい。「芙美は雨が嫌なんじゃなくて、雨の中一人でいるのがダメなんだろ? もしハロン戦で雨が降ったら、俺は芙美の所に行くから。待っててくれる?」「湊くん……」 ターメイヤでのハロン戦で負傷したリーナは、瀕死の状態で雨の中動くことができず、死を覚悟した。 あの時の感覚が記憶の端にこびり付いて、雨が降ると全身に下りてくる。「雨に慣れればそりゃいいんだろうけど、別に慣れなくたって構わない。海堂だって智だって、芙美のこと見捨てたりしないから。けど、たとえ結果が伴わなくても、少しずつ慣らしていこう? 効果的かどうかは分からないけど、雨の日はデートしようか」「デート? えっ……本当に?」「うん。今日は遅いから、少しだけ町を歩こうか」 芙美はパッと笑顔を広げた。 おかしなくらい単純だけれど、雨を嬉しいと思える。 「うんうん」と頷く芙美に、湊が「良かった」と笑んで昔の話を始めた。「ターメイヤでリーナに会う前の事だけど、俺、虫が苦手でさ」「虫?」「あぁ、食べる方ね」 そっちかと想像して、芙美は眉を寄せる。 ラルフォン