クズリンこと葛原凛太郎(くずはらりんたろう)は、IT企業に勤める冴えない優男。他部署に勤める先輩・阿賀川七海(あかがわななみ)密かに想いを寄せていたが、ある日盛大にフラれ、ショックで気絶してしまう。意識を取り戻した凛太郎は、人の姿を借りた最強の〇〇〇になっていた!? 自信を失いかけたすべての日本人に贈る、新時代の神話の物語。
View More――私は、この感覚を知っている気がする。
自分の体が飲み込まれる。普通に考えれば、死ぬ。
だけど、この感覚は何だろうか。
私のこれまでの人生は終わるのか。
これから始まるのは第二の人生か、それとも新しい神話だろうか――
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『れ…う
か…れ…りんたろう……』
いまひとつハッキリと聞こえない。自分の名前が呼ばれているのか。夢か現実か、区別がつかない。
『代われ、凛太郎。戦《いくさ》じゃ』
「…ハッ!」
葛原凛太郎《くずはら りんたろう》は、目を覚まして布団から飛び起きた。女のように長くツヤのある髪の毛が、汗で顔にへばりついている。
(また、夢の中であの声が…。しょっちゅう聞いてる気もするし、久しぶりな気もする。誰の声なんだろ。どこか懐かしい感じがするんだけど…)
ふと、時計を見る。
「やっば、遅刻だ!」
凛太郎はシャワーも浴びずに、ハンガーにかけたワイシャツとスーツを羽織って駅に走っていった。
♦
東京都新宿。株式会社ギャラクティカ。もともと2~3人規模の小さなwebデザイン事務所だったが、創業者で現社長の久田松湧慈《くだまつ ゆうじ》の手腕により顧客に恵まれ、一代であっという間に成長。現在はデジタルコンテンツ制作全般とプロモーション、コンサルまで幅広く扱い、業界でもそろそろ中堅から大手の背中が見えてきそうな位置にある。いわゆる「気鋭のIT企業」というヤツだ。
阿賀川七海《あかがわ ななみ》は新卒入社から5年目。現在は制作部デザイン課のチーフデザイナーである。非常に仕事が早く、何よりもルックスがいいため顧客がつきやすい。会社の内外に非常にファンが多い。
今日も朝7時半から七海は手を爆速で動かしながらパソコン画面とにらめっこをし、顧客からの仕事を黙々とこなしている。なんとPCは二刀流。2台別々のPCを同時に操作し、自分の仕事もしつつ、部下の仕事への指示出しとチェックもおこなっている。今やギャラクティカにとってなくてはならない戦力といえるバリバリのキャリア・ウーマンだ(この言葉や概念自体が相当に古臭いものではあるが)。
「おはようございまーす…」
汗をにじませ、照れ隠しの笑顔を浮かべながら、阿賀川七海と同じ職場に、入社3年目の葛原凛太郎が出社してきた。始業9時の2分前である。駅から走って、何とか滑り込みセーフで間に合ったらしい。
「おはよ、クズリン!」
職場の面々が「また遅刻ギリギリか。しょうのないやつ」という思いのこもった笑顔を向ける。凛太郎は七海と違い、バリバリと仕事ができるタイプではないが、それなりに会社の中で可愛がられているようだ。多少、いやかなりオドオドしたところがあるし、顔も髪も背格好も中性的である。営業マンとして、お世辞にも頼もしさを感じられるとは言えないが、人当たりは良く好かれる|性質《タチ》であるらしい。
凛太郎の挨拶は決して誰か一人にのみに向けられたものではない。当然、先に出社しているフロアの全員に対しての挨拶であるが、自然と凛太郎の目は、デザイン部のデスクが集中しているデスク島の一角、阿賀川七海の方に向く。ひょっとして今日こそ、七海がこちらを向いて、にっこり笑って「おはよう」と返してくれはしないだろうか。自然と顔が赤くなる。
だが、現実は甘くなかった。七海は無言のまま、画面から顔も上げずにPC作業に没頭している。別に凛太郎に対してだけではなく、業務中はいつもこんな感じである。ほとんど常時“ゾーン”に入っているような仕事の鬼。それが株式会社ギャラクティカの美しき女エース、デザイン課チーフ・阿賀川七海なのだ。
(今日も相変わらずクールだこと…さすがデザイン課の「氷の女王」)
凛太郎はさらに冷や汗をかく。
(だけど…ちょっと変な感じだな。いつもより顔に影があるし、思いつめた感じがする。何かあったのかな?)
凛太郎は人の様子の変化には敏感な方である(営業マンとしてギリギリ生き残れているのは、この特技のおかげかも知れない)。なおさら、入社当初から密かに思いを寄せている、自分の憧れの先輩である七海の雰囲気に暗い影があればすぐに分かる。人は、自分がアンテナを張って注意を向けているものに何かしらの変化があれば、それがたとえ細かな変化であっても実によく気がつくものだ。
さて、七海の様子がどこかおかしいことには気づきながら、業務中に声をかけるタイミングは当然そうは見つからない。今日の凛太郎は午前中は外回りの予定はなく、メールや電話で来た問い合わせに目を通し、こちらから電話をかけて軽く説明をするなり、訪問のアポイントを取るなりといった電話営業をしていた。あっという間に時間は経ち、昼休みが来た。
ギャラクティカのオフィスは新宿の中でも西新宿と呼ばれるエリアにある。凛太郎はほとんどいつも、行きつけのレストラン『カルメン』にて昼食をとる。新宿にある、本格的なジビエ(狩猟によって採れる肉。猪、鹿、熊などが代表的)料理と世界各国のおいしいワインが売りの店だが、決して敷居の高い店ではない。お昼は新宿のサラリーマン向けに格安のランチもやっている。凛太郎が最近ハマっているのはワニ肉の炒め物定食。ワニ肉はクセがなく淡白な味で、ジビエ初心者でも食べやすい。ちなみにポン酢がよく合う。
「なぁ、クズリン。女王様の噂聞いたか?」
『カルメン』にて、ワニ肉をひと口、口に運ぼうとした凛太郎に話しかけてきたのは、若生《わこう》|博光《ひろみつ》である。この若干胡散《うさん》臭い関西弁の男は凛太郎の2つ年上で、同じ営業部の先輩にあたる。茶髪で軽薄そうに見えるが、世話好きで面倒見の良い性格で、何かと後輩の凛太郎のことを気にかけてくれている。
「え、何ですか。阿賀川さん、どうかしたんですか」
「…彼女なあ。辞めるらしいで、会社」
凛太郎は箸からワニ肉をポロリと落とした。
「本っ当に分かりやすいやつやな。どうすんの。…このままコクるチャンス永遠に逃してええの?」
「なななな何のことでしょうか!???」
「トボけんでええって。だてに何年もお前の先輩やっとらんわ。てゆーか会社のみんなにもバレバレやねん!」
「えーー!!!」
凛太郎は恥ずかしさで顔が耳まで真っ赤になった。
♦
凛太郎が若生《わこう》から、七海が会社を辞めるかもしれないという話を聞いた日の翌週。たっぷり数日間さんざん迷った末、木曜の夜にようやく凛太郎は阿賀川七海にRINE《ライン》チャットでメッセージを送った。凛太郎はギャラクティカが小規模の会社で本当に良かったと心底思っている。社員の人数が少ないので、忘年会など社員一同で会したときにお互いの距離が近く、社内のアイドル的存在である七海とも自然に連絡先は交換できていた。また、七海はその美貌を鼻にかけるようなところは一切なく、仕事中以外では凛太郎を含め誰とでも分け隔てなくコミュニケーションをとる。そういうところも、会社内外でファンが多い理由である。
以下がクズリンこと葛原凛太郎と、Nanamiこと阿賀川七海の、その木曜のよるのRINEのやり取りである。
【クズリン】
『阿賀川さん折り入って相談したいことがあります。明日金曜の終業後、お食事ご一緒できませんか?』
(会社を辞めるという噂は本当かどうかを確かめたい、ってのも立派な相談だよな…)
こういう時は既読になるまで気になってしょうがなく、既読になったら返事が来るまでがまた長いものである。体感にして約5時間後―実際にはものの30分くらいであろうが―やっと既読になる。さらに体感では永遠にも感じられる時間ののち、「ピコン」と通知音がなる。
(返事が来た!)
凛太郎は光の速さで携帯をつかむ。
【Nanami】
『ちょっと仕事がたまっているのですが、8時からならいいですよ(●'◡'●)』(やった!意外とあっさりうまくいった。絵文字まで…)
こういう時の男子の心境のことを、「有頂天」という。
【クズリン】
『ありがとうございます‼では、8時にカルメンでいいですか?ご馳走させてください!』
(「カルメン」には夜は本格的なディナーコースのメニューがある)
【Nanami】
『気を使わなくていいですよ!では明日8時に。』凛太郎はあまりの嬉しさに、神経が高ぶってなかなか寝付けなかった。この男の会社への遅刻癖は、当分治りそうにない。
♦
翌日の終業後。凛太郎は『カルメン』に先に席を取り、阿賀川七海の到着を待っていた。心臓が痛いほど緊張している自分が情けない。
夜8時ちょうど。店に入ってきた七海の姿に気づいて、凛太郎が手を振る。
「阿賀川さん、こっちです。」
「…葛原君。お疲れ様です。」
やはり、七海の顔には陰りがある(ように凛太郎には見える)。
「すみません、無理にお呼びだてしてしまって。お腹減っているかなと思って、料理は先に適当に頼んどきました。支払いは先に済ませてますので、気にしないで下さい。もちろん追加でも頼んでください!ボクが全部払いますから。」
「ありがとう。気を遣わせちゃってごめんね。正直、助かる。ちょっと余裕がなくて…
それで、相談ってなあに?」凛太郎は、初球ど真ん中のストレートにうろたえ、腰が引け気味になる。
「えーとですね、その…
阿賀川さん、会社辞めるって噂を聞いたんですけど。本当なんですか。」「…んー。誰に聞いたの?」
「…若生さんです。総務の小畔《こあぜ》さんから聞いたって」
「もう…ミキちゃん口が軽い。辞めるかもしれない、って話です。ちょっとだけ長く休む可能性が一番高いのかなぁ。」
「そうなんですね…。」
凛太郎は内心ホッとしている。これからも、阿賀川七海と同じ会社で働ける可能性の方が高いのか。それにしても気になる。彼女に付きまとうこの暗い雰囲気は、ちょっと尋常ではない。
デザイン部の『氷の女王』などと冗談半分に言われているが、それは雰囲気がクールというだけで、決して陰気な女というわけではない。仕事中は張り詰めた空気を出していることも多いが、コミュニケーション力には非常に長けており、だからこそ社の内外から信頼が篤いのである。
「あの…理由とかって、訊いてもいいですか。」
「理由か。あのね…」
七海はたっぷりと間を取ってから話し始める。
「――私ね。多分、癌なんだ。乳がん」
予想もしなかったヘビーな内容の答えに、凛太郎の脳みそはフリーズした。
(つづく)
炎のような光のような二体の狼のうち、吽形《うんぎょう》だった方は「グルル…」と低いうなり声を上げた。阿形《あぎょう》だったもう一体は「ウオーーーーン!!」と大きく吠えた。空気がびりびりと震える。「クッ…。ガチもんの神獣が二体か。これほどの霊力を隠して石像に化けてやがるとは…」虎柄の服の鬼は棍棒を構えて立ち上がるが…「レミッキ。今日のところは見逃しといてやる。後できっちり追い込みかけるから覚えとけよ」虎柄の服の鬼はそう吐き捨てると、煙のように姿を消した。「アロン、ユマ。もういいわよ。ありがとう。せっかく久しぶりにこの世に顕現(けんげん)したんだから、お散歩する?」シスター志良堂からアロン、ユマと呼ばれた二体の狼型の神獣は、喜んでいるかのようにグルルと鳴きながら体をシスターとレミッキに擦り付けた。「た、助かった…」安心して気が抜けた七海と凛太郎の二人は、魂が抜けたようにぺたん、とその場にへたり込んだ。「なんだか、今日一日で寿命が5年は削られた気がするわ… ちょっと、凛太郎君。そろそろ起きなさいよ。帰りのバスに間に合わなくなるわよ」「それが… ただでさえ長い距離を歩いたうえに、九ちゃんがあんな無茶な戦い方するもんですから、体が限界で… あのー、七海さんにおんぶしてもらうわけにはいかないですよね…?」「アンタねぇ、人をなんだと思って…」「心配いりませんよ。駅まで車でお送りします」 シスター志良堂が助け船を出す。「いいんですか?どうもすみません」「いえいえ。将来ウチの娘がお世話になるかも知れませんから。ね、レミッキ♡」「し、知らないわよ!」 レミッキは真っ赤になって腕組みし、そっぽを向いた。「お望みでしたら、東京までアロンとユマの背中に乗せてお送りすることもできますけど?」「「いえ、遠慮します」」 凛太郎と七海は、シンクロして掌《てのひら》を顔の前で振った。「あ、いっけなーい、忘れてた。車、車検に出してたんだった」今度も凛太郎と七海の二人は、完璧に揃ったタイミングで顔を見合わせ、同時に冷や汗を流した。♦ ♦ ♦「ぎゃあああひぃ~~~~~!!!」凛太郎と七海は二人、電信柱から電信柱へとものすごいスピードで飛びながら、奥秩父から東京に向かうアロン(阿形《あぎょう》の石像だったオスの神獣である)の背中で、振り落とされない
戦いのあと、レミッキが泣き出したのを見ていた七海と梅ケ谷が話している。「神に選ばれて守護《ガード》されるには、いくら偉人の生まれ変わりと言ってもそれ相応の対価が必要です。多くの場合は大病や事故に遭うなど、人生における大きな不運と引き換えに力を得ます。阿賀川さんも間接的に龍神に守られていることになりますが、思い当たる節があるのでは?」「まぁ、そうですね…」七海は少し顔を赤らめつつ、光の病気を何とかしようと奮闘しているときに自分も乳がんになって頭を悩ませていたことを思い出した。「|守護されし者《ガーデッド》の能力は、被《こうむ》った不運の大きさ、言い換えれば捧げた分の幸運の量に比例します。 狙ったところに100%銃弾を命中させる能力だなんて、相当上級の力のはずです。かなり辛い過去があったのでしょう」♦ ♦ ♦「レミッキ」周りから私を呼ぶ声がする。レミッキはフィンランド語で『勿忘草《わすれなぐさ》』という意味だ。なかなか気に入っているが、多分もともとの名前じゃない。…これは、現実か。それとも、夢を見ているのか。ああ、昔の記憶だ。思い出したくもない、昔の記憶…。私は複数の中年の男たちに囲まれている。男たちの荒い息遣い。私の体を玩《もてあそ》んでいるのだ。男たちの舌が、体中をナメクジのように這いまわっている。その舌はいつのまにか、蛇のように先端が二つに分かれたものになっている。「レミッキ」「レミッキ」……ふと見ると、男たちの顔も人間離れしたおぞましいものになっている。蛇のようなトカゲのような、ワニのような… そうだ。「人間と竜のハーフ」と言った表現が一番ピッタリくるか。「じゃあそろそろ…」その顔の一つが、爬虫類の目をギョロギョロさせながら言う。「…君を食べてもいいかな」♦ ♦ ♦「きゃーッ‼」レミッキはベッドから跳ね起きた。冷や汗で体中がびっしょり濡れている。「あらー、起きた?また悪い夢を見たのかしら。大丈夫?」「ママ…」いつの間にか、ちちぶ子ども未来園の中だった。レミッキから「ママ」と呼ばれた志良堂美洸《みひろ》シスターが話を続ける。「こちらのお客様が、レミちゃんをおんぶして運んで下さったのよー。来る途中にたまたま出会ってお話ししてたら、急に気を失ったんですって?」「え、ええ、そうなんです。ははは」いつの間にか九頭龍の
七海と梅ケ谷が見守る中、凛太郎は、上空から襲い来る無数の銃弾に次々と体を貫かれていく。体はひび割れ、ボロボロと崩れていく。ついに顔までが崩れ、粉々になった体から切り離された頭部が地面に落下する。「嘘… そんな、嘘よ…」九頭龍凛太郎の頭がスローモーションでゆっくりと地面に落ちていき、地面に到達して「パリン」と砕け散る、その一瞬前に、七海は凛太郎がニヤッと笑ったような気がした。…真っ暗な闇の中。ここは現世《うつしよ》と同時に存在すれども交わらない霊界か、はたまた九頭龍の精神世界か。紫色の目とたてがみをした巨大な龍が、暗闇の中で凛太郎と同じ声色で話す。「|五ツ陽《いつはる》。おるか?」「へーーい」…その瞬間。現実世界では、七海たちがいる現実世界では、たった今崩れて首が落ちたはずの凛太郎が、いつの間にか無傷でうずくまっている。ただ、その髪の毛は凛太郎の時の焦げ茶色でも、九頭龍の時の濃い紫色でもない。ダークブロンドというのか、アッシュゴールドと言えばいいのか、独特の風合いをした暗めの金髪である。「ま、ここはオレの出番っスよねー」アッシュゴールドの髪の凛太郎がつぶやく。普段の凛太郎とも、いつもの九頭龍凛太郎とも違う、垂れ目でどことなくアンニュイな表情をしている。(フン、いつもいつも眠そうな顔しおって)虚空から、普段の九頭龍の声が聞こえた、気がした。「|五ツ陽《イツハル》さんですか。私も見るのは久しぶりですね」「久しぶりですね、って言われたって…」『五ツ陽』と呼ばれた暗い金色の髪をした凛太郎は、いつもの老人のような口調とは違うしゃべり方でレミッキに話しかけた。「おーい、そこの外人の嬢ちゃん。早いとこ降参しなよ。俺が出てきたから、君に勝ち目はねーっスよ」「何を馬鹿な…」レミッキは内心、驚いていた。先ほど自分のサブマシンガンから放たれた銀の弾丸の嵐により、ボロボロに崩壊したと思ったターゲットが、髪の色を変えて何事もなかったかのように甦《よみがえ》ってきたのだから当然である。が、何とか平静を装いながらガチャッという音を立てて弾倉《マガジン》を新しいものに交換した。「何度でも葬《ほうむ》るだけよ」ドガガガガガガガガ再びの轟音とともに、今度は曲げた右腕で銃身を掲げ、レミッキは銃弾を上空に発射する。その弾たちは、またも空高くから一斉に、バラバラの軌道を
「志良堂《しらどう》レミッキ。日本での歌手としての活動名は、レミですね」「うぎゃー‼」当然一人で茂みに隠れているものと思い込んでいた突然横から梅ケ谷知《さとる》に声を掛けられ、思わず叫び声を上げてしまった。よく見ると、梅ケ谷は両手に木の枝の模型を持っている。茂みの一部に紛れているつもりらしい。(擬態…? この人こんなキャラだったのかしら)「Lemmikki(レミッキ、またはレンミッキ)という名前からおそらくフィンランド生まれ。戸籍上は、キリスト教系の孤児院、ちちぶ子ども未来園の園長・志良堂|美洸《みひろ》の養子ということになっています。高校卒業後、18歳で上京。ネットを中心に歌手活動を開始、今に至るわけですが、まさか裏社会で『死神』と呼ばれるスナイパーの正体が彼女だったとは…」「あ、あの~ 梅ケ谷さん、どうしてここに?秘書業務は大丈夫なので…?」「ご心配なく。今日の分の仕事はとっくに終わらせてありますので。あの龍は放っておくと何をしでかすか分かりませんから、心配で付いてきました」「はあ…」「そんなことより、始まりますよ。九頭龍の久しぶりの戦いが」「…」そう言う梅ケ谷の表情から読み取れたわけでも、声の調子からそう感じられたわけでもない。だが、七海には何となく感じるところがあった。(なんだか嬉しそうね、梅ケ谷さん)♦さて、七海と梅ケ谷の視線の先で。「…もう、遠慮なくいくわよ」レミッキはスナイパーライフルを構え直した。「おう、レミとか言うたの。いざ尋常に…」パァン!九頭龍凛太郎が言い終わる前に、レミッキは銃弾を放つ。 が、それはトカゲのような鱗で覆われ鋭い爪のある形へと一瞬のうちに変貌した、凛太郎の手によって難なくキャッチされてしまった。江島めぐみ狙撃(二撃目)の時と全く同じである。「まーったく、せっかく武士道をわきまえた女子《おなご》じゃと思うとったのに。南蛮にも騎士道精神というのがあるんじゃろが…」言いながら、九頭龍は掴《つか》んだ銃弾をポイッと投げ捨てた。「儂には銃なんぞ効かんぞ。諦《あきら》めて降参せい」「やっぱり、そうよね… こちらも時間があったからね。対策させてもらったわ」ちょうど弾を撃ち終わったレミッキは、ジャキンという音を立てて弾倉《マガジン》を交換すると、ガチャリとハンドルを引いてから再び戻した。パァ
『ちちぶ子ども未来園』は、埼玉県の秩父地方の山間部にあるキリスト教系の孤児院である。シスターの|志良堂美洸《しらどうみひろ》が、たくさんの子供たちと食卓を囲んで、食前のお祈りをしている。「おお、神よ。私たちをいつも見守り、導いて下さることに感謝します。この食事が神のための善を行う力となりますように。アーメン…」|美洸《みひろ》シスターは祈りの言葉を言い終わると、少し間をおいて「パンッ!」と乾いた音を立てて勢いよく合掌をした。「はーい、堅いお祈りは終わり。今日は裏の山でとれたイノシシの焼肉と猪汁《ししじる》よ。みんな、たくさん食べてねー♡」「やったー!!」年齢も性別も違う孤児たちが、一斉に猛烈な勢いで目の前に盛られた食事に飛びつく。キリスト教系の施設には“|清貧《せいひん》”といって、必要以上に贅沢を望まない考え方がある。だがこの『ちちぶ子ども未来園』は、「他の家庭を|羨《うらや》むことがないように」という美洸シスターの思いで、毎回栄養のバランスを考えつつ最大限豪華に、というのが食事の基本方針となっていた。「焦らなくても、お代わりは沢山ありますからねー。それはそうと…美洸シスターは、ふと窓の外に目をやる。「今日はもしかしたら、嬉しい再会があるかも知れない予感がするのよねー♡」♦ ♦ ♦ 光の入院している新宿総合病院を出た九頭龍凛太郎と七海の二人は、13時過ぎに新宿駅発のバスに乗り、2時間以上揺られて秩父にやってきた。見渡す限り山、山、山で、緑が目に|沁《し》みる。普段吸い慣れている新宿の空気とは別物のように美味しい空気だが、それを有難いと感じる体力の余裕が、七海には無くなってきていた。|顎《あご》が上がり、額には大粒の汗がにじんでいる。「ハァー… まったく、どんだけ歩くのよ。降りたところ、ホントに最寄りのバス停?」「いっつもパソコンと睨めっこばかりしておるから体が弱るんじゃ。昔の日本人なら新宿からここまで|徒歩《かち》で来ておるわい」一方の凛太郎は汗一つかいていない。今日は朝から九頭龍の人格だからなのだろうが…「あなた、そのペースだと明日凛太郎君に戻った時に筋肉痛で泣くわよ。 …それはそうと、いつの間に社長のOKもらったの?情報系企業が孤児院買収って聞いたことないわよ」「フン、龍神様のビジネスセンスを嘗めるなよ」そうこうしているうち
某日13時、東京都庁。白いコートに身を包んだ人物が、警護役であろう屈強そうな職員のエスコートを受けて、都庁最深部の知事執務室に通される。フードを|目深《まぶか》に被った顔は、依然としてよく見えない。「時間ピッタリですね… 都庁へようこそ。直接お会いするのは初めてですね」猛追する江島めぐみ候補を振り切り二期目への当選を果たした|尾池百合絵《おいけゆりえ》都知事が、執務室最奥のデスクから形ばかりの歓迎の挨拶をする。「死神さん、とお呼びすればいいのかしら?」書類仕事をつづけながら、目も来訪者の方を向けようとしない。「…」白コートの来訪者は無言のままである。尾池は続ける。「《《先生》》とケイトさんから、成功率100%の腕前だって聞いていたので、安心してお任せしたのですけど。私の聞き間違いだったのかしら」「…」「新宿駅の演説の後でも、いくらでも仕留めるチャンスはあったはずでしょ?あの女が世界の調和にとって邪魔になることは分かっているはず… 組織票で勝てたからよかったものの、とっても肝が冷えましたわ」「…」「だんまりですか。あまりおしゃべりはお好きでないようね。いいわ。どのみち約束は成功報酬のはずです。お支払いするお金はありませんので。お引き取り下さい」『死神』と呼ばれた白コートの人物は、ついに一言も発しないまま執務室を後にした。(ケイトのやつ…)成功報酬だという話は、今日初めて聞いた。♦ ♦ ♦同じ日の正午。「…と、いうわけで、今回は心臓の病気と闘う、同じ孤児院の後輩・|光《ひかる》君との、2回目の動画でした~。またね!…はい、カット!ありがと、光君!」新宿総合病院の|阿賀川光《あかがわひかる》の病室で、18歳くらいの白人の女の子が美しい金髪をなびかせながら、自分で構えたスマホカメラに向かって手を振る。ネットで人気上昇中の歌い手・レミが、光への2回目の見舞いに訪れていたのだ。病室で動画撮影とは怪しからん、との声もあろうが、担当医の|乗本《のりもと》が理解があり、「拡張型心筋症と闘う子どもたちの情報拡散になりますし、光君の気晴らしにもなるでしょうから」とのことで、短時間の動画撮影はOKが出ている。それにしても、光とレミは随分と仲良く話すようになった。恐るべきは光の人たらしの力である。「こっちこそありがとう。えへへ、なんか夢みたいだなー
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