「ってことがあってね、私、その人の家に住み込みで働かせてもらうことになったの」
昨夕 御神本家《みきもとけ》の夕飯で食べた、菜の花のバター醤油ソテーを頬張りながら、何でもないことのように週末我が身に起こったあれこれを適度にかいつまんで話したら、 「急展開すぎるでしょ!」 小町《こまち》ちゃんがコーヒーをひと口飲むなりそう言って、私に迫ってきた。 ですよねぇぇぇぇ。 私自身そう思ってるもん。 でもちょっと待ってね。口の中の菜の花、飲み込んじゃうから。 菜の花をよく噛んで飲み込んでから、ついでに水筒の中の熱いお茶をひと口飲んで、口の中をリセットする。 はぁ〜。玄米茶美味しぃ〜。 てっきり御神本家には玉露しかないのかと思っていたら、飲み慣れた玄米茶もあると知って大喜びした今朝。 八千代さんが遠慮なく飲んでいいのよと言ってくださったから、今日はお言葉に甘えて急須で出した熱々2口分を、魔法瓶にたっぷり詰めてきちゃった♪ 熱いお茶と美味しい残り物にほっこりしていたら、 「ところで花々里《かがり》ちゃん。私が何も知らないと思って、雇い主の説明かなり端折ったでしょ?」 言われてキョトンとしたら、 「へっへっへ。実は私、ヒロくんから電話でその人のこと、色々聞いてるのよ?」 次いでニヤリとしながら告げられた言葉に、私は「えっ」と口ごもる。 私が小町ちゃんに話したのは、理由あって、先の週末から母の古い知人の家で住み込みで働き始めたということ。 学費も立て替えてもらっている手前、その人に頭が上がらない私には選択の余地がなかったと言うこと。 その相手がお金持ち?の家の嫡男で、結構大きめな昨夜も頼綱《よりつな》と一緒の部屋で寝る寝ないの攻防戦があって……。 私は昨日も何とかっ! 這う這うの体《てい》でお引き取り頂いたの。「あのっ、私たち、結婚してるわけでも……ましてやお付き合いしているわけでもないのでっ」 ――婚姻届も保留してますよね⁉︎ 付け加えるようにそう言ったら、案外すんなり引き下がってくれて。「そうか。花々里《かがり》は順番を重んじるタイプなんだね。承知した。俺もなるべく筋を通すよう配慮しよう」 どこか清々しいぐらいの引き際の良さにホッとしたのも束の間、告げられた言葉にちょっぴりソワソワ。 これできっと主従関係にある限りは添い寝を迫られることはなくなる、んだと……思う。 思うけれど、「なるべく」「配慮しよう」というのが気になるところ。 頼綱って、何を考えているのか読めないところがあるから。気を抜いていたら斜め上からの攻撃がありそうで怖い。 昨夜のやり取りのせいで、せっかく寛道《ひろみち》が頑張ってくれた健闘も虚しく、お母さんのサインをあっさり取り付けてきたりしそうな気さえして。 お母さん、流されやすいもんなぁ。 美味しいものとかちらつかされたら特に危険! そんなこんなを思っていたら、ないって言い切れないところが怖くなる。 頼綱って、いわゆるヤンデレなんじゃない?と思うことが多々あるから油断できない。 そこでふと、昨日の怒涛の着信履歴を思い出してゾクリとする。 *** なんてことを考えながら歩いていたら。「おはよう、花々里。迷わず来れたとか感心じゃん。――……ってオイ! 無視かよ!」 いつの間にか寛道との待ち合わせ場所にたどり着いていた――ばかりか通り過ぎてしまったみたいで、慌てた様子の寛道に腕を掴まれた。 途端、昨日頼綱に、寛道に掴まれた腕のアザに口付けられたのを思い出した私は 「ダメ!」 言って、慌てて寛道の手を振り解いた。 あまりに強く突っぱねてしまって、ハッと
だって今日 寛道《ひろみち》としたことで最大のイベントごとってカボチャのはずだし。 それ邪険にされるとか有り得ないよ。 そう言おうとして、またしてもハッとある事を思い出して、「あ! お母さんのお見舞い!? それも寛道としか行ってないよ?」 せかせかとそう付け加えたら、『それもっ、今はいいんだよ!』と一蹴されてしまった。「じゃあ、色々って……何? さっぱり分かんない!」 言い捨てて電話口で首を傾げたら『お前、あの男に抱きしめられたって……。その後とか……ほ、他には……っ』って何故か歯切れ悪く言われて、ブワリと身体に熱がこもる。 そ、そこ、掘り下げてきます? 自分もいきなり抱きしめてきたくせに? そんなことを思いながら、私はしぶしぶ白状することにした。「は……」『は?』「は、……鼻水はっ! 寛道にしかつけてないからっ!」 頼綱《よりつな》との時は鼻を打ったりしなかったし、涙目にもならなかったから大丈夫! そう言って胸を張ったら『はぁ!? お前、俺に鼻水つけたのかよ!』って……。 だからあの時散々そう言ったじゃない! ムッとして電話に向かってベーっと舌を出したら、見えていないからか、寛道が気持ちを切り替えたみたいに言ってきた。『あー、まぁあれ。そのことは明日また学校行きながら聞くから』 そのことって?と考えてから、もぉ、しつこいなぁと思って、「鼻水は洗濯すれば落ちるでしょう? 許してよぉ」と言ったら、『バカっ! 誰も鼻水のことなんて話してねぇし。俺が気にしてるのはお前があの男と……』って言いかけて。『あー、もうっ、とにかく! 明日また今朝のところで待ってるから。あそこぐらいまでは迷わず出てこいよ? 分かったな!?』 って、一方
頼綱《よりつな》から解放されて、床のカバンを手に取ると、私は半ば逃げるように自室の扉を開ける。 後ろから付いてこられたら拒み切れる自信がなくて、慌てて扉を閉ざそうとしたら「すぐ夕飯だからね」 閉め切る直前、頼綱の声が背中に飛んできて、私はビクッと身体を震わせてから「はいっ」と優等生みたいな返事をして、いそいそと扉を閉ざす。 ひとりになって佇むと、ふわりとどこからともなく頼綱の香りが漂って。 さっき抱き寄せられた時の移り香だと思い至った私は、真っ赤になってその場にヘタり込む。 もぉ、何あれ、何あれ。 いきなり抱きしめてくるとか反則だよっ! 思いながら握りしめたままのカバンにふと視線を落としてから、ハッとしたように荷物をかき分けて底に入れた青いふたの容器を引っ張り出す。「よかった、汁、漏れてない」 ホッとした途端現金にもグゥッとお腹が鳴って、私はすぐに夕飯だと言われたくせに、無意識にタッパーのフタを開けてしまう。 一応1日持ち歩いてしまったし、と思って鼻を近付けてクンクンにおいを嗅いでみて、美味しそうなにおいに「大丈夫そう」ってホッとする。 そのまま半ば条件反射みたいにひとつつまみ上げ……ようとして手洗いがまだだったとハッとして手を止めた。 うー、またお預けかぁ。 そう思って肩を落としたところで、さっきカバンをあさったとき無意識に中から取り出して床に置いた携帯のお知らせランプがバイブ音とともに点滅し始めて。「あ……」 そういえば大学で講義を受けるのにマナーモードにしたまま色々あって、オフにするのを忘れていた。 何だろ? 思ってタッパーにフタをし直してから、おもむろに携帯に手を伸ばす。「寛道《ひろみち》……」 からの着信だった。 何の用かしら? 通話ボタンを押して「もしもし」と応答したら『花々里《かがり》、無事か!?』とか。
間近でそんな風に問われたら、彼を好きな気持ちに――というよりそれに気付いたことに――勘付かれてしまったんじゃないかとドギマギしてしまう。「わ、たしっ、基本的には素直なタイプなんですっ」 照れ隠しにそう言ったらクスッと笑われた。「そうか。じゃあ、そんな素直な花々里《かがり》に、帰りが遅くなるのに連絡を入れなかったことについて、責めさせてもらっても構わないよね?」 言って、頼綱《よりつな》が私を腕の中に閉じ込める。「あ、のっ、頼綱っ」 寛道《ひろみち》に抱きしめられた時には鼻水のことしか頭になかったのに、頼綱のそれはただただ私の心をざわつかせて。 慌てて喘ぐように息を吸い込んだら、鼻腔を頼綱のにおいが満たしたことにも戸惑いを覚えて身体が跳ねてしまう。 その拍子。肩にかけていたトートバッグがバランスを失って、床にドサッと落ちてしまった。なのにそれにも気が回せないぐらい、心臓がうるさく騒いでいる。 きっと寛道と同じことがあったら「カボチャ!」ってなってたはずなのに、それすら気にならないぐらい今の状態に動転しているのは、八千代さんの作る夕飯の香りがここまで香ってきていてカボチャへの関心が薄れてしまったから、なんて理由じゃないと思う。「遅くなるならそう連絡をしないと。――八千代さんにも迷惑を掛けてしまうと思わなかったの?」 その言葉にハッとして身じろいだら、私を抱きしめる腕に力が込められて、「俺も……何かあったんじゃないかと心配したんだよ? 分かってる?」 耳元に静かな声音で落とされた言葉に、全身が粟立った。「ごめ、なさ……」 耳まで一瞬で熱くなってしまったことに気が付いて、それを頼綱に気付かれたくなくてうつむいたままそう言ったら、「――明日は大学、何時に終わる?」 と問いかけられた。 明日は1コマほど最後の講義が休講になっていたはず。 それを思い出しながら「17時前には――」
「僕の花々里《かがり》にこんな無粋な痕跡を残すとか……腹立たしいにも程があるね」 そのままアザに口付けられてゾクリと背筋が慄く。「あ、あの、頼綱《よりつな》……、私……」 これは素直に話した方がいいかも知れないって思って……ここから大学までのルートが覚えられなくて迷子になってしまいそうだった旨を話して。「そ、それでね、小さい頃から私が方向音痴なのを知ってた寛道《ひろみち》が心配して送り迎えしてくれたの……」 この手首の赤いのは私がモタモタしていて寛道を苛立たせてしまって引っ張られただけだと……一生懸命訴えてみる。 手首を握られた経緯については少し嘘を織り交ぜてしまったけれど……でもそこは伏せておかないと頼綱を余計に不機嫌にさせてしまいそうな気がして言えなかった。「頼綱は……お仕事あるし……迷惑掛けられないって思って。……ごめんなさい」 最後の〝ごめんなさい〟が効いたのか、頼綱が手を開放してくれてホッとする。「花々里。昨日俺と一緒に大学までの道のりを往復歩いたと思うんだけど。あれでも覚えられなかったということかい?」 ややしてポツンと頼綱にそう落とされて、私はソワソワと視線を泳がせる。 口調こそ「俺」に戻ってくれたけれど……その言葉を肯定するのが何となく憚られてしまう。 だって私、昨日は頼綱に無理言って車ではなく徒歩で道を教えてもらったのに。 それなのに目印にしていたものがことごとくダメなものだったって知ったら、寛道みたいに。いや労力を費やした分、下手したらそれ以上に……。 頼綱、呆れちゃうんじゃないかな。 それが、すごく怖くて。「もしや――1度歩いたぐらいじゃ、うまく
あの人、百足《むかで》だった。 靴が多すぎて、どの靴を履いて行ったのか……そもそも靴が減っているのかすら私には分からない。 家の前の車庫に車あったっけ? そもそもシャッターはどうだったかな。 開いてた? 閉まってた? うー。思い出せないっ。 考えてみたら家の前に帰り着いた時点で真っ暗だったし、いつも以上に周りが見えていなくても不思議じゃない気がする。 今日 寛道《ひろみち》に、「お前は景色を見てるようで見てないんだよ」って言われたんだけど、そういう事なんだって今、思い知ってます。 もし頼綱《よりつな》のほうが先に帰宅していたら、きっと「どこに行ってたんだ?」って聞かれてしまう。 あの人、今朝、今日は何時まで講義があるか聞いてきたし、問われたら絶対まずい。 ふと腕時計に視線を落とすと、20時を過ぎていて。 18時過ぎに大学が終わって、どんなにちんたらしたって19時までにここに帰りつけないなんてことがないことぐらい、私にだって分かる。 どうかまだ戻ってきていませんように。 祈るような気持ちでそろりそろりと廊下を歩いて、自分に割り当てられた部屋を目指す。 あそこを曲がれば自室、ってところで「花々里《かがり》」と、仁王立ちしている頼綱に呼び止められた。 その声に、思わず「ひっ」と悲鳴が漏れる。「おかえり。――随分のんびりとした帰宅だね。外、真っ暗だっただろう」 淡々と問いかけられて、私は頼綱から距離を取るように壁づたいにずりずりと背中を擦りながら自室に向けて横スライドする。「あ、あのっ、ちょっとお母さんのところへお見舞いにっ」 帰りが遅かった理由としては妥当だし、堂々と言えば良いものを後ろめたさに後押しされて、私は頼綱の目を見られない。 すすす、っと視線を逸らすようにしながらそう言ったら、まるで遅く帰宅したことの言い訳にしか聞こえなくて、自分でも空々しいと思ってしまった。 私本人がそう感じているのだから、頼綱が思わないわけがない。「そう