「わかりました」「桐生さん、あなたのお家も山のほうにあるの?」善は「ええ」と返事して「神崎さん、僕のことは名前で呼んでください。僕たちはお隣同士になる仲ですし、よそよそしくしなくて大丈夫ですよ。ほら、遠くの親戚より近くの友人とも言うでしょう」「わかったわ、なら、善君も神崎さんだなんてよそよそしい呼び方しないでね。お隣さん同士なんですから。姫華って呼んでちょうだい」善は笑ってから言った。「うちは結城社長のご実家同様、山の中に建てられています。音濱岳(おとはまだけ)という所にあるんです」彼は周りの景色を見渡してから姫華に言った。「どうやら、結城家のおばあ様と、僕の祖母の趣味や好みは似ているようです。二人は同世代だから、美しいものに対する観念が同じなんでしょうね。うちの音濱と琴ヶ丘はとても雰囲気が似ています」何か違いがあると言えば、音濱のほうが少し広いくらいだろう。姫華も辺りの景色を見まわした。「ずっとここに住みたいって夢見てたの。ここは静かで都会の喧騒からも離れられるし、空気は美味しくて、広大な土地があれば一カ月家でゴロゴロしてたって、飽きっこないもの」なによりもここは結城理仁の家だったからだ。以前の彼女は理仁のことが大好きで、ここ、琴ヶ丘邸の女主人になることを夢見ていた。善は優しい声で言った。「今後時間があったら、姫華さんもうちの音濱に数日泊まりに来てくださいね」姫華は遠く思いを馳せる自分を引き戻すと笑って言った。「A市にはたくさん観光スポットがあるでしょう。私、よくそちらに旅行に行っているの。桐生家は確かリゾート地を作っていたよね。毎回そちらに遊びに行く時は、いつもそこにホテルを取ってるのよ」ただ、以前は善とは知り合っていなかった。「今後またA市に遊びに来た時は、僕に連絡してください。桐生家の拠点ですから、A市での費用はこちらが受け持ちます。それに無料でガイドにもなりますよ。姫華さんを観光地に案内しますし、A市のグルメも満喫してください」姫華は特に深く考えることはなくこう言った。「もちろんよ。その時は唯花と明凛の二人も連れて行くわ。あの子たち、本当に食いしん坊なのよ。二人と一緒にグルメ旅をすれば、私たちも食欲が増すはずよ」「それはいいですね」善は姫華が言うことには全面的に受け入れるのだった。姫華は、
「桐生さん、あの二人、さっきなんか意味深に笑ってなかった?」二人が追いかけてこなくなったので、姫華は善と肩を並べて歩きながら、二人のほうをちらりと振り返って見ていた。そしてあの二人がそれぞれのパートナーと、こそこそおしゃべりしているのを見て、姫華が羨ましくないと言えば嘘になる。最も羨ましいのは唯花に対してだった。唯花と一緒になったのは、姫華が何年も片思いをし続けた結城理仁だ。理仁は彼女に対してはまるで氷のように冷たい塩対応しかしてこなかった。以前、真正面からきちんと彼女のことを見てくれることすらなかったのだ。彼女は理仁は生まれつき女性に対してはそのような態度で、一生誰かに優しさを向けることなどないと思っていたのだった。そして今理仁の唯花に対する接し方を見てみると、姫華はようやく理解できた。理仁は女性に優しさを向けないわけではなく、ただ、その優しさは唯花ただ一人に向けられるものだったのだ。もちろん、羨ましいと思ってはいるものの、姫華はこの時すでに理仁への思いは完全に断ち切っていた。特に、理仁は唯花のために、姫華に対して敬語でちゃんと話をしてきた時、この男は永遠に唯花だけの存在なのだとはっきりわかったからだ。この世には素敵な男性は星の数ほどいるはず。だから、姫華もずっと理仁に執着する必要なんてないのだ。理仁が唯花に優しくしてくれれば、姫華もあの二人が白髪になるまでずっと一緒にいてほしいと心から願っているのだ。善はまるで寒い冬を消し去ってくれる温かな春風のように優しい微笑みを見せた。「僕は、特に二人が変な意味で笑ったようには見えませんでしたよ」「私の考えすぎかしら」姫華は何事もなかったかのように笑って言った。「結城さんが桐生さんを誘ったの?」「ええ、僕は結城社長とは仲良くさせてもらっていますからね。社長は僕一人星城にいて寂しいだろうと思い、今日は誘ってくれたんだと思います」実は、善は悟のほうとさらに親交が深い。結城グループと桐生家のアバンダントグループとのビジネスの往来は、基本的に悟が担当していたのだ。「私はてっきり、桐生さんって、週末にはA市に戻るんだと思ってたの。飛行機でもそこまで時間がかからないよね、確か二時間ちょっとで到着するでしょ?」「二時間くらいあれば着きますね。僕は星城でのビジネスを長期的に
悟のすぐ隣に座っていた明凛は、頭を突き出して隼翔の何もわかっていない顔を見て、唇を噛み笑った。隼翔と理仁は同類らしい。悟は人の感情にも敏感に反応でき頭の切れる男であるから、理仁達と一緒にいる中で、先生役になっているというわけだ。姫華と善はおしゃべりしてとても楽しそうにしていた。姫華がおしゃべりの相手をしてくれたから、善はそこに腰をおろして座っていられたのだ。でなければ、彼は頭が痛くなってそそくさと逃げ出しているところだ。彼はこのような場所を一番恐れている。結城おばあさんを見ていると、まるで彼の家のおばあさんを見ているような錯覚に陥ってしまう。彼の祖母も毎日毎日彼ら桐生家の孫たちの結婚にやきもきしているのだ。彼の祖母は結城おばあさんほど必死になることはないからまだマシだったが、祖母はすでに蒼真の妻である雨宮遥に、善たちの人生の一大イベントを任せてしまっている。遥に仲介人としての素質があるようだった。悟は隼翔を暫くの間見つめた後、言った。「お前、もしかして『鈍感力』を書いた作者じゃないだろうな」「その本なら知っているぞ、確か渡辺なんたらさんが書いたんじゃなかったか?どのみち俺は作家デビューなぞしていないぞ」悟はそんな隼翔はスルーして、明凛のほうへ顔を向けておしゃべりを始めた。隼翔「……」悟がさっき言っていたのはどういう意味なんだ?そこへ、暫くその姿を消していた古谷が再びここに現れた。彼は理仁の目の前まで来ると、恭しい態度で言った。「若旦那様、バーベキューの用意が整いました」理仁はひとこと「ああ」と返事をし、唯花の手を取って立ち上がると、おばあさん達に言った。「ばあちゃん、俺たちはこれで」「行ってらっしゃい」理仁は神崎夫妻にも尋ねて、二人も若者たちとは一緒に行かないと確認してから、唯花と親友たちを連れて外へ出た。家からまるで絵画のような風景の庭へと出てきた。姫華が唯花の傍にやって来たので、理仁は唯花の手を放して、いとこ同士で話をさせてあげた。そして彼は善を自分のほうへ招いた。善をここにまで招待してきたというのに、さっきまで話す時間すらもらえなかったのだ。「唯花、あなたと結城さんの結婚式は数カ月後になったでしょ。だから、ちょっと投資の話を進めないかと思って。だって、あなたが結婚式で忙しくなったら
話し合いやすいように、詩乃は部屋に入ると唯月の隣に座った。詩乃はおばあさんから渡されたカレンダーを受け取り、唯月と一緒に見ていた。最後に理仁と唯花の結婚式として、そう近くも遠くもない適当な日にちを選んだ。「おばあ様、この日はどうでしょう。今からだとちょうど良い日にちだと思います。両家が準備するのに十分時間があるでしょう」詩乃は唯月と一緒に選んだ日取りを結城家の年配世代に伝えた。詩乃の妹はもういないから、唯花の母親代わりとして姪っ子の結婚式の責任を担うつもりだ。必ず唯花を堂々と結城家に送り出そう。誰にも唯花を見下すような真似はさせない。おばあさんと麗華たちも、その日程には意見はなかった。どの日にちでも大安だから、結婚式をするにはうってつけの日で問題ないのだ。そして最後に理仁と唯花にそれで良いかの確認をした。唯花はそれには特に意見はなかった。理仁は両家が選んだその日付を見て、静かに心の中である計算をしていた。結婚式を挙げるその日は、ちょうど唯花の生理と被りそうだ。それでは結婚式を挙げてからの正式な初夜にはちょっとよろしくない。それで、理仁は反対意見を述べた。「その日はダメだ。他の日に変えてくれ」おばあさんは理解できないといった顔で尋ねた。「どうしてだめなのよ?今日から一番近い日はたった十日しかないわ。それじゃちょっと急すぎるわよ。だから、この日がちょうどいいの。この日なら両家にはゆっくり準備する時間があるんだから。それにその後の日にちだとちょっと開きすぎてるわよ。もう秋じゃない。あなたがそれまで待てるっていうのであれば、私たちも別に文句はないけれども」理仁は秋に入ってから結婚式を挙げるのは嫌だった。今はまだ春になったばかりだから、秋まではまだかなり時間がある。彼は言った。「なら、一番目のその日にしよう。十日後は三月中旬で、寒くも暑くもないから、結婚式にはちょうどいいだろう」おばあさんは最初に決めていた日にちから変更したくなかった。十日で盛大な結婚式を準備するのにはそれは本当に時間が足りないのだ。「理仁、教えてちょうだい。あなたのお義姉さんと、唯花ちゃんの伯母である詩乃さんが決めた日取りよ。どうしてダメなの?カレンダーについてる丸はね、おばあちゃんが去年占い師さんのところに行って相談して選んだ日なのよ」その占
今は麗華も詩乃もこの場に一緒に座るしかなかった。麗華はとても親しそうに唯月の手を取って、微笑んだ。「唯月さん、今後ここへ来る時はそんなに気を使わなくていいですからね」唯月も微笑み言った。「大した物ではありませんから、お気になさらないでください」麗華は唯花に抱かれている陽のほうを向いて笑って言った。「陽ちゃん、抱っこさせてくれないかしら?」この時、唯月のあの大量の荷物を運んであげていた隼翔が口を挟んだ。「麗華おばさん、陽君は人を選ぶ子なんです。どのみち俺には抱っこさせてくれませんがね」麗華は隼翔がまるで唯月の付き人のように、両手に大量の荷物を運んでいるのを見つめた。実はさっき古谷が先に運ぶと言ってきていた。唯月と詩乃がいくら大量に買って来ていたとしても、古谷なら使用人たちに頼んで部屋に運んでもらえるので、客である隼翔がわざわざ動く必要などないのだ。隼翔は唯月に自分の良いところを見せたいのか?賢い人はわかっていても黙っているものだ。麗華は笑いながら隼翔にこう言った。「隼翔君、陽ちゃんが抱っこさせてくれないなら、きっとあなたのことを怖がっているからよ。あなた、お母様の言う通り、傷痕を消す治療をしてみたらいいかもしれないわ」結城家と東家は深い繋がりがある。麗華は美乃里が何度も隼翔に美容整形外科へ行って、傷痕を消すよう勧めているのを知っていた。その痕が消えれば元々の端正な顔に戻り、結婚できないという悩みがあっという間に消えて、三十六歳でも独身でいる必要などなくなるというのに。以前、この母親たちは一緒にいる時、いつも自分の息子は全くロマンチックの欠片もなく、好きな女の子もいないのかと不満を抱えていた。彼らが一生独身を貫くのではないかと心配でならなかったのだ。しかし今は理仁のほうは独身を卒業し、幸せな結婚生活を送っている。あの悟でさえも、理仁が赤い人を引いてきたことにより、明凛に積極的にアプローチをしている。それなのに、隼翔のほうは全くその気がないものだから、美乃里はあまりに焦り過ぎて、髪の毛も白くなり老けてしまいそうなくらいだった。一体いつまでこの手の焼ける息子の世話をしなければならないというのか。陽は物分かりよく、麗華が彼を抱き上げようと手を伸ばしてくると、すぐに両手を伸ばして麗華に抱っこされに行ったのだった。陽は叔母の夫の母親
内海おばあさんは琴ヶ丘の入り口ゲートが開いていることに満足そうな顔をしていた。彼女は後ろに続く隼翔の車を振り向いて見てみた。唯月と陽の親子も彼の車にちゃんと乗っている。隼翔の車の後ろにいるのは神崎夫妻とその娘の姫華だ。玲凰は妊娠中の妻に付き添っている。理紗はすでにつわりが始まっていて、何を食べても吐いてしまう。毎日ベッドに横になっていて、動きたくないので、二人は今日一緒に来ていないのだ。それから次男の昴はあまり家にいることないので、詩乃は息子を呼んでいなかった。夫婦二人が揃っていればそれで十分なのだ。理仁はみんなを連れて車を外の駐車場に止めた。琴ヶ丘を管理している古谷は、ニコニコとしながらみんなを迎えた。理仁が車のドアを開けて降りる時、古谷がおばあさんが座っている座席のドアを開け、手を差し伸ばしておばあさんを支えようとした。しかし、おばあさんは彼のその手を払いのけてしまった。古谷に支えてもらう必要などないのだろう。そんなことをされると、おばあさんがもう年を取ってよぼよぼになっているみたいではないか。彼女はまだまだ現役なのだぞ。「おばあ様、おはようございます」古谷は笑顔で礼儀正しく挨拶をした。おばあさんは唯花が来るのを待って、彼女に言った。「唯花ちゃん、この人はね、この琴ヶ丘を管理している古谷というの。ここでもう二十数年働いているのよ。理仁たちが子供の頃から大人になるまで見守ってきた人よ」古谷は屋敷の使用人たちをとりまとめる執事でもあり、ここ琴ヶ丘全体のスタッフたちもまとめる責任者でもあった。琴ヶ丘は広大でさまざまな仕事がある。それぞれの仕事にも管理者が存在しているが、彼らでも解決できないようなことは、この古谷が最終的に処理をしているのだ。だから、琴ヶ丘の管理方式は結城グループと同じようなものなのだ。「古谷さん、はじめまして」古谷は琴ヶ丘にて二十数年働いてきて、理仁たちおばあさんの孫世代を小さい頃から見守ってきた。ここ琴ヶ丘の古株である。唯花は彼を敬うように礼儀正しく挨拶をした。「ごきげんよう、若奥様」古谷が笑顔を見せて挨拶をする時、唯花は自分が彼から見定められているような感じがした。自分はこの琴ヶ丘でももうすっかりみんなに知られているのだろう。この時、隼翔が陽を抱っこして近寄ってきた。「