その場にただ震えていると、背後から静かな息づかいが聞こえてくる。 そして、低く沈んだ声が飛んできた。「……おい、原川次長」 それまで静かに様子を見ていた日比野先生が、壁を拳で一度だけ叩いた。 乾いた音が部屋に響く。そして、大股で私の隣に立ち、冷たい目で原川次長を睨みつける。「さっきから聞いてりゃ、なんだよそれ。苦しんだ人にかける言葉か? ありえねぇよ、普通」 低く沈んだ声に、私は思わず顔を上げた。 その隣で、原川次長も負けじと声を荒げる。「よく言いますね、日比野先生。貴方こそ、過去にどれだけの面接者に酷い言葉を投げたか。『死ね』なんて言った医者が他にいますか?」「言ってねぇよ、一言も」 先生は眉ひとつ動かさず、はっきりと言い切った。「『生きるのがつらい』と言った人に、『じゃあ、生きるのをやめてもいい』って言うのは、死ねって言ってるんじゃない。その人の意思を、尊重してるんだよ」「同じことだろ!」「同じじゃねぇよ!」 バン、ともう一度、机が鳴った。「その人の人生に、本気で向き合ってるからこそ、そう言えるんだ。お前らみたいに、人を数字でしか見ない連中とは、違う」 張り詰めた空気の中、私はただ俯いて震えることしかできなかった。「帰るぞ、黒磯さん。今日はもう巡視はしない。こんな会社、こっちから願い下げだ。医師会に産業医の交代申請も出す」 そのまま立ち上がろうとしたときだった。 ずっと沈黙を貫いていた加賀さんが、ぽつりと呟いた。「……なんだか、馬鹿みたい。たかが残業で死にたいなんて」 その言葉が、頭に残響のように残った。 たかが……? 言いたいことは山ほどあるのに、声が出なかった。 私はすぐにスマホに手を伸ばし、言葉を打ち込もうとした。 けれど、その前に——。「は?」 日比野先生が小さく呟いた。「お前さ、本気で言ってる? 〝たかが残業〟?」 先生の声音が、明らかに変わっていた。「お前ら総務部は、定時で帰れるし、土日も休みだろう。自由な時間もあっていいよな。でも、僕は何度もシステム部の労働状況について指摘したよな? けれど、誰も何もしなかったじゃないか」 加賀さんは、一瞬だけ目を伏せた。「『冷酷な産業医』って陰口叩かれてるのも、知ってるよ。でもな、どっちが冷酷なんだよ。人を潰して、壊して、それでも平気
会社が休職者に対して退職勧奨をすることはできない。けれど、休職者本人が退職の意思を示すことは、問題ないらしい。 そんなある平日、日比野先生が産業医として職場巡視に行くタイミングに合わせて、私は先生と一緒に会社を訪れた。 久しぶりに視界に入る社屋。 そして、あのとき——自殺未遂を図った玄関前の道路。「……」「黒磯さん、大丈夫?」 先生の声に、私はかすかに首を振った。言葉が出なかった。ついさっきまで普通に喋れていたはずなのに。喉が詰まるような感覚と、浅くなる呼吸。 スマホを取り出して、震える指で文字を打ち込む。【先生、声が出ません】 画面を見た先生は、眉間にしわを寄せ、すこしだけ首を傾げる。「……場面性緘黙症、かもね」 自分でも、はっきりとは分からない。ただ、会社という場所が、私からまた声を奪ってしまったことだけは確かだった。「大丈夫。僕が君を守る」 そう言って、先生はそっと私の頭を撫でた。やわらかな手のひらに背中を押されるようにして、私たちは会社の玄関へと向かう。 ◇ 受付を通ると、すぐに応接室へ案内された。どうやら、職場巡視よりも私との面談が優先らしい。「担当を呼んでまいります。少々お待ちください」 案内係の言葉に小さく頷く。私はいちおう、まだこの会社の社員だ。でも、その言葉とは裏腹に、受付の態度はどこか他人行儀で、空気が冷たい。 違和感が、胸の奥にじわりと広がる。 しばらくの間、先生とふたりで静かに時間を待つ。 沈黙の中、ふいに応接室のドアがノックされた。開いた扉の向こうには、懐かしくも見たくなかったふたりの姿。 システム部の原川次長と、総務部の加賀さんだった。 思わず立ち上がり、軽く頭を下げる。ふたりも形式的に会釈を返し、私たちは促されるまま席に着いた。「……久しぶりだね、黒磯」 原川次長は淡々とした口調でそう言い、まっすぐ私の目を見てくる。「さて、早速だけど……このたびはほんとうに大変だったな。日比野先生から話は聞いている。だから君に詳しいことは聞かない。ただ……退職したいというのなら、こちらからも願いたい。このまま辞めてくれ」「……」 その瞬間、心の奥底に、ひどく冷たい風が吹いた気がした。 そうか。引き留めすらされないんだ。 そう思った途端、次長の言葉がさらに続く。「黒磯には約10年間、よ
扉が閉まる、大きな音で目が覚めた。「……」 私は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。 頬にはまだ、乾ききらない涙の跡。 視界に入るのは、ジャスティスの尻尾。彼は私の顔にお尻を向けて、静かに座っていた。「黒磯さん、ジャスティスただいま……って、電気も点けずにどうしたの?」 日比野先生が帰ってきた。 部屋の灯りをつけ、真っ先に私の元に駆け寄る。「え、黒磯さん!? ほんとうにどうしたの!?」 ソファに横たわったまま、動けない私の顔を覗き込んだ先生は、心配そうに眉をひそめる。 涙は、もう枯れたはずなのに。 それでも、止まらなかった。 先生は私の体を優しく抱き上げ、そのままぎゅっと強く抱きしめてくれた。「……大丈夫? 今、どんな気持ち?」 ――でも、伝えたいのに、やっぱり声が出てこない。 私はスマホの画面をそっと先生に向けた。 そこには、あの文字。 【サービスは終了しました】 先生の表情が、曇る。「……サービス、終了……?」 小さく頷くと、私はすぐにメモ帳を開いて、震える指で文字を打った。【私が力を注いだパズルゲームです。サービス終了していました。辛くて、苦しい】 先生は、静かに私からスマホを受け取った。 そして、私をさらに強く抱きしめてくれる。 あたたかい――だけど、苦しかった。 ずっと閉じ込めていた言葉が、今にもこぼれ落ちそうで。「ねぇ、先生……死にたい……」「……え?」 ――声が、出た。 退院してから、初めて、はっきりと口にした言葉だった。 けれど、それはあまりにも悲しい、心の叫びだった。「……辛い、苦しい……どうしたらいいか、わからない……」「黒磯さん!!」 先生は、私の名前を強く叫んだ。 次の瞬間、先生の唇が私の唇を荒々しく奪った。 けれど、そのキスはどこまでも切実で、温かかった。「君を、絶対に死なせない。もう二度と、死にたいなんて思わせない。辛いことがあるなら――そんな会社、辞めてしまえばいい。休職して籍を置く必要なんて、どこにもない」「……」「君は僕が守る。君の人生、僕が全部背負う。何があっても、一生、君を支える。だから、会社を辞めよう――これは、君を守るための選択だ」 先生の真剣な言葉に、涙は止まらなかった。 唇を噛み締める先生の姿が、あまりにも優しくて、あたたか
日比野先生は、仕事に出かけた。 私は先生の家で、ひとり……いや、正確には、ジャスティスと一緒だ。 一人と、一匹。「……」 入院中、先生にもらった日めくりカレンダーをそっとめくる。 今日は4月18日、木曜日。発明の日らしい。 ここに来て1週間が経った。 最初は、落ち着かなくてそわそわしながら過ごしていたけれど、最近はすこしだけ、気持ちに余裕ができてきた。 先生がいない間、私はいつものようにソファに座り、ぼんやりと窓の外を眺める。 病院の窓から見ていた景色とは違う。 青空も、遠くに見える住宅街も、全部が新しくて、静かで――それが、なんだか心地よかった。「……」 ふと、手元にあるスマホを思い出す。 入院中は病院に預けていたそれを、退院の日に返してもらった。 退院してから、まだメモ帳しか開いていなかった。 指先が、ゆっくりスマホに触れる。通知は、半年間で数百件溜まっていたけれど、確認する気にもならなかった。 全部、過去のものだ。 私は通知をひとつひとつ確認することもなく、すべて削除した。「……」 でも、どうしてだろう。 スマホを持つことが、こんなにも嫌な気分になるなんて。 この小さな画面が、あの頃の嫌な記憶を呼び起こす。 ……もう、いっそ新しいスマホに替えようかな。 ぼんやりそんなことを考えながら、隣に座っているジャスティスを撫でる。 もしも、退院後、ひとりでアパートに戻っていたら――私は、どうなっていただろう。 思い返す。 退院する前、先生と一緒に寄ったあのアパート。 限界だった頃の私の部屋は、荒れ果てていた。 ゴミこそ捨ててあったけれど、散らかったままの部屋は、泥棒でも入ったかのようだった。 当時の自分は、それすらも何も思わなかった。 だけど、今なら分かる。 あのときの私は、どれほど壊れていたのか。 ……よく生きていたと思う。 その後私は、最低限の荷物だけを鞄に詰め、アパートを離れたのだった。 「にゃーん……」 ジャスティスが小さく鳴いて、伸びをした。 その姿を、ただ静かに見つめていると――ふと、頭にパズルゲームのことが浮かんだ。 私がいちばん時間をかけた、あのゲーム。 今、どうなっているんだろう。 何かに吸い寄せられるように、スマホを手に取り、久しぶりにそのアプリを開いた。 起動する
予定通り退院し、私はほんとうに日比野先生の家にやってきた。 先生の家は、広々とした4LDKの一軒家だった。 そのうちのひと部屋を、私の自由に使わせてくれるらしい。 玄関を開けると、ふわりとした毛並みの猫が出迎えてくれた。 三毛模様の美しい猫は、先生の姿を見るなり「にゃーん」と声を上げる。 リビングへ案内されると、広いLDKが目の前に広がった。 ダイニングテーブル、ソファ、テレビ、棚――必要最低限の家具しか置かれていない、シンプルな空間。「黒磯さん、今日からここが君の家になるよ。遠慮しないで、好きに過ごして」「……」 私はまだ戸惑いが抜けず、言われるままにその場に立ち尽くした。 先生はネクタイを外し、シャツの第一ボタンを緩める。 その何気ない仕草を、私はただぼんやりと見つめてしまった。「……見られると、ちょっと恥ずかしいな。突っ立ってないで、ソファに座りなよ」「……」 小さく頷いて、ふわふわのソファに腰を下ろす。 病院の布団とは比べ物にならない柔らかさに、身体の力がすこしだけ抜けた。「……」 けれど、気持ちはまだ落ち着かない。意味もなく、両手を擦り合わせてしまう。 すると、さっきの猫が静かに歩み寄ってきた。 私の隣に座り、身を寄せる。 温かかった。 驚くほど、猫の体温が優しく感じる。 猫は私の存在を怖がる様子もなく、安心しきったようにあくびをひとつ零していた。「お、ジャスティス。もう黒磯さんに懐いたのか?」「……」「……あ、猫の名前ね。ジャスティスっていうんだ」 先生の言葉を聞き、私はそっと手を伸ばして猫の頭を撫でた。 ジャスティスは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと喉を鳴らす。「良かったな、ジャスティス。撫でてもらえて」「にゃーん……」 先生が声をかけると、ジャスティスはちゃんと返事をした。 そのやり取りが、なんだか微笑ましくて。 久しぶりに、自分の口角がふわりと上がった気がした。◇ 私のアパートに残している荷物は、今後すこしずつ運び出すことになった。 ただし、〝先生の休みの日にふたりで〟という条件付き。 退院はしたけれど、私はまだ完治していない。 そんな私に対して、先生は優しすぎる約束をいくつか提示してきた。 1、家事や掃除はしないこと。 2、外出はOK。でも行き先と帰宅時間は必ず
――日比野先生の、家? まるで冗談みたいな提案に、私は言葉を失ったまま先生を見つめた。 けれど、先生の瞳は、驚くほど真剣だった。「退院させるけど、ほんとうは心配なんだ。黒磯さん自身も、独りは寂しいんじゃない……?」 ゆっくりと頷きそうになる自分がいた。 けれど、どうしてもそれは〝甘え〟のような気がして、思いとどまる。 私は、先生の腕をそっと叩いて距離を取った。 枕元に置いていたノートを取り、ペンを走らせる。【さびしい。不安。でも、先生の迷惑になる】 それを見た先生は、思わず吹き出した。「迷惑なんて、全然ないよ。というかね、君が泣いていなかったとしても、僕は最初からそう言うつもりだったんだ。これまでの差し入れだって、ぜんぶ君だけだよ?」 ……ほんとうに? 先生のその言葉が、ただの〝優しさ〟ではないのだとしたら―—。【いま家には何人ですか?】 【私みたいな人、何人いますか?】 書き足した言葉に、先生の表情が固まる。 「……もしかして、僕が受け持った患者をみんな自宅に連れて帰っていると思われている……?」 私は、小さく首を傾げた。「……勘弁してよ。黒磯さん、君だからだよ。僕がこうやって毎日会いに来て、家に誘ってるのは、君だけなんだ」 その真っ直ぐな言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。 先生は私のノートを取り上げ、再び優しく抱きしめてくれた。「……家には、僕と、猫が一匹。君が気を遣わなくて済むように。お金も、心配しなくていい。療養に専念してくれたら、それでいい」 そんなの、ずるい。 どこまで優しいのか、この人は。 でも、駄目だ。 私は、赤の他人。 甘えるわけにはいかない。 ノートを奪い返すようにして、再び言葉を書く。【嬉しい。でも甘えられません。ひとりでがんばります】 先生は大きくため息をついた。「……はぁ。君って、ほんとうに頑固だね」 「……」「僕が〝いい〟と言っているんだ。すこしは素直になってよ」 そう言って、私の髪をそっと撫でてくれる。 そのぬくもりに、また涙が溢れそうになった。 私は先生を見つめ、小さく頷いた。 それを見て、先生はすこし照れくさそうに笑ったあと、ゆっくりと私の頬に触れる。「どうしても〝気になる〟って言うなら……君は、僕の家族になればいい」 ――え?「いつかそ