創業百年の老舗洋食店を守るため、一千万円の借金返済に追われた料理人・緑竹伊織に、幼馴染で大成功実業家の三成一矢が「契約結婚」を提案。条件は“俺の専用=嫁になれ”。反発しつつも、昔から彼を想い続けていた伊織は葛藤の末に承諾する。 ――でもこれは、いずれ別れる前提の偽装婚。溺愛されるたびに高鳴る恋心は止められなくて…!?
View More「借金……一千万円ですって――!?」
驚きのあまり、私は思わず叫んでいた。
ここは、都内の老舗洋食店「グリーンバンブー」。創業百年を迎える木造の店は、古びながらも温もりのある佇まいで、長年地元の人々に愛されてきた。朝八時半、開店前の仕込み中に、父・緑竹一平(みどりたけいっぺい)と母・美佐江(みさえ)が突然頭を下げてきたかと思えば、信じがたい言葉が飛び出したのだった。
「まあちゃんが困っててね……つい、力になりたくて」
「伊織(いおり)、すまん……どうしてもという美佐江の頼みを、断れなかった」
話を聞けば、母の同級生――通称“まあちゃん”の夫がラーメン店を始めるということで、母に連帯保証人を頼んできたのだという。相談されれば反対するだろうと私に黙って、父にだけ話して勝手に引き受けた結果、案の定その“まあちゃん”が失踪。行き場を失って、今ようやく私に打ち明けてきたというわけだった。
「信じられない……どうしてそんな大事なことを、勝手に決めちゃうのよ!」
「だって、相談したら反対されると思って……私、困っている友達を見捨てられなかったの……」
「愛する美佐江が頼んできたんだぞ。断れるわけがないだろう!」
逆ギレ気味の父に、思わず怒りが込み上げる。
「そんなことになるって分かってたから、反対するに決まってるでしょう!」
私の怒声に、両親はしゅんとなった。まったく……母は昔からお人よしで、父はその母に甘すぎる。
看板娘としてグリーンバンブーに立っていた母は美人で気立ても良く、お客様からも人気だった。
けれど人を疑うことができず、怪しげな商品を「かわいそうだから」と法外な値段で買ってしまうような人。そしてそんな母を「優しい」と絶賛し、なんでも許してしまう父。
この夫婦の善意が度を超すとこういう事態になる。だから以前から保証人関係は必ず私を通すようにと、何度も釘を刺していたのに。
「もう……どうして、いつもそうなの? 私の身にもなってよ!」
「うう……だって……」
「“だって”じゃないわよ! 母親なんだから、もっとしっかりして!」
しくしくと泣き出した母の前に父が立ちふさがる。「伊織、もう美佐江を責めないでくれ」
「どうして私が悪者になるのよ。いい加減にして……!」
胃が痛くなる。謝るだけでは済まない。そう思っていると、父が床に膝をついて頭を下げた。
「スマンったらスマーン!」
その土下座になんの意味があるの。謝る暇があるならお金を工面してきて欲しい。
「で、どうやって返すの? 一千万円の借金を」
我が家は代々この洋食店を営んできた。家は持ち家で借金こそないが、母が他人を助けるたびに店の利益を使ってしまい、子だくさんの我が家は貯金もない。一千万円なんて、私のへそくりでどうにかなる額ではない。
ちなみに、家族構成は父母、長女の私、農業大学に通う妹・美緒、高校三年生の琥太郎、高校一年の悠真、中学一年の樹、小学五年の結。六人兄妹の大家族だ。
私は大学へは進学せず、高校卒業と同時にグリーンバンブーで働いている。ベテランコックが定年退職したのを機に焼き場を任され、ステーキやグリルチキンなど焼き物全般を担当中だ。将来的には揚場やソースづくりも任されたいと思っている。
「仕方がない。店を手放すしか方法はない。借金のカタに――」
「えええぇぇ――!?」
思わず声が裏返った。
百年守ってきたこの店を、そう簡単に「売る」だなんて――どうかしてる!しかもここは住居兼店舗。家を手放したら、私たちは一体どこで生活していくというの?
「騒がしいな。朝から何の騒ぎだ?」 その瞬間重苦しい空気を切り裂いて現れたのが―― 「い、一矢……」 リムレスフレームのメガネ越しに鋭い視線を送ってくるのは、幼馴染の三成一矢(みつなりいちや)。今日も彼はイタリアの高級スーツブランド・ブリオーニをまとっている。濃アッシュグレーの髪が柔らかく流れ、常に上品な香りをまとい、どこから見ても“完璧な上流階級の男”だ。
……正直、カッコ良すぎる。朝から眼福だとは、口が裂けても言えない。
「中松。送ってもらわなくてもいいよ。自分で帰れるし」「いけません。仮にも三成家の“ご婦人”となるお方が、自転車通勤などもってのほか。ご近所様の目もございます」「……でも、その自転車で買い出しにも行くんだけど。置いて帰ると困るな」「後ほど店の方へお届けいたします。では参りましょう。午後三時、営業時間終了に合わせて再度迎えに上がります。よろしいですね」「……はあ」「姿勢が崩れております! しゃきっとなさってください!」 最後の最後まで、姿勢チェックは続く――中松、鬼ぃぃ……!! 先を歩く中松の背中に向かって――こっそり舌を出した。 鬼中松に店まで送ってもらい、到着するや否や制服に着替え、開店と同時にグリーンバンブーの厨房に立つ。「聞いたよー、いおちゃん。イチのヤツと結婚するんだって?」 声をかけてきたのは、田村銀次郎――通称ギンさん。(……“偽装”だけどね) ギンさんは私が生まれる前から店で働いているベテランの料理人。幼い頃、我が家に入り浸っていた一矢のこともよく知っていて、家族のような存在だ。 和食も洋食も器用にこなし、特にまかない飯のセンスは抜群。五十五歳、痩せ型、背丈は平均的。白髪が増えてきたけれど、身だしなみは常に整っていて、気さくで優しい雰囲気の“理想の職人おじさん”。 持ち場は特に決まっていない。焼き場でも揚場でも、どこでもこなせる万能タイプ。料理長は父だけど、実質的にはギンさんが副料理長のような立ち位置だ。 グリーンバンブーは小さな洋食屋だが、その分だけチームワークは強い。厨房中央にある揚場が要となり、その横に焼き場、デシャップ(配膳)に一人、洗い場も一人。そしてホールは、たった一人で回すのが基本スタイル。 24席の客席を限られた人数で切り盛りする、ハードな現場だけれど――そのぶん、腕の立つスタッフが揃っている。創業以来、味も価格も変えずに守ってきた。無駄を省き、そのぶん料理に全力を注ぐ。それがこの店のやり方だ。 私はそんな環境の中で育ち、父の背中を見てきた。「いつか、父を超える料理人になりたい」 それが私の夢であり、当然の未来だった。 ようやく焼き場を任されるようになって、今が大事な成長期。だからこそ、店を休むわけにはいかない。今日も気を引き締めて臨む。 とはいえ……料理修行だけでなく、“ニセ嫁修行”
「立ち姿がなっておりません!」――びしっ。「歩く姿はもっとエレガントに!」――びしっ。「仮にも一矢様の“妻”になられるお方が、そのようでは困ります!」――びしぃっっ。 ここは三成家、分家の屋敷の一室。 契約結婚とはいえ「結婚する」と一矢が本家に堂々宣言してしまったため、約一ヶ月後に盛大な婚約披露パーティーが開かれることが決まってしまった。 その結果、私は“ニセ嫁修行”と称して、中松からスパルタ指導を受けることになったわけで―― 現在、礼儀作法・立ち居振る舞い・笑顔の作り方まで、びしばしと鍛えられている最中である。 ちなみに“びしっ”という音は、中松のムチ……ではなく、私の心が打ちのめされている音。精神にじわじわ効いてくるタイプの攻撃。 中松は一矢のお付きでありながら、立ち居振る舞いも完璧で、黒髪短髪・鋭い目元のクールなイケメン。スーツ姿で黙っていれば、執事カフェの看板を張れそうなほど絵になる。 年齢は私たちより八歳上。私と一矢がまだ小学生だった頃、三成本家の門前で倒れていた中松を見かねて、私が「助けてあげよう」と言ったのが縁の始まりだ。 中松の過去については多くを語らないけれど、「シマを追われ、抗争に巻き込まれた」という謎のフレーズだけが記憶に残っている。たぶん……鬼ヶ島の“シマ”なんじゃないかな。冗談抜きで、彼は鬼ヶ島出身なのではと思えてくるほど、怖い。「よろしいですか、伊織様。貴女が恥をかくのは一向に構いません。しかし、一矢様に恥をかかせるようなことがあれば……私は決して赦しませんよ」――いやぁぁぁっ。 やっぱり怖いっ! 中松、鬼認定!「さあ、もう一度。線からはみ出さずに、姿勢を正して歩いてください」「……まだやるの?」「顔です! 表情がだらしない! もっと凛とした、品のある表情はできませんか!」 失礼な言い方ね!!「睨むと少しだけ締まった表情になりますね。今の顔はさっきよりマシです。さ、もう一度」 中松は笑顔――のような表情を浮かべたけれど、目がちっとも笑ってない。極寒のブリザードスマイルだった。「ねえ、中松」私はお腹に力を入れて、床に貼られたテープの上を歩きながら聞いてみた。「あなた、私のこと嫌いでしょ?」「伊織様が、もう少し品位あるご婦人であれば良かったのですが」 好きとも嫌いとも言わず、さらりと致命的
「まったく。察しが悪いな。私の専属――つまり、“嫁”になれということだ。私と結婚すればいい。そうすれば、借金は私が肩代わりする」「け、結婚……!?」 突然の提案に思考がフリーズする。「その顔はなんだ。不服そうだな。もっとマシな反応はできないのか?」 ……いや、できないって!「安心しろ。これは“偽装”結婚だ。ぎ・そ・う。どうしようもなくモテる私のもとには、毎日のように縁談が押し寄せてくる。それを回避するためにお前と契約結婚をする。お互いの利益になるだろう。名案だ。さすが私だな」 ドヤ顔で言うのやめてほしい。「最近のトレンドによると、“契約婚”は流行っているらしい。なにも問題はない」 そんなの知らなかったわよ……契約婚がトレンドなんて。「キャー! イチくん、それ名案! いおちゃんをぜひお嫁さんにしてちょうだい!」 さっきまで泣いていた母が、突然ぱっと笑顔になって一矢と私の間に割って入ってきた。「お母さん、なに言ってるの!? 勝手に話進めないでよ!」 契約だって言ってるのに、娘の縁談に飛びつかないでほしい!「イチくん、ありがとね! これでグリーンバンブーも安泰だ!」 今度は父までが、一矢の手を握って感激している。「ちょ、ちょっと待って! どうして私が、一矢と……!」 嬉しい……けど、それは言えない。「だって、お嫁さんになってくれたらお店は売らなくて済むし、家もなくならないんだよ? ね?」 母の “ね?” が軽すぎて、涙が出そうになる。「そうだ伊織。親が困っているんだ。助けるのが子どもってものだろう」「で、でもっ! これって人身売買みたいなものじゃないの!?」「ところで、弁当はいつになったら取り掛かってくれるのだ?」 えっ!? どさくさに紛れてまだお弁当の話するの!? 無理って言ってるのに!「弁当再開は借金問題が片付いたらと伊織が言っただろう。だから私が手を差し伸べて、今、解決したではないか。この提案は感謝して受けるべきだろう。店も守れる。私も縁談を避けられる。毎日弁当も食べられる。完璧だ。反対する理由がどこにある?」「で、でも……一生に一度のことなのよ? 結婚って……」――私、一矢のお嫁さんになりたかったのに。ずっと、ずっと前から。 それなのに、契約結婚=いずれ離婚だなんて。 この初恋、結局は報われないってことじゃ
「定休日でもないのに、店を閉めているとはどういうことだ。表からは入れなかったぞ」「今日は臨時休業よ。悪いけど帰って。今はちょっと、それどころじゃないの」「伊織の事情など、私には関係ない」 また出た、“一矢ルール”。「で、私の弁当はどうなった? わざわざ受け取りに来てやったのだが」 相変わらずの偉そうな態度。だけどその言い草がなぜか癖になる。顔が良すぎるのが彼の罪。「さっき連絡したでしょ? お弁当、今日は作れなかったの」「連絡は見た。しかし、一方的に契約を破棄するとは社会人としてどうかと思う。私の弁当は、どうなる?」「コンビニで我慢してよ! 今、店の存続すら危ういのよ!」「存続危機? まさか……お前が焼き場を担当するようになって、味が落ちて客が減ったとか?」 ……は?「違うわよっ! 失礼なこと言わないで!」「私に向かって“失礼”とはなんだ。聞き捨てならないな」「お願いだから今日は帰ってって言ってるでしょ!」 毎朝一矢は店の“特別弁当”を買いにくる。うちは本来弁当は扱っていないのだけど、「お前が作れ」と理不尽な一矢ルールで始まった習慣も、もう数年。 毎日の感想メールで彼の好みは完全に把握済み。面倒だけど――それでも、好き。だからやめられない。 彼の言葉がいちいち胸に刺さる。 けれど今は、それどころじゃない――「どうして弁当を作るのが無理なのだ? 理由を説明してくれ」「それが…お母さんが勝手に連帯保証人になって、借金一千万円を背負うことになったの。返すあてもなくて、さっきお父さんが“店を売るしかない”って言い出したところだったのよ。そこに、一矢が来たってわけよ」「それは……ずいぶん間の悪いタイミングで来てしまったな」 さすがの一矢も気まずく思ったのか、短く沈黙した。「だから今日はごめんなさい。お弁当を作れなかったの」「それは困る。約束は約束だ」 私の言葉をさらりと切り捨て、一矢はにこやかに微笑んだ。「私は毎日この弁当を楽しみにしている。日替わりメニューが何かを想像しながら仕事をするのが、私の小さな活力なのだ。それがなくなると、仕事に支障をきたす。中松もきっと同じだ」 “中松”とは一矢の付き人――運転手兼マネージャー、そして雑用係のような存在。彼の名は中松道弘。幼少期から一矢の身の回りの世話をしていて、忠誠心はまるで忠犬の
「借金……一千万円ですって――!?」 驚きのあまり、私は思わず叫んでいた。 ここは、都内の老舗洋食店「グリーンバンブー」。創業百年を迎える木造の店は、古びながらも温もりのある佇まいで、長年地元の人々に愛されてきた。朝八時半、開店前の仕込み中に、父・緑竹一平(みどりたけいっぺい)と母・美佐江(みさえ)が突然頭を下げてきたかと思えば、信じがたい言葉が飛び出したのだった。「まあちゃんが困っててね……つい、力になりたくて」「伊織(いおり)、すまん……どうしてもという美佐江の頼みを、断れなかった」 話を聞けば、母の同級生――通称“まあちゃん”の夫がラーメン店を始めるということで、母に連帯保証人を頼んできたのだという。相談されれば反対するだろうと私に黙って、父にだけ話して勝手に引き受けた結果、案の定その“まあちゃん”が失踪。行き場を失って、今ようやく私に打ち明けてきたというわけだった。「信じられない……どうしてそんな大事なことを、勝手に決めちゃうのよ!」「だって、相談したら反対されると思って……私、困っている友達を見捨てられなかったの……」「愛する美佐江が頼んできたんだぞ。断れるわけがないだろう!」 逆ギレ気味の父に、思わず怒りが込み上げる。「そんなことになるって分かってたから、反対するに決まってるでしょう!」 私の怒声に、両親はしゅんとなった。まったく……母は昔からお人よしで、父はその母に甘すぎる。 看板娘としてグリーンバンブーに立っていた母は美人で気立ても良く、お客様からも人気だった。 けれど人を疑うことができず、怪しげな商品を「かわいそうだから」と法外な値段で買ってしまうような人。 そしてそんな母を「優しい」と絶賛し、なんでも許してしまう父。 この夫婦の善意が度を超すとこういう事態になる。だから以前から保証人関係は必ず私を通すようにと、何度も釘を刺していたのに。「もう……どうして、いつもそうなの? 私の身にもなってよ!」「うう……だって……」「“だって”じゃないわよ! 母親なんだから、もっとしっかりして!」 しくしくと泣き出した母の前に父が立ちふさがる。「伊織、もう美佐江を責めないでくれ」「どうして私が悪者になるのよ。いい加減にして……!」 胃が痛くなる。謝るだけでは済まない。そう思っていると、父が床に膝をついて頭を下げた。
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