幼馴染の専業ニセ嫁始めましたが、どうやらニセ夫の溺愛は本物のようです

幼馴染の専業ニセ嫁始めましたが、どうやらニセ夫の溺愛は本物のようです

last updateDernière mise à jour : 2025-08-06
Par:  さぶれ-SABURE-Complété
Langue: Japanese
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創業百年の老舗洋食店を守るため、一千万円の借金返済に追われた料理人・緑竹伊織に、幼馴染で大成功実業家の三成一矢が「契約結婚」を提案。条件は“俺の専用=嫁になれ”。反発しつつも、昔から彼を想い続けていた伊織は葛藤の末に承諾する。 ――でもこれは、いずれ別れる前提の偽装婚。溺愛されるたびに高鳴る恋心は止められなくて…!?

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Chapitre 1

1. 私、一千万円で身売りすることになりました。 その1

「借金……一千万円ですって――!?」

 驚きのあまり、私は思わず叫んでいた。

 ここは、都内の老舗洋食店「グリーンバンブー」。創業百年を迎える木造の店は、古びながらも温もりのある佇まいで、長年地元の人々に愛されてきた。朝八時半、開店前の仕込み中に、父・緑竹一平(みどりたけいっぺい)と母・美佐江(みさえ)が突然頭を下げてきたかと思えば、信じがたい言葉が飛び出したのだった。

「まあちゃんが困っててね……つい、力になりたくて」

「伊織(いおり)、すまん……どうしてもという美佐江の頼みを、断れなかった」

 話を聞けば、母の同級生――通称“まあちゃん”の夫がラーメン店を始めるということで、母に連帯保証人を頼んできたのだという。相談されれば反対するだろうと私に黙って、父にだけ話して勝手に引き受けた結果、案の定その“まあちゃん”が失踪。行き場を失って、今ようやく私に打ち明けてきたというわけだった。

「信じられない……どうしてそんな大事なことを、勝手に決めちゃうのよ!」

「だって、相談したら反対されると思って……私、困っている友達を見捨てられなかったの……」

「愛する美佐江が頼んできたんだぞ。断れるわけがないだろう!」

 逆ギレ気味の父に、思わず怒りが込み上げる。

「そんなことになるって分かってたから、反対するに決まってるでしょう!」

 私の怒声に、両親はしゅんとなった。まったく……母は昔からお人よしで、父はその母に甘すぎる。

 看板娘としてグリーンバンブーに立っていた母は美人で気立ても良く、お客様からも人気だった。

 けれど人を疑うことができず、怪しげな商品を「かわいそうだから」と法外な値段で買ってしまうような人。

 そしてそんな母を「優しい」と絶賛し、なんでも許してしまう父。

 この夫婦の善意が度を超すとこういう事態になる。だから以前から保証人関係は必ず私を通すようにと、何度も釘を刺していたのに。

「もう……どうして、いつもそうなの? 私の身にもなってよ!」

「うう……だって……」

「“だって”じゃないわよ! 母親なんだから、もっとしっかりして!」

 しくしくと泣き出した母の前に父が立ちふさがる。「伊織、もう美佐江を責めないでくれ」

「どうして私が悪者になるのよ。いい加減にして……!」

 胃が痛くなる。謝るだけでは済まない。そう思っていると、父が床に膝をついて頭を下げた。

「スマンったらスマーン!」

 その土下座になんの意味があるの。謝る暇があるならお金を工面してきて欲しい。

「で、どうやって返すの? 一千万円の借金を」

 我が家は代々この洋食店を営んできた。家は持ち家で借金こそないが、母が他人を助けるたびに店の利益を使ってしまい、子だくさんの我が家は貯金もない。一千万円なんて、私のへそくりでどうにかなる額ではない。

 ちなみに、家族構成は父母、長女の私、農業大学に通う妹・美緒、高校三年生の琥太郎、高校一年の悠真、中学一年の樹、小学五年の結。六人兄妹の大家族だ。

 私は大学へは進学せず、高校卒業と同時にグリーンバンブーで働いている。ベテランコックが定年退職したのを機に焼き場を任され、ステーキやグリルチキンなど焼き物全般を担当中だ。将来的には揚場やソースづくりも任されたいと思っている。

「仕方がない。店を手放すしか方法はない。借金のカタに――」

「えええぇぇ――!?」

 思わず声が裏返った。

 百年守ってきたこの店を、そう簡単に「売る」だなんて――どうかしてる!

 しかもここは住居兼店舗。家を手放したら、私たちは一体どこで生活していくというの?

「騒がしいな。朝から何の騒ぎだ?」

 その瞬間重苦しい空気を切り裂いて現れたのが――

「い、一矢……」

 リムレスフレームのメガネ越しに鋭い視線を送ってくるのは、幼馴染の三成一矢(みつなりいちや)。

 今日も彼はイタリアの高級スーツブランド・ブリオーニをまとっている。濃アッシュグレーの髪が柔らかく流れ、常に上品な香りをまとい、どこから見ても“完璧な上流階級の男”だ。

 ……正直、カッコ良すぎる。朝から眼福だとは、口が裂けても言えない。

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1. 私、一千万円で身売りすることになりました。 その1
「借金……一千万円ですって――!?」 驚きのあまり、私は思わず叫んでいた。 ここは、都内の老舗洋食店「グリーンバンブー」。創業百年を迎える木造の店は、古びながらも温もりのある佇まいで、長年地元の人々に愛されてきた。朝八時半、開店前の仕込み中に、父・緑竹一平(みどりたけいっぺい)と母・美佐江(みさえ)が突然頭を下げてきたかと思えば、信じがたい言葉が飛び出したのだった。「まあちゃんが困っててね……つい、力になりたくて」「伊織(いおり)、すまん……どうしてもという美佐江の頼みを、断れなかった」 話を聞けば、母の同級生――通称“まあちゃん”の夫がラーメン店を始めるということで、母に連帯保証人を頼んできたのだという。相談されれば反対するだろうと私に黙って、父にだけ話して勝手に引き受けた結果、案の定その“まあちゃん”が失踪。行き場を失って、今ようやく私に打ち明けてきたというわけだった。「信じられない……どうしてそんな大事なことを、勝手に決めちゃうのよ!」「だって、相談したら反対されると思って……私、困っている友達を見捨てられなかったの……」「愛する美佐江が頼んできたんだぞ。断れるわけがないだろう!」 逆ギレ気味の父に、思わず怒りが込み上げる。「そんなことになるって分かってたから、反対するに決まってるでしょう!」 私の怒声に、両親はしゅんとなった。まったく……母は昔からお人よしで、父はその母に甘すぎる。 看板娘としてグリーンバンブーに立っていた母は美人で気立ても良く、お客様からも人気だった。  けれど人を疑うことができず、怪しげな商品を「かわいそうだから」と法外な値段で買ってしまうような人。 そしてそんな母を「優しい」と絶賛し、なんでも許してしまう父。 この夫婦の善意が度を超すとこういう事態になる。だから以前から保証人関係は必ず私を通すようにと、何度も釘を刺していたのに。「もう……どうして、いつもそうなの? 私の身にもなってよ!」「うう……だって……」「“だって”じゃないわよ! 母親なんだから、もっとしっかりして!」 しくしくと泣き出した母の前に父が立ちふさがる。「伊織、もう美佐江を責めないでくれ」「どうして私が悪者になるのよ。いい加減にして……!」 胃が痛くなる。謝るだけでは済まない。そう思っていると、父が床に膝をついて頭を下げた。
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1. 私、一千万円で身売りすることになりました。 その2
「定休日でもないのに、店を閉めているとはどういうことだ。表からは入れなかったぞ」「今日は臨時休業よ。悪いけど帰って。今はちょっと、それどころじゃないの」「伊織の事情など、私には関係ない」 また出た、“一矢ルール”。「で、私の弁当はどうなった? わざわざ受け取りに来てやったのだが」 相変わらずの偉そうな態度。だけどその言い草がなぜか癖になる。顔が良すぎるのが彼の罪。「さっき連絡したでしょ? お弁当、今日は作れなかったの」「連絡は見た。しかし、一方的に契約を破棄するとは社会人としてどうかと思う。私の弁当は、どうなる?」「コンビニで我慢してよ! 今、店の存続すら危ういのよ!」「存続危機? まさか……お前が焼き場を担当するようになって、味が落ちて客が減ったとか?」 ……は?「違うわよっ! 失礼なこと言わないで!」「私に向かって“失礼”とはなんだ。聞き捨てならないな」「お願いだから今日は帰ってって言ってるでしょ!」 毎朝一矢は店の“特別弁当”を買いにくる。うちは本来弁当は扱っていないのだけど、「お前が作れ」と理不尽な一矢ルールで始まった習慣も、もう数年。 毎日の感想メールで彼の好みは完全に把握済み。面倒だけど――それでも、好き。だからやめられない。 彼の言葉がいちいち胸に刺さる。 けれど今は、それどころじゃない――「どうして弁当を作るのが無理なのだ? 理由を説明してくれ」「それが…お母さんが勝手に連帯保証人になって、借金一千万円を背負うことになったの。返すあてもなくて、さっきお父さんが“店を売るしかない”って言い出したところだったのよ。そこに、一矢が来たってわけよ」「それは……ずいぶん間の悪いタイミングで来てしまったな」 さすがの一矢も気まずく思ったのか、短く沈黙した。「だから今日はごめんなさい。お弁当を作れなかったの」「それは困る。約束は約束だ」 私の言葉をさらりと切り捨て、一矢はにこやかに微笑んだ。「私は毎日この弁当を楽しみにしている。日替わりメニューが何かを想像しながら仕事をするのが、私の小さな活力なのだ。それがなくなると、仕事に支障をきたす。中松もきっと同じだ」 “中松”とは一矢の付き人――運転手兼マネージャー、そして雑用係のような存在。彼の名は中松道弘。幼少期から一矢の身の回りの世話をしていて、忠誠心はまるで忠犬の
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1. 私、一千万円で身売りすることになりました。 その3
「まったく。察しが悪いな。私の専属――つまり、“嫁”になれということだ。私と結婚すればいい。そうすれば、借金は私が肩代わりする」「け、結婚……!?」 突然の提案に思考がフリーズする。「その顔はなんだ。不服そうだな。もっとマシな反応はできないのか?」 ……いや、できないって!「安心しろ。これは“偽装”結婚だ。ぎ・そ・う。どうしようもなくモテる私のもとには、毎日のように縁談が押し寄せてくる。それを回避するためにお前と契約結婚をする。お互いの利益になるだろう。名案だ。さすが私だな」 ドヤ顔で言うのやめてほしい。「最近のトレンドによると、“契約婚”は流行っているらしい。なにも問題はない」 そんなの知らなかったわよ……契約婚がトレンドなんて。「キャー! イチくん、それ名案! いおちゃんをぜひお嫁さんにしてちょうだい!」 さっきまで泣いていた母が、突然ぱっと笑顔になって一矢と私の間に割って入ってきた。「お母さん、なに言ってるの!? 勝手に話進めないでよ!」 契約だって言ってるのに、娘の縁談に飛びつかないでほしい!「イチくん、ありがとね! これでグリーンバンブーも安泰だ!」 今度は父までが、一矢の手を握って感激している。「ちょ、ちょっと待って! どうして私が、一矢と……!」 嬉しい……けど、それは言えない。「だって、お嫁さんになってくれたらお店は売らなくて済むし、家もなくならないんだよ? ね?」 母の “ね?” が軽すぎて、涙が出そうになる。「そうだ伊織。親が困っているんだ。助けるのが子どもってものだろう」「で、でもっ! これって人身売買みたいなものじゃないの!?」「ところで、弁当はいつになったら取り掛かってくれるのだ?」 えっ!? どさくさに紛れてまだお弁当の話するの!? 無理って言ってるのに!「弁当再開は借金問題が片付いたらと伊織が言っただろう。だから私が手を差し伸べて、今、解決したではないか。この提案は感謝して受けるべきだろう。店も守れる。私も縁談を避けられる。毎日弁当も食べられる。完璧だ。反対する理由がどこにある?」「で、でも……一生に一度のことなのよ? 結婚って……」――私、一矢のお嫁さんになりたかったのに。ずっと、ずっと前から。 それなのに、契約結婚=いずれ離婚だなんて。 この初恋、結局は報われないってことじゃ
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2.ニセ嫁修行、始めました。 その1
 「立ち姿がなっておりません!」――びしっ。「歩く姿はもっとエレガントに!」――びしっ。「仮にも一矢様の“妻”になられるお方が、そのようでは困ります!」――びしぃっっ。 ここは三成家、分家の屋敷の一室。 契約結婚とはいえ「結婚する」と一矢が本家に堂々宣言してしまったため、約一ヶ月後に盛大な婚約披露パーティーが開かれることが決まってしまった。 その結果、私は“ニセ嫁修行”と称して、中松からスパルタ指導を受けることになったわけで―― 現在、礼儀作法・立ち居振る舞い・笑顔の作り方まで、びしばしと鍛えられている最中である。 ちなみに“びしっ”という音は、中松のムチ……ではなく、私の心が打ちのめされている音。精神にじわじわ効いてくるタイプの攻撃。 中松は一矢のお付きでありながら、立ち居振る舞いも完璧で、黒髪短髪・鋭い目元のクールなイケメン。スーツ姿で黙っていれば、執事カフェの看板を張れそうなほど絵になる。 年齢は私たちより八歳上。私と一矢がまだ小学生だった頃、三成本家の門前で倒れていた中松を見かねて、私が「助けてあげよう」と言ったのが縁の始まりだ。 中松の過去については多くを語らないけれど、「シマを追われ、抗争に巻き込まれた」という謎のフレーズだけが記憶に残っている。たぶん……鬼ヶ島の“シマ”なんじゃないかな。冗談抜きで、彼は鬼ヶ島出身なのではと思えてくるほど、怖い。「よろしいですか、伊織様。貴女が恥をかくのは一向に構いません。しかし、一矢様に恥をかかせるようなことがあれば……私は決して赦しませんよ」――いやぁぁぁっ。 やっぱり怖いっ! 中松、鬼認定!「さあ、もう一度。線からはみ出さずに、姿勢を正して歩いてください」「……まだやるの?」「顔です! 表情がだらしない! もっと凛とした、品のある表情はできませんか!」 失礼な言い方ね!!「睨むと少しだけ締まった表情になりますね。今の顔はさっきよりマシです。さ、もう一度」 中松は笑顔――のような表情を浮かべたけれど、目がちっとも笑ってない。極寒のブリザードスマイルだった。「ねえ、中松」私はお腹に力を入れて、床に貼られたテープの上を歩きながら聞いてみた。「あなた、私のこと嫌いでしょ?」「伊織様が、もう少し品位あるご婦人であれば良かったのですが」 好きとも嫌いとも言わず、さらりと致命的
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2.ニセ嫁修行、始めました。 その2
「中松。送ってもらわなくてもいいよ。自分で帰れるし」「いけません。仮にも三成家の“ご婦人”となるお方が、自転車通勤などもってのほか。ご近所様の目もございます」「……でも、その自転車で買い出しにも行くんだけど。置いて帰ると困るな」「後ほど店の方へお届けいたします。では参りましょう。午後三時、営業時間終了に合わせて再度迎えに上がります。よろしいですね」「……はあ」「姿勢が崩れております! しゃきっとなさってください!」 最後の最後まで、姿勢チェックは続く――中松、鬼ぃぃ……!!  先を歩く中松の背中に向かって――こっそり舌を出した。 鬼中松に店まで送ってもらい、到着するや否や制服に着替え、開店と同時にグリーンバンブーの厨房に立つ。「聞いたよー、いおちゃん。イチのヤツと結婚するんだって?」 声をかけてきたのは、田村銀次郎――通称ギンさん。(……“偽装”だけどね) ギンさんは私が生まれる前から店で働いているベテランの料理人。幼い頃、我が家に入り浸っていた一矢のこともよく知っていて、家族のような存在だ。 和食も洋食も器用にこなし、特にまかない飯のセンスは抜群。五十五歳、痩せ型、背丈は平均的。白髪が増えてきたけれど、身だしなみは常に整っていて、気さくで優しい雰囲気の“理想の職人おじさん”。 持ち場は特に決まっていない。焼き場でも揚場でも、どこでもこなせる万能タイプ。料理長は父だけど、実質的にはギンさんが副料理長のような立ち位置だ。  グリーンバンブーは小さな洋食屋だが、その分だけチームワークは強い。厨房中央にある揚場が要となり、その横に焼き場、デシャップ(配膳)に一人、洗い場も一人。そしてホールは、たった一人で回すのが基本スタイル。  24席の客席を限られた人数で切り盛りする、ハードな現場だけれど――そのぶん、腕の立つスタッフが揃っている。創業以来、味も価格も変えずに守ってきた。無駄を省き、そのぶん料理に全力を注ぐ。それがこの店のやり方だ。 私はそんな環境の中で育ち、父の背中を見てきた。「いつか、父を超える料理人になりたい」  それが私の夢であり、当然の未来だった。 ようやく焼き場を任されるようになって、今が大事な成長期。だからこそ、店を休むわけにはいかない。今日も気を引き締めて臨む。 とはいえ……料理修行だけでなく、“ニセ嫁修
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2.ニセ嫁修行、始めました。 その3
 自転車で五分もかからない距離をわざわざ車で送迎されて三成家に到着した。本家に比べれば小さな屋敷とはいえ、それでも十分に広くてまるで小さな城のような家。 広大な敷地に、一矢のためだけに建てられたという邸宅。中松もここに住み込んでいて、コックをはじめとする数名の使用人が出入りしている。広々としたゲストルームまで備えられ、かくれんぼでもできそうな空間。無駄な調度品は一切なく、白を基調にした上品な造りに、立派な門構え。敷地内には、一矢所有の高級車が二台、そして中松が使う送迎用リムジンが一台、計三台が並び、それでもまだ余裕があるほどの庭に、美しく手入れされた緑が広がっている。 一階が洋食店舗、狭い二階と三階が住居。大家族で暮らす我が家とは、まるで別世界のようだ。 それにしても――初恋の相手がこれほどまでに厄介な存在だったとは思わなかった。  身分差がある恋だとわかっていたけれど、まさか“ニセ嫁”としてこの家に入ることになるなんて、当時は想像すらしていなかった。  でも、これはチャンス! 一矢の本妻になれる可能性が、ほんの少しでもあるのなら――。  グリーンバンブーで働き始めてからというもの、ここを訪れる機会は少なくなっていた。久しぶりに足を踏み入れる豪邸に、思わず背筋を正して「お邪魔いたします」と丁寧に挨拶した。 磨き上げられた大理石の床。石の種類も名前も知らないけれど、高価なことは素人目にも分かる。廊下や部屋、階段に至るまで、どこを見ても隙のない美しさ。天井か
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3.お帰りのキスを強要する旦那様(ニセ)。 その1
 あれから、いわゆる“ニセ嫁修行”なるものを懸命にこなしていたのだけれど――すでに心身ともに限界を迎えつつある。全身に疲労がまとわりついて離れず、まさに疲労困憊の極みに達していた。体力的にも精神的にも限界。もう無理。鬼のような修行に音を上げそうだった。 修行初日だというのに、この仕打ち。気力はあったはずなのに、始まってみれば予想を遥かに超える過酷さ。想像していたよりも何倍もキツすぎた。いきなり心が折れかけている自分に情けなさを覚える。 きつく締め付けられたコルセットのおかげで、辛うじて姿勢は保たれていたものの――その苦しさは想像を絶していた。息を吸うだけでも胸が締めつけられ、少しでも姿勢が乱れようものなら、すぐさま“鬼”中松の冷たい嫌味が容赦なく飛んでくる。まるで呼吸する隙さえ与えてもらえない。油断なんて、もってのほか。片時も気を抜けない、まさに戦場のような修行時間だった。 テーブルマナーに始まり、話し方や言葉遣い、日常の所作や立ち居振る舞いに至るまで――とにかく全てにおいてダメ出しの嵐。なにをしても「その程度では駄目です」「おやめください」「やり直しでございます」とピシャリ。心が何度折れかけたかわからない。それでも必死に食らいついたが、まともにひとつとして修正できぬまま、とうとう午後七時を迎えてしまった。 ようやく、“ニセ嫁修行”の一日目が強制終了の運びとなりました。 ……もう、限界。体はガチガチ、お腹はぺこぺこ。空腹で倒れそう。 そんな私の前に、またしても“あの男(オニ)”が現れる。「そろそろ一矢様がお帰りになるお時間でございます。早速、お出迎えのご準備をお願いいたします。くれぐれも、失敗は赦しませんよ」 ひいぃぃ……。まただ。出た、鬼中松。 彼はまるで鬼ヶ島から遣わされた鬼将軍。こっちは疲れて瀕死状態なのに、その無慈悲な通告はいつも通り冷たく鋭い。心の中で何度「もうやめて」と叫んだことか。  けれど――今この瞬間こそ、気を抜いてはならない。悪い姿勢のまま一矢を出迎えたり、言葉遣いが拙かったりすれば、それだけで地獄のような嫌味タイムになるだろう。それは嫌ぁぁ。  コルセットに締めつけられた身体に、さらに気合いを込めて力を入れた。 せめて今日だけは、最後の最後くらい成功させたい。  中松の嫌味でシメたくない。こんな気持ちのまま家に帰
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3.お帰りのキスを強要する旦那様(ニセ)。 その2
 「「あっ……」」 私と中松は、ほぼ同時に驚きの声をあげ、一斉に声の主へと顔を向ける。 「これはこれは一矢様、お帰りに気づかず、大変失礼いたしました」 珍しく中松が慌てふためいた様子で深く頭を下げた。その姿は日頃の冷静沈着な態度からは想像もつかないほど狼狽しており――ふふ、内心で思わずニヤリとしてしまった。 こんなふうに中松が動揺するところを見るのは初めて。  主人(ニセだけど)に詫びるその姿は、まさに嫁(ニセだけど)としてはちょっぴり愉快だった。「一矢様、インターフォンはお鳴らしにならなかったのでしょうか? 玄関にてお出迎えができず、私としたことが大変申し訳ございません」「いや、インターフォンは鳴らしていない。我が“妻”がどのように修行を積んでいるのか、その様子を少しばかり見てみたくなってな。セキュリティを自ら解除して、静かに入ってきた」「左様でございましたか。まさかそのようなお考えとは露知らず……。一矢様のご意向を先に確認すべきでした。改めて、深くお詫び申し上げます」 中松はすぐさま態度を改め、完璧にスマートな所作で再び頭を下げた。そして、私の方にチラリと視線を送る。無言で訴えかけているその眼差しに気づき、私は慌てて一歩前に出た。  「お、お帰りなさいませ、一矢様」  挨拶が少し遅れてしまった。普段の私なら、ゆるめのTシャツに気楽なトップス、下はゴムの入った楽なズボンというのが定番スタイル。お洒落をするのは家族で外食するときか、仲の良い友人たちと街に繰り出すときくらいだった。 そんな私が今身につけているのは、薄いピンク色の上品なワンピース。襟元と袖には繊細なレースが施されており、丈は膝下まである。全長はおよそ百二十センチほど。柔らかく広がるふんわりとしたフォルムは、まさに“お嬢様”そのものの装いだ。 もちろん、この衣装は中松が私の“ニセ嫁修行”の一環として用意してくれたもの。一矢の趣味なのか、それとも中松の趣味なのか、その真相は不明。でも、どう見ても高級ブランドの一着であることだけは確かで、その価格は……きっと恐ろしいほど。 私は背筋をピンと伸ばし、コルセットで締め上げたお腹にさらに力を込めるようにして、その場に立った。ニセ嫁として、ここまで積み重ねてきた努力の証を――今ここで、ニセ夫にしっかりと見せなければ。 「……ほう。
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3.お帰りのキスを強要する旦那様(ニセ)。 その3
「玄関先でこんなに笑ったのも、中松の怒り出しそうな顔を見たのも、正直これが初めてだ。あいつはいつだって涼しい顔をしていて、感情を滅多に表に出さないからな。だが、今の様子を見ていれば一目瞭然。伊織には随分と手を焼いているのが、よくわかる」 一矢はそう言って、ふっと優しい微笑みを浮かべた。  細く切れ長の目がほんの少し細められ、整った顔立ちに柔らかい光が差し込んだように見えた――まるで初夏の風のような、爽やかで心地よい笑顔。  思えば私たちは長い付き合いだけれど、こんな穏やかな表情を一矢が見せるのは稀だった。いつも気難しい顔をしていることが多いから。  それは彼の取り巻く環境のせいだってわかっている。素直に笑ったり喜んだりできなかったから、一矢はめちゃくちゃにひねくれてしまった。「うん、いいな。……悪くない」 唐突に一矢が私をまっすぐに見つめ、ぽつりと呟いた。「えっ? な、なにが……? あっ、もしかしてこの服のこと……? その……鬼、じゃなくて中松が用意してくれたの。私、こういうお嬢様みたいなワンピースは初めてで、ちょっと落ち着かないけど……でも、サイズがぴったりだったから、自分でも驚いてるの」 慌てて言い訳のように口にすると、一矢の表情がふっと翳った。「伊織。……主人が帰ってきたばかりだというのに、ほかの男の話をするのは控えた方がいい」「ほかの男って……中松のこともダメなの?」「当然。不愉快だ」 ピシャリと断言されて、私は思わず背筋を伸ばし直す。  一矢が「不愉快だ」とはっきり言葉にする時、それはほんとうに“嫌だ”というサイン。幼い頃から一緒に育ったからこそ、私は彼の癖や言い回し、考え方の癖までも熟知しているつもりだ。でも――そんな私でも、わからないのがひとつだけある。 一矢の「気持ち」だけは、どうしても読めない。  私のことを、彼がどう思っているのか。それが、怖くて聞けない。 たぶん彼は私のことなんて、幼馴染の友達としか思っていないはず。  彼の周囲には、上流階級の美しい令嬢たちがたくさんいる。パーティーや社交の場で知り合う人々も、きっと華やかで洗練されている。  汗まみれでキッチンに立ち、洋食屋で働く私なんて敵うはずもない。 だから私は未だに一矢に「好き」と言えない。  振られるのが怖くて、気持ちを打ち明ける
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