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16.新しい生活

last update Last Updated: 2025-06-29 07:25:27

 予定通り退院し、私はほんとうに日比野先生の家にやってきた。

 先生の家は、広々とした4LDKの一軒家だった。

 そのうちのひと部屋を、私の自由に使わせてくれるらしい。

 玄関を開けると、ふわりとした毛並みの猫が出迎えてくれた。

 三毛模様の美しい猫は、先生の姿を見るなり「にゃーん」と声を上げる。

 リビングへ案内されると、広いLDKが目の前に広がった。

 ダイニングテーブル、ソファ、テレビ、棚――必要最低限の家具しか置かれていない、シンプルな空間。

「黒磯さん、今日からここが君の家になるよ。遠慮しないで、好きに過ごして」

「……」

 私はまだ戸惑いが抜けず、言われるままにその場に立ち尽くした。

 先生はネクタイを外し、シャツの第一ボタンを緩める。

 その何気ない仕草を、私はただぼんやりと見つめてしまった。

「……見られると、ちょっと恥ずかしいな。突っ立ってないで、ソファに座りなよ」

「……」

 小さく頷いて、ふわふわのソファに腰を下ろす。

 病院の布団とは比べ物にならない柔らかさに、身体の力がすこしだけ抜けた。

「……」

 けれど、気持ちはまだ落ち着かない。意味もなく、両手を擦り合わせてしまう。

 すると、さっきの猫が静かに歩み寄ってきた。

 私の隣に座り、身を寄せる。

 温かかった。

 驚くほど、猫の体温が優しく感じる。

 猫は私の存在を怖がる様子もなく、安心しきったようにあくびをひとつ零していた。

「お、ジャスティス。もう黒磯さんに懐いたのか?」

「……」

「……あ、猫の名前ね。ジャスティスっていうんだ」

 先生の言葉を聞き、私はそっと手を伸ばして猫の頭を撫でた。

 ジャスティスは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと喉を鳴らす。

「良かったな、ジャスティス。撫でてもらえて」

「にゃーん……」

 先生が声をかけると、ジャスティスはちゃんと返事をした。

 そのやり取りが、なんだか微笑ましくて。

 久しぶりに、自分の口角がふわりと上がった気がした。

 私のアパートに残している荷物は、今後すこしずつ運び出すことになった。

 ただし、〝先生の休みの日にふたりで〟という条件付き。

 退院はしたけれど、私はまだ完治していない。

 そんな私に対して、先生は優しすぎる約束をいくつか提示してきた。

 1、家事や掃除はしないこと。

 2、外出はOK。でも行き先と帰宅時間は必ず
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  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   16.新しい生活

     予定通り退院し、私はほんとうに日比野先生の家にやってきた。 先生の家は、広々とした4LDKの一軒家だった。 そのうちのひと部屋を、私の自由に使わせてくれるらしい。 玄関を開けると、ふわりとした毛並みの猫が出迎えてくれた。 三毛模様の美しい猫は、先生の姿を見るなり「にゃーん」と声を上げる。 リビングへ案内されると、広いLDKが目の前に広がった。 ダイニングテーブル、ソファ、テレビ、棚――必要最低限の家具しか置かれていない、シンプルな空間。「黒磯さん、今日からここが君の家になるよ。遠慮しないで、好きに過ごして」「……」 私はまだ戸惑いが抜けず、言われるままにその場に立ち尽くした。 先生はネクタイを外し、シャツの第一ボタンを緩める。 その何気ない仕草を、私はただぼんやりと見つめてしまった。「……見られると、ちょっと恥ずかしいな。突っ立ってないで、ソファに座りなよ」「……」 小さく頷いて、ふわふわのソファに腰を下ろす。 病院の布団とは比べ物にならない柔らかさに、身体の力がすこしだけ抜けた。「……」 けれど、気持ちはまだ落ち着かない。意味もなく、両手を擦り合わせてしまう。 すると、さっきの猫が静かに歩み寄ってきた。 私の隣に座り、身を寄せる。 温かかった。 驚くほど、猫の体温が優しく感じる。 猫は私の存在を怖がる様子もなく、安心しきったようにあくびをひとつ零していた。「お、ジャスティス。もう黒磯さんに懐いたのか?」「……」「……あ、猫の名前ね。ジャスティスっていうんだ」 先生の言葉を聞き、私はそっと手を伸ばして猫の頭を撫でた。 ジャスティスは気持ちよさそうに目を細め、ゆっくりと喉を鳴らす。「良かったな、ジャスティス。撫でてもらえて」「にゃーん……」 先生が声をかけると、ジャスティスはちゃんと返事をした。 そのやり取りが、なんだか微笑ましくて。 久しぶりに、自分の口角がふわりと上がった気がした。◇ 私のアパートに残している荷物は、今後すこしずつ運び出すことになった。 ただし、〝先生の休みの日にふたりで〟という条件付き。 退院はしたけれど、私はまだ完治していない。 そんな私に対して、先生は優しすぎる約束をいくつか提示してきた。 1、家事や掃除はしないこと。 2、外出はOK。でも行き先と帰宅時間は必ず

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   15.提案

     ――日比野先生の、家? まるで冗談みたいな提案に、私は言葉を失ったまま先生を見つめた。  けれど、先生の瞳は、驚くほど真剣だった。「退院させるけど、ほんとうは心配なんだ。黒磯さん自身も、独りは寂しいんじゃない……?」 ゆっくりと頷きそうになる自分がいた。  けれど、どうしてもそれは〝甘え〟のような気がして、思いとどまる。 私は、先生の腕をそっと叩いて距離を取った。  枕元に置いていたノートを取り、ペンを走らせる。【さびしい。不安。でも、先生の迷惑になる】 それを見た先生は、思わず吹き出した。「迷惑なんて、全然ないよ。というかね、君が泣いていなかったとしても、僕は最初からそう言うつもりだったんだ。これまでの差し入れだって、ぜんぶ君だけだよ?」 ……ほんとうに?  先生のその言葉が、ただの〝優しさ〟ではないのだとしたら―—。【いま家には何人ですか?】 【私みたいな人、何人いますか?】 書き足した言葉に、先生の表情が固まる。 「……もしかして、僕が受け持った患者をみんな自宅に連れて帰っていると思われている……?」 私は、小さく首を傾げた。「……勘弁してよ。黒磯さん、君だからだよ。僕がこうやって毎日会いに来て、家に誘ってるのは、君だけなんだ」 その真っ直ぐな言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。 先生は私のノートを取り上げ、再び優しく抱きしめてくれた。「……家には、僕と、猫が一匹。君が気を遣わなくて済むように。お金も、心配しなくていい。療養に専念してくれたら、それでいい」 そんなの、ずるい。  どこまで優しいのか、この人は。 でも、駄目だ。  私は、赤の他人。  甘えるわけにはいかない。 ノートを奪い返すようにして、再び言葉を書く。【嬉しい。でも甘えられません。ひとりでがんばります】 先生は大きくため息をついた。「……はぁ。君って、ほんとうに頑固だね」 「……」「僕が〝いい〟と言っているんだ。すこしは素直になってよ」 そう言って、私の髪をそっと撫でてくれる。  そのぬくもりに、また涙が溢れそうになった。 私は先生を見つめ、小さく頷いた。 それを見て、先生はすこし照れくさそうに笑ったあと、ゆっくりと私の頬に触れる。「どうしても〝気になる〟って言うなら……君は、僕の家族になればいい」 ――え?「いつかそ

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   14.退院

     入院して、半年が過ぎた。 ようやく、退院の日が決まった。 毎日のように見つめていた窓の外。変化なんてないと思っていた大きな木には、気づけば淡いピンク色の花が咲いていた。 なんの木かわからなかったあれは、桜の木だったのか――。 春風に舞う花びらが、まるで私の退院を祝ってくれているようだった。 けれど……不思議と、嬉しくなかった。 緘黙症は完治していない。日比野先生は「長期戦になる」と言っていた。 話せないままでは、すぐに仕事にも戻れないかもしれない。最近はそんな不安が、頭をよぎる。 春を運ぶ風に揺れるカーテンをぼんやり眺めていると、二重の扉が開く音がした。「黒磯さん、おはよう」 日比野先生だった。白衣姿のまま、ペコリと小さく頭を下げる。「ここにいるのも、あと1週間だね」 私は何も言わず、ただ小さくうなずいた。 あと1週間。 心の奥に、微かな不安があった。 この半年間、日比野先生は仕事の合間を縫って、毎日私の元を訪れてくれた。 休みの日も含めて、一日も欠かさずに、だ。 だから正直、病院で孤独を感じることはそんなになかった。 ——一方。退院したら、どうなるのだろう。 ひとり暮らしのアパートに戻っても、仕事復帰はまだできない。 誰にも会わない生活。誰とも喋らない毎日。 そして、日比野先生も、もう来ない。 想像するだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。「疲れたでしょ、ここでの生活も」 先生が椅子に腰かけて、静かに笑う。 あんなに嫌いだった日比野先生なのに、その笑顔すらまぶしく映る。 笑顔を見た瞬間、溜め込んでいた感情が、決壊した。 ぽろぽろと涙が零れ落ちる。頬を伝い、シーツに音を立てて落ちて止まらない。「え……黒磯さん?」 先生が驚いたように駆け寄ってきた。 しかし、涙は止まらなかった。むしろ加速して、嗚咽が漏れた。 ——ほんとうは、不安だった。 先生がいなくなることが、たまらなく怖かった。「黒磯さん、どうしたの?」 問いかけには答えられない。ただ、うつむいたまま泣き続けた。 すると——そっと、先生の両腕が私を包み込む。「……」 あたたかかった。優しかった。 その温度に、胸の奥がほどけていく気がする。 しばらくその温度を体で感じていると、ふと耳元に、先生の声が落ちてきた。「ねぇ、黒磯さん……僕の

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   13.季節行事

    「メリークリスマス、黒磯さん!」 勢いよくドアが開いたかと思えば、いつもの白衣姿の上に、赤いサンタ帽をちょこんと乗せた日比野先生が現れた。「……」 まだ12月24日、いわゆる〝イブ〟だけれど、先生の浮かれ具合を見る限り、すでに本番のようだ。 私は思わず手を叩いた。最初は控えめに、そしてしだいに、拍手に変わる。無言のまま、パチパチと音だけで感情を伝えた。「お、リアクションもらえた」 先生はおどけたように笑いながら、懐からなにかを取り出す。 それは、トナカイのツノがついたカチューシャだった。「はい、黒磯さんにもこれを」「……」 何も言えないまま、私はされるがまま。先生はそっとそれを私の頭につける。「ふふ。似合ってるよ」 そう言って、いたずらっぽく微笑んだ。 似合っているかどうかは正直わからない。でも、先生のその目線がやさしくて、胸の奥にすこしだけ温かいものが灯る。◇ 就職してからというもの、季節の行事なんてまるで縁がなかった。 仕事に追われて、曜日も祝日も、ただの〝数字〟でしかなかった。 毎日モニターの前で、延々とコードを書いていた日々。あの頃は、クリスマスすら〝無関係〟だった。 ——なのに、今。 病室で、こうしてイベントの匂いを感じることができている。「……」 ふと胸の奥に、ぽつんと小さな空白が広がった。「ん、黒磯さん? どうかした?」 先生が気づいて、私のほうへ近づいてくる。 左手で頬をそっと包み、覗き込むように言った。「クリスマス、なにか嫌な思い出でもあった?」「……」 首を横に振る。ちがう、そうではない。 でも言葉が出てこない。焦って、枕元に置いてあったノートを開く。 ペンを取り、ゆっくりと文字を書く。【クリスマス、嬉しい】「……そうか」 先生の目がふわりとやわらかくなる。 サンタ帽の白いポンポンが、揺れるたびに、やけに目に入る。 ——この人は、ほんとうに冷酷なんだろうか。 会社だけではなく、病院内でもそう噂されていた。無愛想で、患者に対してドライだと。 でも、すくなくとも私にとっての日比野先生はちがう。 やさしくて、構ってくれて、きちんと見てくれる人だった。 だからこそ、不思議だった。 なぜこんなに、私のことを気にかけてくれるのだろう。 他の患者にも、同じようにやさしいのだろうか

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   12.日付感覚

     私の中には、季節感も曜日感覚もない。 今日が何月何日なのかさえ、正確にはわからなかった。もともと働いていた頃からそうだったし、入院生活でますます曖昧になった。 そんな私も、もうすぐ入院して4か月が経つらしい。最近は、体調がずいぶん良くなってきたという実感がある。『12月12日 火曜日 漢字の日』 日比野先生から渡された日めくりカレンダーを、私は毎朝めくる。 「起きたら1枚めくって読むこと」と言われていて、それが今の私の日課になっている。 これは、日付の感覚がない私への、先生からのプレゼントだった。 カレンダーの隣には、来年用の分まで用意されている。 すこし前、先生と交わした会話がきっかけだった。『もうすぐクリスマスだね』『……』 首を傾げると、先生も同じように首を傾げた。『今日の日付わかる? 一応、カレンダーもかかってるし、食事の品書きにも日付が書いてあると思うけど』『……』 私は小さく首を横に振った。 先生は「うーん」と唸り、しばらく考え込んでいたけれど、その翌日、何も言わずカレンダーを手渡してきたのだった。「……火曜日」 私は日付と曜日を小さく声に出す。 そして、今日は何の日かを読む。 これが毎朝のルーティンになった。「黒磯さん、おはよう」「……今日は、12月12日……」 扉が開いたことに気づかないほど集中していた私は、先生の声に驚いて、肩をすくめた。「ねぇ黒磯さん、今日は何の日か教えて」「……」「何の日って書いてある?」「……漢字の……日」「そうか、今日は漢字の日なのか」 先生は近づいてきて、私の頭をやさしく撫でた。 最近、この手の温かさに、私は妙な安心感を覚える。「声を出す練習、頑張ってるね」「…………」 あの日、自殺未遂をしてから、私は声を出すことが難しくなった。 入院してすぐ、先生は何度も「何か話して」「どうして黙ってるの?」と声をかけてきた。 美味しいものを食べたときなど、感情が強く動いたときには「美味しい」などの単語が口から漏れるのに、普通の会話ができない。 先生は診察の結果を伝えてくれた。 ——緘黙症。 精神的ショックや強いストレスから、言葉を失う病気だという。 あのときの衝動、焦燥、不安——それらすべての反動が、今の私を形づくっているらしい。 心には言葉がある。言い

  • 人生を諦めた私へ、冷酷な産業医から最大級の溺愛を。   11.静けさ

     病室に静寂が戻ると、日比野先生はゆっくりと私の隣に腰を下ろした。 その動作ひとつさえ、やけに丁寧で、やさしさが滲んでいた。 何も言わずに、ただ私の顔を見つめる。じっと、静かに、熱を持たないはずの視線が、なぜだか胸の奥をじんわりと焼くようだった。 その視線が、あたたかい。 でも、それがなぜだか、痛かった。 先生は白衣のポケットに手を入れ、ひとつの小さな袋を取り出して、そっと私の手のひらに乗せた。「……はい、クッキー」 見ると、それはどこかで見覚えのある可愛らしいパッケージだった。 動物の顔がプリントされた、小さなひとくちサイズのクッキー。子どもの頃、よく食べたあのシリーズだ。 懐かしさがふわりと胸をくすぐる。「お見舞いってほどではないけど。甘いもの、あったほうがいいでしょ」 私は袋を開けて、そっと一枚を口に運んだ。 バターの香りがふわっと鼻腔を満たし、歯を立てた瞬間、さくりと軽い音が口の中に広がる。 優しい甘さが、乾いた心の隙間に染みていくようだった。「……美味しい」 ぽつりと、思わず零れたその言葉に、先生は少し驚いたように目を細めて、それからふっと微笑んだ。「それは良かった」 その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぐしゃっと音を立てて潰れるようだった。 喉の奥がきゅっと締まり、目の奥が熱くなる。 気づけば、ひと粒、またひと粒、頬を伝って涙が零れていた。 張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたのだ。 堰を切ったように、何かがこみ上げてきた。 先生は一瞬驚いたように目を見開き、それから、ゆっくりと私の手を取った。 私の手は震えていた。でも先生は、ためらわずその手を包み込み、やさしく握りしめてくれる。「黒磯さん……」「……わたし……」 嗚咽のように、小さな言葉がこぼれる。 ずっと言えなかった感情の残滓が、言葉になってようやく滲み出した。「……あの人が、嫌だった……」 口に出すことが、こんなにも難しいなんて。 でも言えた。確かに私は、加賀さんが怖かった。あの声も、目も、差し出された書類さえも。 思い出すだけで、息が詰まりそうだった。「会社の人が、嫌……仕事も……もう全部……」 声が震えた。言葉を重ねるたびに、心の奥に堆積していたものが音を立てて崩れていく。 先生は、そっと私を抱きしめた。 冷たいはずのワイシャツ越し

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