Chapter: 最終章 光と空の先 ①向かう道 春の匂いがした。 雪の名残がまだ歩道の端に残る朝だったけれど、空はどこまでも高くて、光は柔らかい。 空気の中に、ほんのすこしだけあたたかさが混じっている。冷たさの向こうに、ほのかな春の予感があった。 学校へと続く道を、俺はゆっくりと歩いていた。 制服の胸ポケットには、白い封筒。もう何度も折り目がついて、角がくたびれたその紙には、たった数行の文字が書かれている。 けれどその数行が、俺の人生を彩る道筋だった。 ——合格通知書。 第一志望の私立大学、心理学部。 昨日、ポストに入っていた封筒を手に取ったときのことを思い出す。 玄関ですぐに、震える指先で封を切った。 〝合格〟の2文字を見た瞬間、時間が止まったようだった。 信じられないような、それでいて、どこかで確信していたような——なんだか、変な感じだった。 そのとき一番に思ったのは。 『南条に伝えなきゃ』 たった、それだった。 この春から俺は心理学部に進む。 誰かの話を聞いて、寄り添って、ちゃんと耳を傾けられる人になりたい。 自分の言葉で、人の気持ちに触れられるような。 あの日、南条と向き合ったことで——より、そう思えた。 きっとあれがなかったら、この道は選ばなかったと思う。 だから今、南条に早く伝えたくて足早に学校へ向かっていた。 校門の前に立ったとき、すこしだけ息を吸う。 もうすぐ卒業なんだなって、しみじみと思った。 あと何回、こうして制服でここに立つんだろう。 なんて、感傷に浸るのも俺らしくない。 廊下に差し込む朝の陽射しが、やけに眩しく見える。 いつものように靴を履き替え、俺は南条のクラスに向かった。 後ろの扉から覗き込むように姿を探す。 ——いた。 窓際の席。 静かに、いつも通り自分の席に座っている。 変わらないはずなのに、なぜかその横顔がすこし大人びて見えた。 ゆっくりと教室に入って、南条の元へ向かう。
Last Updated: 2026-03-23
Chapter: 第10章 気持ちの清算 ⑤大切な友達 校舎裏には、いつも通り誰の姿もなかった。 沈みかけている陽射しが、柔らかく地面を撫でている。 遠くで鳥が鳴いているのが聞こえた。けれど、この場所に流れる空気だけは張り詰めたまま、ぴくりとも動かない。 その静けさの中で綾瀬が一歩、俺の前に進み出た。 その隣に、有理がそっと並ぶ。 先ほどよりも、ふたりの表情はずっと真剣だった。目を逸らさずに、まっすぐ俺と南条を見てくる。 「……はるくん、白浜くん」 綾瀬の声は、すこしだけ震えていた。 それでも、はっきりと前を見据えている。 「やっぱり……きちんと言っときたくて。今までずっと、言えなかったから……」 言葉を絞るようにして、スカートの裾をぎゅっと握る。 強く握った指先が、白くなっていた。 「私……はるくんのこと、ずっと好きだった」 その一言が、涙と一緒に落ちてきた。 小さくて、消えそうで、それでも胸の真ん中にしっかり届くような声だった。 「でも……白浜くんが、そばにいるようになってから、はるくんが変わっていくのを見ていた。見たことのない様子で笑うようになって、雰囲気が柔らかくなって……」 綾瀬のまつ毛が、かすかに揺れる。 感情が、まるごと溢れそうになっているのがわかった。 「……私は、自分だけは変わらないって思ってた。ずっと、隣にいる自信があったのに」 その時、ほんの一瞬だけ、綾瀬は南条に目をやる。 でもすぐに、俺を見た。 「だから……白浜くん、お願い。取らないで」 声がかすれながらも、強い意志がこもっていた。 「はるくんを、取らないで……」 その言葉が、胸に深く突き刺さる。 言い返せるはずがなかった。 俺はただ静かに、立ち尽くすしかなかった。 その時—— 「……ずるいよ」 ぽつりと、今度は有理が口を開いた。その声に、思わず顔を向ける。 有理は、ほんのすこしだけ眉を寄せながら、俺を見ていた。 表情は穏やか
Last Updated: 2026-03-22
Chapter: 第10章 気持ちの清算 ④嵐の前の静けさ 翌日の放課後。 いつも通り教室の扉に手をかけたとき、胸の奥がすこしだけざわついた。 なんとなく、外の空気が、普段と違う気がした。 ……いや、たぶんそれは俺の心がざわついていただけだ。 深く息を吸って、ゆっくりと扉を引く。 その瞬間—— 「白浜くん!」 「樹!」 重なるように響いた、ふたつの声。 まるで示し合わせたみたいに、ぴったり同時だった。 驚いて足が止まる。 思わず顔を上げると、左右の廊下からそれぞれ駆けてくる姿が見えた。 綾瀬と、有理。 どちらも俺を見ていた。 でも次の瞬間、ふたりの目が交差する。 ぴたりと止まったその足と同時に、空気が一気に凍りついた。 綾瀬は、かすかに目を見開く。 有理は、ふっと視線を落とす。 何も言わずとも、ふたりの間に漂うものが伝わってくる。 ……そうだ。 俺だけじゃない。 このふたりにも、ずっと抱いてる感情があるんだ。 綾瀬の胸の奥にあるもの、有理の心の揺れ。 そして今、この瞬間——それが、真正面からぶつかろうとしている気がした。 「……あ、ごめん。急に、声かけちゃって」 緊張をほぐすように、綾瀬が先に口を開いた。 けれど、その声にかぶせるように、有理も言う。 「……ちょっと、話せないかなって」 互いの言葉が交錯して、再び沈黙。 ふたりとも、言葉の続きを探しているみたいに、口を結んだまま俯いた。 その空気を、柔らかく切り裂いたのは—— 「白浜くん……」 静かな声だった。 階段の方から、南条が歩いてきていた。 手には、いつものスケッチブック。 ゆっくりと、確かめるような足取りで近づいてくる。 そして、何も言わずに俺の隣に立った。 その距離は、俺たちにとってはごく自然で、ごく当たり前で……でもそれは、綾瀬と有理にとっては、目を背けたくなるものだった。 何も言わないのに、ちゃんと伝わる。
Last Updated: 2026-03-21
Chapter: 第10章 気持ちの清算 ③ふたりの時間 強い風が吹いていた。 けれど校舎裏のこの場所だけは、ぽかぽかと暖かい。壁のおかげで風も通らなくて、陽もかすかに差し込んでいる。 ——いや、たぶんそれだけじゃない。 心の中があったかいんだ。隣に南条がいるから。 ふたり並んで壁にもたれて、何も言わずにぼんやり空を見ていた。 さっきまではスケッチブックを開いていた南条は、それを閉じて俺の方に身体を向ける。 南条が絵を描いていたのは『完成したから、すこし休憩』と言って以来、久しぶりだった。「……何を描いてたの?」「……空」 それは、迷いのない声だった。 初めて南条と出会った日を思い出す。あのときも、同じように空を描いていた。「空、か。やっぱ好きなんだね」 そう言うと、彼はすこしだけ頬を緩めた。 その横顔に見惚れて、胸がきゅっとなる。 ——こんなにも、南条のことが好きになるなんて。 あの頃の俺は、想像すらしていなかっただろう。「……ねぇ」 隣から、小さく声がした。「ん?」「今……手、繋いでもいい?」 声のトーンがいつもよりすこし低くて、恥ずかしがってるのがわかった。 すこしだけ身体をこっちに寄せてきてることにも気づいた。行動のすべてがバレバレだ。 だけど南条が初めて見せる小さな行動に、つい口角が緩む。「もう彼氏なんだから。いちいち許可いらないだろ」 自分でもびっくりするくらい、さらっと言えた。 でも、胸のドキドキは隠せない。 そっと探してくる指先が触れた瞬間、心臓が跳ね上がった。 手のひらが、あたたかい。 繋いでいるだけなのに、全身が包まれている気がする。 南条の温度がじんわり沁みてきて、胸の奥まで届いてくる。 ふと俺は身体を傾けて、彼の肩にそっと寄りかかった。 南条は小さく笑って、同じよう
Last Updated: 2026-03-20
Chapter: 第10章 気持ちの清算 ②一番の理解者 side 富岡有理 教室の時計が、もうすぐ17時を指そうとしていた。 昼間はあんなに騒がしかった空間も、今はしんと静まり返っている。 誰もいない教室の隅っこで、俺はひとり、椅子に座っていた。 窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけている。 夕陽の光がカーテン越しに差し込んで、床を淡く照らしている。 静かすぎて、時計の針の音ばかりがやけに耳についた。 樹のことを、初めて〝好きかもしれない〟と思ったのは、いつだったんだろう。 わからない。ただの友達だと思っていたはずなのに、いつのまにか、目で追うようになっていた。 バカみたいに明るくて、誰とでもすぐ打ち解けて。 けれど時々ふと見せる、寂しそうな横顔に、胸がざわついた。 きっと最初は、心配だっただけだ。 誰よりもサッカーが大好きだったのに、誰よりも練習を頑張っていたのに、誰よりも結果が出ない。そんな樹が苦しむ様子を、ずっと間近で見ていた。だからこそ、余計にあいつを支えたいと思えた。 でも気づいたら、『あいつが誰に向かって笑ってるか』が気になってしょうがなくなっていた。 俺にだけ向けられる笑顔があるなら、どれだけ嬉しいかって——そんなことばっか考えてた。 けれど樹の視線は、いつも誰かの方を向いていて。今ではまっすぐ南条だけに向いていて。口を開けば、もうあいつのことばかりで。 目の前にいる俺のことなんて、いっさい見えてなくて。 〝親友〟という型枠にはめられた俺には、どうしても入り込めなかった。 樹と南条の間には、入る余地などどこにもなかった。 ——俺は結局、南条に勝てなかったんだ。「お、富岡。まだおったんか。そろそろ施錠するぞー」 ふいに聞こえた声に、びくりと肩が跳ねた。 顔を上げると、扉のところに大澤先生が立っていた。 「あ……すみません、帰ります」 そう言って立ち上がろうとしたら、先生がふっと笑って、俺の席の前に近づいてきた。 「いや、急いで追い出そうとしてるわけじゃないよ。ちょっと顔見たから、意地悪言ってみただけ」 そう言って、隣の席に
Last Updated: 2026-03-19
Chapter: 第10章 気持ちの清算 ①彼の隣 side 綾瀬ゆい 最近の昼休みは、教室の隅に座るふたりの姿を見るたび、胸がざわつく。 はるくんと白浜くん。 ふたりだけでいることが、当たり前みたいになってきた。 もともと、はるくんはいつもひとりだったのに。 無表情で、誰とも関わらなくて、でも私にだけは……話しかけたら笑顔を見せてくれていたのに—— 「ゆいぴ、今日も……って感じだね」 隣の席で、|渡辺《わたなべ》|咲《さき》がそう囁いた。 咲は私の中学からの友達で、私がはるくんのことを好きなのも知っている。 「うん……」 ぼそりと返した声は、自分でも驚くほど弱かった。 強がる気力もない。目の前の光景があまりにも心に刺さる。 ふたりは席を並べて、楽しそうに話している。 白浜くんが何か面白いことを言ったらしく、はるくんがふっと笑った。 ……笑った。 その瞬間、胸の奥にずきんと何かが刺さる。 あのはるくんが、あんなふうに笑顔を浮かべるなんて。 私には一度も向けられたことのない、心からの笑顔だった。 「……最近、なんか変わったよね。南条くん」 咲の声に、私はただ小さく頷いた。 「無表情だったのにさ。最近、柔らかいっていうか……」 「……あの笑顔、私、知らない」 ぽつりと呟いたその言葉は、溜息のように空気に溶けた。 「ゆいぴ……」 咲が心配そうに覗き込んでくる。 それでも私は、無理やり笑ってみせた。引きつっていたかもしれないけど、それでも頑張って笑った。 「大丈夫。それでもまだ……好きだから」 「……うん」 「……今もはるくんのこと、ずっと好き」 もう何度目かわからない、その気持ちの再確認。 でも、そう言わないと、心がばらばらになってしまいそうだった。 ふたりを見ていると、焦ってしまう。 このまま、置いて行かれてしまうような気がする。 ——はるくんを、取らないで。 そう思ってしまう自分が、苦しかった。 彼にとって、私はただの友達。それ以上ではないって、わ
Last Updated: 2026-03-18
Chapter: 番外編 お弁当② 玲司さんを見送ったあと、私は玄関のドアをそっと閉じた。 玄関先に残る、彼の匂いと体温の余韻が、まだ空気の中に漂っている気がする。 時計を見ると、まだ朝の8時半。 静まり返ったリビングに戻ると、ジャスティスがのっそりとやってきて、私の足元でころんと寝転んだ。「お疲れさま、私」 思わずそう呟いて、ソファに腰を下ろす。 ふと、あの頃のことを思い出す。 自分の声すら出せなかったあの日々。 朝になるのが怖くて、会社の近くを通るだけで吐き気がした。 何もかもが重く、苦しくて、ただ生きるだけで精一杯だった。 ……でも、今は違う。 朝、目が覚めると、隣に玲司さんがいる。 あの優しい寝息と、ぬくもりと、穏やかな時間。 起きて、顔を洗って、ごはんを作って、送り出す。 当たり前みたいで、ずっとできなかったこと。 今、私はそれを、きちんと〝日常〟として生活できている。 もちろん、完治というわけではない。 突然気持ちが沈むこともあるし、人混みに行くと動悸がする日もある。 でも――それでも、〝大丈夫〟と思えるようになった。「しっかりと、生きてるなぁ……私」 呟いた声に、ジャスティスが「にゃあ」と返してくれる。 こんなふうに思える日が来るなんて、あの頃の私は想像もしていなかった。 心を壊すのは一瞬だったけれど、癒していくのはとても長くて、根気のいる作業だった。 でも、今なら言える。 私は、きちんと立ち直りつつある。 そして、それは――「……玲司さんのおかげ、だね」 名前を呼ぶだけで、胸の奥がぽっとあたたかくなる。 あの人の隣にいる自分を、私はすこしずつ、好きになれている気がした。◇ 昼下がりのリビングは、冬の光に満ちていた。 ふわりとレースのカーテンが揺れ、窓辺で丸くなっているジャスティスの毛が、ほんのすこしだけきらめいて見える。 私は、デスクに向かっていた。 画面の中では、小さなキャラがぴょんと跳ねる。 簡単なジャンプゲームだけれど、あの人が「すごい」と笑ってくれたことが嬉しくて、またすこしだけ、コードをいじってみたくなった。 気づけば、あの頃の私が大好きだった〝集
Last Updated: 2025-08-03
Chapter: 番外編 お弁当① 朝の光が、レースのカーテン越しにふわりと部屋を包む。 目を覚ました瞬間、視界に入るのは、となりで寝息を立てている玲司さんの穏やかな寝顔。 規則正しく上下する胸のリズムが、なんだか心地よくて、つい見入ってしまう。 休日以外、玲司さんの方がいつも早く家を出る。 だからこんなふうに、朝いちばんに彼の寝顔を見るのは久しぶりだった。「……ふふっ」 頬に髪がかかっているのを指でそっと払う。 玲司さんは眉をぴくりと動かしたあと、目を開けずにぼそりと呟いた。「……見すぎ」「えっ、起きてたんですか?」「さっきからずっと。見られてたから、恥ずかしくて寝たふりしてた」 そう言いながら、玲司さんが私の首に腕を回して引き寄せる。「ちょ、ちょっと……!」「朝のキス、忘れてる」「まだ、起きたばかりで……顔、たぶんすごいですよ……?」「関係ないよ。今の由香里が一番可愛い」 いつのまにか、こういう甘い台詞が自然に出てくるようになった。 前はあんなに、感情を出すのが苦手だったくせに。「……玲司さん、ずるいです」「うん、朝だから許して」 そして唇が重なった。 いつもの、優しい、深くも軽くもない、ぴたりと呼吸の合ったキス。 それだけで、今日という一日が、うまくいきそうな気がした。◇ キスの余韻を引きずりつつ、私はエプロンをぎゅっと結ぶ。「……よしっ」 今日はお弁当を作ると、昨日の夜から決めていた。 玲司さんは、たいていコンビニか、職場の売店で済ませてしまう。 だけど私としては、やはり〝愛妻弁当〟というものを一度はやってみたかった。 今日の玲司さんは遅番。弁当を作るなら、今日がチャンスだと思っていた。「由香里、無理はしなくていいんだよ?」「無理してません。やるって決めたんですから」 そう言ってフライパンを熱し始めたが、早速焦げそうになる。 あわてて火を弱めて、溶き卵を流し込む。 昨日の夜、YouTubeでレシピ動画を繰り返し見た。 玉子焼きは弱火でじっくり……のはず——はずなんだけど。 結局、見た目はちょっと崩れたけれど、それなりに巻けた。 続いてウインナー、ミニトマト、ブロッコリー。 バランスも考えて詰めたつもりだったけれど、どうしても偏ってしまう。「由香里、ちょっと見せてくれる?」「
Last Updated: 2025-08-03
Chapter: 26.大切な人② side 日比野玲司「玲司さん?」「ふふ……作ろう、一緒に。君となら、どんな料理だってきっとおいしくなる」 そのまま抱きしめた彼女の頭にそっと顔を寄せると、あたたかくて柔らかな香りがした。 涙がこみ上げるのをごまかすように、そっと彼女の髪にキスを落とす。 このぬくもりを、守っていきたい。 今、この瞬間に改めて誓う。 一生をかけて、彼女の心と命を守ると——「……あの、卵は何個ですか?」「2個」「了解ですっ!」 まるで新婚夫婦みたいなやり取りだなと思いながら、笑って彼女の背中に手を添える。 こんな未来が、あの時の彼女に想像できていただろうか。 すくなくとも、僕はずっと願っていた。 彼女がもう一度笑えるようにと、ただそれだけを。 鍋を火にかける彼女の後ろ姿を見つめながら、もう一度、そっと名前を呼んだ。「……由香里」「はい?」「愛してる」 僕の言葉に驚いたようにこちらを振り返った彼女は、すぐに頬を真っ赤に染めた。「えっ、えっと……わ、私も、愛してます。あの、えっと、卵……混ぜますね」 あたふたしながらボウルをかき混ぜる姿が、あまりにも愛おしくて、胸がいっぱいになる。 これが、人生をかけて守るべき〝愛おしい人〟なんだと、何度でも胸に刻みたくなる。 もう一度、背後からそっと抱きしめる。 彼女はすこし驚きながらも、抵抗せずに身を預けてくれた。「……ねえ、由香里」「生きてくれて、ありがとう」「……」 そっと彼女が顔を上げ、戸惑いながら僕を見た。 目が潤んでいる。声が震えている。「……れ、玲司さん……その……」「うん」「……こちらこそ、ほんとうにありがとうございます」 言い切った後、彼女は恥ずかしそうに顔を隠した。 その表情が可愛くて、僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。「隠さなくてもいいのに」 冗談まじりに笑いながら、もう一度キスを落とす。 彼女の肩にそっと顔を埋めて、深く、深く、呼吸を重ねた。 彼女は〝生きている〟。 心も、笑顔も、すべてがここにある。「……君の命は、僕が守る」 小さく呟いた言葉は、彼女の耳に届いたかどうかわからない。 それでも構わなかった。 これから先、どれだけの時間が過ぎても。 どんな困難があったとしても。 ずっとそばで支えていくと、何度でも誓える。 僕の人生をかけて、大切な彼女を守り
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 25.大切な人① side 日比野玲司 黒磯由香里、31歳。 過労による精神的疲弊。 感情の希薄化。 情緒不安定。 自殺未遂。 緘黙症。 ——好きな仕事に、殺されかけた真面目な女性。 同情していたわけではない。 ただ、彼女のことがどうしても気にかかった。 何度か面談を重ねるうちに、自然と〝守りたい〟と思うようになっていた。 彼女が自殺未遂を起こした日のことは、今でもはっきりと覚えている。 体の奥が、冷たく、そして震えるような感覚に襲われる。 患者が本気で死のうとした——初めての経験だった。 これまで多くの社員と面談をしてきた。 「死にたい」「生きている意味がわからない」そう口にする者は多かった。 だが、実際に命を絶とうと行動した者は、ひとりとしていなかった。 唯一、彼女だけがほんとうに〝死のうとした〟人だった。 ——それでもやはり、同情からではなかった。 僕は単に、彼女をただ守りたかった。 それだけだった。◇「日比野先生」「ん?」「医師会からご連絡です。あのゲーム会社の産業医を外れる手続き、正式に完了したそうです。他の派遣先が決まり次第、また書面でのご連絡になるとのことです」「……そうか。ありがとう」 ようやく——終わった。 やっと、あの会社から手を引くことができる。 彼女がいたシステム部は、地獄のようだった。 月に100時間を超える残業。 産業医として何度も是正を訴えてきたが、会社は〝形式上の対応〟をするだけで、何ひとつ変えようとはしなかった。 心が壊れた社員は、面談を受けさせればそれでいい。 ……あの企業のスタンスは、まさにそれだった。 僕の元へ来る頃には、みんな壊れ切っていた。 ——彼女もそのひとりだった。 でも、もう彼女をあの場所に戻すつもりはない。 いや、二度と、あんな顔をさせたくない。◇「由香里、ジャスティス。ただいま」「玲司さん、おかえりなさい」「にゃーん!」 玄関を抜けてリビングへ入った瞬間、ふと焦げ臭い匂いが鼻をついた。 慌てて鞄を床に置き、小走りでキッチンへ向かう。「……焦げてる?」「あっ、玲司さんっ……ごめんなさい……!」 慌てた声と共に現れた由香里は、手にフライパンを持ち、目を伏せている。「玉子焼きを作ってみたんですけど、ちょっと……焦げちゃって……」 皿に盛られた黒い物体は、かつて玉子
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 24.家族② 家に戻ってしばらくしてからのこと。 玲司さんが、ふとした顔で言った。「由香里、今日から一緒に寝よう」 「……え?」 その一言に、私は思わず目を瞬かせた。 そういえば、ここへ来てからというもの、私は用意された客間で寝ていた。 けれど、夫婦になった今、玲司さんの言うそれは、きっと自然な流れなのだろう。「……」 驚きとすこしの戸惑いを胸に抱えながら、玲司さんに導かれるまま寝室へと足を踏み入れる。 そこには、思っていたよりもずっと広く、ふかふかそうなダブルベッドがひとつ置かれていた。「君が来る前に買っておいたんだ。ちなみに……君が今まで使ってたシングルベッドは、僕のお古だよ」「……」 さらりと笑いながら告げる玲司さんに、思わず肩の力が抜ける。 やはりこの人は、抜け目がない。きっと私が困らないように、先回りしてくれていたんだ——そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。「……由香里、おいで」 彼の言葉に小さく頷いて、私はベッドの縁に腰を下ろす。 そのまま背中をそっと押されるようにして、ベッドに横たわると、玲司さんが隣に滑り込んできて、優しくキスを落とした。「……っ」 目を閉じると、まぶたの裏がじんわり熱くなる。 彼の手が髪を梳いて、何度も唇を重ねてくる。穏やかで、丁寧で、愛情に満ちたキスだった。「由香里、愛してる」 「……玲司さん、私も」 唇を交わすたびに、胸の奥で何かがとろけていくようだった。 だけど、彼の手が私の身体をそっと撫ではじめた瞬間—— どくん、と心臓が大きく跳ねた。「……っ」 体がびくりと強張って、無意識に肩がすくむ。 怖い。知らない。どうすればいいのか分からない。 私のなかに、ふいに〝初めて〟の不安が波のように押し寄せた。「……っ、ごめん」 玲司さんの手が止まり、静かな声が降りてきた。 私はぎこちなく首を振る。「違うんです、私……経験がなくて……」 「……うん、わかってるよ。ごめん、急ぎすぎた」 玲司さんは私の頭をそっと撫で、ゆっくりと隣に寝転んだ。 そして、優しく背中から抱き締めてくれる。「今日は、こうして眠ろう。君が怖くないって思えるようになるまで……無理はしない」 その言葉に、心がじわりとほどけていく。「……ありがとう。ごめんなさい」 「謝らなくていい。
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 23.家族① 日比野先生——いや、玲司さんが持ち帰った1枚の紙は、まさかの「婚姻届」だった。 やることがとにかく早い彼の欄にはすでに記入が済まされていて、あとは私が書くだけという状態になっていた。 そして、あれよあれよという間に翌日。「今日、実は休み取ってあるから」 唐突にそんなことを言いながら、玲司さんは私の手を引いて役所に向かった。 その足で婚姻届を提出し、私は——「黒磯由香里」から、「日比野由香里」へと変わった。「……漢字、6文字」 「わかってたけど、名前長くなったね」 「ほんと、長いですね」 「敬語になってる」 「あ、はい」 「……」 まだ呼吸のように出てしまう敬語。 名前の変化も、立場の変化も、どうにも実感が湧かない。でも確かに、私は彼の妻になったのだ。日比野由香里——この字面だけが、まだすこしだけ、こそばゆい。「ねぇ、由香里。このままデートしようか」 「……え?」 「〝デート〟って、したことないでしょ、僕たち」 言われてみればその通りだった。 恋人らしい時間を飛ばして、私たちは夫婦になったのだ。 私は、ふと笑う。 デート。まるで学生のような響きが愛おしくて、頷いた。「する。デート、したい」 「ふふ、よかった」 玲司さんが嬉しそうに笑って、私の手を握ってくれる。 体温がじんわりと伝わってきて、そのぬくもりに、自然と顔がほころんだ。「行こう、由香里。今日はいっぱい遊ぼう」 「うん!」 そんなふたりのはじめてのデートは、何も決まっていない行き当たりばったりだったけれど、かえってそれが心地よかった。 最初に行ったのは動物園。ライオンを見て笑い合い、カピバラに癒される。 その後はカフェでランチ。お互いに料理を分け合って、「これ美味しいね」と言い合った。 午後にはゲームセンターへ寄り道して、玲司さんの得意な格闘ゲームで勝負——私は完敗だったけれど、それすらも楽しかった。 その後はショッピングモールでウインドウショッピングをして、クレープを買って半分こした。 全部が初めての経験だった。 仕事一筋だった頃の私には、想像もつかなかった〝誰かと過ごす休日〟。 その帰り道、電車に揺られていると、ぽろりと涙がこぼれた。「……由香里、泣いてるの? 無理しすぎた?」
Last Updated: 2025-07-22