Chapter: 最終章 光と空の先 ⑥未来への一歩 式が終わったあとの体育館は、嘘みたいに静かだった。 拍手の音も、校長の声も、涙交じりの別れの言葉ももう聞こえない。ただ、壇上の花が風に揺れるのが見える。 あれだけ人で溢れていた空間が、今は夢のあとみたいだった。 大澤先生は大号泣していた。 そんな様子を見て、また生徒たちも泣き、最後のホームルームは泣き声でいっぱいだった。 もうすこし大澤先生と話していたかった。 それでも俺は、ぼんやりしてる暇なんかなくて。 胸の奥がざわざわしていて。 ここでしかできないこと。それを確実に済ませておきたかった。「……白浜くん」 名前を呼ばれて振り返ると、南条が光の中を歩いてくるのが見えた。 えんじ色のネクタイ。俺が結んだそれがすこし曲がってて、思わずふっと笑ってしまった。 「ネクタイ、斜めになってるよ」 「え……あ、ほんとうだ」 すこしだけ困ったように笑いながら、南条は俺の方に歩み寄ってきた。そして、逆に俺のネクタイを見て、小さく首を傾げる。 「白浜くんのは、緩んでる」 「え、マジ?」 「……ちょっと待って。結び直すから」 指先が喉元に触れる。 その瞬間ふわっと香ったのは、南条の匂いだった。制服の襟に残る柑橘っぽい匂いと、いつもの静かな匂い。それだけで胸がきゅっと締めつけられる。 手際よく締め直されたネクタイは、いつもよりすこしきつめだった。でも、何よりも綺麗なように思える。 「……く、くるしいって!」 「このくらいの方が、かっこいいよ」 「また言った、ずるっ!」 思わず笑うと、南条もすこしだけ目を伏せて笑った。 こんな何気ないやり取りすら、今日で最後——そう頭で理解した瞬間、俺は身体が勝手に動いていた。 「……ねぇ、行こうか。あっち」 南条が頷く。 向かうのは、あの場所。 ふたりで何度も向かった、校舎裏だ。◇ ふたりで手を繋いだまま、すこしだけ肩を寄せ合って立っていた。 この場所に、何度も来た。
Last Updated: 2026-03-28
Chapter: 最終章 光と空の先 ⑤特別な交換 春の朝の空気は、ほんのすこしだけぬるくて、でもまだ肌寒い。 白く光る校舎の前で、制服の第1ボタンに手をかけたとき、ふわりと柔らかい風が通り過ぎた。 校庭には、まだ蕾のままの桜。 でもその気配はもう、確かに春だった。「……白浜くん」 名前を呼ばれて顔を上げると、そこに南条がいた。 朝の陽射しの中で、えんじ色のネクタイが風に揺れている。 その姿に、一瞬だけ見惚れた。 「おはよう」 「……おはよう」 照れくさそうに笑い合って、すぐ隣に並ぶ。 俺はちょっと緊張してたけど、どうしても今日、やりたいことがあった。 「なぁ、南条……」 「うん?」 「ネクタイ、交換しない?」 言いながら、自分でもすこし照れたけど。 でも、卒業式だからこそ、やりたいって思ったんだ。なんか……俺たちらしいことを。 「ネクタイ?」 南条は目を見開いて、それからふっと表情をやわらげた。 「いいよ……交換しよ」 交換する意図は聞かれなかった。 互いに自身のネクタイに指をかけ、慣れた手付きで外していく。 手元に集中しながらも、南条の様子が気になって仕方がない。 結び目の上で、動く長い指。 ほどかれたネクタイが、肩を撫でて落ちていく様子。 それらすべてがなんだか特別なように思えた。 「じゃあ……白浜くん、こっち向いて。僕が結ぶ」 「う、うん……」 すこし近づいてくる。 そして南条がほどいたばかりのネクタイを、俺の首元に掛けた。 俺の胸元、ネクタイの位置に手をやり、こちらもまた慣れた手つきで結び始める。 その指先が俺の身体に触れた瞬間——すこしだけひやっとして、それからじんわり温かかくなった。 「……白浜くん、自分が提案したのに。ちょっと緊張してる?」 「ば、ばれてる……?」 「顔、赤い」 南条の一言に、耳まで赤くなっていくのがわかる。 なんだか無性に恥ずかしくて、目を逸らしながらこっそりと南条の名を
Last Updated: 2026-03-27
Chapter: 最終章 光と空の先 ④居眠りの正否 西の空が茜色に染まりはじめていた。 夕焼けが街を包んで、ビルの隙間に長い影が落ちている。 俺たちは並んで歩いていた。なんでもない帰り道。だけど今日は、それがすこしだけ特別に思えた。 手の中には、南条のぬくもりがある。 ぎゅっと握ってるわけじゃない。けど、決して離れようとはしない、そんな優しい力で、俺たちの手は繋がれていた。 制服の袖が時々重なるたびに、心臓がちょっとだけ騒がしくなる。 「……なぁ、南条」 俺はふと、笑いながら口を開いた。 「俺、美術の授業で寝ててよかった。あの時に起きてたら……掃除もしてなかったわけだし。今こうして一緒に帰ってない気がする」 俺の一言に南条はくすっと笑った。 「それ、まったく自慢にならないよ?」 「いやいや、めっちゃ自慢だって。人生変わったんだから」 本気でそう思っていた。 南条と出会って、惹かれて、俺は変わった。未来まで、変わった。 これは自慢でしかないでしょ。 「……じゃあさ」 横で、ちょっといたずらっぽい声がする。 「……美術の問題、出す。正解できたら、寝てよかったって認めてあげる」 「問題……ちょっ、マジで!?」 思わず声が裏返る。 「マジ」 南条はきっぱり言い切って、でもちょっと笑ってた。 問題を出されるのは嫌だ。 それでもそんな顔をされると、なんか嬉しくなってしょうがない。 「絶対ムリじゃん……」 俺が頭を抱えている様子を、南条は横目で見ながら楽しそうに笑っていた。 そういうところも、やっぱり大好き。 「じゃあ、第1問。『モナ・リザ』を描いた画家は?」 「それくらいなら……レオナルド・ダ・ヴィンチ!」 「正解」 「よっしゃー!」 思わずガッツポーズすると、南条がちょっとだけ目を細める。 「第2問。印象派の代表的な画家で、『睡蓮』を描いたのは?」 「……モ、モネ……?」 「正解。意外とやるね」 「ふっふーん、伊達に南条の彼氏やってませんよ
Last Updated: 2026-03-26
Chapter: 最終章 光と空の先 ③お互いの光 卒業式まで、あと数日。 教室の時計がゆっくりと午後を刻む頃、俺は小さく伸びをして、立ち上がった。 ふと窓の外を見ると、校舎裏のあの場所に、誰かの影が見えた。 ……南条だった。 俺は鞄を持って、急いで教室を出る。 廊下には春の匂いが満ちていて、遠くから部活の音が聞こえてきた。 もうすぐ、すべてが終わる。そんな気配に包まれながら、足は自然と、あの場所へと向かっていた。 校舎裏には、爽やかな風が吹いていた。 南条はスケッチブックを胸に抱え、壁にもたれかかるようにして、空を見上げている。 「……待った?」 声をかけると、南条は振り返って、目を細める。 それだけで心臓が跳ねた。 「全然。むしろ、空を見上げる時間が取れてよかった」 「空?」 「うん。僕の大好きな、空」 そう言って笑うその顔が、何よりも眩しい。 南条は俺のことを〝光〟っていうけれど、俺から見れば、南条も〝光〟だ。 ただ、恥ずかしくて言えないけれど。 俺は、ゆっくりとその隣に並んだ。 ふたりで壁にもたれながら、並んで空を見る。春の陽射しが、柔らかく頬を撫でていく。 「……白浜くんに、見て欲しい」 「ん?」 そう呟いた南条は、持っていたスケッチブックをゆっくりと開いた。 そこに現れた、1枚の絵。 完成されているようで、どこか眩しさを覚える絵だった。 「この前から、白浜くんの絵を描いてただろう」 南条はスケッチブックを立てて、絵を俺に向けてくれる。 それは、笑顔の俺だった。 思わず息をのむくらい、眩しく、嬉しそうに。誰かと話している時の、無防備な笑顔だった。 「……これ、俺、だよな?」 「うん」 南条の声は、どこか照れていて、それでも真剣だった。 「俺、こんなにキラキラしてる?」 「うん。いつも言ってるじゃん。白浜くんは〝光〟だって」 喉の奥が、ぎゅっとなる。 絵の中の俺は、誰よりも楽しそうで、でも、それを見つめてい
Last Updated: 2026-03-25
Chapter: 最終章 光と空の先 ②信頼できる人 放課後の廊下はしんと静まり返っていて、靴音だけが妙に響く。ロッカーを閉めかけたその時、柱の影から人がひとり現れた。「お、白浜。まだいたんか」 ひょっこり顔を出したのは、大澤先生だった。やたら軽いノリとその笑みで、こっちの肩の力がすっと抜ける。「なんだ、先生か。忘れ物?」「違うわ。お前に会いに来たんだよ……って言ったらキモい?」「まぁキモいね。ドン引き」「遠慮ないな~。今まではお前が俺のところに来てたのに」 そんな軽口を交わしながら、「ちょっと来て」と言われるままに階段を降りた。向かった先は図書室の奥、あまり使われていない談話室だった。 日頃、使われているのをあまり見ない。俺自身も、ここ入るのは初めてだった。「今日は渡り廊下じゃないの?」「だって寒いじゃん。ほら、入りな」 そう言いながら先生は鍵を開け、中に入る。すると窓もすぐ開けた。ひやりとした空気が流れ込み、カーテンがやわらかく揺れる。 寒いからここに来た、という理由はどこに行った?「……で? どしたの? 面談?」「違うわ。なんか最近……お前が全然来ないからさ。ちょっと寂しいなって思って」 冗談みたいに言うくせに、目元がほんのちょっとだけ真剣だった。それが逆にこそばゆい。「入学してきた時から、ずっと見てきたけど。そんなお前が卒業するってのも、すこし寂しくて」「……えー、もしかして、感傷?」「うるせぇ。これ以上言わせんな」 俺の頭をペシっと軽く叩いて、先生は笑った。なんだかこの感覚が久しぶりで、つい頬が緩んでしまう。「でも、白浜。ほんとうに成長したよね。人として」「褒め言葉?」「もちろん。〝南条依存症〟になったのだけは、想定外だったが」「出た! マジで止めろよ、それ!」 俺は吹き出して笑った。大澤先生しか言わないそのワードに、つい懐かしさを覚える。 そう思うくらい、俺は先生のところに来ていなかったのだろう
Last Updated: 2026-03-24
Chapter: 最終章 光と空の先 ①向かう道 春の匂いがした。 雪の名残がまだ歩道の端に残る朝だったけれど、空はどこまでも高くて、光は柔らかい。 空気の中に、ほんのすこしだけあたたかさが混じっている。冷たさの向こうに、ほのかな春の予感があった。 学校へと続く道を、俺はゆっくりと歩いていた。 制服の胸ポケットには、白い封筒。もう何度も折り目がついて、角がくたびれたその紙には、たった数行の文字が書かれている。 けれどその数行が、俺の人生を彩る道筋だった。 ——合格通知書。 第一志望の私立大学、心理学部。 昨日、ポストに入っていた封筒を手に取ったときのことを思い出す。 玄関ですぐに、震える指先で封を切った。 〝合格〟の2文字を見た瞬間、時間が止まったようだった。 信じられないような、それでいて、どこかで確信していたような——なんだか、変な感じだった。 そのとき一番に思ったのは。 『南条に伝えなきゃ』 たった、それだった。 この春から俺は心理学部に進む。 誰かの話を聞いて、寄り添って、ちゃんと耳を傾けられる人になりたい。 自分の言葉で、人の気持ちに触れられるような。 あの日、南条と向き合ったことで——より、そう思えた。 きっとあれがなかったら、この道は選ばなかったと思う。 だから今、南条に早く伝えたくて足早に学校へ向かっていた。 校門の前に立ったとき、すこしだけ息を吸う。 もうすぐ卒業なんだなって、しみじみと思った。 あと何回、こうして制服でここに立つんだろう。 なんて、感傷に浸るのも俺らしくない。 廊下に差し込む朝の陽射しが、やけに眩しく見える。 いつものように靴を履き替え、俺は南条のクラスに向かった。 後ろの扉から覗き込むように姿を探す。 ——いた。 窓際の席。 静かに、いつも通り自分の席に座っている。 変わらないはずなのに、なぜかその横顔がすこし大人びて見えた。 ゆっくりと教室に入って、南条の元へ向かう。
Last Updated: 2026-03-23
Chapter: 番外編 お弁当② 玲司さんを見送ったあと、私は玄関のドアをそっと閉じた。 玄関先に残る、彼の匂いと体温の余韻が、まだ空気の中に漂っている気がする。 時計を見ると、まだ朝の8時半。 静まり返ったリビングに戻ると、ジャスティスがのっそりとやってきて、私の足元でころんと寝転んだ。「お疲れさま、私」 思わずそう呟いて、ソファに腰を下ろす。 ふと、あの頃のことを思い出す。 自分の声すら出せなかったあの日々。 朝になるのが怖くて、会社の近くを通るだけで吐き気がした。 何もかもが重く、苦しくて、ただ生きるだけで精一杯だった。 ……でも、今は違う。 朝、目が覚めると、隣に玲司さんがいる。 あの優しい寝息と、ぬくもりと、穏やかな時間。 起きて、顔を洗って、ごはんを作って、送り出す。 当たり前みたいで、ずっとできなかったこと。 今、私はそれを、きちんと〝日常〟として生活できている。 もちろん、完治というわけではない。 突然気持ちが沈むこともあるし、人混みに行くと動悸がする日もある。 でも――それでも、〝大丈夫〟と思えるようになった。「しっかりと、生きてるなぁ……私」 呟いた声に、ジャスティスが「にゃあ」と返してくれる。 こんなふうに思える日が来るなんて、あの頃の私は想像もしていなかった。 心を壊すのは一瞬だったけれど、癒していくのはとても長くて、根気のいる作業だった。 でも、今なら言える。 私は、きちんと立ち直りつつある。 そして、それは――「……玲司さんのおかげ、だね」 名前を呼ぶだけで、胸の奥がぽっとあたたかくなる。 あの人の隣にいる自分を、私はすこしずつ、好きになれている気がした。◇ 昼下がりのリビングは、冬の光に満ちていた。 ふわりとレースのカーテンが揺れ、窓辺で丸くなっているジャスティスの毛が、ほんのすこしだけきらめいて見える。 私は、デスクに向かっていた。 画面の中では、小さなキャラがぴょんと跳ねる。 簡単なジャンプゲームだけれど、あの人が「すごい」と笑ってくれたことが嬉しくて、またすこしだけ、コードをいじってみたくなった。 気づけば、あの頃の私が大好きだった〝集
Last Updated: 2025-08-03
Chapter: 番外編 お弁当① 朝の光が、レースのカーテン越しにふわりと部屋を包む。 目を覚ました瞬間、視界に入るのは、となりで寝息を立てている玲司さんの穏やかな寝顔。 規則正しく上下する胸のリズムが、なんだか心地よくて、つい見入ってしまう。 休日以外、玲司さんの方がいつも早く家を出る。 だからこんなふうに、朝いちばんに彼の寝顔を見るのは久しぶりだった。「……ふふっ」 頬に髪がかかっているのを指でそっと払う。 玲司さんは眉をぴくりと動かしたあと、目を開けずにぼそりと呟いた。「……見すぎ」「えっ、起きてたんですか?」「さっきからずっと。見られてたから、恥ずかしくて寝たふりしてた」 そう言いながら、玲司さんが私の首に腕を回して引き寄せる。「ちょ、ちょっと……!」「朝のキス、忘れてる」「まだ、起きたばかりで……顔、たぶんすごいですよ……?」「関係ないよ。今の由香里が一番可愛い」 いつのまにか、こういう甘い台詞が自然に出てくるようになった。 前はあんなに、感情を出すのが苦手だったくせに。「……玲司さん、ずるいです」「うん、朝だから許して」 そして唇が重なった。 いつもの、優しい、深くも軽くもない、ぴたりと呼吸の合ったキス。 それだけで、今日という一日が、うまくいきそうな気がした。◇ キスの余韻を引きずりつつ、私はエプロンをぎゅっと結ぶ。「……よしっ」 今日はお弁当を作ると、昨日の夜から決めていた。 玲司さんは、たいていコンビニか、職場の売店で済ませてしまう。 だけど私としては、やはり〝愛妻弁当〟というものを一度はやってみたかった。 今日の玲司さんは遅番。弁当を作るなら、今日がチャンスだと思っていた。「由香里、無理はしなくていいんだよ?」「無理してません。やるって決めたんですから」 そう言ってフライパンを熱し始めたが、早速焦げそうになる。 あわてて火を弱めて、溶き卵を流し込む。 昨日の夜、YouTubeでレシピ動画を繰り返し見た。 玉子焼きは弱火でじっくり……のはず——はずなんだけど。 結局、見た目はちょっと崩れたけれど、それなりに巻けた。 続いてウインナー、ミニトマト、ブロッコリー。 バランスも考えて詰めたつもりだったけれど、どうしても偏ってしまう。「由香里、ちょっと見せてくれる?」「
Last Updated: 2025-08-03
Chapter: 26.大切な人② side 日比野玲司「玲司さん?」「ふふ……作ろう、一緒に。君となら、どんな料理だってきっとおいしくなる」 そのまま抱きしめた彼女の頭にそっと顔を寄せると、あたたかくて柔らかな香りがした。 涙がこみ上げるのをごまかすように、そっと彼女の髪にキスを落とす。 このぬくもりを、守っていきたい。 今、この瞬間に改めて誓う。 一生をかけて、彼女の心と命を守ると——「……あの、卵は何個ですか?」「2個」「了解ですっ!」 まるで新婚夫婦みたいなやり取りだなと思いながら、笑って彼女の背中に手を添える。 こんな未来が、あの時の彼女に想像できていただろうか。 すくなくとも、僕はずっと願っていた。 彼女がもう一度笑えるようにと、ただそれだけを。 鍋を火にかける彼女の後ろ姿を見つめながら、もう一度、そっと名前を呼んだ。「……由香里」「はい?」「愛してる」 僕の言葉に驚いたようにこちらを振り返った彼女は、すぐに頬を真っ赤に染めた。「えっ、えっと……わ、私も、愛してます。あの、えっと、卵……混ぜますね」 あたふたしながらボウルをかき混ぜる姿が、あまりにも愛おしくて、胸がいっぱいになる。 これが、人生をかけて守るべき〝愛おしい人〟なんだと、何度でも胸に刻みたくなる。 もう一度、背後からそっと抱きしめる。 彼女はすこし驚きながらも、抵抗せずに身を預けてくれた。「……ねえ、由香里」「生きてくれて、ありがとう」「……」 そっと彼女が顔を上げ、戸惑いながら僕を見た。 目が潤んでいる。声が震えている。「……れ、玲司さん……その……」「うん」「……こちらこそ、ほんとうにありがとうございます」 言い切った後、彼女は恥ずかしそうに顔を隠した。 その表情が可愛くて、僕は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。「隠さなくてもいいのに」 冗談まじりに笑いながら、もう一度キスを落とす。 彼女の肩にそっと顔を埋めて、深く、深く、呼吸を重ねた。 彼女は〝生きている〟。 心も、笑顔も、すべてがここにある。「……君の命は、僕が守る」 小さく呟いた言葉は、彼女の耳に届いたかどうかわからない。 それでも構わなかった。 これから先、どれだけの時間が過ぎても。 どんな困難があったとしても。 ずっとそばで支えていくと、何度でも誓える。 僕の人生をかけて、大切な彼女を守り
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 25.大切な人① side 日比野玲司 黒磯由香里、31歳。 過労による精神的疲弊。 感情の希薄化。 情緒不安定。 自殺未遂。 緘黙症。 ——好きな仕事に、殺されかけた真面目な女性。 同情していたわけではない。 ただ、彼女のことがどうしても気にかかった。 何度か面談を重ねるうちに、自然と〝守りたい〟と思うようになっていた。 彼女が自殺未遂を起こした日のことは、今でもはっきりと覚えている。 体の奥が、冷たく、そして震えるような感覚に襲われる。 患者が本気で死のうとした——初めての経験だった。 これまで多くの社員と面談をしてきた。 「死にたい」「生きている意味がわからない」そう口にする者は多かった。 だが、実際に命を絶とうと行動した者は、ひとりとしていなかった。 唯一、彼女だけがほんとうに〝死のうとした〟人だった。 ——それでもやはり、同情からではなかった。 僕は単に、彼女をただ守りたかった。 それだけだった。◇「日比野先生」「ん?」「医師会からご連絡です。あのゲーム会社の産業医を外れる手続き、正式に完了したそうです。他の派遣先が決まり次第、また書面でのご連絡になるとのことです」「……そうか。ありがとう」 ようやく——終わった。 やっと、あの会社から手を引くことができる。 彼女がいたシステム部は、地獄のようだった。 月に100時間を超える残業。 産業医として何度も是正を訴えてきたが、会社は〝形式上の対応〟をするだけで、何ひとつ変えようとはしなかった。 心が壊れた社員は、面談を受けさせればそれでいい。 ……あの企業のスタンスは、まさにそれだった。 僕の元へ来る頃には、みんな壊れ切っていた。 ——彼女もそのひとりだった。 でも、もう彼女をあの場所に戻すつもりはない。 いや、二度と、あんな顔をさせたくない。◇「由香里、ジャスティス。ただいま」「玲司さん、おかえりなさい」「にゃーん!」 玄関を抜けてリビングへ入った瞬間、ふと焦げ臭い匂いが鼻をついた。 慌てて鞄を床に置き、小走りでキッチンへ向かう。「……焦げてる?」「あっ、玲司さんっ……ごめんなさい……!」 慌てた声と共に現れた由香里は、手にフライパンを持ち、目を伏せている。「玉子焼きを作ってみたんですけど、ちょっと……焦げちゃって……」 皿に盛られた黒い物体は、かつて玉子
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 24.家族② 家に戻ってしばらくしてからのこと。 玲司さんが、ふとした顔で言った。「由香里、今日から一緒に寝よう」 「……え?」 その一言に、私は思わず目を瞬かせた。 そういえば、ここへ来てからというもの、私は用意された客間で寝ていた。 けれど、夫婦になった今、玲司さんの言うそれは、きっと自然な流れなのだろう。「……」 驚きとすこしの戸惑いを胸に抱えながら、玲司さんに導かれるまま寝室へと足を踏み入れる。 そこには、思っていたよりもずっと広く、ふかふかそうなダブルベッドがひとつ置かれていた。「君が来る前に買っておいたんだ。ちなみに……君が今まで使ってたシングルベッドは、僕のお古だよ」「……」 さらりと笑いながら告げる玲司さんに、思わず肩の力が抜ける。 やはりこの人は、抜け目がない。きっと私が困らないように、先回りしてくれていたんだ——そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。「……由香里、おいで」 彼の言葉に小さく頷いて、私はベッドの縁に腰を下ろす。 そのまま背中をそっと押されるようにして、ベッドに横たわると、玲司さんが隣に滑り込んできて、優しくキスを落とした。「……っ」 目を閉じると、まぶたの裏がじんわり熱くなる。 彼の手が髪を梳いて、何度も唇を重ねてくる。穏やかで、丁寧で、愛情に満ちたキスだった。「由香里、愛してる」 「……玲司さん、私も」 唇を交わすたびに、胸の奥で何かがとろけていくようだった。 だけど、彼の手が私の身体をそっと撫ではじめた瞬間—— どくん、と心臓が大きく跳ねた。「……っ」 体がびくりと強張って、無意識に肩がすくむ。 怖い。知らない。どうすればいいのか分からない。 私のなかに、ふいに〝初めて〟の不安が波のように押し寄せた。「……っ、ごめん」 玲司さんの手が止まり、静かな声が降りてきた。 私はぎこちなく首を振る。「違うんです、私……経験がなくて……」 「……うん、わかってるよ。ごめん、急ぎすぎた」 玲司さんは私の頭をそっと撫で、ゆっくりと隣に寝転んだ。 そして、優しく背中から抱き締めてくれる。「今日は、こうして眠ろう。君が怖くないって思えるようになるまで……無理はしない」 その言葉に、心がじわりとほどけていく。「……ありがとう。ごめんなさい」 「謝らなくていい。
Last Updated: 2025-07-22
Chapter: 23.家族① 日比野先生——いや、玲司さんが持ち帰った1枚の紙は、まさかの「婚姻届」だった。 やることがとにかく早い彼の欄にはすでに記入が済まされていて、あとは私が書くだけという状態になっていた。 そして、あれよあれよという間に翌日。「今日、実は休み取ってあるから」 唐突にそんなことを言いながら、玲司さんは私の手を引いて役所に向かった。 その足で婚姻届を提出し、私は——「黒磯由香里」から、「日比野由香里」へと変わった。「……漢字、6文字」 「わかってたけど、名前長くなったね」 「ほんと、長いですね」 「敬語になってる」 「あ、はい」 「……」 まだ呼吸のように出てしまう敬語。 名前の変化も、立場の変化も、どうにも実感が湧かない。でも確かに、私は彼の妻になったのだ。日比野由香里——この字面だけが、まだすこしだけ、こそばゆい。「ねぇ、由香里。このままデートしようか」 「……え?」 「〝デート〟って、したことないでしょ、僕たち」 言われてみればその通りだった。 恋人らしい時間を飛ばして、私たちは夫婦になったのだ。 私は、ふと笑う。 デート。まるで学生のような響きが愛おしくて、頷いた。「する。デート、したい」 「ふふ、よかった」 玲司さんが嬉しそうに笑って、私の手を握ってくれる。 体温がじんわりと伝わってきて、そのぬくもりに、自然と顔がほころんだ。「行こう、由香里。今日はいっぱい遊ぼう」 「うん!」 そんなふたりのはじめてのデートは、何も決まっていない行き当たりばったりだったけれど、かえってそれが心地よかった。 最初に行ったのは動物園。ライオンを見て笑い合い、カピバラに癒される。 その後はカフェでランチ。お互いに料理を分け合って、「これ美味しいね」と言い合った。 午後にはゲームセンターへ寄り道して、玲司さんの得意な格闘ゲームで勝負——私は完敗だったけれど、それすらも楽しかった。 その後はショッピングモールでウインドウショッピングをして、クレープを買って半分こした。 全部が初めての経験だった。 仕事一筋だった頃の私には、想像もつかなかった〝誰かと過ごす休日〟。 その帰り道、電車に揺られていると、ぽろりと涙がこぼれた。「……由香里、泣いてるの? 無理しすぎた?」
Last Updated: 2025-07-22