医師は逸之に全身検査を行った。その結果、白血病以外には発熱や風邪の兆候は一切見られなかった。「不思議ですね。この子の体には何の異常もありません」医師は検査結果を眺めながら、少し首をかしげた。逸之はすぐに、でたらめを思いついたように口にした。「病院に来たら、病院のオーラで体の中のウイルスが自動的に消えたんじゃないかな?」その言葉に医師は大笑いしつつも、内心ではおおよその見当をつけた。そして病室を出ると、外で待っていた啓司に説明した。「お子さんはまったく問題ありません。こういうケースは珍しくないんです。考えられるのは二つ。一つは、朝、学校に行きたくなくて風邪や熱のふりをした。もう一つは、起きた時に一瞬めまいがしたものの、すぐに治ってしまい、今は何ともない、という場合です」小児科医として、親が心配しきっているのに子供はけろりとしている場面を、医師は幾度となく見てきていた。啓司はその話を聞き、当然二つ目の可能性を信じたいと思い、胸をなで下ろした。「無事で何よりだ」彼は病室に戻り、逸之を連れて帰る支度を始めた。ところが「帰る」と聞くなり、逸之は首を振り、頑なに言った。「パパ、家に帰りたくないし、幼稚園にも行きたくない。会社に連れてってよ」彼にとって今日の仮病は、啓司を尾行し「不倫相手」を突き止めるための計画だった。簡単に帰れるはずがなかった。「ダメだ」啓司の声には揺るぎない拒絶が込められていた。「家に帰るか、幼稚園に行くかだ。今はお前のわがままに付き合っている時間はない」冷たい口調に、逸之はすぐさま彼のもとへ駆け寄り、太ももにしがみついた。甘えた声でわめき立てる。「やだやだ!どうしてもついて行く!なんでダメなの?……まさか、外に別の子ができたの?」声は決して小さくなく、病室の前を通る人々が一斉に振り返り、好奇の目を向けた。それを見た逸之は、さらに声を張り上げて泣き出した。「もし僕なんかいらないなら、最初からなんで産んだの?今、僕を捨てるつもりなの?僕も兄ちゃんも、不幸な子なんだ……」涙と鼻水を啓司の服やズボンにこすりつけながら、心の中では密かに毒づいた。バカパパ!妻や子を捨てようとするなんて!啓司が最も手を焼くのは、逸之のこうした手のつけられないわがままな姿だった。しかも病気の子供
翌朝早く、逸之はこっそりと湯たんぽを布団に忍ばせた。紗枝が彼を起こしに部屋へ入ると、顔は真っ赤に火照り、明らかに様子がおかしいのに気づいた。「逸ちゃん……」紗枝は声を落として呼びかける。逸之はゆっくりと目を開け、弱々しい声で答えた。「ママ……」「どこか具合が悪いの?」紗枝は慌てて駆け寄り、その瞳には焦りの色がにじんでいた。逸之はこくりとうなずき、小さな声で言った。「ママ、頭がちょっとくらくらする……」白血病を抱える息子が眩暈を訴えたと聞き、紗枝は一瞬で動揺した。些細な不調でも決して見過ごせない。「今すぐ服を着せて病院に行きましょう」「ママ、病院はいやだ。家で寝てるだけじゃだめ?」逸之は紗枝の服の裾を掴み、懇願するように囁いた。「だめよ。ほら、おでこがこんなに熱いじゃない」彼女が再び額に手を当てると、確かに熱がこもっていた。逸之は慌てて言い訳する。「昨日、雨に濡れちゃったからかも。ちゃんと寝れば平気だよ。本当に病院は行かなくてもいいんだ」その時、物音に気づいた啓司が目を覚まし、部屋へ入ってきた。「どうした?」息子のことが最優先の紗枝は、昨夜の口論を引きずらずに顔を上げて言った。「逸ちゃんが熱を出したの。おでこがすごく熱いわ」「ママ、今日も仕事でしょ?じゃあ……パパに病院に連れて行ってもらおうか?」逸之はすかさず提案した。父と二人きりになり、この男が何を考えているのか確かめたかったのだ。「そんな状態で、ママが仕事になんて行けるわけないでしょ。休みを取るから」紗枝はどうしても息子を啓司に任せるのが不安だった。「でもママ、昨日も休んだじゃん。それにパパは用事もないし」逸之はそう言うと、入口に立つ啓司に向き直り、期待を込めて呼びかけた。「パパ、僕を病院に連れて行ってくれるよね?」啓司が断るはずもなく、紗枝に向かって言った。「紗枝、お前は出勤してくれ。俺が病院へ連れて行く」逸之が頑なに父を望むのを見て、紗枝はそれ以上反対できなかった。彼女は慎重に息子に服を着せ、抱き上げて啓司に預けた。二人を見送るため玄関までついて行き、車に乗り込むのを見届けると、紗枝は逸之に「ちゃんと言うことを聞くのよ」と念を押した。発進直前、啓司は窓から顔を出し、紗枝に言った。
啓司は不意を突かれ、紗枝に口づけされると、一瞬にして体が硬直した。紗枝はゆっくりと顔を上げ、探るような声音で言う。「七年目の浮気って言うけど、私たちもう結婚して七年以上よね。でも、一緒に過ごした時間なんて一年にも満たない。もう、私には興味がなくなったの?」彼女は啓司に身を寄せ、その吐息がかすかに胸元を撫でた。啓司は心の揺れを必死に押し殺し、平静を装って言葉を絞り出した。「ふざけるな」だがその声は、自分でも気づかぬほど掠れていた。紗枝が顔を上げると、啓司の赤く染まった耳朶が目に飛び込む。言葉でどれほど取り繕っても、体の正直な反応はすでに彼の本心を露わにしていた。「本当に離婚するつもりなの?」紗枝は視線を逸らさず、改めて問いかけた。「ああ」啓司はそう答え、一歩後ろへ下がって彼女を突き放そうと手を伸ばす。紗枝はわざとよろめき、転びそうな小さな声を漏らした。次の瞬間、啓司は反射的に彼女を抱きとめる。だがすぐに手を離し、また数歩距離を取った。その矛盾した仕草を見て、紗枝はむしろ可笑しさを覚え、再び彼に近づいて抱きしめると、わざとらしく脅すように言った。「押さないでよ。お腹には赤ちゃんがいるんだから。もし何かあったら、後でただじゃおかないからね」啓司は今までになく胸を締めつけられる思いで、優しく諭すように答えた。「いい子にしてくれ。離婚は、お前にも俺にも必要なことなんだ」だが紗枝の耳には届かない。彼女は確信していた――啓司は何かを隠している、と。彼の腕にさらに力を込め、食い入るように言葉を重ねる。「啓司、よく聞いて。もし本当に離婚するなら、二度と復縁なんてしないからね。よく考えて」その「二度と復縁しない」という言葉は、啓司の胸を重い槌で打った。本来なら、手術で視力が戻り、体に何の支障もなければ、すぐにでも紗枝を探し出し復縁するつもりだった。その時こそ再び共に生きられると信じていた。だが今は……長い沈黙ののち、彼は心を鬼にして応じた。「わかった」口はそう告げながらも、心は激しく乱れていた。あまりにあっさりとした承諾に、紗枝の怒りはさらに募る。「いったい何を隠してるの?あなたが目が見えないことなんて、私は気にしてないのに。どうしてまだ隠し事をするの?」彼女にとってはもう耐え難かっ
一時的な新鮮味――その答えを耳にした瞬間、紗枝はどう反応すればいいか分からなくなった。深く息を吸い込み、胸の奥で沸き立つ感情を必死に押しとどめ、動揺を悟られまいと穏やかな声音で問いかける。「……何かあったの?」つい先日まで、すべてが順調に進んでいたはずだ。にもかかわらず、突然離婚を切り出すなんて――背後に事情がないと考えるほうが不自然だった。しかし、啓司の瞳には冷ややかさしかなく、口調も氷のように淡々としていた。「ない」その一言で、紗枝の気力は削がれ、口論する気さえ失せていく。数歩離れてソファに身を沈め、心を落ち着けようとした。部屋の空気は瞬く間に凍りつき、死の気配すら漂う静けさに包まれる。長い沈黙ののち、再び啓司の声が響いた。「お前を不当に扱うつもりはない。よく考えてみてくれ」そう言い残し、彼はゆるやかに立ち上がって階段を上り、二階へと消えていった。その背中を見送る紗枝の胸には、苛立ちと焦燥が渦を巻き、飛びかかって殴りつけたい衝動すら湧いてくる。前触れもなく突きつけられた離婚の要求――どう考えても常軌を逸していた。啓司が部屋に戻るや否や、紗枝はすぐにスマホを取り出し、牧野へ電話をかけた。すぐにつながり、落ち着いた声が受話口から流れる。「奥様、いかがなさいましたか?」「最近、啓司に何か特別なことはなかった?」紗枝の知らぬところで、その日はまさに啓司が病院に行った日だった。和彦による検査の結果、来週月曜から手術に臨むことが決まったばかりだったのだ。啓司は牧野に口止めをし、離婚の手続きまで先んじて済ませていた。手術で何かあった場合、紗枝が子供を連れて黒木家に取り残されれば、容赦なく他の者たちに虐げられる――それだけは避けなければならなかった。だからこそ、先に離婚を成立させ、彼女に多額の資産を残し、黒木家の争いから遠ざけようとしたのだ。「社長は……特に変わったことはございません」牧野は知らぬふりを貫き、曖昧に答える。紗枝もまた、啓司が離婚を切り出したことを直接口にするわけにはいかず、言葉を選び直した。「じゃあ……最近様子がおかしいとか?頭をぶつけたとか?」「いいえ、奥様。社長は常にご自身の安全に気を配っておられます。そのようなことは一切ございません」牧野の口は固く、紗枝は結局何の情報も得られぬ
美希の気遣いの言葉を耳にした瞬間、紗枝の胸に去来したのは、ただただ滑稽さだった。「私のことは、どうかご心配なく」そう言い放つと、紗枝はさっさと車に乗り込み、振り返ることもなく走り去った。今日は何か波乱があるかと思っていたが、結局はあっけなく幕を閉じたのだった。だが目を閉じると、先ほどの美希の、どこかおどおどした声が頭の奥で反響した。「最近寒くなってきたから……あなたも子供たちも、どうか体に気をつけて」美希が本当に変わったのか、それともまた芝居をしているだけなのか、紗枝には判別できなかった。だが、真実がどうであれ、自分の受けた傷が癒えることは決してない。美希をこれほどまでに憎んでいる者は、他ならぬ自分なのだ。「着きましたよ」ぼんやりしていると、雷七の声に現実へと引き戻された。目を開けると、車はすでに牡丹別荘の外に停まっていた。その日、啓司は珍しく早く帰宅しており、ソファに腰を下ろして彼女を待っていた。紗枝が入ってくると、彼はすぐに口を開いた。「今日の件はどうだった?」紗枝は隣に座り、淡々とした調子で答える。「特に変わったことはないわ。裁判に勝って、二人は離婚して、美希は財産の半分を手にしただけ」胸の内では、すでに別の思いが渦巻いていた。美希が今、手にした金を昭子に渡すはずがない。この裁判はおそらく逸之のため。金を得た彼女は、それを逸之に渡し、間接的に夏目家へ返すつもりなのだろう。紗枝は少し疲れを覚え、啓司の腕に手を伸ばしながら気軽に尋ねた。「ねえ、毎日送ってくれるって言ったじゃない。どうして今日は朝早く出かけたの?」それはただの何気ない問いで、責める意図はなかった。突然自分から抱きついてきた紗枝に、啓司の喉はひときわ詰まった。彼は答えを避けるように手を伸ばし、そっと彼女の髪を撫でながら話題を逸らす。「いくつかプロジェクトを用意した。見てくれ」「え?また仕事?」紗枝は軽くため息をつき、心の中で嘆いた。啓司は、ほんとうに少しも人情味がないんだから。「これらを成功させれば、営業五課は廃止されずに済む」彼は淡々と付け加えた。誰も知らなかったが、その朝、啓司は病院を訪れていた。和彦の検査結果が出て、一週間後には手術が可能だという。だがもしものことがあれば、これから先、紗枝を支えることができな
紗枝の反応がこれほど大きかったのは、ただの驚きではなかった。わずか半月のあいだに、美希がまるで別人のように変わり果てていたからだ。今の彼女は、全身から肉が落ち、看護師に支えられなければ歩くこともできないほど衰弱しており、その一挙手一投足は痛々しいほど困難に見えた。法廷にはいくつかのメディアも潜入しており、この姿を目にして、誰が彼女をかつて名を馳せたダンサーと結びつけられるだろう。後悔がなければ、美希が命を削ってまでこんな場に現れるはずがない。落ち窪んだ瞳が傍聴席をゆっくりと掃き、最初にとらえたのは実の娘・昭子の姿だった。昭子もまた視線を返したが、その目には一片の痛みもなく、隠しきれない嫌悪と驚きしか浮かんでいなかった。彼女は声を潜め、そばのアシスタントに問う。「美希、どうしてここに?」アシスタントは首を振る。「わかりません」「まったく、役立たずばかり!」昭子は低く吐き捨てた。美希はすぐに目を逸らし、次に視線を止めたのは紗枝の顔だった。紗枝の表情は変わらず静かで、その瞳の奥には淀んだ水面のように一切の波がなかった。その冷ややかな眼差しに、美希の心は裂けるような痛みに襲われる。もしあの時、あれほどまでに彼女を傷つけなければ――こんなにも遠く冷たい視線を向けられることはなかったはずだ。ちょうどそのとき、雷七が美希のそばを通り過ぎ、紗枝のもとに来て小声で告げた。「病院に着いた時、二組の連中が争っていまして……その隙に美希さんと看護師を車に乗せ、ここまで連れてきました」「うん、ご苦労さま」紗枝は軽くうなずいて答えた。雷七が彼女の隣に腰を下ろすと、裁判はすぐに開廷した。美希は離婚を申し立て、夫婦の共同財産の半分を要求した。さらに、最近の入院中に世隆が不倫していた証拠を法廷に提出する。世隆は最後まで認めようとしなかったが、誰も予想しなかったことが起きた。黒木グループの弁護士が突然証人として出廷したのだ。それによって世隆は完全に敗北した。裁判官はその場で二人の離婚を宣告し、財産の半分を美希に分与するよう裁定した。判決が下ると、昭子は完全に呆然とした。彼女は裁判所を出るや否や拓司に電話をかけ、焦りを隠せぬ声で詰め寄った。「拓司、どうして黒木グループの首席弁護士が美希の味方をしたの?」拓司はすでに結果を把握