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第9話

Auteur: 氷室美澄
真琴は一瞬きょとんとして、それから慌てて礼香を見た。「礼香さん、君……」

礼香はしっかりとうなずいた。「もう決めたの。時間は無駄にしない。結婚しよう」

決めた以上、もう迷いはなかった。ぐずぐず引き延ばす理由なんて、どこにもない。

意味がない。

彼女は強く願っていた。あの家から離れたい。望月誠矢のそばからも離れたい。自分の命が尽きるその前に、少しでも自分のやりたいことをやりたい。自転車ひとつ自由に乗れない、そんな世界には、もういたくなかった。

「礼香さん、本当にいいの?」

「もう考えた。決めたの」

真琴はこらえきれずに笑みを浮かべた。「礼香さん、絶対に君を裏切ったりしない」

ふたりは結婚の決意を固めると、すぐに動き出した。

礼香は家に戻り、自分の身分証を探したが、どこにも見当たらない。不安になって執事に尋ねると、そのすべてが、望月誠矢の手元にあると告げられた。

どうしようもなく、礼香はためらいながらも書斎のドアをノックした。

「入れ」

ドアを開けると、望月誠矢はパソコンに向かい、仕事をしている最中だった。礼香はすぐに身を引き、遠慮がちに言った。「おじさん、お仕事中だね」

「止まれ」

彼女は思わず足を止めた。

「用件は?」

ようやくパソコンから視線を外し、誠矢は彼女のほうを見た。その表情は静かで、感情の色は読み取れない。

礼香はおずおずと振り返り、口ごもりながら言った。「おじさん、私の身分証、そちらに預かってありますか?」

あのとき引き取られてから、戸籍も望月家へ移された。生みの親はすでに亡く、ほかに身を寄せる先もなかったためだ。成人したあと、礼香は必死に頼み込み、戸籍を独立させてもらった。

あの頃の彼女は本気で信じていた。同じ戸籍にいなければ、血のつながりも、何もないのだと。

「そうだ、俺が預かっている」

「返してもらえるか?」

誠矢の瞳はさらに深く沈み、短く問うた。「理由は?」

「もう成人したから、自分のことは自分で管理したい。それに……仕事をしたいから、身分証が必要で」

「どんな仕事だ?」

「幼稚園の先生」

礼香は嘘をつかなかった。

誠矢は眉をひそめた。「先生?お前はまだ学生だろう。卒業もしていないのに、どうやって先生になるつもりだ」

「おじさん、私はこの仕事がしたいんです」

それは昨日ようやく決まったばかりの話だった。相手先から電話があり、採用を伝えられた。彼女が望む給料はとても低かった。だからこそ、資格のない自分でも雇ってくれたのだ。

「ふざけるな!」

めったに怒らない誠矢の顔に、はっきりと怒りの色が浮かぶ。その表情は氷のように冷たく、鋭い。「稲永真琴にそそのかされたのか?お前はまだ若いんだ。まず学業を終えるのが筋だろう。そんな適当な仕事で未来を潰す気か!」

礼香はうつむき、何も答えなかった。

誠矢は少し声を和らげて続けた。「俺がK大に話を通しておいた。お前の学籍は元に戻してある。だから学業に戻れる。お前は踊るのが好きだっただろう?K大を出たら、海外のダンススクールに行かせてやる」

それは礼香が本来歩むはずだった道。

そして誠矢なら、それを叶える力があることも、彼女はわかっていた。

「おじさん、何を寄付したの?校舎?グラウンド?それとも基金?」

「礼香、それはお前が気にすることじゃない」

彼女は小さく首を振り、両手を重ねて腰を深く折った。「おじさん、ありがとう。でも、もう戻りたくないんだ」

自分のあの過去の騒ぎは、今でもK大に語り草として残っている。そんな場所に戻って、何になるというのか。

それに……

もう、踊ることすらできない身体になってしまった。

あの頃の過ちの代償は、もう十分すぎるほど払った。だからもう、怖いのだ。

「お前は男のために、自分の人生を捨てるつもりなのか?」

礼香は拳をぎゅっと握りしめた。「おじさん、これは私の人生。私はもう踊りたくない。働きたいんだ。自分の人生には、自分で責任を持つよ。後悔なんてしない」

誠矢はますます怒りを深め、眉間にはっきりとした怒気がにじんでいた。彼はひとつの書類を乱暴にテーブルへ投げ出し、冷たい声で言った。「あいつが近づいたのは下心があったからだ。今すぐあいつとは縁を切れ」

礼香はその書類を見下ろし、目を大きく見開いた。

「調べたの?」

「お前に近づく人間は、俺がすべて把握している。あいつはお前にはふさわしくない。早いうちに終わらせろ。まずは学業をきちんと終えろ。そのあとは……」誠矢は少し間を置き、目を伏せた。「もっとふさわしい相手を俺が紹介する」

その最後の一言が、礼香の胸を鋭く貫いた。

もうあんな気持ちは抱かないと、何度も自分に言い聞かせていたのに、彼の言葉ひとつで、また心が痛んだ。

礼香は唇を引きつらせ、ひとことずつ噛みしめるように言った。「おじさん、私はあなたが好きなときに他人に譲れるおもちゃか?」

「そんなつもりはない。ただ、お前はまだ若い。人を見る目も未熟だ。簡単に騙されてしまう」

礼香の目はじわりと赤くなり、視界がぼやけた。必死に涙をこらえながら、それでも強い意志で言い切る。「おじさん、これは私の人生なのよ。あなたに指図される筋合いはない」

その頑なな態度は、誠矢の目には「外の男に惑わされ、理性を失っている」としか映らなかった。

誠矢の理性は少しずつ崩れはじめていた。それでも表面上は冷静を装い、隙ひとつ見せずに、凍てつくような声で言い放った。「白石礼香、俺がお前をどうにかできるかどうか、試してみるか」

それから彼女は外出を禁じられた。

スマホも取り上げられた。

誠矢は礼香の目の前で、真琴からの着信を切り、その番号をブロックリストに入れた。

彼女は狂ったように誠矢へ向かって飛びかかり、スマホを奪い返そうと叫んだ。「返してよ!」

だがその手首は強い力で掴まれ、今にも骨がきしむほど締めつけられた。

「礼香、家でよく考えろ。学校からの連絡が来たら、すぐに戻って授業を受けるんだ。わかったな?」

「わからない!」

礼香の声はほとんど悲鳴のように鋭く、呼吸も荒かった。

「わからないわからないわからない!あなたは私のことを愛してなんかいないくせに、どうして私が誰と付き合おうとそんなに気にするのよ?!」

誠矢の顔がさらに険しくなり、瞳に怒気が宿った。そして、冷たく、強引な理屈を口にした。「お前がおじさんと呼ぶ限り、俺はお前に責任を持つ」

「望月誠矢!私たち血のつながりなんてないでしょう!」

誠矢はその言葉には答えず、すぐに指示を飛ばした。「浅川、門を見張れ。彼女を外に出すな」

執事の浅川は困惑の色を浮かべながらも、最終的には誠矢の命令に従った。誠矢が本気で礼香を害するはずがない、と信じて。

「私はもう二十歳よ!子どもじゃないの、十二歳の時とは違うのに!こんなのおかしい!出してよ!私には……」

時間がもうあまり残されていない。

その本当の想いを告げる前に、誠矢はすでに背を向け、部屋を出て行った。

「望月誠矢!」

礼香は叫びながら追いかけた。だが、その行く手を浅川が静かに塞いだ。

「浅川爺さん、開けてもらえないか?お願いだから、ここに閉じ込められたままなんてダメなんだ……」

浅川はゆっくりと首を振った。「お嬢さん、望月さんはあなたのことを思ってこその判断です。どうかもうこれ以上、望月さんを怒らせないでください。この何年、あの方も決して楽ではなかったんですよ」

誠矢はただ一人で白石家の財産を守り抜き、白石家の若様とお嬢様を守ってきた。その上、自分のためには一銭も手をつけなかった。白石家の者たちは皆、心の中で彼を家主と認め、その地位は揺るぎないものになっている。

「違うんだ、浅川爺さん……私はどうしても外に出なきゃいけないんだ。やらなきゃいけないことがあるんだ。ここで死を待つわけにはいかない……」

浅川はため息をつき、やさしく首を振った。「お嬢さん、またそんな嘘をおっしゃる。命を引き合いに脅すなんて、そんなの良くありません。本当に死にたい人間が、そんなふうに何度も口にするものではありませんよ」

誰も彼女の本気を信じようとしなかった。

礼香の顔色はどんどん青ざめていく。身体はふらつき、胃の奥がひっくり返るように痛み、こみ上げてきた鉄の味を、必死に手で押さえ込んだ。

「うっ……」

指の隙間から、鮮やかな赤がじわりとにじみ出た。

胃の激しい痛みに耐えきれず、彼女はその場に崩れ落ち、膝をついたまま背中を丸めた。

その異変に気づいた浅川が、あわてて駆け寄ろうとする。「お嬢さん、大丈夫ですか……」

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