出家して三年、望月社長は彼女を破戒させようと狂ったように誘惑した

出家して三年、望月社長は彼女を破戒させようと狂ったように誘惑した

By:  氷室美澄Updated just now
Language: Japanese
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海城市の白石家は破産清算となったが、望月家の長男はたった一人で全てを守り抜いた。 さらに田舎から白石家のお嬢様を連れ帰り、あらゆる愛情を注いで世間の羨望を集めた。 白石礼香(しらいし れいか)が五歳の頃、まだ豚小屋で餌を奪い合っていた彼女の前に、空から舞い降りたように望月誠矢(もちづき せいや)が現れ、救い出した。それから十五年、彼は彼女を守り続けた。 それは―― 百回目の告白の後、彼は自ら彼女を遠くの山奥にある孤寺へと送り、心を清めるよう命じた。 彼曰く、「お前は心が歪んでいて、邪念ばかりだ。魂を洗い直せ」 山の上で辱められていた彼女の傍らで、彼は山の麓で別の女性と婚約していた。 ついに彼女はすべてを諦め、膝をついて一歩ごとに頭を下げ、黒髪を断ち、想いを終わらせた。 —— 海城市で尊ばれる望月家の若様が、深夜に寺の外で膝をつき、目を赤くして彼女にすがったという。 「礼香、昔のように好きだって言ってくれ」 彼女は木魚を叩きながら、一度も振り返ることなく言った。 「望月さん、人違いでは」 その後、誠矢は狂ったようになり、世間の目も倫理も無視して彼女を監禁した。 「礼香、お前が出家して俺を忘れるっていうなら、俺はお前を地獄まで引きずっていく」

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Chapter 1

第1話

「南無阿弥陀仏、白石様はすでに懺悔を済ませ、心に迷いはございません」

僧侶は両手を合わせ、敬虔な面持ちでそう告げた。

後ろから足を引きずるように歩いてきた影が、ようやく追いついたその瞬間、冷たい声が飛んできた。「乗れ」

車のドアが開き、白石礼香(しらいし れいか)は強引に中へ押し込まれた。

高級レザーのシートには一人の男が座っていた。

黒のオーダースーツを身にまとい、隠しきれない気品を纏っている。整った顔立ちに深い瞳、通った鼻筋と薄い唇、鋭い顎のラインには、冷徹さと長年トップに立ってきた者の威圧感が滲んでいた。

彼の名は望月誠矢(もちづき せいや)。海城市の実質的ナンバー2にして、街の経済を握る男だ。

彼女にとっては名目上の叔父であり、十年間想い続けてきた男だった。

「その目をやめろ、二度と俺の前でそんな顔すんな」

誠矢の声は鋭く、容赦がなかった。

礼香の顔から血の気が引き、うつむいたまま彼を見ようともせず、身体を小さくして隅に縮こまった。

誠矢は腕時計に目を落とし、短く命じた。「ホテルへ行け」

彼の手首にあった腕時計は、もう彼女が贈ったものではなかった。代わりに着けていたのは、白川遥(しらがわ はるか)がよく愛用していた安物のブランドだった。

三年かけて貯めたお金で買った時計は、遥の一年にすら敵わなかった。

彼の口調は冷ややかだった。「寺の清らかな空気で、お前の穢れた考えは消えたか?」

礼香は拳を強く握り、なんとか笑顔を作ってみせた。「おじさん、何のことか分からないよ」

「おじさん」その一言が、二人の間に決定的な線を引いた。

かつて彼女は、誠矢、誠矢と名前で呼び続けていた。どれだけ罰を受けても、その呼び方を変えることはなかったのに。

でも今の彼女は違う。

誠矢の目にかすかな陰りが差し、口調もわずかに緩んだ。「ああ、遥が言った通りだ。ここに預けてよかった」

彼は視線を外し、手元の仕事に意識を戻したが、隣の席で礼香の顔がすでに真っ白になっていることには気づいていなかった。

車は静かに寺を離れ、モリウェルホテルへと向かった。

その日、ホテルは貸し切りで一般の客は入れなかった。

エントランスには高級車がずらりと並び、要人たちが次々と出入りし、両側にはガードマンが立ち、写真撮影も厳しく禁じられていた。

かつて礼香はこうした宴席に何度も顔を出しており、誠矢の存在ゆえに、会場の人々も彼女をそれなりに敬意をもって迎えてくれていた。

車を降りた後、誠矢は電話を受けながら「先に中へ入れ。俺はまだ用がある」と短く告げた。

礼香はうなずき、誠矢が目を離した隙に、足を引きずりながらホールへと歩き出した。

彼女が現れるや否や、周囲のささやき声が止むことなく耳に届いた。「あの子、望月さんの姪か?どうしてあんな姿になったんだ?」

「お寺に修行に出されてたってさ。今日戻ってきたらしいけど、まるで別人みたいだね」

「しっ、聞こえるよ。この子は昔から我が強くて、望月さんにずいぶん迷惑かけてたんだよ。幼くして親を亡くしたから可哀想だと思って、望月さんも我慢してただけでしょ」

「望月さんは情に厚くて誠実な人だし、将来は相当な地位に就くはず。ふぅ、白川さんは幸運ね」

「ほんとだよね。今日は二人の婚約パーティーだってさ」

礼香の顔が凍りつき、足が地面に縫いつけられたかのように動かなくなった。

婚約パーティー?

そういうことだったんだ……

だから、彼は自分を山から迎えに来たのか。

自分を想ってのことじゃない。ただ、自分がまだ諦めきれていないかもしれないと恐れて、わざわざこの婚約の場を見せつけにきたんだ。

「白石礼香!よくも戻ってこられたな!」

鋭い怒声が飛んできたかと思うと、礼香は反応する間もなく強く突き飛ばされた。

支えきれなかった右足が崩れ、そのまま隣のデザート台に倒れ込み、菓子や皿が派手に床へと散らばった。

熱々の甘いスープが頭から全身にかけて浴びせられた。

その手を下したのは彼女の実の兄、唯一の血縁である白石洋次(しらいし ようじ)だった。

周囲がざわつき、人々は数歩後ずさりしながらも、どこか嘲るような目を向けていた。

洋次は一瞬ばつが悪そうな顔をしたが、すぐに怒気を滲ませた。「いい加減にしろ!さっさと立てよ!お前、こんな大事な場で何を企んでるんだ?遥さんとおじさんの婚約を台無しにしたいのか!」

礼香はうつむいたまま、乾ききった髪から熱いスープがぽたぽたと滴り落ちていく。着ていた色褪せた服は濡れて肌に張りつき、身体の細さを際立たせた。

そこにあったのは、肉のない骨ばかりの姿だった。

誠矢が背後から駆けつけ、その顔に明らかな不快を浮かべて言った。「洋次くん」

洋次は気まずそうに目を逸らしつつも、不満を吐いた。「おじさん、彼女を連れ戻すべきじゃなかったよ。どうせまた騒ぎを起こすに決まってる。今までだってそうだったじゃないか!」

礼香は顔を伏せたまま、口の中に広がる苦味を噛みしめていた。

彼女は確かに、たくさんの過ちを犯してきた。遥が誠矢の傍に現れてから、彼女は狂ってしまったのだ。

ずっと誠矢の傍にいたのは自分なのに、十年も想い続けてきたのは自分なのに、結局はただの家政婦の娘に敵わなかった。

かつての最愛の兄である洋次までもが、その女を実の妹のように可愛がり、自分を悪者のごとく忌み嫌った。

自分が持っていたすべてを遥に奪われた。悔しくて、意地になって、無茶を繰り返し、数えきれないほどの問題を起こして、最後は寺に閉じ込められて一年。

今の彼女には、もうそんな力は残っていなかった。首を横に振りながら、か細い声で言った。「そんなつもりはないの」

「まだそんなことを言うか!ちょっと押しただけで、わざと倒れたふりしてさ、誰に見せつけてるつもりなんだよ!」

「やめろ、洋次くん」

洋次は渋々口をつぐんだ。

そのとき、ふとぬくもりの残るジャケットがそっと礼香の身体にかけられた。

礼香は一瞬呆然とし、ゆっくりと顔を上げると、誠矢の漆黒の瞳と目が合った。何かを言おうとしたそのとき、澄んだ女性の声が割って入った。「誠矢さん、どうしたの?」

白いワンピースを纏い、長い黒髪をなびかせた清楚な顔立ちの女性が現れた。

彼女は車椅子に座り、使用人に押されてゆっくりと近づいてくる。

この場にいる誰もが知っていた。誠矢の恋人の遥は一年前、事故に遭って下半身に障害を負い、今も自由に歩くことができないのだ。

礼香はその姿を見た瞬間、さらに激しく震え始めた。

「礼香ちゃん、服がびしょ濡れじゃない。風邪ひいちゃうわよ。一緒に控室に行きましょ?ちょうど替えの服を持ってきてるの」

礼香は歯の根が合わず、か細い声でかろうじて拒んだ。「い、いいの、いらない……」

誠矢は眉をひそめ、冷ややかな目で言った。「礼香、言うことを聞け」

彼はいつも厳格だった。長年人の上に立ってきた者の威圧感に、年上という立場も加わって、彼女には逆らえなかった。喉元まで出かかった拒絶の言葉を、礼香はかすれ声で飲み込み、代わりにこう言った。「わかった、おじさん」

誠矢は低い声で指示した。「長引かせるなよ」

遥はにこやかに微笑んで返した。「わかってるわ。式の邪魔はしないから」

礼香は顔を伏せたまま、車椅子のハンドルに手をかけようとした。そのとき、かすかな声が耳に届いた。「白石礼香、どうして山の中で死んでくれなかったの?」

顔を上げた瞬間、白川遥の悪意に満ちた視線とぶつかった。彼女はすっと距離を詰め、礼香の手を強く握りしめた。爪が深く肉に食い込むほどに。「何年も禁欲してた坊主の味って、どうだった?気持ちよかった?」

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第1話
「南無阿弥陀仏、白石様はすでに懺悔を済ませ、心に迷いはございません」僧侶は両手を合わせ、敬虔な面持ちでそう告げた。後ろから足を引きずるように歩いてきた影が、ようやく追いついたその瞬間、冷たい声が飛んできた。「乗れ」車のドアが開き、白石礼香(しらいし れいか)は強引に中へ押し込まれた。高級レザーのシートには一人の男が座っていた。黒のオーダースーツを身にまとい、隠しきれない気品を纏っている。整った顔立ちに深い瞳、通った鼻筋と薄い唇、鋭い顎のラインには、冷徹さと長年トップに立ってきた者の威圧感が滲んでいた。彼の名は望月誠矢(もちづき せいや)。海城市の実質的ナンバー2にして、街の経済を握る男だ。彼女にとっては名目上の叔父であり、十年間想い続けてきた男だった。「その目をやめろ、二度と俺の前でそんな顔すんな」誠矢の声は鋭く、容赦がなかった。礼香の顔から血の気が引き、うつむいたまま彼を見ようともせず、身体を小さくして隅に縮こまった。誠矢は腕時計に目を落とし、短く命じた。「ホテルへ行け」彼の手首にあった腕時計は、もう彼女が贈ったものではなかった。代わりに着けていたのは、白川遥(しらがわ はるか)がよく愛用していた安物のブランドだった。三年かけて貯めたお金で買った時計は、遥の一年にすら敵わなかった。彼の口調は冷ややかだった。「寺の清らかな空気で、お前の穢れた考えは消えたか?」礼香は拳を強く握り、なんとか笑顔を作ってみせた。「おじさん、何のことか分からないよ」「おじさん」その一言が、二人の間に決定的な線を引いた。かつて彼女は、誠矢、誠矢と名前で呼び続けていた。どれだけ罰を受けても、その呼び方を変えることはなかったのに。でも今の彼女は違う。誠矢の目にかすかな陰りが差し、口調もわずかに緩んだ。「ああ、遥が言った通りだ。ここに預けてよかった」彼は視線を外し、手元の仕事に意識を戻したが、隣の席で礼香の顔がすでに真っ白になっていることには気づいていなかった。車は静かに寺を離れ、モリウェルホテルへと向かった。その日、ホテルは貸し切りで一般の客は入れなかった。エントランスには高級車がずらりと並び、要人たちが次々と出入りし、両側にはガードマンが立ち、写真撮影も厳しく禁じられていた。かつて礼香はこうした宴席
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第2話
悪夢のような記憶が津波のように押し寄せてきた。彼女はほとんど錯乱したように遥を強く突き飛ばし、叫び声をあげた。「触らないで!!」遥は大げさに車椅子から転げ落ち、顔面は真っ青になりながら苦しそうに声を漏らした。「痛い!」「遥!」誠矢と洋次は同時に手を伸ばし彼女を助けようとしたが、先に動いたのは誠矢だった。彼は遥を抱き上げ、そっと脇に下ろしながら尋ねた。「怪我はないか?どこが痛む?」「誠矢さん、私は大丈夫。礼香ちゃんがきっと辛すぎたのよ。私は平気だから、お願い、礼香ちゃんのほうを見てあげて」洋次は怒りに震えながら怒鳴った。「白石礼香!お前ってやつはなんて悪どいんだ!遥さんはお前のせいで身体が不自由になったんだぞ!それなのにまだ突き飛ばすなんて!!おじさん、俺の意見だけど、こんな奴は連れ戻すべきじゃなかった。もう一度寺に戻して懺悔させるべきだ!」いやだ!戻りたくない!また犯されて!殺!さ!れる!「ドサッ」礼香はその場にひざまずき、力いっぱい頭を床に打ちつけた。「ゴン」額はすぐに赤く腫れ上がった。「ごめんなさい、私が悪かった」「ゴン」何度も何度も額を床に打ちつけ、ついには血が流れ出した。その場にいた全員が、この光景に息を呑んでいた。洋次でさえ、もう何も言えなくなっていた。あれほど気丈で高飛車だった白石家のお嬢様が、今や捨てられた犬のように、ひざまずいて頭を打ち続けている。誠矢の目が鋭く細められ、声には冷酷さが滲んでいた。「礼香、立て」だが、礼香は立ち上がることができなかった。膝は激しく痛み、顔は血まみれになっていた。それでも必死に頭を下げ、懇願した。「おじさん、お願い、戻さないで。私が悪かった、何でもするから、遥さんに頭を下げる、いくらでも謝るから、だからお願い、あそこには戻りたくない……」あの山での毎日毎晩、仏像の前で受けた辱めは、まるで悪魔に喰われるかのようだった。思い出すほどに身体は激しく震え、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。礼香はその場で嘔吐し、腐ったような酸っぱい液体を大量に吐き出した。その中には、まだ消化しきれない木の皮のかけらが混じっていた。彼女はひどく痩せ細っていた。あの僧たちはわざと食事を与えず、飢えた彼女は残飯をあさり、木の皮をかじって生き延びていた。そのせ
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第3話
胃がんと診断されたのは、まったくの偶然だった。山から下ろされることが決まった電話がかかってきたのは半月ほど前。そのとき礼香は、まだ真っ暗な小屋に吊るされ、水さえ一滴も与えられずにいた。僧たちは本気で彼女が死んでしまうのを恐れ、さらにその傷が望月家に知られることを恐れていた。仕方なく、瀕死の彼女を私立の病院へ運び込み、命を繋がせた。その病院で半月ほど入院し、ようやく死の淵から引き戻された。彼女は寝たふりをしながら、医者たちの会話を聞いていた。胃がん。治療しなければ余命は一ヶ月ほど。治療をしても、延びて三ヶ月か五ヶ月。僧たちは望月家の怒りを恐れ、多額の金を積んで診断結果を改ざんさせた。その上で、一見健康そうに見える礼香を山から送り返した。彼女は口元をかすかに歪め、両親の位牌を見つめながら、ぽつりと呟いた。「死ぬのも……悪くない」どこまでも安い命。どれだけ頭を打ちつけても、まだ死にきれない。「もう立ちなさい。部屋へ戻って休め」その声に彼女は小さく返事をし、ゆっくりと立ち上がった。砕けそうな膝の痛みに耐えながら。誠矢の表情は冷たく、責めるような口調で言った。「遥は足の持病が悪化しているのに、それでもお前のために許しを請おうとしている。礼香、お前には本当に悔いる気持ちの一つもないのか?」礼香ははっとして、さらに深く頭を垂れた。「遥姉さんの恩は、忘れません」誠矢もまた一瞬言葉に詰まり、瞳の奥にさらに深い陰を落とした。そして冷たく告げた。「それがわかっていればいい。部屋へ戻れ」礼香は時間をかけてようやく本宅に戻った。彼女の部屋は三階にあり、階段を通りかかったとき、かすかなうめき声が耳に届いた。「……っ、痛い」「ごめん、もっと優しくするよ」顔を上げ、扉の隙間からそっと覗くと、この上なく尊い存在であるはずのおじさんが、片膝をつき、遥の膝を優しく揉んでいるところだった。心の奥深くで崇め続け、指一本触れることすら恐れていたその人が今は別の女の足元にひざまずいている。痛い!もう傷つくことなんてないと思っていたのに。この光景が、これほどまでに胸を抉るなんて、思いもしなかった。「見たか?おじさんが好きなのは遥さんだけだ。お前のその汚い妄想なんて、とっくに捨てるべきだったんだ。そんなことを考えてると思うだけで、俺はお
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第4話
激怒した誠矢には、もはやどんな弁解の言葉も届かなかった。彼は彼女の手首を掴み、乱暴に引き起こすと、そのまま無言で歩き出した。全身から冷たい殺気を放ちながら、その迫力に誰一人として口を挟む者はいなかった。礼香は足を引きずりながら必死でついていった。壊れた足が激しく痛んでいるのに、誠矢はまったく気にする様子もなく、彼女を車の中へと押し込んだ。「志明レジデンスへ」運転手は余計な詮索をすることなく、すぐに誠矢の私邸へ向かって車を走らせた。礼香は怯えながらおじさんの冷たい表情を見つめ、震える声で言った。「おじさん、あなたが思っているようなことじゃない……」「これ以上、ここで俺に手を出させるな」「違うの、おじさん。あなたがここにいるなんて知らなかった。あれは松本が……」言葉が喉までこみ上げたが、礼香はそれを飲み込んだ。言えない。これは、一生誰にも話してはならない秘密だった。だがその、言いかけては口を閉ざす姿は、誠矢の目にはただの言い訳にしか映らなかった。ここまで来てもまだ諦めきれていない、その証拠だと。「黙れ」礼香は大きく息を吸い、溢れそうになる涙を必死に堪えた。唇をぎゅっと噛み締め、何も言わなかった。車はやがて地下駐車場に停まった。礼香はこの場所に来たことがなく、きょろきょろとあたりを見回した。その隙に、手首をまた強く掴まれ、無理やり車から引きずり出された。その瞬間、彼女の胸に嫌な予感が芽生えた。「おじさん、わ、私たち、本宅には戻らないの?」彼は無言のまま大股で歩き続け、何の答えも返さなかった。エレベーターに乗り込み、そのまま最上階へ。ドアが開くと、目の前には広々としたリビングが現れた。控えめな贅沢さが漂うシンプルな空間。家具はほとんど置かれておらず、ただ中央に黒いソファが一際目立っていた。一面の壁がすべてガラス張りになっていて、街の景色が一望できる。リビングには明かりが灯っておらず、月明かりだけが静かに室内を照らしていた。ほのかに香るシダーウッドの匂いが、この部屋の持ち主が誰なのかをはっきりと教えていた。礼香はゆっくりと身を翻し、震える声で呼びかけた。「おじさん……」背後には男の影が静かに佇んでいる。その表情は暗闇に紛れて見えない。ただ、張りつめた威圧感だけが空間を支配してい
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第5話
遥は少しはにかんだふうに胸元を押さえ、わざとらしく言った。「こんな話、礼香ちゃんにはまだ早かったわね。まだ子どもだもの。それとそのジャケット、私にちょうだい。誠矢さんは自分の服に他人の匂いがついているのを嫌うから」それはつまり、「あなたの匂いが嫌いだ」と言っているのと同じだった。礼香の顔色はみるみる青ざめた。こんなことは、昔にもあった。誠矢を追いかけて必死だったあの頃、彼女は彼のジャケットをこっそり隠し、毎晩それを抱いて眠っていた。それが使用人に見つかり、すぐにおじさんが呼ばれた。隠す間もなく、彼の目の前でその現場を押さえられた礼香は、恥ずかしさでその場に崩れ落ちそうだった。そのとき初めて、礼香はおじさんの顔にあからさまな嫌悪の色が浮かぶのを、はっきりと見た。彼は何も言わず、ただその場でジャケットを燃やすよう命じた。そして、それを境に屋敷を出て行った。あの日から、彼に会える機会は数えるほどしかなくなった。「わかった」礼香はそのジャケットを静かに脱ぎ、遥に手渡した。ボロボロになったインナー姿のまま、肩を縮めてその場を後にした。白川遥は礼香の去っていく背中をじっと見つめていた。その腰元、めくれた服の隙間から覗いた肌に、はっきりと指の跡が残っているのを見逃さなかった。どう見ても男の手によるもの。そして、そのうえでのジャケット……遥の顔色は一気に険しくなり、瞳の奥に狂おしいほどの嫉妬が燃え上がった。……礼香はベッドの上で膝を抱え、虚ろな目をしていた。そのとき、スマホが震える。案の定、松本からだった。【次の指示だ。明日の夜の同窓会に出ろ。場所は帝華ロイヤルホテル、18号個室】【来なければC通りの一番大きなスクリーンに、お前の写真を流すからな】礼香はそのメッセージを見つめ、苦笑いを浮かべながら、ひとことだけ返信した。【わかった】翌日。礼香は時間通りにホテルへと足を運んだ。このホテルは誠矢が所有する七つ星クラスの高級ホテルであり、街のランドマークでもある。その贅沢な造りは、常に重要な客人をもてなすために使われていた。かつて、彼女の誕生日は毎年ここで祝われていた。あの関係が壊れるまでは、おじさんは本当に優しかった。一度だって彼女に冷たくしたことなどなかった。すべては彼女が
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第6話
すぐさま一人の影が現れ、遥を素早く抱き起こした。「遥!」それは誠矢だった。誠矢は眉をひそめ、白川遥の額にできた傷を見つめながら鋭い声をあげた。「医者を呼べ」すぐに付き添いの秘書が動き、ホテル内に常駐する医療チームを呼びに走った。この会場では万が一に備え、医療班が待機していた。その場は一気に静まり返り、誰もが誠矢に視線を向けた。彼が放つ圧倒的な威圧感に、誰一人声を上げることができなかった。遥は震える手で誠矢の手をしっかりと握り、かすれた声で言った。「誠矢さん、私は大丈夫だから。早く礼香ちゃんを助けてあげて」先ほどまで視線が遮られていたため、誠矢は礼香が倒れていることに気づいていなかった。「礼香?」彼は手を伸ばし、彼女を支え起こそうとした。しかしその手が届くより早く、彼女は激しく身を引いた。空しく伸ばされたままの手を見つめ、誠矢の瞳は深く沈んだ。「どういうことだ?」その声には明らかな怒気がにじんでいた。周囲の誰もが口ごもり、説明する者はいなかった。そんな中、石田だけが空気を読まずに叫び声を上げた。「望月さん、こいつのせいで白川先輩は一生歩けなくなったんですよ!謝るどころか、反省の色も見せない!この女は……」だがその言葉は、誠矢の鋭い視線に射抜かれ、途切れた。彼は思わず口を噤み、怯えたように目を伏せた。礼香は椅子に手をつき、ふらつきながらゆっくりと立ち上がった。顔を上げた彼女は、無理やりに苦しげな笑みを浮かべて言った。「おじさん、私は大丈夫。自分で転んだだけだから」誠矢の瞳は冷たく、感情の起伏を感じさせない声で尋ねた。「本当か?」礼香は一瞬間を置き、だがやはり小さくうなずいた。その様子を見て、石田はほっと安堵の息を漏らした。誠矢はそれ以上は問いたださず、彼女に特に異変がないと判断すると、遥を抱き上げ、そのまま傷の手当てをするために部屋を出ていった。彼の腕の中に抱かれた遥は、ふと顔を上げた。彼の肩越しにこちらを見つめ、礼香と目が合う。その瞳には、隠そうともしない勝ち誇った色がはっきりと浮かんでいた。礼香はその視線から逃げるように目を逸らした。二人が寄り添い合うその背中を、見ないようにして。場の空気は次第に元の賑わいを取り戻し、あちこちから声が上がった。「望月さんと白川先輩の結婚式、ど
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第7話
深夜一時。礼香は疲れ切った身体を引きずるようにして家へ戻ってきた。服はまだ濡れたまま、すっかり惨めな姿だった。玄関のドアを開けた執事は、その様子を見て思わず目を見開き、慌ててタオルを持ってきた。「お嬢様、どうぞこれで拭いてください」「ありがとう、浅川爺さん」彼女は濡れた髪を拭きながらそのまま部屋へ戻ろうとしたが、浅川に呼び止められた。彼の顔には、何か言いかけて迷うような表情が浮かんでいる。「どうかしたか?」「お嬢様、望月さんがお待ちです」彼女は一瞬動きを止め、ぎゅっとタオルを握りしめた。「今日はもう疲れたわ。部屋に戻るから、彼にそう伝えて。話は明日にしてって」そう言って、自分から歩を進めた。リビングを抜け、階段を上がろうとしたその時、暗闇の中から、低くくぐもった声が響いた。「どこに行ってた」彼女はふと足を止め、そっとそちらに目を向けた。暗闇の中、ソファにひとりの男が座っていた。礼香の方を真正面から見据えている。顔は深い影に隠れ、その表情までは読み取れない。礼香は視線をそらしながら、小さな声で答えた。「友だちと少し会ってただけ。帰りが遅くなった」「どの友だちだ」「おじさんの知らない人だよ」「言ってみろ」礼香は戸惑いながら顔を上げた。今まで彼がここまでしつこく問い詰めてきたことなど、一度もなかった。「言えないのか?男と夜遅くまで遊び歩いて、それがお前の躾か?」礼香の顔から血の気が引き、唇を噛んだ。「おじさん、私はもう成人してる」彼は立ち上がり、ゆっくりと一歩ずつ近づいてきた。その圧迫感に、彼女は思わず後ずさる。しかし次の瞬間、強い力で腕を掴まれ、無理やり引き寄せられた。「成人したからって、自分を安売りしていいとでも思ってるのか。礼香、俺はそんなふうにお前を育てた覚えはない」その言葉はまるで重い鉄槌のように、礼香の胸に叩きつけられた。激しい屈辱感が全身を襲う。もう我慢できなかった。礼香は力いっぱい自分の腕を引き抜き、声を荒げた。「あなたは本当のおじさんじゃない!なんでそんなふうに私を縛るの?私はもう大人なんだから、誰と付き合おうと私の自由よ!あなたの保護者としての権利なんて、とっくに終わってる!」誠矢の瞳が深く沈み、抑えきれない怒りが沸き上がる。その目尻には赤い光が差し
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第8話
彼女は悪夢から飛び起きた。天井を見つめながら、大きく息を吐く。ただの悪夢……もう終わったこと。大丈夫、何も問題ない。しばらくそのまま、恐怖の余韻から抜け出せずにいたが、ようやく身体を起こし、カーテンをゆっくりと開けた。差し込む朝の陽射しが、じんわりと体を温め、部屋に残る冷たい空気を押し流していく。服の縁から少し覗いた肌には、うっすらと傷跡が残っていた。日差しの下でも、よほど目を凝らさなければ気づかないほどの小さな痕。顔を洗い、着替えようとしたとき、ふと鏡に映る自分に目が留まった。一瞬きょとんとし、思わず鏡に顔を近づける。鎖骨の下あたりに、いくつか赤い痕、まるで蚊に刺されたような跡が残っていた。浅い傷で、じきに消えてしまいそうなくらい小さな跡だった。どうしてこんな痕が?思い出せない。指でそっと触れると、かすかにヒリヒリとした痛みが残っていた。どうやら表皮が少し傷ついているようだ。たぶん、自分で掻いてしまったんだろう。彼女はあまり気にせず、そのまま服を着て、傷跡を隠した。今日は真琴と、婚姻届用の写真を撮りに行く約束をしている。彼女はすでに準備を済ませ、その誘いを素直に受け入れていた。真琴の時間はもうあまり残されていない。彼女自身も同じだった。普通の恋人たちが当たり前のように過ごす「付き合う」という時間は、彼らにとってはあまりにも贅沢なものだった。昨夜まとめた荷物を袋に詰め込み、それを手にして階下へ向かう。ここ数日、彼女はわざと時間をずらして動くようにしていた。誰にも気づかれないように。思った通り、階下はしんと静まり返っており、誰の気配もない。彼女はそのまま袋を持って外へ出て、遠くのゴミ捨て場まで歩き、全部投げ捨てた。心の中で残り時間を計算しながら。あと二十日。それで自分はこの世からいなくなる。それでいい。「礼香さん、こっち!」礼香は声に気づいて顔を上げると、真琴が自転車に乗ってこちらへ向かってくるところだった。息を切らしながらも、笑顔で手を振っている。「ごめん、待たせちゃった?」礼香は首を振った。「ううん、大丈夫。でもどうして私がここに住んでるってわかったの?」「わざわざ聞いて調べたんだ。迎えに来たかったからさ。でも今日は父さんが車を使っちゃってて。だから悪い
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第9話
真琴は一瞬きょとんとして、それから慌てて礼香を見た。「礼香さん、君……」礼香はしっかりとうなずいた。「もう決めたの。時間は無駄にしない。結婚しよう」決めた以上、もう迷いはなかった。ぐずぐず引き延ばす理由なんて、どこにもない。意味がない。彼女は強く願っていた。あの家から離れたい。望月誠矢のそばからも離れたい。自分の命が尽きるその前に、少しでも自分のやりたいことをやりたい。自転車ひとつ自由に乗れない、そんな世界には、もういたくなかった。「礼香さん、本当にいいの?」「もう考えた。決めたの」真琴はこらえきれずに笑みを浮かべた。「礼香さん、絶対に君を裏切ったりしない」ふたりは結婚の決意を固めると、すぐに動き出した。礼香は家に戻り、自分の身分証を探したが、どこにも見当たらない。不安になって執事に尋ねると、そのすべてが、望月誠矢の手元にあると告げられた。どうしようもなく、礼香はためらいながらも書斎のドアをノックした。「入れ」ドアを開けると、望月誠矢はパソコンに向かい、仕事をしている最中だった。礼香はすぐに身を引き、遠慮がちに言った。「おじさん、お仕事中だね」「止まれ」彼女は思わず足を止めた。「用件は?」ようやくパソコンから視線を外し、誠矢は彼女のほうを見た。その表情は静かで、感情の色は読み取れない。礼香はおずおずと振り返り、口ごもりながら言った。「おじさん、私の身分証、そちらに預かってありますか?」あのとき引き取られてから、戸籍も望月家へ移された。生みの親はすでに亡く、ほかに身を寄せる先もなかったためだ。成人したあと、礼香は必死に頼み込み、戸籍を独立させてもらった。あの頃の彼女は本気で信じていた。同じ戸籍にいなければ、血のつながりも、何もないのだと。「そうだ、俺が預かっている」「返してもらえるか?」誠矢の瞳はさらに深く沈み、短く問うた。「理由は?」「もう成人したから、自分のことは自分で管理したい。それに……仕事をしたいから、身分証が必要で」「どんな仕事だ?」「幼稚園の先生」礼香は嘘をつかなかった。誠矢は眉をひそめた。「先生?お前はまだ学生だろう。卒業もしていないのに、どうやって先生になるつもりだ」「おじさん、私はこの仕事がしたいんです」それは昨日ようやく決まったばか
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第10話
「浅川さん、誠矢さんは出かけました?」遥の声がして、浅川の注意がそちらに向いた。「白川さん。望月さんは先ほど出かけられました」「そう……それじゃ後ろの庭に置いてある車椅子を取ってきてくれますか?今日はそれで出かけたいの」「かしこまりました。白川さん、少々お待ちください」浅川はそう答えると後ろ庭へ向かった。その背後では、礼香が足元から真っ赤な血を滴らせたまま、じっと立ち尽くしていることに気づきもしなかった。浅川が離れていったのを見届けると、遥は作り笑いを消し、ゆっくりと車椅子をこいで近づいてきた。床に広がる血の跡を見ても、彼女は薄く笑った。「痛いでしょ?可哀想に、誰もあなたのことなんて気にしてないのよ」礼香は必死に口を押さえ、顔は真っ青に染まり、肩が小刻みに震えていた。白川遥はくすっと笑い声を漏らした。「ふふっ、私を恨んでる?だから何?執事すらあなたの味方じゃない。あなたなんて、もうとっくにみんなに見捨てられてるんだよ」「洋次はもう私の言いなり。誠矢さんは私を妻にしようとしてるし、浅川さんだって私を一番に考えてくれてる。白石家の人間はみんな、あなたより私を敬ってる。白石礼香、あなたに私と張り合えるものなんて、何もないんだよ?」そう言い終えると同時に、遥は勢いよく車椅子から立ち上がった。そして躊躇なく礼香の手首を掴み、自分のほうへと強く引き寄せ。そのまま、思い切り自分の身体へと押しつけた。礼香はその場で凍りついた。驚きで目を大きく見開いたまま、遥が立ち上がっているという事実をまだ受け止めきれずにいると、背後から怒鳴り声が響いた。「白石礼香!何してるんだ!!!」背後から強い力が加わり、不意に礼香の身体は前へと突き飛ばされた。そのままバランスを崩し、額を机の角にぶつけ、鋭い痛みとともに視界が真っ暗になる。「遥さん!大丈夫か?!」「ん……大丈夫よ」「何言ってるんだ!血が出てるじゃないか!すぐに病院に連れて行く!」洋次は慌てて遥を抱き上げ、そのまま外へと急いだ。途中、床に倒れたままの礼香のそばを通り過ぎるとき、怒りに任せて彼女を蹴り飛ばした。礼香は痛みに身を丸めるしかできない。「覚えてろよ!おじさんは絶対にお前を許さない!なんて性悪な女だ!」ふたりはそのまま去っていった。礼香は床に倒れたまま、大きく血を
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