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灰色の夕方、静かな訪れ

Author: 中岡 始
last update Huling Na-update: 2025-07-07 20:06:48

灰色が空を覆っていた。まるで厚手の布が空にかけられたような、光の通りにくい午後だった。風もないのに、空気は冷えていて、肌の表面からじんわりと熱を奪っていく。尾崎はマフラーの端を首元に巻き直しながら、無意識に歩を早めていた。どこへ向かっているのか、それが自分の意思だったのかさえ、わからないまま。ただ、指先がかすかに冷たく痺れていて、その感覚が彼に自分の輪郭を思い出させた。

路地を抜けると、町家の建物が控えめに佇んでいた。《茶庭 結》と記された金文字の看板が、日陰に沈み込みながらも、なぜか確かな存在感を放っている。尾崎は立ち止まり、ひとつ息を吸い込んだ。吐いた息が白くならないことに、少し安心しながら、手を伸ばして引き戸を開けた。

戸が動く音は、いつもより少しだけ重く感じられた。軋むような音が背中から現実を遠ざけ、やわらかな灯りのなかに彼を包み込んでいく。鼻先に漂うのは、焙じ茶と木の香りが混じったような匂い。まるで時間そのものが、ここだけは別のリズムで流れているようだった。

奥の畳敷きに目をやると、佐野が茶器を拭いていた。気配に気づいたのか、顔を上げ、目を細めてから短く微笑んだ。

「いらっしゃい」

その声は、いつもの佐野のものより、ほんのわずかに低く感じられた。抑えたトーン。静かで、乾いていない。それだけで尾崎の胸のなかに、妙な波紋が広がった。誰かの声で、こんなふうに空気が変わることがあるのだと、あらためて気づく。

尾崎は軽く頭を下げ、言葉を返すことなく店の中央にある一人用の小さな席に腰を下ろした。体の力が抜けないまま、背筋はまっすぐに保たれたままだった。両手を膝の上に置き、視線を落とす。けれどその視線の先には何もなく、ただ無意識の思考が空白のまま漂っていた。

ふと気づけば、佐野がいつのまにか手を止めて、こちらを見ていた。その視線は鋭さも柔らかさもなく、ただそこに在るという種類のものだった。尾崎は気づかぬふりをした。わずかに目をそらし、窓際の障子越しの光へと視線を移す。

この場所に来るのは、もう何度目になるのだろう。回数を数えることはしていない。ただ、休日や仕事帰り、ふとしたときに足が向くのがこの店だった。何かを求めていたわけではなかったはずなのに、気がつ

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