夜の窓は、外の景色を写すことなくただ黒く沈み、鏡のように彼の輪郭を曖昧に映していた。天井に走る薄明かりの筋が、壁に伸びては揺れ、息をするたびに消え入りそうな静寂を孕んでいる。尾崎は、スーツを着たまま、ベッドに背を沈めていた。ネクタイも緩めていない。シャツの襟が喉元に張りついているのに、煩わしいとも感じなかった。着替えるという行為が、あまりにも日常的すぎて、自分の今とは違う世界の話に思えた。足元の床には、蓋の開いたスーツケースがひとつ置かれていた。衣服も書類も詰められたそれは、まるで空になった自分の代わりのようだった。冷蔵庫の音が規則的に響く。壁にかかる無意味な絵が、彼に背を向けるようにそこにある。ベッドサイドのローテーブルには、三つのものが置かれていた。一つは、京都支社への異動を命じる封筒。開封された口元が乱雑に折れ曲がっており、それを指で撫でても何も感じなかった。一つは、東京本社のIDカード。社員番号と顔写真の入ったそれは、もう自分を通す扉のどれひとつとして開けてはくれない。そしてもう一つは、名刺。一枚だけ、なぜか捨てられなかった。黒い文字で印刷された「鈴木慶吾」の名は、照明の下で光を吸い込みながら無言のまま、尾崎の視界の端にあった。指先でその角をかすかに持ち上げてみる。が、すぐに手を離した。少しの風で滑って、テーブルの端に寄った名刺は、それでも落ちることなく留まっていた。ふと、自分の体の感覚が希薄になっていることに気づいた。重たいのではない。あるはずのものが抜けている。そういう感覚だった。天井を見上げる。視線は焦点を結ばず、ただ灯りの反射が瞳の中を横切っていくだけだった。何かを思い出そうとしても、思い出せない。言葉が浮かんでも、すぐに霧散する。泣けるのかもしれないと、一瞬だけ考えた。泣ければ、少しは楽になるのかもしれないとも。でも、もうそのための力が残っていなかった。涙を流すには、どこかに火種のようなものが要るのだと知る。心はとうに冷えていた。それを自覚しても、驚くことすらできなかった。息を吐く音が、部屋の静けさに混ざってゆっくりと消えていく。それを聞いているのは、自分しかいなかった。
Terakhir Diperbarui : 2025-06-20 Baca selengkapnya