空気の温度が、少しだけ変わった気がした。季節の変わり目に吹く風のように、はっきりとした輪郭はないが、確かに肌の上をなぞっていくもの。尾崎は手の中の湯のみを見下ろしていた。茶の表面には、もう湯気はほとんど残っていなかったが、器自体はまだほのかに温かく、掌にしっとりと吸いつくような感触があった。
沈黙が、ふたりのあいだに落ちていた。ただ、それは気まずさではなかった。言葉を急がずとも、そこに在ることだけで通じるような、そんな種類の静けさだった。
尾崎は、佐野の視線を感じていた。けれど、目を合わせるには、もう少し勇気が必要だった。視られることには慣れているつもりだった。だが今この場所で、この人の目にまっすぐ映るには、自分が自分としてそこにいなければならない。
それが、少し怖かった。
「…俺は」
声は思ったより低く、けれど、かすれることなくまっすぐに出た。
「俺は――選びたいんです」
湯のみの縁に触れていた指が、わずかに震えた。言葉の最後にほんの少しだけ間を置いたのは、意図的だったのか、感情がそこに滲んだからか、自分でもはっきりしなかった。
佐野の動きが止まった。茶器を拭いていた手が、そのまま空中でぴたりと固まる。ほんの一瞬。けれどその静止には、茶の作法や所作では表せない、素の人間としての“驚き”がにじんでいた。
尾崎は、ようやく視線を上げた。佐野の目を、正面から見た。
その瞳は、いつものように穏やかで、どこか遠くを見るような曖昧さを湛えていた。けれど、その奥に、かすかな揺らぎがあった。湯の波紋のように、小さく、それでいて消えることなく広がっていく。
占い師としての顔ではなかった。静かに整った顔立ちの中に、はじめて見る色があった。恐れか、戸惑いか、それとも何かを受け入れようとする迷いか。言葉にならないそのすべてが、まなざしに表れていた。
「…選びたい、って、思うんやな」
佐野は茶器をそっと置き、指先をカウンターの縁に添えた。それは、自分の手が震えていないか確かめるような、そんな微細な動作だった。
「はい」
尾崎の返事は短かった。でも、その声の奥に積み重なった時間が
雨は細く、ひたすらに静かだった。水を含んだ石畳が足音を柔らかく吸い込んでいくなか、尾崎は傘も持たずに《結》の暖簾をくぐった。開いた戸の向こうから、ふわりとした抹茶と湿った木の香りが混ざって流れてくる。濡れた髪の隙間から、額の肌がうっすらと透けていた。スーツの肩にも水滴が残っており、彼の佇まいはどこか薄明かりのなかに溶け込むようだった。店内には客の姿はなく、照明も落とされていた。時刻は夜の八時を少し回った頃。雨脚は弱いが止む気配はなく、ひと晩中このまま降り続きそうな空だった。暖簾を閉めて一歩足を踏み入れると、しんとした静寂が尾崎の耳を包んだ。冷たくはないが、どこか肌に触れる気配を持った静けさだった。佐野の姿は、いつものようにカウンターにはなかった。厨房の明かりも落とされており、手前の間はほとんど灯が消されている。かすかに障子の向こうから、柔らかな灯りの気配があった。尾崎は靴を脱ぎ、そっと足音を忍ばせるようにしてその光を目指した。奥の間に入ると、佐野がひとり、タロットクロスをゆっくりと畳んでいた。灯りは天井の照明ではなく、小ぶりの間接照明がひとつだけ。布張りの柔らかなシェード越しに、琥珀色の光が空間を包んでいる。壁には雨音だけが届いており、それ以外に音はなかった。「…こんばんは」声をかけると、佐野は少しだけ顔を上げた。変わらぬ微笑を浮かべていたが、その目元には、わずかな疲れの色が滲んでいた。睫毛の下に、淡い影が差していたのは、照明の加減のせいだけではないように思えた。「来てくれはったんやな」佐野の声は静かだった。だが、その語尾にほんの少しだけ安堵のようなものが滲んでいた気がした。「雨、すごいですね。傘、忘れてて…そのまま来てしまいました」「濡れてもうたんやね。ちょっと、待ってて」佐野はそう言うと、そっと立ち上がり、隣の間から柔らかなタオルを持って戻ってきた。尾崎の前にしゃがむようにして、濡れた髪の先にそっと布を当てる。「ええんです、そんな」「風邪引いたら、あかんから」言葉にとげはなく、ただ当たり前のことのように言われた。尾崎は少し身を引きかけたが、タオルを当て
空気の温度が、少しだけ変わった気がした。季節の変わり目に吹く風のように、はっきりとした輪郭はないが、確かに肌の上をなぞっていくもの。尾崎は手の中の湯のみを見下ろしていた。茶の表面には、もう湯気はほとんど残っていなかったが、器自体はまだほのかに温かく、掌にしっとりと吸いつくような感触があった。沈黙が、ふたりのあいだに落ちていた。ただ、それは気まずさではなかった。言葉を急がずとも、そこに在ることだけで通じるような、そんな種類の静けさだった。尾崎は、佐野の視線を感じていた。けれど、目を合わせるには、もう少し勇気が必要だった。視られることには慣れているつもりだった。だが今この場所で、この人の目にまっすぐ映るには、自分が自分としてそこにいなければならない。それが、少し怖かった。「…俺は」声は思ったより低く、けれど、かすれることなくまっすぐに出た。「俺は――選びたいんです」湯のみの縁に触れていた指が、わずかに震えた。言葉の最後にほんの少しだけ間を置いたのは、意図的だったのか、感情がそこに滲んだからか、自分でもはっきりしなかった。佐野の動きが止まった。茶器を拭いていた手が、そのまま空中でぴたりと固まる。ほんの一瞬。けれどその静止には、茶の作法や所作では表せない、素の人間としての“驚き”がにじんでいた。尾崎は、ようやく視線を上げた。佐野の目を、正面から見た。その瞳は、いつものように穏やかで、どこか遠くを見るような曖昧さを湛えていた。けれど、その奥に、かすかな揺らぎがあった。湯の波紋のように、小さく、それでいて消えることなく広がっていく。占い師としての顔ではなかった。静かに整った顔立ちの中に、はじめて見る色があった。恐れか、戸惑いか、それとも何かを受け入れようとする迷いか。言葉にならないそのすべてが、まなざしに表れていた。「…選びたい、って、思うんやな」佐野は茶器をそっと置き、指先をカウンターの縁に添えた。それは、自分の手が震えていないか確かめるような、そんな微細な動作だった。「はい」尾崎の返事は短かった。でも、その声の奥に積み重なった時間が
あたたかい湯のみを両手で包んだまま、尾崎はゆっくりと口をつけた。舌の奥に残る微かな渋みと、喉を下る温度が心地よかった。いつもより少し長めに茶葉を蒸らしたのか、香りが深い。店内には他の客の気配はなかった。夕方の薄明かりが障子の隙間から入り、畳の縁を淡く照らしていた。佐野はカウンターの向こうで、茶器の整理をしていた。派手な動きは一切ない。ただ、湯の温度を確かめるように指先を添えたり、茶筅を丁寧に布で拭ったり、そうした静かな所作のひとつひとつが、この場所の空気そのものになっていた。ふいに、尾崎は自分の口が開くのを止められなかった。「…佐野さんって、自分のこと、占わないんですよね」音のない空間に、ぽつりと落とした言葉だった。問いというにはあまりに小さく、確認というにはあまりにあいまいで、けれど確かに、ずっと抱えていた疑問だった。佐野は手を止めなかった。代わりに、そっと湯のみを持ち上げて、ひと口、茶をすする。その動作にまったく乱れはなかったのに、尾崎にはそれが、ひどく遠い動きに感じられた。何も言わず、何も否定せず、ただお茶を飲むだけ。だが、その沈黙は、あまりに輪郭がはっきりしていた。尾崎は何かを見透かされたわけではなかった。むしろ、自分が踏み込んではいけない領域に、言葉を滑らせてしまったのだと気づく。そのことを、佐野の沈黙が静かに教えていた。「すみません」 謝るつもりはなかったのに、自然に口をついて出た。尾崎は目を伏せ、両手で包んでいた湯のみの縁を、親指でそっとなぞった。ざらりとした感触が、ひと筋指先に伝わる。釉薬の境目。茶器の個性。そう思えばそれだけのことだったのに、そのときの尾崎には、それがまるで自分の感情の輪郭のように思えた。指の動きが止まった。何もなぞらなくても、器の形は変わらない。だが、自分の中で、何かが確かに変わりはじめていた。視られることに慣れすぎていた自分が、今初めて“視ようとしている”のかもしれないと、ふと思った。佐野は、依然として視線を上げなかった。けれど、その横顔がどこか遠くを見ているようで、尾崎はそれを黙って見ていた。中性的な輪郭に
《茶庭 結》の引き戸を開けると、かすかに湿った空気の匂いが尾崎の鼻をかすめた。夕方の雨上がり。軒先に吊られた風鈴が、乾ききらぬ風に小さく鳴った。石畳を踏んで来たせいで、スーツの袖口はしっとりと濡れていたが、それさえもこの場所の空気に馴染む気がした。店内はいつもと同じように静かで、いつものように佐野がいた。奥の間ではなく、今日は手前のカウンターで茶器を扱っていた。薄く灯された照明が、木目のカウンターをやわらかく照らしていて、茶釜の湯気がほのかに揺れていた。「…いらっしゃい」佐野は目を上げ、柔らかく言った。その声音に、尾崎は気づかぬうちに息をついていた。張りつめていたものが、ほぐれるような感覚だった。言葉にされないだけで、迎え入れられていると分かる空気があった。「今日は、混んでないんですね」「そうやね。雨あがりやし、ようけ歩こうとは思わんやろな」尾崎はカウンターの端に腰を下ろし、濡れた袖をさりげなく払った。佐野はその仕草を見ていたが、何も言わずに手元の急須に静かに湯を注いだ。白い湯気が一筋、ふたりの間に立ち上る。その手の動きには、無駄がなかった。淹れる、というより、注ぐ、でもなく、まるで茶の気配を聞くように、器と対話しているような静けさだった。「今日のあんた、ちょっとちゃうな」佐野がぽつりと呟いた。尾崎は一瞬、返事に迷った。黙っていたのに、いや、むしろ黙っていたからこそ、何かが伝わっていたのだと気づく。「…そう、見えますか」「見える、て言うより、気ぃが違う。澄んどるけど、芯がある。そんな感じや」湯のみを差し出されて、尾崎は受け取った。指先が器の縁に触れる。あたたかさが、皮膚よりも奥に染みていく気がした。「今日、少し…動いたんです。いつもなら、黙って見てたかもしれないけど。でも、それじゃだめな気がして」自分でも、どうしてここでその話をしたのか分からなかった。話すつもりはなかった。けれど、湯気の向こうにいる佐野の佇まいが、そうさせた。何も強要しないのに、ただ黙ってそこにいてくれる存在。言葉が漏れても、責めも否定もせずに、それを受け止
午後五時過ぎ、雨上がりの空は、まだ湿り気を帯びた曇天の合間に、夕焼けの名残をわずかに滲ませていた。京都支社の会議室前、尾崎は誰もいない廊下の窓辺に立ち、外の石畳が淡く光を返すのをじっと見つめていた。ガラスには彼の指先が静かに触れていた。なぞるように動かしたその跡は、すぐに曇りに消え、また淡く滲む。何かを描くわけでもなく、何かを伝えるでもなく、ただそこに在ることを確かめるように。彼の背後、すぐ近くの応接室では、くぐもった声がぶつかり合っていた。社外のクライアントと思われる声が強く響き、途中から若い社員の声がそれに重なった。声の調子から、言葉の端々から、尾崎にはすぐに状況が見えた。理不尽なクレーム、それに動揺する部下、そして黙って見過ごす選択を迫られる自分。尾崎はその場から一歩も動かず、窓の外に視線を向けたままだった。彼は言葉を発しないまま、心の中で何度も天秤を揺らしていた。あの部下は、まだこの支社に来て半年。慣れない業務と独特の取引慣行に戸惑いながら、それでも誠実に仕事に向き合っている。ミスをしたのなら、指導で正せばいい。ただ、今応接室で飛び交っている言葉は、それでは済まない類のものだった。社内で波風を立てたくないという意識が、尾崎の足を留めた。かつて東京本社で、ある言葉が一瞬にして自分を破壊したように、たった一度の判断が人の評価を変えてしまうことを、彼は嫌というほど知っていた。だが、それでも。このままやり過ごすことが、かつての自分のような後悔を、誰かに背負わせることになるなら。尾崎は眼鏡の奥で目を伏せ、ひとつ息を吐いた。その視線はもう曇っていなかった。迷いという名の靄を抜けて、今そこにあるのは、誰かを守るという選択肢にすでに手をかけている男のまなざしだった。応接室の扉を、静かにノックした。乾いた音が三度響き、ややしてから中から声が返る。尾崎は躊躇わずに扉を開けた。中には、顔を紅潮させた中年の男性と、頭を下げている若手社員。その場に流れる空気は一触即発というよりも、すでに押しつぶされた後の重苦しさがあった。「失礼します。尾崎です」 尾崎は穏やかな声で名乗り、部屋の奥に進んだ。若手社員の目が驚きと
カードの上に置かれた尾崎の指先は、わずかに震えていた。まるで風も通わぬ静謐のなか、時間だけがやわらかく、しかし確かに流れていた。占いはすでに終わった。言葉も、もう尽くされたはずだった。けれど、尾崎はテーブルの上に出された三枚のカードから、視線を離そうとしなかった。一番手前のカード、“恋人”。中央に描かれた男女の姿と、彼らを見下ろす天使の絵が、部屋の薄明かりのなかで淡く揺れていた。光が波打っているのか、それとも尾崎の視界がわずかに滲んでいるのか。そのどちらでもある気がした。何も言わず、ただそこに指を置いたまま、彼はしばらく目を閉じた。向かいの席では、佐野が静かに座っていた。何も急かさない。何も問わない。穏やかで、けれど深いまなざしが、尾崎の輪郭を追うでもなく、ただそこに在るという事実を受け入れていた。尾崎は、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺の奥まで冷たい空気が満ちていき、しかしそれは嫌な冷たさではなかった。何かを洗い流すような、透明な感触がした。唇が微かに開き、音になる寸前の空白が、少しだけ揺れる。「……恋人、か」尾崎は、誰に言うでもなく呟いた。それは独り言というより、むしろ、その場に置いていくような言葉だった。すぐに続けるように、小さな声が、次の言葉をつないだ。「そんなの、遠いと思ってた」ほんの数秒、沈黙が訪れる。その静けさには、居心地の悪さも、痛みもなかった。言葉の余韻が、ただ優しく空間にとどまっている。佐野は、何も言わなかった。応えることよりも、受け止めることが必要だと知っていた。まぶたをゆっくりと閉じ、その言葉を、音ではなく気配で抱きとめるようにしていた。尾崎は目線を落としたまま、まだ“恋人”のカードに触れていた。かすかに指先でなぞる。厚みのある紙の質感、印刷の凹凸。その小さな輪郭をたどるように、まるで現実の境界を確かめようとしているかのようだった。これまで、関係というものに距離を置いてきた。信頼も、愛情も、裏切りの予兆のように思えてならなかった。誰かと深くつながることは、痛みの始まりに思えた。だから笑って、かわして、踏み込ませないことで自分を守ってきた。けれど、あの日、初めてこのカフェに足を踏み入れ