彼は迷っていた。 今夜はこのままこの付近で進むのをやめ、野宿をするか。 もしくは無理をしてでも夜通し歩いて次の町へと向かったほうが良いか。 折しも季節は初冬。 先程から降り始めた細かい雨が氷混じりになるのは、もはや時間の問題と言っても良いだろう。 日はまだようやく傾いた頃。 今から急いで歩けば、彼の足ならば日没までに次の町もしくは村といった宿がある場所にたどり着けるだろう。 ただし、それはこのまま天候が荒れなければという仮定の話であって、これ以上に風雨が強くなった場合はその限りではない。 神官の中には、風や雲の動きから天候の変化を読み解くことができる者がいるのだが、あいにく彼にはそのような能力は備わっていなかった。 いや正確に言えば、彼はその手の経典を読むには読んだのだが、ほとんど興味を示さなかったので身につかなかったのと、能力的に適正を持ち合わせていなかったのである。 一つため息をついてから、彼は周囲を見回した。 大陸を縦に貫く聖地への巡礼街道とはいえ、これから冬本番を迎える一番厳しい季節である。 長らく続く戦乱も手伝ってか、俗世と聖地とをつなぐこの道に、彼以外の人影はまったく見当たらない。 誰かに話を聞こうにも、当の人間が見つからなくてはどうしようもない。 疲れた頭で物事を考えても、良い考えが浮かぶはずがない。 そう思い直してから、彼はとりあえず身体を休める場所を探した。 ※ 二つの大国による終わりの見えない争いは、人々の心さえも荒んだ物にしてしまったらしい。 ようやくみつけた街道の脇に設けられた休息所はどうやらもう長いこと使われていないらしかった。 建物自体ひどく荒れ果てており、床や屋根は所々剥がれ落ちている。 壁にはところどころ穴が開き、窓のガラスも割れていて、風雨が中に吹き込んでくるような状態だった。 しかし、背に腹は変えられない。 彼は廃墟と化した休息所に足を踏み入れ、肩にかけていた大きく重い鞄を下ろす。 目深に
遠目に見て、楽しげに談笑している男女の姿に、彼女は両の手を固く握りしめた。そしてじっとその様子を凝視する。「何を見ておられるのですか、陛下?」薄暗い室内に響く陰鬱な声に、ルウツ皇帝メアリ・ルウツはゆっくりと振り向いた。妹姫ミレダと容姿はよく似ているのだが、緩く波打った長い赤茶色の髪は美しく結い上げられ、整った顔に輝く青緑の瞳は怒りを孕んでぎらぎらと異様な光をおびている。思いもかけないその様相に、来訪者である宰相マリス侯は言葉を失った。窓際にたたずんでいたメアリは、いささか乱暴に窓にかかったぶ厚いカーテンをひくと、険のある声で開口一番こう言った。「まだあの者はみつからないの?」その言葉の端々からにじみ出ている憤りと怒りを感じ、マリス侯は恐縮したように頭を垂れる。その半白の頭の上を、怒気を含んだメアリの声が通過していく。「正当な大陸の統治者。大帝ロジュア・ルウツの紛うことなき子孫。そんなのは所詮、意味を成さない肩書きにすぎないのね。良くわかったわ」言いながらメアリはビロード貼りの豪奢な椅子に腰をおろし、卓の上に肘を付き両の手を組む。そして形のよいあごをその上に乗せた。そして、宝石のような瞳で上目遣いに宰相を見つめる。「加えてルウツ皇帝の証である、代々受け継がれてきた印璽(いんじ)すらその手にできない。表向き皇国の実権を握っているというそなたにも、なんの手立てすらない。これは一体、どういうことかしら?」辛辣な言葉に、マリス侯はさらに深く頭を下げる。そして慎重に言葉を選びながら告げた。「申し開きの次第もございません。我々も配下を各地に配し、陛下のご所望のものをできる限り早急に発見できるよう尽力しております。なれど、陛下……」ふと言葉を切り、マリス侯はわずかに頭を上げる。美しい皇帝は、予想外のその行動にわずかに首をかしげる。そして先を続けるよう促した。「恐れながら陛下は不可侵の御身。今世界は千
ミレダが咄嗟に口に出したペドロという人物は、おそらくあの人のお目付役的な存在なのだろう。ミレダの命を受け、前触れもなく旅立ってしまったあの人との間を取り持っているのいるに違いない。恐らくこれから語られることは、いち下級貴族のユノーは本来聞くのをはばかられることなのかもしれない。それくらいのことは、いかに鈍いと自覚しているユノーにも察することができた。それを口にすることもできず、不安げにユノーはミレダを見つめる。彼の視線に気づいたミレダは、ふっと微笑んだ。そして、今さら気にすることもないだろう、と真面目くさって言う。それならば、と剣を収め姿勢を正すユノーに、ミレダは改めて状況を説明する。「この手紙はゲッセン伯領に入る直前にペドロが奴から受け取ったらしいんだが、その直後に見失ったそうだ。以来手を尽くしても、まだ奴が見つかったとの連絡がない」ミレダの言葉を受けて、ユノーは頭の中で大陸の地図を思い描く。ゲッセン伯はルウツ開びゃく以来の重臣で、白の隊を率いる武門の家柄だ。伯爵家とはいえその勢力は群を抜いており、皇都近辺の他にも各地に支配領を持っている。そんな中でも、確か……。「巡礼街道沿いですと、旧街道と新街道が分かれる辺りですね、確か」何気ないユノーの言葉に、ミレダの美しい顔はすっと青ざめ、表情はみるみる強張っていく。「まさか旧街道を行ったんじゃないだろうな? あちらは国境に接している分、エドナの目が近い……」けれど、自らに苦行を課そうとしている今の奴ならやりかねない。もどかしさを感じているのだろうか、ミレダはきっと唇を噛む。果たしてあの人が戦場に身を置いている間も、この人はこうして遠く離れた空の下でじっと待ち続けていたのだろう。断ち切れない両者の絆を感じ、そしてミレダの心痛を察し、ユノーは目を伏せわずかにうつむく。表には出さずとも打ちひしがれているであろ
背後からの険のあるミレダの声を受けて、ユノーは目の前に立つ人をまじまじと見つめる。 そして、ようやくある人物のことを思い出した。 皇帝姉妹と従兄弟の関係にある人物、フリッツ公イディオット。 やんごとない血を引いているにもかかわらず、その人の評判はかんばしくはなかった。 美術を始めとする芸術に傾倒し、父親の跡を継ぎ貴族議員の資格を得たものの、議会に出たことは一度もない。つまりは政には一切関わっていない。 気まぐれに宮廷に姿を見せたと思えば、歴代の皇帝が集めた書物を納めた書庫に篭り、日がな一日読書をしているような人物で、親譲りの愚昧公と陰口を叩かれている始末である。 そのせいか、ミレダの口調はいつになく鋭く厳しい。 鋭くその顔をにらみつけると、視線そのままの厳しい口調でこう言い放った。 「私達は、従兄殿と違って遊んでる時間がないんだ。用がないなら邪魔しないでくれないか?」 「かと言って、ぶっ通しでやっていても効率が良いとは言えないのでは? そうは思いませんか? ええと……」 穏やかな光を宿した瞳が自分に向けられていることに気がついて、ユノーはあわててその場にひざまずく。 次いで頭を深く垂れた。 「申し遅れました。蒼の隊の一員として皇帝陛下にお仕えしております、ユノー・ロンダートと申します。公爵閣下のご尊顔を拝し、光栄に存じます」 「『一員』じゃなくて、『司令官』だろう? お前は相変わらずだな。それに、こんな奴にそこまでかしこまらなくてもいい」 やれやれとでも言うようなミレダの言葉に、ユノーは驚いて顔を上げた。 仮にも従兄という人物に対して、あまりの言い様だと思ったからだ。 豆鉄砲を食らった鳩のように水色の瞳を丸くするユノーに、フリッツ公爵は柔らかく微笑む。 「気にすることはありませんよ。私はルウツ皇室に連なる厄介者ですから」 どうやら公爵は、自らにまつわる良からぬ噂を聞き及んでいるようだ。 だか、ユノーは反射的に首を左右に振る。 「いえ、そのようなことは決して……。小官の方こそ、陛下にお仕えするにはあまりにも至らぬ身でありながら、このような重責を……」 だが、ミレダは容赦なくぴしゃりと言い放つ。 「努力しているだけお前は立派だ。可能性を手放してしまった誰かとは大違いだ。卑下するな」 申し訳ありません、とさらにかしこまるユノー
失った物の大きさは、失ってから初めてわかる。 木枯らしが吹き周囲を取り巻く風景が色を失い白黒に変わる頃、ユノー・ロンダートはその思いを強くしていた。 皇都を包む冬の冷え切った空気が、経験浅い彼に冷静な判断力を取り戻させていた。 『無紋の勇者』と讃えられ、絶対の信頼を集めていたあの人が姿を消してからどれくらいの日々が経っただろうか。 事実を突然目前に突き付けられ、言われるがままに常勝軍団『蒼の隊』を引き継いだ彼だったが、日が経つにつれて自らの行為を後悔していた。 どう考えてみても、自分にはあの人のような実力も実績も人望も無い。 周囲からのそんな声は、どんなに耳をふさいでも聞こえてくる。だが、それを一番理解していたのは、他ならないユノー自身だった。 ──オレ達は捨てられたんだ。なあ、坊ちゃん、そう思わないか?── 直後に蒼の隊の副将に任ぜられたロー・シグマは、真実を知らされると酒で満たされた杯を勢い良く煽るなりそう言い捨てた。 そして、ユノーもそれに返す言葉を持たなかった。 家柄は、貴族とはいえ掃いて捨てるほどある下級騎士。 軍歴はと言えば、初陣を生き残っただけのひよっ子以下。 そんな自分に、歴戦の猛者達が命を委ねるはずがない。 不敗の勇者という最大の砦を失った今、ルウツ皇国の実情を知る者達は何事も起こらぬよう祈りつつ、凍てついた冬そのままに息を潜めていた。 そんな中ユノーは、安息日を除いてほぼ毎日、様々な思惑の坩堝(るつぼ)である皇宮に足を運んでいた。 皇帝近侍の『朱の隊』が使う、皇宮内の練兵場に。 「遅いぞ! 一体どこで油を売っていたんだ?」 鋭い女性の声が、ユノーの耳朶(じだ)を打った。 これもいつものことである。 殿下の剣のお相手を勤めるのは名誉あることだが、
「将軍、聞いているのか?」 ついに大公はしびれを切らしたようだ。 乱暴に椅子を蹴り立ち上がると、やり場のない怒りを表すかのように荒々しく両の腕を眼前に振り下ろした。 そして、先程から彫像のように身じろぎ一つせずひざまずいたままのロンドベルトを、ぎらぎらと光る瞳で見下ろす。 なるほど、結局この人はこの程度の人物かか。 言うなればあの大臣と同じく、権力こそ至高と信じて止まない愚か者。 似たもの通し、さぞや大臣と話があうだろうな。 内心そんな不敬なことを思いつつ薄笑いを浮かべて、ロンドベルトは今一度深く頭を垂れながら言った。 「では申し上げます。私は殿下と同じ物を見てきた。そう思っております」 「……同じ物、だと?」 どうやらロンドベルトの返答は、大公の想定外の物だったらしい。 わずかに首をかしげると、大公は腰に手を当てる。 白黒の判断を下しかねているその視線を痛いほど感じながら、ロンドベルトは静かに告げた。 「戦いのない、平和な世界でございます。すなわちそれは……」 「統一された大陸……」 「御意」 ロンドベルトは 短くそう答えたが、嘘はついていない。 実際、ロンドベルトは自らの運命を翻弄した戦を憎んでいた。 戦という存在を、この世から葬り去りたいと思っていた。 『大陸の覇権』とやらが誰かの手に収まれば、それを巡る争いは終わる。 問題はそれを手にするのは誰か、ということである。 ロンドベルトは、今その点に関しては言及していない。 極端なことを言ってしまえば、ルウツ皇帝がそれを手にしても構わないし、あるいは全くうかがい知れない第三者でも良いのである。 大公から、お前は統一された世界を望むのかと問いかけられたので、『是』と答
この国の中枢の建物に、武人である父親に手を引かれて初めて足を踏み入れたのは、まだ幼い時だった。 その理由は、他でもない。 光を映さぬにも関わらず物を見ることができるという彼の力を軍事に利用するためだった。 請われるままに敵国の内部に視線を向けた時、彼は見てしまったのである。平和な日常に振り下ろされた粛正という名の刃を。 深紅に染まった板張りの床。 そこに倒れ付す男と女。 無数の白刃を向けられ、立ち尽くす一人の少年。 激痛にも似たその光景は、ルウツに潜入している間者の『草刈り』の瞬間だった。 こうして国の機密に触れてしまった彼らがそう簡単に野に解き放たれる訳もなく、戦死という形で父親は始末され、ロンドベルト自信も幾度となく危うい目に遭っている。 こんなふうに彼の運命を狂わせたのは、他でもなく……。 「これは将軍。お疲れのところ、わざわざのお運び痛みいる」 背後からかけられた慇懃な声に、ロンドベルトはわざとらしく身体ごと振り返る。 陰湿な視線を投げかけてくるのは、内務大臣。 ロンドベルトに敵国内部を見るよう強要した、諜報部門に属していたの父親の知人その人だった。 おそらく持てる情報網を駆使して現在の地位にのし上がったのだろう。大出世と言って良い。 積もる話なら、それこそ山ほどある。しかも十割が恨み言だ。 ロンドベルトは不快な表情を見せぬように無言で一礼する。 その思惑通り、肩まである真っ直ぐな黒髪がこぼれ落ち、その顔を隠す。 その行動をどう取ったか定かではないが、大臣は一つうなずく。 もちろん大臣はロンドベルトの目の秘密を知っているので、自らの一挙手一投足が見られているのを理解している上での行動だろう。 ロンドベルトが再び顔を上げるのを待って、おもむろに大臣は口を開いた。 「まだ
窓の外には『平和な日常』がある。 朝目覚め、昼働き、夜眠るという、戦いとは縁もゆかりもない日々が。 果たしてこの大陸て、無数の人々が戦火によってその生涯を終えていることを、どれほどの人間が知っているのだろうか。 何の変哲のない、ありふれた日常を夢見て死んでゆく人々を心に留めている人間がどれだけいるのだろうか。 そんなことを考えながら、ロンドベルト・トーループは笑みを浮かべた。 皮肉に満ちた死神の笑みを。 ザハドの戦が終結してから、十日と少しが経過した。 本来ならば本隊と共に任地アレンタへ戻っているはずの彼は、エドナ宗主であるマケーネ大公直々の命令により、エドナの首都に滞在することを余儀なくされていた。 彼にとって、首都は最も多感な少年時代を唯一の肉親である父親と過ごした場所である。 しかし、その父は既にこの世を去り、残っているのも楽しい思い出ばかりではない。なぜなら武家の家に生まれたにもかかわらず光を持たなかった彼は、力が発現するまで父親との関係はあまり良いとは言えなかったからである。 今回も待っている運命は十中八九、彼にとって喜ばしいものではないだろう。 その根拠は、彼自身が一番良く知っている。 屈辱的な負け戦となったこの度のザハドの戦い、そのきっかけを作ったのは、ロンドベルトに他ならなかったからである。 常勝軍団イング隊を率いザバドの地でシグル隊と合流し、敵蒼の隊を殲滅(せんめつ)する。それが今回彼に下された命令だった。 が、彼は意図的に南下を遅らせシグル隊を単独で敵にぶつけ、ほとぼりが冷めようといったところで行軍を再開したのである。 結果、イング隊の損害は皆無に近かったが、不幸なシグル隊は壊滅的被害を受けた。 自軍を守るために最良の方法を取ったわけではあるが、シグル隊を派兵したアルタント大公が黙っているはずがない。 エドナでは
国境の向こう側にいる人間は、この風景を見たら何と思うだろうか。 自らが犯した罪の重さを目の当たりにし、深く後悔するだろうか。それとも、最早何も感じぬほど既にその神経は麻痺しているのだろうか。 丘陵を埋め尽くす無数の墓碑を見やりながら、エドナ連盟アレンタ方面軍通称イング隊司令官付き副官ヘラ・スンは深々とため息をつく。 物言わぬ墓碑の群れは、戦場から帰還した彼女達を出陣した時とまったく変わらぬ様子で迎えた。 いや正確に言うと、その数は出陣時よりも増えているかもしれなかった。 戦が続く以上死者は増える。わかりきったことなのだが、いざそれを改めて目の前に突きつけられると、言葉も無かった。 ここは大陸の北の果て。 大陸全土で信奉されている『見えざるもの』の聖地にもっとも近い場所、と言えば聞こえはいいのだが、早い話が僻地である。 その最果ての地に駐屯しているのが『不敗の軍神』、もしくは『黒衣の死神』と恐れられているロンドベルト・トーループである。 そのような名声を得ている人物が、なぜ首都から離れたこんな所に配されているのか。 理由は、彼が戦において常に紛うことなく敵の進路を言い当てるからである。それはまるで不思議な力に裏付けられているようであった。 事実ロンドベルトは不可思議な力を持っていたのだが、それを知るのは上層部のごく一握りの人物と副官のヘラに限られていた。 その能力をもってして、権力の転覆を謀られたらたまった物ではない。 エドナの宗主は、数ある大公家から持ち回りで選出されるのだが、普段いがみ合っていた彼らの意見はその点では一致していた。 そして、下された命令にロンドベルトが従ったのは、権力者達の考えが至極真っ当だったからである。 ──下手に命令に背いて、付け入る隙を与える訳にはいかないだろう?── 言いながらロンドベルトが笑ったのは、初めてその力のことを聞い