──どんなに叫んでもこの声はあの人には届かないから、自分を閉ざしてしまおうと決めた── エトルリア大陸の二つの強国ルウツとエドナ。 双方の間では長年に渡り無為の争いが続いている。 その戦乱の世で、心身に消えることのない傷を負った孤独な青年と、彼を取り巻く人々が織りなす物語。 戦闘・流血シーンを含みます。 苦手な方はご注意ください。
View More突然降りだした激しい雨に、ボクはあわてて商店の軒先に駆け込んだ。
ふるふると身震いして水を払い落とすと、ボクは丁寧に毛繕いを始めた。 いつからこの街にいたのかなんて、覚えていない。 物心ついた頃には、ネズミや鳥を狩ったり、ゴミ箱をあさったりして毎日を食いつないできた。 時には魚屋の商品に手を出して、店の主人にどやされることもあるけれど、街の人々は比較的ボクらには友好的だった。 そう、ボクは野良猫。 帰る場所のない根なし草。 さて、今日は一体どこで雨露をしのごうか。 相変わらず降り続ける雨を眺めながら、ボクは思案し首をかしげる。 ちょうどその時だった。 前触れもなく、ボクが居座る軒先に、一人の少年が駆け込んできた。 どのくらい走ってきたのだろうか、頭の先から爪先までびっしょりと濡れた少年は、まるでボクらのようにぶるぶると頭をふる。 同時にせっかく乾きかけたボクの体に、飛沫が飛んできた。 いい迷惑だ。 そう伝えるため、ボクは一声鳴いた。 それでようやく少年は、ボクの存在に気が付いたらしい。 そしてボクも、その時初めて彼の顔を真正面から見ることができた。 歳の頃は十二、三くらいだろうか、どちらかと言えば小柄な少年は、その夜空の色をした瞳でまじまじとボクを見つめてくる。 何か、文句でもある? ボクは再び鳴いた。 瞬間、何の前触れも無く、少年はしゃがみこみ、ボクと視線を合わせてきた。 彼の濡れたセピア色の髪から、水滴がボクにこぼれ落ちてくる。 だから、迷惑なんだってば。 その場から離れようとした時、ボクの耳に、彼の声が飛び込んできた。 「……君も、一人なの?」 その声に、ボクは立ち上がるのをやめた。 そして、改めて彼を見やる。 質素ではあるが清潔な服を着ているので、『宿無し子』ではないだろう。 腰には何故か、年齢にはそぐわない短剣を差している。 けれど、それ以上に違和感を感じたのは、彼の『声』だった。 抑揚がなく、一本調子の……そう、感情が無い声。 首をかしげるボクに、彼は手を伸ばしてきた。 濡れて冷えきった手が、ボクの頭を撫でる。 「俺も、一人なんだ」 濡れた手が、頭から背に伸びる。優しく、ゆっくりと。 悪意は無いのは解っているのだけれど、これ以上濡れてしまってはたまったもんじゃない。 一つ抗議の声を上げると、彼は困ったような表情を浮かべ、降り続く雨をみやった。 「……いつまで、降ってるのかな……」 呟くように彼は言う。 でも、こればかりは、ボクに聞かれても解るはずがない。 そのまま街の様子を眺めること、しばし。 足早に走る人々。 行き交う馬車。 けれど、いっこうに雨はやむ気配は無い。 「困ったな……」 言いながら彼は、びしょ濡れの髪をかきあげた。 そして、大きくため息をつくと、改めてボクに向き直った。 すい、と彼の両腕がボクに向かって伸びてきた。 しまった。 そう思った時にはもう遅かった。 ボクは彼の腕の中におさまっていた。 濡れた服がまつわりついて、とても気持ち悪い。 抗議の声をあげようとした時、ボクの視線は彼のそれとぶつかった。 夜空の色をした瞳には、どこか寂しげな光が浮かんでいる。 「少し走るけど、我慢しろよ」 そう言うと、彼は軒先から走り出した。 やや激しさを増した雨が、ボクらを打つ。 彼はどこへ行くんだろうか。 ボクはそんな事を思いながら、おとなしく身をゆだねていた。 彼の腕の中で揺られること、十分くらい。 目の前には、高い塀と、こんもりとした緑が現れた。 ボクの記憶が正しければ、確かそこは『宮殿』と呼ばれる場所。 この国の偉い人が住んでいる場所のはずだ。 彼はその裏門から中に入り、慣れたようにその中を駆け抜ける。 朝、昼、夜、と一日三回鐘を鳴らす『聖堂』という建物の脇をすり抜けて、彼はその裏側へと回った。 そこには、白い石造りの建物が並んでいる。 何でこんな所に。 首をかしげるボクとは対照的に、彼は一瞬足を止め乱れた呼吸を整えると、まるでボクらのように忍び足で建物に近寄り始めた。 つられてボクも息をひそめる。 と、その時だった。 「導師さまー。お兄ちゃん、帰って来たよー」 ふと、ボクは顔を上げる。 すぐ真上の窓から可愛い女の子の顔がのぞいていた。 同時に彼は、小さく舌打ちをする。 出かけていたことを、知られたくなかったのかな? ボクは彼の顔を覗きこむ。 すると今度は、若い女性の顔が、窓から現れた。 「まあ、こんなに濡れて……。一体どこに行ってたの?」 とがめるような、だが優しい声に、彼はそっぽを向きながら答えた。 「……墓参り」 短い答に、『導師さま』は困ったように言った。 「とにかく、中に入って体をお拭きなさい。……あら、それは?」 『導師さま』は、ようやくボクの存在に気が付いたらしい。 ボクを抱く彼の手に、一瞬力がこめられる。 「あー、ネコ! お兄ちゃん、どこから連れてきたの?」 先ほどのかわいらしい声が再び響く。 『導師さま』は困ったようにボクと彼の顔を見比べる。 そして、優しい声で続けた。 「面倒は自分で見るのよ。早く入りなさい。風邪をひいてしまうわよ」 ことのほかあっさりと許可がおりたのに、彼は少し驚いたようだった。 が、無言でうなずくと、彼は入り口へ向かって再び走り出す。 その背中に、『導師さま』の声が投げかけられた。 「そうそう、猊下(げいか)が探していらしたわよ。すぐに着替えて、お伺いなさい」 「わかりました」 短く答えると、彼はボクを抱いたまま建物の中へと入った。 ようやく雨から解放されたボクは、小さくくしゃみをした。篭の鳥の立場から脱したメアリではあったが、次第に宮殿とは比べ物にならない質素で不自由な生活に苛立ちを隠さぬようになっていった。 屋敷内を自由に歩けるようになったものの、外出することはかなわない。 用意される食事や衣類はそれなりに上質なものなのだが、やはり今までと比べるとかなり見劣りする。 自分に対して絶対の忠誠を誓ったゲッセン伯は、あれ以来目立った動きをしている様子は見られない。 このままでは、いつになったら皇帝の座へ返り咲けるのかわからない。 焦りにも似た感情は、日々大きくなっていく。 そんなある日、メアリは晩餐の席でゲッセン伯に向かいこう切り出した。 「そなたの私に対する変わらぬ忠義、嬉しく思っています。ですが……」 一度言葉を切って、メアリは伯爵をじっとみつめる。 その視線にやや怒りにも似た感情が含まれているのを見て取って、ゲッセン伯は緊張した面持ちで姿勢を正した。 それを確認して、メアリは意地の悪い微笑を浮かべつつ言葉を継いだ。 「一体、いつ私を然るべき場所へ戻してくれるのです?」 然るべき場所とは言うまでもなく玉座であり、皇宮である。 それを理解して、ゲッセン伯は色を失った額に浮き上がる冷や汗を拭いながらしどろもどろになって答えた。 「……ただ今、志を同じくする者と計画を進めているところでございます。ですが、事は慎重に進めねばなりませんので、同志の選定が……」 確かに見極めは大切であるから、この言には一理ある。 寝返られ計画が頓挫したら、元も子もない。 しかし……。 「それにしても、随分と時間がかかっているのではなくて?」 私はあとどれくらい待てばいいのです? そう問うメアリに、ゲッセン伯はしばし沈黙した後口を開いた。 「……実は、小賢しいことに両者共に身辺の警護を固めております。そればかりか、追手を差し向ける動きもあります。我らに対する警戒が緩むまで、今しばらく……」 あまりにも無策で平凡な返答に、メアリはわずかに形の良い眉根を寄せる。 目を閉じ息をつくと、諦めたような口調でつぶやいた。 「……わかりました。そなたがそう言うのでしたら、しばし待ちましょう。ですが……」 一転してメアリは無垢な少女のような笑みを浮かべてみせる
ちょうどその頃、皇宮の一室では議論が行われていた。 出席者はミレダとフリッツ公イディオット、議題は次期皇帝の位にどちらが就くかである。 実のところ、なかなか後継者が決まらないという現状は、両者にとって困った事態を招いていた。 国内に二人が婚礼を上げた上で共同統治をしてはどうか、という空気が流れ始めたのである。「困りましたね。私は育ての父の言葉を信じたいのですが……」 言いながらイディオットは腕を組む。 先代のフリッツ公によると、彼は紛れもなく先帝の息子でミレダの異母兄に当たるという。 だが、真実を知る者はすでに皆この世を去っており、それを証明することはできない。 見えざるものの教義では従兄妹同士の結婚は禁じられていないので、民意が拡大し抑えきれなくなれば、最悪従わざるを得なくなるかもしれない。 イディオットの主張が正しければ、両者は見えざるものの意思に反することになってしまうのだ。「だから、とっとと従兄殿が即位すれば良いんだ」 父上が皇帝の証である印璽を託したのは、つまりはそういうことじゃないのか。 そう言いながら足を組み直し、卓に頬杖をつくミレダ。 赤茶色の巻き毛に青緑色の瞳。 よく似た容姿を持つ二人は、お互いの顔を見やりながら深々と吐息を漏らす。「ですが、継承権を持つのは殿下です。それを差し置いてその位に就く訳にはいきません」 それにしても、どうして殿下はそれほどまでに即位を拒まれるのですか。 イディオットからそう問われ、ミレダはわずかにうつむいた。「私は、その器じゃない。……人ひとり救えそうもない私に、国民すべての生命が背負えるはずがない」 予想外の答えだったのだろうか、イディオットは数度瞬く。 それを意に介すことなく、ミレダは更に続けた。「それに、即位するとなると、ルウツの血を残さなければならない。その……好きでも
「……だからって、どうしてウチにつれてくるんだよ?」 言いながらロー・シグマは卓の上に手際よく料理と酒を並べる。 それが済むとユノーの隣にどっかりと腰を下ろし、目の前の杯に酒を注ぐと断りもなく飲み干した。 そんなシグマに、ユノーは申し訳なさそうに頭を下げる。 「すみません……。他に心当たりが無かったので……」 「そうじゃなくてさあ。泣く子も黙る朱の隊隊員が、エドナ駐在武官殿を接待するのに、こんな場末の酒場ってのはどうかと思うぜ?」 杯を卓に戻すなり、シグマはもっともなことを言う。 ここは、シグマが退役し始めた店……いわゆる大衆向けの酒場だった。 店主が言うとおり、異国の使者の接待にふさわしいかと言えば、はなはだ疑問である。 一方両者のやり取りを向かいの席で『見て』いたロンドベルトは、さも楽しくて仕方がないとでも言うように笑った。 「そうお気になさらず。堅苦しいのは苦手ですので」 その言葉を受けて、ユノーはロンドベルトに向き直ると、改めて頭を下げた。 「本当に申し訳ありません。お恥ずかしながら、父が他界してからずっとぎりぎりの生活だったので……」 言いながらユノーはロンドベルトの杯に酒を注ぐ。 真紅の液体に満たされたそれを口許に運んでから、ロンドベルトはおもむろに切り出した。 「失礼ですが、ロンダート卿のお父上は武人……騎士だったのでしょう? でしたらそれなりの恩給が出るのではありませんか?」 その言葉を受けて、ユノーは目を伏せ首を左右に振ると、ややためらった後で幼い頃に自分の家に起きたことをかいつまんで説明する。 神妙な面持ちで聞いていたロンドベルトは、その目をわずかに細め驚いたように告げた。 「では、貴方のお父上も『あの場所』におられたのですか。それは、何とも奇遇ですね」 その言葉に引っかかりを感じたユノーは思わず首をかしげ、おずおずと尋ねた。 「すみませんが、『あの場所』とおっしゃいましたが、一体……」 まるでそ
皇都に奇妙な緊張感が流れている。 期待と不安、好意と憎悪など、相反する感情が渦巻いている。 そう、ついに長きに渡り戦闘状態にあったエドナから、全権大使一行が到着したのである。 とは言っても、国民感情は複雑だ。 全員が諸手をあげて和議に賛成しているわけではない。 どこに大使達に良からぬことを仕掛けようと考える輩がいるとも限らない。 そんな訳で当日皇都には厳戒令が出され、一般市民の外出は禁じられた。 一方の当の大使も、重騎兵に囲まれた馬車に乗って人気のない皇都に入った。 本当にこれで平和が訪れるのだろうか。 大使公邸へと向かう隊列を見ながら、ユノーはそんな思いにとらわれて深々とため息をついた。 宙に浮いてしまった皇帝の位。 姿を消した廃立されたメアリ。 国内が不安だらけなこの状況で、エドナから大使を迎え入れても大丈夫なのだろうか。 けれど、ユノーはそんな思考を無理矢理中断し頭から振り落とした。 貴族とはいえ最末端の下級騎士である自分が、国家の中枢で行われている政に疑問を覚えても仕方がないと思ったからだ。 そうこうしているうちに、今日の勤務も何事もなく終了した。 引き継ぎのあと、いつものように一人詰所を片付けていたユノーの耳に、何やら言い争うような声が飛び込んできた。 よもや、ミレダが抜け出してこちらに向かう途中見つかってしまったのだろうか。 そう思い、ユノーは片付けの手を止めて、不謹慎と理解しながらも思わず耳をそばだてる。 と、いらだったような声が段々と近づいてきた。「ですから、このような所に来られては困ります!」「一刻も早くお戻りください! 当方といたしましても、安全を保証致しかねます!」 おや、とユノーは首をかしげる。 声の主が近衛なのか朱の隊なのかは定かではないが、その声音がいささか乱暴だ。 言葉使いこそ丁寧なのだが、明らかにミレダに対するそれとは異なる。 一体、外で何が起きているのだろうか。 湧き上がってきた好奇
詰所では引き継ぎと報告が行われている。 すべての報告が終わりようやく閉会の段という頃、前触れもなく扉は開いた。 室内に緊張が走ると同時に、その場にいる全員が一斉に立ち上がる。 入ってきたのは、珍しく二人の護衛を従えたミレダである。 一同の視線を一身に集めた彼女は、いつになく硬い表情を浮かべている。 「諸君ら、ご苦労」 発せられる声も、どこか硬い。 いや、ここは私的な場所ではないのだから、とのユノーの考えは、次の瞬間もろくも打ち砕かれた。 「……姉上が、姿を消した。残念ながら警備をしていた部隊には、生存者はいなかった」 どよめきが次第に大きくなる。 皆、不安げに顔を見合わせている。 だが、ミレダがすいと片手を上げると、再び水を打ったかのように静まり返る。 ユノーは息を詰めて、ミレダの言葉を待った。 「おそらくは統率された軍隊、あるいはそれと同等の能力を有する者の犯行だろう」 張り詰めた空気が痛い。 ユノーは背を汗が伝い落ちるのを感じた。 「今後、諸君らにも姉上の探索に当たってもらうことになるだろう。だが……」 ひと度ミレダは言葉を切り、目を伏せた。 「諸君らには、実戦の経験がない。つまりは、人を実際に殺めた経験がないということだ」 瞬間、ユノーは初めて人を斬ったときの事を思い出した。 両の手に、あの時の感覚が蘇る。 「……どうしたんだ? 真っ青な顔して」 隣に立つ同僚から声をかけられて、ユノーははっと我にかえる。 下手をすれば、そのまま意識を失っていただろう。 目礼で謝意を伝えると、ユノーは改めてミレダをみつめる。 「相手は人を殺すことをためらわない、一番厄介な相手だ。だが、ようやく実現した平和のためにも、必ず見つけ出さなければならない」 姿を消した女帝メアリは好戦派で、ルウツによる大陸統一を画策していたという。 当然のことながら、この平和な世を
あくまでもこれは伝聞ですから真偽の程は定かではなありませんが、と断ってからペドロは難しい表情を浮かべて腕を組む。 そして、やや目を伏せながら続けた。 「殿下の来訪以降、シエルは食事もとらなくなったそうです。以前は食堂には出て来ていたそうなんですが、本当に部屋へ引きこもったきりだとか」 このままでは、処分が下される前にシエルがどうにかなってしまうのではないか。 そう心底心配そうに言うペドロ。 ユノーはなるほど、とつぶやき同意を示した。 「正直、ロンダート卿なら会うと思っていたんですよ。ですが、ここまでシエルが頑固だったとは考えてもみませんでした」 「けれど、閣下は殿下のことを誰よりも大切に思っていたのではないですか? それが、どうして……」 「思うに、この国の現状を鑑みてのことでしょう」 ペドロの言うとおり、ルウツは今エドナとの和平にこぎつけたとはいえ、極めて不安定な情況にあった。 なぜなら、この国の根幹とも言える皇帝の位が未だ空位のままだからである。 皇位継承権を持つ唯一の人物であるミレダ、そしてその従兄で皇帝の証たる印璽を亡父から託されたフリッツ公。 両者は共に至尊の冠を戴くことを固辞し、それを譲り合っていた。 ミレダが先の出兵から戻れた暁には臣籍に下ると名言していたのを思い出し、ユノーは深々とため息をつく。 ひと度ミレダがこうと決めたら、それを曲げるとは考えにくい。 一方のフリッツ公の言い分はこうだ。 自分は一応皇帝の血をひいてはいるが父親の代から臣下。 正当な継承者がいる状況で自分がその位に就くのは、あまりにもおこがましい……。 互いに即位を拒否する両者に共通するのは、この国を導く皇帝という存在には自分はふさわしくない、という強い信念だった。 そして両者の周囲では、まことしやかに流れる希望論があった。 すなわち、両者の共同統治という形……ミレダとフリッツ公の婚姻を推す声である。 そんな世相もおそらくはシエルの耳に入っているのだろう。 ミレダへの別離宣言は
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