一度破られた沈黙は、次の瞬間に爆発する。志乃が息を大きく吸い込み、何かを絞り出すような声を上げた。
「どうして…?どうして、こんなことになったの?私たち、何か間違ってたの?何が足りなかったの?」
普段は決して大声など出さない志乃の声が、リビングの壁に反響する。その叫びは怒りというより、どこまでも深い絶望だった。彼女の頬を涙がゆっくり伝う。口元を震わせながら、志乃は須磨を正面から見据えていた。
須磨は目を伏せ、唇を噛んでいる。言い訳を探しているわけではなかった。ただ、どうしても目の前の妻の涙から目を逸らしたくなった。唇の端が乾き、何度も舌で潤そうとするが、うまく言葉が出てこない。
「何か…俺に言いたいことがあるなら、全部聞く。でも、俺も…俺だって、どうしてこうなったのか分からないんだ」
須磨の声は低く、少しかすれていた。「最初は本当に冗談みたいなものだった。ほんの火遊びのつもりだった。でも…でも、塩屋を手放せなくなった。どうしても、もう…」
彼の目に浮かぶのは、後悔でもあり、諦めでもあった。だがその奥には、どうしようもなく塩屋を求める執着と渇きが滲んでいる。それを自分でどうすることもできないという無力さが、須磨の全身を縛っていた。
瑞希は隣で俯いたまま、唇をきつく噛みしめていた。涙をこらえようとするあまり、声を出すこともできない。塩屋を見ることさえできず、指先が膝の上でぎゅっと握りしめられている。その手が、微かに震えていた。
「…私は、いつもあなたを信じてきたのに」
と瑞希がかすかな声でつぶやく。
「どんなに忙しくても、あなたの帰りを待っていた。でも、私の何が足りなかったの?どうして、私じゃだめだったの?」
塩屋は顔をあげ、しばらく唇を震わせていた。言葉を発しようとしても、喉の奥に詰まるような感覚が消えない。喉仏が上下し、数秒のあいだ、静寂だけが場を支配する。やがて、ぽつりと声を漏らした。
「瑞希のことを裏切るつもりなんてなかった。本当に、そう思ってた。でも…須磨さんと会って、話してるうちに、気づいた
午前十時過ぎ、須磨はノートパソコンの前で資料を整理していた。塩屋はその背中をちらりと見やりながら、小さな洗濯機にシャツを入れて回している。ごく普通の家事の光景なのに、彼らにとっては新しい世界だった。窓から差し込む春の日差しが、リビングの床を優しく照らしている。洗い立てのシャツをハンガーにかけ、塩屋は須磨のワイシャツの袖口にそっと指を滑らせて形を整えた。その手つきは慎重で、どこか愛おしむようでもある。自分でやるよりも、こうして誰かのものを手入れするほうが、心が落ち着くと初めて知った。昼前になると、ふたりはエコバッグを持ってスーパーへ出かける。店内を並んで歩くと、須磨はときどき塩屋の好きそうな野菜を手に取り「これどう?」と訊く。塩屋は「今日は安いね」と返しながら、魚売り場の前で立ち止まる。以前は妻のため、あるいは家族のためだった買い物が、いまはただ「須磨と自分のため」だけに完結している。そのことが、まだどこか不思議で、胸の奥がほんのり温かくなる。ふたり分の夕食は、決して贅沢なものではなかった。鶏肉と旬の野菜の炒め物、炊きたてのご飯、そして味噌汁。塩屋は食事の用意をしながら、須磨の後ろ姿を見つめる。いつしか、須磨の声は低く穏やかになり、以前のように焦ったり不機嫌に尖ることが減った。「ありがとう」と言うたび、自然に笑顔が返ってくる。「塩屋の料理、やっぱり好きだな」と須磨が箸を進めながら言う。塩屋は照れくさそうに「簡単なものしか作ってないですよ」と返すが、須磨が「それが一番贅沢」と続けると、ほんのり頬が赤くなる。ふたりの間には、言葉にしなくても通じる何かが確かに流れ始めていた。仕事が本格的に再開し、須磨は朝早くから資料を抱えて外出することも増えた。塩屋も、会計事務の顧客を一件ずつ増やしていく。夜、遅くに帰ってきて食卓を囲むとき、ふたりはほんの少しだけ疲れていて、その分だけ静かな安心感を分かち合っていた。食後の洗い物をしながら須磨が「今日も頑張ったな」とぽつりと言うと、塩屋は「お疲れさま」と微笑みながら、須磨の背中にそっと寄りかかる。それでも、ふとした瞬間に過去がよぎることはあった。テレビから聞こえる家族団欒の笑い声や、休日の買い物帰りにふいにすれ違う親子連れ。喪失の感覚は、まだどこかに居座り
朝が来たことを、薄いカーテン越しの光で知った。春のやわらかな日差しが部屋の隅々にまで広がり、白い壁や床を静かに染めていく。都内の小さなマンション。二人が住み始めたばかりのその空間には、まだ引越しの段ボールがいくつも積まれている。けれど、埃っぽさも段ボールの段差も、今はどこか新鮮な居場所の一部に思えた。ベッドから起き上がった塩屋は、寝癖のついた髪を手ぐしで整えながら、ぼんやりとリビングに歩いてくる。Tシャツの裾を引き下ろし、須磨の姿を探す。キッチンのほうからコーヒーの香りが漂ってくる。須磨が静かにドリップを落とし、カップを並べている。いつもの朝だ。だけど、「二人きり」というただそれだけのことが、どれほどの喪失のうえにあるか、二人ともよく知っていた。「おはよう」と塩屋が低く声をかける。須磨は肩越しに振り返り、少しだけ笑う。「よく眠れた?」と問いかけながら、マグカップを二つ用意する。その顔には、もう言い訳や迷いの影がない。シンプルな穏やかさが、薄い髭の下に微かに滲んでいた。塩屋はソファに座り、テーブルに置かれたマグカップを両手で包み込む。指の先がほんのりと温かくなる感触。須磨も隣に腰を下ろし、窓の外を見た。白木のカーテンのすき間から、春の陽射しがふたりに射し込む。影と影が自然と重なり、そこだけがほんのりと色濃い。しばらく無言でコーヒーを飲む。時折、湯気の向こうで塩屋の瞳が揺れている。長い年月を失ったわけじゃないのに、昨日までの人生が何年も昔のことのように遠く感じる。「……何もなくなったね」と塩屋がぽつりと呟く。さみしさとも、ほっとしたような感情ともつかない声だった。生活感のない空間。仕事も、交友も、しばらくリセットした。家族だった人たちも、それぞれ新しい場所で生きている。「ここには僕と、須磨さんしかいない」須磨は、言葉の端に宿る痛みと安堵の両方をゆっくり受け取るように、静かに塩屋の肩を抱いた。自分の腕が塩屋の背中に回ると、彼は少しだけ身体をすくめて、すぐにふっと力を抜く。重なった体温が確かに存在を教えてくれる。須磨は耳元でささやく。「でも、やっと本当に一緒にいられる」と。塩屋は返事をしない。ただ、マグカップを握る手がわずかに震え
リビングの時計はもうすぐ午前四時を指そうとしていた。誰もが長い夜に疲れ果て、声を出す気力さえ失っていた。志乃と瑞希は、いつのまにか同じソファに並んで座っていた。部屋の中は暖房の音だけが微かに響き、カーテンの向こう、ガラス越しの世界は銀色の静寂に閉ざされている。窓の外には、夜通し降り続いた雪がしっかりと積もり、街の輪郭さえぼんやりと柔らかく包み込んでいた。志乃は背筋をまっすぐにして座っていた。手のひらを膝の上に重ね、時おり爪を立てては深呼吸していた。顔はもう涙の痕跡も乾いている。隣の瑞希も同じように、両手を組み、じっと足元を見つめている。ふたりの間には何も会話がない。ただ、ごく近くにいることで、互いの震えを少しだけ和らげていた。夜の深さが一番濃くなる時間。街も家も、すべてが静止したような感覚に襲われる。その中で、志乃は心の奥からゆっくりと湧き上がる“これでよかったのかもしれない”という思いに気づいていた。愛した人を失い、家庭も壊れ、何ひとつ元通りにはならない。それでも、偽りのない明日だけは、きっとやってくるのだと、ぼんやり思った。瑞希もまた、自分の胸の底に残る絶望の重さを静かに受け止めていた。塩屋の涙も、土下座の温度も、もはや夢の中の出来事のように思えてくる。失ったものの大きさに涙はもう出なかった。けれど、自分がこれから“ひとり”で生きていかなければならない現実を、確かに受け入れ始めていた。ふと志乃が、そっと横に目をやる。瑞希もまた、ほんの少しだけ首を傾けて志乃を見る。どちらからともなく、肩がそっと寄り添う。互いに何かを言葉にしようとはしない。むしろ、いまは言葉よりも、静かな沈黙のほうがやさしかった。窓の外の雪は、夜明けにかけてさらに厚みを増していた。世界がまるで新しく塗り直されていくようだった。リビングの空気に、かすかな春の兆しが混じる。そのぬくもりがふたりの身体の輪郭にそっと沿っていく。志乃の瞳はまだ赤く、でもその奥には新しい決意の光がわずかに宿り始めていた。瑞希もまた、目を閉じて深呼吸し、少しだけ背筋を伸ばす。泣き明かした夜の底で、ふたりの女性は少しずつ自分の人生に向き合おうとしていた。やがて、窓の
誰かが深く息をつく気配がした。夜の底のような静けさの中、時計の針の進む音だけがわずかに響いている。志乃も瑞希も、もはや声を上げて泣くことも怒ることもできなかった。ただ目の前の現実を、乾いた瞳で見つめていた。「……離婚します」須磨が、声を低く震わせながらそう告げた。ひとことひとことを自分自身に言い聞かせるようだった。「俺も…塩屋も、全部、置いていく。家も、お金も、これまでふたりで築いたものも、全部…志乃と瑞希さんに残していく。俺たちは、なにも持たずにやり直す」その宣言に、志乃の指が膝の上でかすかに動く。握りしめたまま、何も言わない。代わりに瑞希がゆっくりと顔を上げた。その瞳には、絶望と諦めの色がまじっている。でも、涙はもうあふれてこない。ただ、まつげの下に静かに一粒、涙のしずくが光るだけだった。「そう…わかった」瑞希の声はとても静かで、まるで他人の人生を聞いているように遠かった。「全部、置いていって。ただ…もう、嘘はつかないでほしい」塩屋は、その言葉を聞くなり、椅子から転げ落ちるように瑞希の前で膝をついた。床の上に額をつけて、声にならない嗚咽を漏らす。「ごめんなさい、ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…」その背中は細く、頼りなく震えていた。涙が床にぽたぽたと落ちていく。しみこむように、その場の空気すら濡らすようだった。瑞希は唇を強く噛みしめ、土下座した塩屋の肩にそっと手を置こうとしたが、途中でその手を引っ込めた。自分の中に、まだ残っている愛情のかけらに戸惑いながら、それでも「もう終わった」と言い聞かせていた。須磨はじっと志乃を見つめていた。彼の手は膝の上でわずかに震えている。志乃は長い間、夫のその手元を見つめていたが、やがてそっと目を閉じた。しばらくして、ほんの小さな声で「ありがとう」と言った。「ここまで、一緒にいてくれて、ありがとう」その言葉に須磨は強く唇を噛んだ。「ごめん、本当に、ごめん」それ以上の言葉は出てこな
志乃の涙はもう止まっていた。けれど、その目にはまだ、炎のような怒りが燃えていた。彼女は唇を強く噛みしめながら、ふいにテーブルを拳で叩いた。ごく小さな音が静寂の部屋に響き、まるで氷の上に亀裂が走るような緊張を生んだ。「じゃあ何?私たちは、ただの踏み台だったの?あなたたちが自分の気持ちを確かめ合うためだけに、私たちを選んだの?」志乃の叫びは、凍てつく夜にすがりつくような痛々しさがあった。その言葉が、鋭く空気を裂く。須磨はまっすぐ志乃を見つめたまま、なにも返せなかった。言葉が浮かんでは消え、ただ喉の奥で掠れた息だけがこぼれる。塩屋の肩が細かく震え続けていた。彼は必死で涙をこらえていたが、声はどうしようもなく震えていた。「違います。違います…志乃さんも瑞希も、踏み台なんかじゃなかった。そんなふうに思ったこと、一度も…ない。でも…もう、僕たちは、戻れないんです」塩屋はそのまま顔を覆い、嗚咽をこらえた。瑞希は、その姿をただ虚ろに見つめていた。彼女の目はどこか遠く、すべてを受け止めきれずに空虚に見開かれている。「私たちは…」瑞希はかすかに声を絞り出す。「あなたを信じて、何も疑わないでここまで来たのに。それが全部…ただの過去になるの?」須磨はゆっくりと、何かを押し出すように言葉を紡いだ。「過去なんかじゃない。俺にとって、志乃と過ごした日々も、本当に大切だった。でも…今はもう…」視線が下がり、声が掠れる。「俺は、塩屋と…これから生きていきたいんだ。すべてを投げ出してでも…それが、いまの俺の気持ちなんだ」部屋の空気が凍りつく。沈黙と、泣き声と、乾いた嗚咽と。志乃は目を強く閉じ、また一度、拳をテーブルに叩きつけた。その衝撃が、自分の心の内側から響くようだった。「どうして…どうして、私じゃだめだったの?」須磨は何も答えられない。答えようとしても、すべての言葉が虚しく消えていく。塩屋はただ、「ごめんなさい」と繰り返すしかなかった
一度破られた沈黙は、次の瞬間に爆発する。志乃が息を大きく吸い込み、何かを絞り出すような声を上げた。「どうして…?どうして、こんなことになったの?私たち、何か間違ってたの?何が足りなかったの?」普段は決して大声など出さない志乃の声が、リビングの壁に反響する。その叫びは怒りというより、どこまでも深い絶望だった。彼女の頬を涙がゆっくり伝う。口元を震わせながら、志乃は須磨を正面から見据えていた。須磨は目を伏せ、唇を噛んでいる。言い訳を探しているわけではなかった。ただ、どうしても目の前の妻の涙から目を逸らしたくなった。唇の端が乾き、何度も舌で潤そうとするが、うまく言葉が出てこない。「何か…俺に言いたいことがあるなら、全部聞く。でも、俺も…俺だって、どうしてこうなったのか分からないんだ」須磨の声は低く、少しかすれていた。「最初は本当に冗談みたいなものだった。ほんの火遊びのつもりだった。でも…でも、塩屋を手放せなくなった。どうしても、もう…」彼の目に浮かぶのは、後悔でもあり、諦めでもあった。だがその奥には、どうしようもなく塩屋を求める執着と渇きが滲んでいる。それを自分でどうすることもできないという無力さが、須磨の全身を縛っていた。瑞希は隣で俯いたまま、唇をきつく噛みしめていた。涙をこらえようとするあまり、声を出すこともできない。塩屋を見ることさえできず、指先が膝の上でぎゅっと握りしめられている。その手が、微かに震えていた。「…私は、いつもあなたを信じてきたのに」と瑞希がかすかな声でつぶやく。「どんなに忙しくても、あなたの帰りを待っていた。でも、私の何が足りなかったの?どうして、私じゃだめだったの?」塩屋は顔をあげ、しばらく唇を震わせていた。言葉を発しようとしても、喉の奥に詰まるような感覚が消えない。喉仏が上下し、数秒のあいだ、静寂だけが場を支配する。やがて、ぽつりと声を漏らした。「瑞希のことを裏切るつもりなんてなかった。本当に、そう思ってた。でも…須磨さんと会って、話してるうちに、気づいた