僕、香川優樹は、恋人の本宮昌義さんとアウトレットモールにデートに来ていた。今日は、本宮さんの誕生日。パンケーキ屋さんで、僕は昨日買っておいたプレゼントを渡した。本宮さんはそれを気に入ってくれたようで、お返しにブレスレットを買ってもらった。 翌日、親友の渋井遼にそのことを話すと、本宮さんを紹介してほしいと言われた。本宮さんに予定の確認すると、次の日曜日なら空いているとのこと。僕、本宮さん、遼の3人でカラオケに行くことにした。 カラオケを楽しんでいる最中、遼が本宮さんに興味がわいたと言い出し――。
View More(えっと……どれにしようかな?)
僕は、目の前に並んでいるブレスレットを見ながらとても悩んでいた。自分用に買うのなら、こんなに悩むことはない。直感でこれっていうものを選べばいいのだから。でも、今日買うものは、誕生日のプレゼントだ。それも恋人への。
(本宮(もとみや)さん、どんなのが好きなんだろ?)
考えながら、本宮さんを思い浮かべる。
普段からアクセサリーはしているけれど、ピアスだけだったような気がする。それも、ピアス穴が開いているのは、左だけだったような……。だから、ピアスは却下。大抵のピアスは、左右そろって販売されていることが多いからだ。
チョーカーとかネックレスは、デザインが豊富だから、人によって好みの振り幅が大きい。僕がプレゼントしたものが、もし、本宮さんの好みじゃなかったらなんて考えると、怖くてとても選べない。
その点、ブレスレットなら、ある程度デザインは似通ってくるだろうと思った。だから、こうしてブレスレットが並ぶ棚を見ているのだけれど、正直なところ、本宮さんが好きそうなデザインがまったくわからない。本宮さんと知り合って1年しか経っていないから、彼のことをあまり知らないというのもあるのかもしれない。
1年前、僕は初めて学校の中間テストで赤点を取ってしまった。高校に入って初めての中間テストということで、変に緊張していたのだと思う。思うように問題が解けず、白紙に近いまま答案用紙を出した。その結果が、クラス唯一の赤点だった。
クラスメイトや先生は、気を遣(つか)って慰(なぐさ)めてくれたけれど、親には――とくに母さんにはこっぴどく叱られてしまった。わからなくても何か書いておけば、どうにかなったかもしれないのにと。
テスト中の僕は、頭が真っ白になって、そんなことなんか考えられなかった。小学生の時も中学生の時も、問題文をちゃんと読めば理解できたし、答えも考えれば浮かんできたのに。
中間テストの結果が出てすぐに、母さんが家庭教師を雇った。赤点を取った僕を案じてのことだったらしい。
そして、この家庭教師というのが、本宮(もとみや)昌義(まさよし)さんだ。僕より背が高くて、体格がいい。ワイルド系の顔立ちで見た目はちょっと近寄りがたいけれど、とても優しくて勉強の教え方が上手い。学校の授業で理解できなかったところが、本宮さんの解説でちゃんと理解できたなんてことが、数多くあるくらいだ。
そんな本宮さんは、どうやら僕が好きなタイプだったようで、出会ってから数ヶ月経ったある日、恋人になって欲しいと告白された。正直、驚いた。だって、本宮さんは、母さんの1つ後輩にあたる人で30代の大人だ。僕みたいな子どもは恋愛対象にはならないと思っていた。それより何より、僕は本宮さんと同じ男だ。同性のそれも自分の母親と同じくらいの年齢の人から、本気で好きだと言われるなんて思ってもいなかった。
そう言われた直後は、戸惑ったし冗談だと思った。けれど、本宮さんは本気だった。僕は、真剣に本宮さんとのことを考えて、彼とつきあうことにした。
それからいろいろあって、母さん公認になった僕たちは、何回もデートを重ねていった。何回目かのデートで、本宮さんの誕生日が9月25日だということがわかった。それが、明日。
そういうわけで、プレゼントを買おうと近くのアクセサリーショップに来てみたのだけれど、思った以上に高価な代物が多い。予算以内で買えるもので、おしゃれな本宮さんに似合うものと考えると、なかなか決められない。
ああでもないこうでもないと、ブレスレットの陳列棚の前をうろうろすること十数回。ふいに、1つのブレスレットが視界に入った。それは、紫色と黒のレザーで編み込まれたブレスレットだった。
(これ……本宮さんに似合うかも)
直感でそう思った僕は、値段も見ずにそれを手にとってレジに並んだ。会計時に値段を見て、予算ぎりぎりだったことに、内心冷や汗を流す。ラッピングはシンプルなものにしてもらい、何とか予算内で買うことができた。
(本宮さん、喜んでくれるかな?)
と、期待半分不安半分で帰宅する。
* * * *
翌日、僕はあくびをかみ殺しながらリビングで濃いめの緑茶を飲んでいた。昨夜は、なかなか寝つくことができなかったのだ。
「まったく、子どもだねえ」
と、母さんが呆れながら淹れてくれた。
僕は、母さんのその言葉に、何も言い返すことができなかった。自分でも呆れているのだからしかたがない。まさか、高校生にもなって、翌日が楽しみすぎて眠れないなんて……。
「ふわぁぁ……」
ふいに、あくびがもれた。この調子だと、本宮さんに迷惑をかけてしまうかもしれない。それだけは避けなければ。
今日は、本宮さんの誕生日であり休日ということもあって、隣町にあるアウトレットモールに行く予定だ。しかも、僕と本宮さんの2人きりで。いわゆるデートである。
ようやく眠気がなくなってきたところで、呼び鈴が来客を知らせた。
時計を見ると、午前9時30分を少し回っている。
僕は、残りの緑茶を一気に飲み干して自室に戻った。お気に入りの黒いショルダーバッグを手に、玄関へと駆けて行く。
玄関では、母さんが本宮さんを出迎えているところだった。
母さんと話をしている本宮さんは、相変わらずかっこいい。ウルフカットの黒髪と左耳についているシルバーのピアスは普段と変わらないけれど、見慣れないワインレッドのシャツに黒のデニムパンツを着ている。でも、それがとても似合っていた。
ドキッとした僕は、伏し目がちに母さんの横をすり抜ける。
「あんた、あいさつくらいしたらどうなの。まったく、あんまり寝てないんだから、いつも以上に気をつけなさいよ」
「わかってるよ」
母さんの言葉に、僕はぶっきらぼうに答えて靴をはく。
「それじゃあ、優樹をよろしく」
「はい。あまり遅くならないようにしますんで」
本宮さんがにこやかに言うと、母さんはにやにやしながら、
「遅くなってもいいけど、変なことはするなよ?」
と、忠告している。
にやけながら言うことではないと思うのだけれど。
「しませんよ、変なことなんて。そんなことしたら、先輩、俺のことぶん殴るでしょ?」
苦笑する本宮さんに、母さんは「そりゃそうだ」と笑い声をあげる。
「お待たせ、本宮さん。早く行こう」
2人の会話が途切れた隙を狙って、僕は本宮さんをうながした。
いってらっしゃいの母さんの声を背中で聞いて、僕は本宮さんと家を出た。
アウトレットモールには、本宮さんの車で向かう。目的地まで結構な距離があるし、そもそも僕はそこに行くまでの道のりを覚えていなかった。隣町にあることは知っているけれど、家族で行ったことは数えるほどしかない。
「そういえば、あんまり寝てないとか聞いたけど大丈夫か?」
しばらく車を走らせていると、本宮さんが心配そうにたずねてきた。
「うん、大丈夫。今日のことが楽しみすぎて眠れなくて……」
苦笑しながらそう説明すると、
「そっか」
と、本宮さんは前を見たまま顔をほころばせた。その表情にも声音にも、ホッとしたような感じがあった。
僕は、何だか申し訳なくなり、
「心配させてごめんなさい」
と、謝ったのだけれど、思ったより声が小さくなってしまった。
「別に悪いことしたわけじゃねえだろ? 謝る必要ねえよ。無理さえしなきゃ、それで充分だ」
そう言って笑う本宮さんの言葉に、僕はどこか救われた気がした。
それから、車を走らせること20分。僕たちは、無事にアウトレットモールに到着した。
駐車場に車を停めて外に出ると、爽やかな青空が僕たちを迎えた。9月も下旬になったからなのか、空気が涼しく感じられる。薄手の上着を着てきて正解だったようだ。
「優樹、腹は減ってるか?」
にやりとして聞いてくる本宮さんに、僕は同じようににやりとして、大きくうなずいた。これから行く場所のために、朝食を抜いたので、気を抜くと腹が鳴りそうなほど空腹だった。
「それじゃあ、行くか」
と、本宮さんは満面の笑みで言った。
そんな彼と一緒にモール内に入る。日曜日だからか、客の数が多い。その大半が、家族連れやカップルだった。
「優樹、はぐれるなよ」
そう言って、本宮さんが僕の手をつかむ。何気ない行為のはずなのに、急に胸がドキドキして小さくうなずくことしかできなかった。
手をつないだ僕たちは、道行く人の波をかき分けながら、アウトレットモールのレストランエリアにやって来た。このエリアに、お目当ての店がある。歩きながら、人波のすき間から見える店名を確認する。でも、探している店ではなかった。
あれも違うこれも違うと探すこと十数分。
「あった! 本宮さん、あれ!」
ようやく見つけた店名に、僕は思わず声をあげた。
それが功を奏したのか、違う方を見ていた本宮さんが、僕の指さす方に顔を向ける。
僕たちの視線の先には、『ハニーノルン』という看板を掲げている店があった。ここが、僕たちのお目当ての場所だ。10時すぎということもあり、店内はなかなかに混んでいる。
「うわ、結構混んでるな。どうする?」
やめようかと、顔をしかめながらたずねてくる本宮さんに、僕は、
「今更帰るなんて、ありえないからね」
と、きっぱりと告げた。
だって、今日の目的は、このハニーノルンで美味しいパンケーキを食べることなのだから。もちろん、本宮さんの誕生日を祝うことも忘れていない。でも、ここで帰ってしまったら、何のために来たのかわからなくなってしまう。さすがに、それは嫌だった。
「じゃあ、待つか」
本宮さんは、ホッとした笑顔を浮かべてそう言った。
どうやら、本宮さんもここのパンケーキを楽しみにしていたらしい。それなら、やめようかなんて聞かないでほしいとも思うけれど、尻込みしてしまう気持ちもわかる。なぜって、店内にいる客のほとんどが女性だからだ。もしかしたら、男は僕たち2人だけなのかもしれない。
ハニーノルンは、都内では有名なパンケーキ専門店らしく、テレビの情報番組で取り上げられることが多い。スイーツ系から惣菜系まで取り揃えられていて、そのどれもがふわふわの生地で美味しいと評判だそうだ。
そんな有名店が、このアウトレットモールに出店したのが先月のことだ。県内で唯一ということもあって、オープン当初は、長蛇の列ができるほど大盛況だったらしい。もちろん、1ヶ月経った今もその人気は衰えていない。
それから30分ほど待つと、ようやく僕たちの番がやってきた。もう少し遅かったら、空腹で倒れていたかもしれない。
店員さんに案内されて、空席になったテーブルにつく。さっそくメニュー表を開くと、いろいろなパンケーキの写真が名前とともに掲載されている。どれもが美味しそうだった。
「どれにするんだ?」
本宮さんに聞かれて、僕はうーんと唸った。正直なところ、とても悩む。
「本宮さんは?」
逆に聞いてみると、本宮さんは少年のような笑顔を浮かべて、もう決まっているなんて口にする。
(早っ! ヤバい、どうしよう……)
焦ってメニュー表を凝視する僕に、本宮さんはゆっくり決めていいと言ってくれた。気を遣ってくれているんだろうと思うと、申し訳なくなってくる。
それから少し悩んだ僕は、店名を冠したスペシャルパンケーキを選んだ。店員さんを呼んで注文する。
しばらく待つと、本宮さんが注文した商品が先に運ばれてきた。厚めのパンケーキの上に、カリカリのベーコンと目玉焼きが乗っている。惣菜系パンケーキの中でも定番の一品だ。
続いて運ばれてきたのは、僕が頼んだハニーノルンスペシャルパンケーキだ。分厚いパンケーキの上には、たっぷりの生クリームとメープルシロップがあり、パンケーキの横にはいちごやブルーベリーなどの果物がこれでもかというほど盛られている。スペシャルというだけあって、さすがにボリューミーで豪華だ。
「すごいな、それ。食べ切れるのか?」
目を丸くしている本宮さんに、僕は大きくうなずいて、
「もちろん! そのために朝、抜いてきたからね。もうお腹ペコペコだよ。本宮さんは、それだけでいいの?」
「ああ。食いすぎると、動けなくなっちまうからな」
そう言って、本宮さんはパンケーキを一口食べる。
(食べすぎると動けなくなるって、どのくらい食べるつもりだったんだろう?)
気にならないわけではないけれど、追求はしなかった。それよりも目の前のパンケーキの方が、今の僕には重要だった。
「いっただっきまーす!」
そう言って、一口大に切り分けたパンケーキを食べる。ふわふわの食感と生クリームの爽やかな甘さ、それを追いかけるメープルシロップのコクが口の中に広がった。
夕食の途中で、電子レンジが、クッキーが焼き上がったことを知らせた。本当は、すぐにでも天板を引き出した方がいいのかもしれない。けれど、本宮さんお手製の回鍋肉を食べる手が止まらなかった。「美味しかったー! ごちそうさまでした!」と、僕が言うと、本宮さんが笑顔でうなずいた。「そうだ! クッキー、そのままなんだった!」焼き上がったクッキーの存在を思い出し、僕は食器を片づけがてらキッチンに向かう。電子レンジを開けると、シナモンの甘い香りが広がった。いい感じにきつね色に焼き上がっている。僕は、天板に乗っているクッキングシートごと取り出して、1回目に焼いたクッキーが乗っている大皿に入れた。焼き色は、2回目に焼いた方が濃いような気がする。それを持って、僕はリビングに戻った。「いい感じに焼けたよ」と、声をかける。「美味そうだな」と、本宮さんが顔をほころばせる。2人分のインスタントコーヒーを淹れて、クッキーに手を伸ばした。まだ温かい方はしっとりしていて、ほどよく冷めている方はサクッとした食感だった。どちらも、シナモンの味と香りが口の中いっぱいに広がり、とても美味しい。たしかに、以前作ったクッキーよりも美味しく出来上がっている気がする。「うん。マジでいい感じ」と、僕が満足気につぶやくと、「これ、店で出せるんじゃねえか?」と、本宮さんが言い出した。「いや、まだまだだよ。もっとクオリティ上げなきゃ。今のままじゃ、母さんの足もとにも及ばないし」僕は、そう言って肩をすくめた。「へえ? 亜紀先輩って、そんなにお菓子作りうまいのか」と、本宮さんは意外そうに言った。母さんは、仮にも夫婦で営んでいるカフェのスイーツ担当だ。お菓子作りは、それなりに上手だと言っていいと思う。それに、母さんが作るケーキ目当てで来店する客も少なくない。かくいう僕も、母さんが作ったケーキが一番美味いと思っているうちの1人だ。「でも、クオリティーを上げなきゃと思ってるってことは、優樹は亜紀先輩を越えるつもりなんだな?」「まあね。いつになるかは、わかんないけどさ。越えなきゃいけない相手だと思ってる」と、僕は静かに闘志を燃やす。「そういうことなら、協力は惜しまないぜ」と、本宮さんが言ってくれた。彼が味方になってくれるのなら、俄然やる気が出てくるというもの。何より、僕自身が、本宮さ
動画配信サイトでホラー映画を観始めた僕たち。何の変哲もない日常風景から始まったそれを、僕は侮っていた。心霊的な怖さもヒトコワ的な怖さもなかったからだ。不気味な雰囲気を纏(まと)いながら、映画は無慈悲に進んでいく。途中から、僕は本宮さんの腕にしがみついていた。びっくり系のいわゆるジャンプスケアが多様されていたわけではない。得体の知れない恐怖に、小刻みな震えが止まらなかった。「優樹? 大丈夫か?」観終わった後、本宮さんに本気で心配された。僕は、ふるふると首を横に振ることしかできない。視界は、涙で滲んでいた。「ごめんな。まさか、優樹がホラー苦手だとは思ってなかったんだ」謝る本宮さんが、僕の頭をなでる。「こんな、怖いと思ってなかった……」と、僕は涙声で告げる。僕は怖がりな方だけれど、自分でもこんなに耐性がないとは思っていなかった。本宮さんが隣にいなかったら、たぶん途中でギブアップしていただろう。いや、そもそも観ていなかったかもしれない。「ちょっと待ってな」本宮さんは、何を思ったのか、そう言い置いてキッチンに向かった。しばらくして戻ってきた彼の手には、新たなマグカップが1つあった。「これ飲んだら、落ち着くと思うぜ」と、差し出される。素直に受け取った僕は、ふうふうと冷ましながら口にした。マグカップの中身は、温めたミルクセーキだった。卵のコクと牛乳の甘味が、口の中に広がる。その優しい甘さのおかげで、僕の心を支配していた恐怖は次第に消えていった。「本当にごめんな」と、本宮さんがしょんぼりしている。「本宮さんのせいじゃないよ。僕が、ホラー苦手だってことがわかったんだし。それに、美味しいミルクセーキも飲めたことだしね」と、僕が言うと、本宮さんはホッとしたように微笑んだ。時計を見ると、午後3時30分だった。そろそろ夕食のメニューを考える時間だ。「夕飯、何食べたい?」当然のように
(つい……じゃないよ。しんどいって、これ……)息を整えながら、そんなことを思う。体が、妙に熱い。自分の弱点を知られてしまったことだけが原因ではない。確実に、本宮さんの妖艶で甘い声音のせいだ。抗議しようとしたけれど、後ろを振り向くことができない。本宮さんに抱きしめられているからというのもあるけれど、あれだけで昂ってしまった自分が恥ずかしすぎるからだ。今、本宮さんの顔を見たら、確実に彼を求めてしまう。でもそれは、彼の『優樹を大切にしたい』という言葉を蔑(ないがし)ろにしてしまう気がした。「俺な、優樹がうちに泊まりに来てくれるなんて、思ってなかったんだ」と、本宮さんが突然、そんなことを話しだした。甘い声音だけれど、先ほどの妖艶さは鳴りを潜めている。「じゃあ、どうして誘ったの?」平静を装いながら僕がたずねると、本宮さんは軽く笑った。「どうしてだろうな? ……優樹に呼び出されて、一緒にいた男は誰だって聞かれた時、別れ話を切り出されるんじゃねえかって……正直、怖かった。優樹がそれを望むんだったら、大人しく身を引こうとまで考えてた」「そんな、別れるだなんて――! たしかに、あの時は嫉妬したし、本宮さんにイラッとしたのも事実だけど。でも、だからって別れたいなんて思ったことないよ!」僕は、反射的に本宮さんの方に体ごと向き直って言った。いつの間にか、体の妙な熱さは消えている。「そっか。ありがとな」と、本宮さんは優しく微笑んだ。僕たちは、どちらからともなく口づける。触れるだけの軽いキス。それだけで、心が満たされる。「ねえ。本当に、僕が本宮さんのベッド使っていいの?」僕がそうたずねると、本宮さんはもちろんと言うようにうなずいた。「でも、じゃあ本宮さんは?」「俺は、床で寝るから大丈夫だよ。使ってない布団もあるしな」「そんなの悪いよ! 僕が布団で寝る!」そう言った
「本宮さんってさ、キスはしてくれるけど、それ以上のことはしないじゃん。もしかしたら、そういうお相手がいるのかなって思ってさ」言葉を濁しながら話すけれど、彼にはそれで充分に伝わったらしい。「それで、優樹の他にふさわしい人がいるんじゃねえかって考えたわけだ?」確認するように問いかける本宮さんに、僕は素直にうなずいた。「残念ながら、そういう相手はいねえよ。俺は、一目ぼれしてからずっと、優樹一筋だ」「え!? それじゃあ……!」反射的に本宮さんを見る。真摯で真っ直ぐな瞳に絡め取られ、僕は金縛りにでもあったかのように動けなくなった。自分の鼓動がうるさい。心臓が爆発してしまうのではと思うほど、胸が苦しい。「ごめんな。今は、それ以上はしないって決めてんだ」表情を変えずに、本宮さんはそう断言した。期待に胸を弾ませていたのに、一気にどん底に叩き落される。「どうして……?」視界がぐにゃりと歪んだ気がした。本宮さんのかっこいい顔が、次第に滲んでいく。「泣くなって。ネガティブな理由じゃねえんだ」慌てた本宮さんにそう言われるけれど、僕の涙は止まらない。でも、彼の言葉はきちんと聞いておきたいから、声を出して泣くのはどうにか我慢する。「優樹を本気で愛してるから、大切にしたいんだ。一時の欲情で抱いちまったら、優樹を傷つけることになるし、俺も後悔すると思う」本宮さんは一旦、言葉を切った。本宮さんの言葉が、僕のことを想ってのものだというのは理解できる。でも、僕の心の中のもやもやは、一向に消えてくれない。(本宮さんになら、傷つけられてもいいのに……)そんなことを思うけれど、言葉にするには勇気が足りなかった。「それに、俺の歳で高校生に手を出したら、捕まっちまうからな」と、おどけたように告げる本宮さん。いたずらっ子のような笑みを浮かべている。たしかに、もしそれが世間に知られたら、たとえ合意だったとしても本宮さんが逮捕されてしまう。それは、さすがに嫌だ。
たしかに、本宮さんから弱音を聞いたことがない。どんなことも前向きにとらえようとしているのかと思っていたけれど、実際にはそうではないらしい。「かっこつけたがり……」僕がその言葉をくり返してつぶやくと、「片桐! 何、勝手なこと言ってんだよ!」慌てたように、本宮さんが言った。「だって、本当のことだろ?」片桐さんがそう言うと、図星なのか、本宮さんは黙ってしまった。「まったく、誰かと思ったら片桐が来るとはね」と、母さんが3人分のカフェオレを持ってやってきた。片桐さんが、「どうも」と会釈をしている。「亜紀先輩。俺たち、まだ何も頼んでないんですけど……」本宮さんが言うと、「長くなりそうだからね、サービスだよ」と、母さんが珍しいことを言っている。店内で飲食する場合は、身内だろうが容赦なくお代をいただくというのが、母さんのモットーだったはずだ。「ああでも、後で本宮に支払う分から引いとこうかね」と、思い出したように言い置いて、母さんは仕事に戻っていった。「それじゃあ、サービスじゃないじゃん」母さんの足音が聞こえなくなってから僕がぽつりとつぶやくと、本宮さんが小さくため息をついた。片桐さんだけが、よくわからないといった表情をしている。僕は、本宮さんが僕の家庭教師をしていることを話した。「なるほど。それで恋仲にもなった、と」納得したらしい片桐さん。そんな片桐さんを横目に見ながら、面白くなさそうな顔で本宮さんがカフェオレを飲む。どうせ、自分に支払われる金額から引かれるのなら、飲まなければ損だと思ったのかもしれない。「あの、本宮さんがかっこつけたがりで、相手との関係性がこじれがちだっていうのはわかったんですけど、それと片桐さんがここにいる理由って、何か関係あるんですか?」つい、きつい言い方になってしまった。でも、片桐さんがどうして関わってくるのか、本当にわからない。本宮さんがデートのことで相談したからといって、今ここにいる必要はないはずだ。「そう睨まないでくれよ。俺は、君たちの仲を壊したいわけじゃない。むしろ、このままずっと続いてほしいと思ってるんだ」と、片桐さんが苦笑しながら言った。僕が疑いのまなざしで見つめていると、「信じられないのも無理ないか。でもね、俺は、こいつに恋愛感情なんて持ってないんだ。友達としては、つき合いやすい奴だけ
本宮さんの退院祝いも無事に終わり、いつも通りの毎日をすごしていた。もちろん、週3回の本宮さんの授業も再開している。ようやく、日常が戻ってきたと実感できた。10月最終日の今日、両親が営む喫茶店ムーンリバーでは、ハロウィン限定スイーツを販売している。毎年この時期になると、店で余ったかぼちゃのスイーツが食卓に並ぶ。今年は、ハロウィンが月曜日ということもあって、本宮さんと一緒にかぼちゃのプリンを味わっていた。なめらかな舌触りと、濃厚なコク、そしてかぼちゃの甘味が口の中いっぱいに広がる。ほろ苦いカラメルソースが甘味を引き立ててくれていた。「優樹はいいな。毎年、こんなに美味いかぼちゃのデザート食えるんだから」と、本宮さんがうらやましそうに言った。「へへっ、いいでしょー。あ、でも、弊害もあるよ」僕がそう言うと、「弊害って、どんな?」と、本宮さんは小首をかしげる。「市販のデザートが食べられなくなる」「あー……それは、たしかに問題だな」納得したように本宮さんが言った。「でも、本宮さんのお手製なら、料理とかデザート関係なく、苦手なものだって食べるからね!」と、僕は早口に言った。「わかってるよ」と、本宮さんは笑いながら、僕の頭をなでた。それだけなのに、心がぽかぽかしてくる。「そういえば、来月は何があるか知ってる?」にやけながら、僕がたずねた。「優樹の誕生日だろ?」本宮さんが即答する。忘れたふりでもするのかと思っていたけれど、案外そうでもないらしい。「プレゼント、何がほしい?」と、直球でたずねてきた本宮さん。「えっと……」とくに考えていなかったから、答えに詰まってしまった。本宮さんは、優しいまなざしで僕を見つめる。催促するわけではなく、僕の答えをじっくり待ってくれるようだ。「そうだなー……本宮さんと一緒にいられれば、それでいいかな」しばらく考えた末に、僕はそう答えた。物欲がないわけではないけれど、直近でほしいものが浮かばない。それに、今の僕には、本宮さんとの時間が何よりも勝るものだった。「そっか。じゃあ、何か考えとくよ」そう言って、本宮さんは微笑んだ。* * * *11月に入り、冬の足音が徐々に近づいてくる中、僕は浮足立っていた。「なんか機嫌いいじゃん」と、一緒に弁当を食べている遼に言われるぐらいだ。「そりゃあね。今
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