月森遥(つきもり はるか)は、ついに離婚を決めた。
結婚して五年。周囲からは「愛されている奥さん」と羨ましがられ、聡明で可愛らしい息子にも恵まれたと誰もが言った。
けれど、その幸福の影に隠された真実を知るのは、遥ただ一人。
夫は、ずっと初恋の人を忘れられずにいる。
命懸けで産んだ息子さえも、心の奥では早く母親を取り替えてほしいと願っているのだ。
遥は決めた。彼らの願いを叶えさせてやることを。心のない夫も、情のない息子も、もういらない。
パンッ、パン、パパーン……
窓の外から響く花火の音に、遥はハッと我に返った。手元には、離婚届。そっとそれを撫でながら、静かにペンを取り、自分の名前を書き入れた。
今日は大晦日。けれど夫も、息子も、帰ってこない。
そんなとき、夫・狩野成実(かりの なるみ)からメッセージが届いた。
【取引先と外で食事中。健ちゃんは秘書に預けてある。食事のあとで連れて花火を見に行くから、先に寝ていい。待たなくていい】
その文面に、遥は口元を歪め、冷たい笑みを浮かべた。
「取引先」とは誰なのか。健翔(けんしょう)を連れて、誰と花火を見に行くつもりなのか。
考えるまでもない。調べる必要すらない。どうせ父子そろって、立花明菜(たちばな あきな)という女と一緒にいるのだろう。
遥は、リビングに飾られた大きな家族写真をじっと見つめた。
成実が健翔を抱き、遥の腰に腕を回し、父と子がそれぞれ、彼女の頬と額にキスをしている。
写真の中の遥は、満ち足りた表情を浮かべている。健翔も笑っている。普段は感情を見せない成実でさえ、その時は穏やかな顔をしていた。
誰が見ても、理想的な三人家族だった。
だが、明菜が戻ってきたあの日から、すべてが変わった。
外で花火が炸裂する音と同時に、彼女のスマートフォンが震えた。届いたのは、明菜からの動画だった。
画面には、明菜が撮った成実と健翔の後ろ姿。大小の背中が寄り添うように並んでいる。その画面の片隅で、明菜の手に光る大きなダイヤモンドリングが、やけに眩しかった。
そして三人の声が重なる。
「あけましておめでとう!」
男が振り返り、優しさを湛えた瞳で明菜に囁いた。
「これから毎年、もう逃さない」
そんな眼差し、そんな声。遥は一度たりとも向けられたことがなかった。
最も情熱的だったはずの結婚初期の二年間でさえ、新年や記念日に彼がしてくれたのは、額に淡いキスと、「ありがとう」という事務的な言葉だけだった。
遥はずっと、成実のことを「岩」のようだと思っていた。何をしても、どう触れても温まらない岩のように。
だが明菜を見て、ようやく気づいた。彼の優しさは、最初からすべて、明菜に預けられていたのだ。
遥は動画を閉じ、最後の花火が夜空に消えるのと同時に、成実にメッセージを送った。
【早く帰ってきて。明日はお墓参りだから】
彼の両親への、最後の親孝行だ。
一ヶ月後、二人は赤の他人になる。
滑稽で、一方的な思い込みに満ちたこの結婚も、ついに終わりのときを迎えるのだ。
どれほどの時間が経っただろうか。玄関のドアが開く音がして、成実が入ってきた。
リビングに遥がまだいるとは思っていなかったらしく、一瞬驚いた顔をした。食卓に並んだ料理に目を向けても、表情は何も変わらない。
「新年くらい、穏やかに過ごさせてくれないか……本当に縁起が悪い」
澄んだ声で、苛立ちをぶつけてきた。
続いて健翔が入ってくると、わざと靴を蹴り飛ばしながら、ドタドタと大きな音を立てて歩き回った。
「もう遅いんだから、静かにして」
思わず注意すると、健翔は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「余計なお世話だ!クソババア!」
そして彼女の右手を見て、吐き捨てるように言った。
「指が三本しかないクソババアが!」
遥は思わず右手を引っ込めた。薬指と小指のない手が、震えていた。
離れると決めていたはずなのに。子どもからの悪意は、彼女の心に深く突き刺さった。
一瞬、息ができないような苦しさに襲われる。
それでも、成実は最初から最後まで、一言も発さなかった。遥が命を懸けて産んだ子どもが、母親を罵倒するのを、黙って見ていたのだ。
ガンッ!
健翔が勢いよくドアを閉めた。
ようやく成実がゆっくりと歩み寄り、皮肉を口にした。
「今日は新年だ。みんな騒がしくて当たり前だろ。こんな音で文句言うやつなんていない。大げさすぎるんだよ。道理で健ちゃんがお前を嫌いになるわけだ」
遥は口元を歪め、冷ややかな笑みを浮かべた。
「もしかしたら下の階の人も、私と同じように、大晦日をひとりで過ごして、早く眠ろうとしていたのかもしれないじゃない?」
その言葉に、成実は一瞬、視線を落とした。食卓に並ぶ料理に気づき、わずかに罪悪感のようなものが表情に浮かんだ。
だが、遥の声は冷たく続いた。
「健翔の態度だって、誰かがいつも私の悪口を吹き込んで、私を嫌うように仕向けてたからじゃないの?」
成実の動きが、ピタリと止まった。その表情から、さっきまでのわずかな罪悪感が、すっと消える。
眉間に皺を寄せ、低い声で詰問した。
「……明菜のことを言ってるのか?お前が一人で寂しいと思って帰ってきてやったのに、それがその態度か?」
その言葉を聞いた瞬間、遥の心には、もはや怒りも哀しみも湧かなかった。ただ、滑稽だと……おかしくて仕方がないと、思っただけだった。
何も言わず、テーブルに置いていた署名済みの離婚届を手に取った。
そして、ウォークインクローゼット……いや、正確には「寝室」に向かった。
健翔は、遥がこの家のどの部屋にも入ることを許さなかった。成実もそれに何も言わなかった。
だから、遥の服だけが並ぶこの狭いクローゼットが、唯一の避難所になっていた。
扉を閉める瞬間、外でガシャンと食器が落ちて割れる音がした。
けれど遥は、無表情のまま鍵をかけ、その音を聞こえないふりでやり過ごした。
もう、彼らを甘やかす気はない。愛情も、絆も、とうに枯れ果てたそんな他人を、許し続ける理由なんて、遥にはもうどこにもなかった。
Komen