◇小さく古い一軒家。少し錆びている門を開けると、油が切れかけているのかキィと小さく鳴った。玄関を入ると、なんだか懐かしい香りがする。「ここ、おばあちゃんちなの。空き家になってたところを借りたんだ。まわりは山に囲まれて、自然がいっぱいでのんびりしてるでしょ」前に住んでいた場所とはまるで違う。人も街も時間の流れさえもゆったりと感じられ、まとう空気も澄んでいるようだ。裏手にはだだっ広い庭が広がる。リビングに通されると「座ってて」と言われ、静は素直に従う。すぐ横にはキッチンがあり、一人暮らしの慎ましやかな生活が見てとれた。物はあまり多くないところが春花っぽい。ふいに指先にふわっとした感触があり、目線を落とす。「ニャア」「……トロ、元気だったか?」体を擦り付けるようにしたトロは、頭を撫でられ気持ち良さそうにゴロゴロと鳴いた。ポットでコーヒーを淹れる、コポコポとした音でさえ耳に優しく響いてくる。とても静かな環境に、静は大きく深呼吸をした。春花がいてトロがいて、部屋の片隅には使い込まれた電子ピアノ。そんな緩やかな感覚が妙に心地好い。静の目の前にマグカップがコトリと置かれる。一緒に住んでいた頃には何とも思わなかった行動ひとつが、今はとても愛おしく感じられた。
宣言通り、春花の退勤時に迎えに来た静は、春花の姿を捉えると柔らかく微笑んだ。春花はどんな顔をしていいかわからず、ぎこちなく笑う。「あ、そうだ。海外公演大成功おめでとう!」「ありがとう」「すごいね。ニュースで見たよ。やっぱり静はすごいなって思った。これからどんどん活躍していくんだろうね」静が活躍する姿を想像すると胸が震える。本当に凄い人が近くにいるものだと他人のことのように思った。突然、ぐっと腕が引っ張られ、春花はよろける。そのままガシッと抱きしめられたことに心臓がバクンと跳ねた。「そういうこと言うなよ」「静?」「俺はどんな栄誉よりも春花と奏でるピアノが一番好きだ。どんなに練習してもどんなに素晴らしい人と共演しても、春花と弾くピアノが一番楽しくてわくわくして、心が踊る」静の胸の中で聴く静の言葉は、嬉しくてそして悲しい。何も言えないでいると、額にしずくが落ちてきて春花は驚いて顔を上げた。「……静?」「好きなんだ、春花。ずっと一緒にいたい」「……嬉しいけど、静はこれからもっと活躍していくでしょう。だから……」「そうやって身を引こうとするな。メイサからすべて聞いたよ。春花が犠牲になることは何もないんだ。春花の犠牲の上でいくら立派な賞を取ったって何も嬉しくない。春花が隣にいてくれないとダメなんだ」ぽとりと落ちた静の涙は、やがて春花の視界すらもぼやけさせていく。「バカだよ、静は」「うん。でも春花ほどじゃない」「なによそれ……」春花は静の背中に手を回す。胸に顔を埋めると、懐かしい香りに包まれた。それがとても心地良い。春花の大好きな匂いだ。
「せんせーすごーい!」「素敵な演奏をしてくださった桐谷さんと春花先生に、ありがとうの拍手をしますよ」園長先生の掛け声とともにパチパチと拍手が送られる。 貴重な体験をした園児たちはその後も春花と静に群がり、やがて保育士たちに諫められて順番に教室へ戻って行くため列を成した。「突然のお願いだったのに、引き受けて下さりありがとうございました」「いえ、こちらこそ不審者のようにウロウロしてしまって申し訳ありません。お騒がせしました。実は僕は春花さんと同級生で、春花さんに会うためにここに来ました」「春花先生に?」「ずっと捜していたんです。春花さんは僕の初恋の人だから」園長と静が会話しているのを、聞き耳を立てながら園児たちの誘導をしていた春花だったが、静の発言により思わず足が止まる。こっそりと静を窺うが、その視線はバッチリと捉えられ逸らすことを許されない。「春花、仕事が終わるまで外で待ってる。迎えに来るから」頷くことはできなかったが、頬がピンクに染まってしまったことでハッと我に返り、そのまま春花はそそくさと園児たちと教室に戻った。「春花先生、そこのとこ詳しく!」「なれ初め教えてください」「後で話聞かせてよ~」と同僚の先生方に声を掛けられ、春花はかつてないほどに戸惑った。どうしてこうなったのだろう。意味が分からない。そんなことを漠然と思いつつも、静に会えた喜びが後からじわじわと押し寄せてきて、また泣きたい気持ちになった。(私はまだこんなにも静が好きなんだ)自分から離れたのに。 誰よりも応援するために離れたのに。 会えたことがこんなにも愛しく感じるなんて。
「さあさあ、次で最後にしましょう」「え~! もっとひいてよ~」園長先生が声をかけると、園児たちから一斉に不満の声がわき上がった。思ったより大盛況になったコンサートに、静もニコニコと対応する。「じゃあ、最後は先生と一緒に弾いてもいいかな?」緩やかに声をかけた静の視線は、まっすぐに春花をとらえていた。目があった春花は内心ドキリとする。「春花、連弾で。トロイメライ」「……え」指名されたことに戸惑い動けないでいると、「はるかせんせ~」「ひいてひいて~」と、園児たちが口々に騒ぎ出す。それでも動けないでいると、今度は園児が春花の手を引っ張って静の元へと連れていった。静は春花をエスコートしてくれた園児たちに「ありがとう」とお礼を言うと、春花の肩を持って椅子に座らせる。大人しくストンと座った春花だったが、「……静」「春花」柔らかく名前を呼ばれ、その甘くて痺れるような声に心がザワザワと揺れ動いた。「いくよ」静のすうっという呼吸音に身がピリッと引きしまった。静のリズムに合わせて自然と指が動く。あんなに違和感があった左手首も、全く気にならない。静が隣にいるという安心感は絶大なものだった。(……楽しい!)演奏しながら、いつしか春花は笑顔になっていた。
子どもたちが遊戯室に集まる。遊戯室にはピアノがあり、舞台の真ん中に設置された。 園長が「みなさーん」と声をかける。ざわざわしながらも子供たちは「はーい」と元気よく返事をした。「今日は、ピアニストの桐谷静さんが来てくれましたよ。桐谷さんはピアノがとても上手なんですよ。みんなの知っている曲はあるかな?」園長が説明すると、最初キョトンとしていた園児達もあれやこれやと歓声がわいた。ザワザワとした遊戯室。 今から何が始まるのだろうと期待に満ち溢れた園児達。 大舞台に慣れている静でも、少しばかりプレッシャーを感じてしまう。なぜならそこに春花がいるからだ。ピアノの前に出てお辞儀をすると、パチパチと子供たちが拍手をした。子供たちの陰に隠れるように座る春花を確認してから、椅子に座る。ポロロン……と演奏が始まると、ざわざわしていた園児達は耳を澄ますようにしんとなった。「これしってる!」「あー!きいたことあるー!」演奏が進むにつれ、メロディに合わせて歌い出す子、リクエストする子も現れ、楽しそうな声が遊戯室にこだまする。春花はどうしたらいいかわからず、ぼんやりと静の演奏を聴いていた。(どうして静がここにいるの? どうして戻ってきたの?)ぐるぐる回る思考に考えが追い付かない。園児たちに囲まれて楽しそうにピアノを弾く静。タキシードを着ていなくても髪をきっちりセットしていなくても、そこに存在しているだけで眩しく輝いている。そんな彼を見て、泣きそうになった。
「亜子先生、どう? 警察に電話?」「いえ、園長先生。大事件です。桐谷静が来ました!」その言葉に、張りつめていた空気が緩み一同ポカンとする。「えっ? 桐谷静?」「誰ですか、それ」「ちょ、桐谷静って、ピアニストの桐谷静じゃない?」「うそ? なぜ? 本物?」職員たちがざわざわとするなか、春花は胸のあたりをぎゅうっと押さえる。 ドキンドキンと鼓動が速くなる。「はい、それで、春花先生をご指名です」「えっ!」ひときわドックンと心臓が揺れた。 なぜここに静が来たのだろう。なぜここがわかったのだろう。「春花先生、知り合いなの?」「……ええ、いえ、あの……まあ……」煮え切らない春花の態度に園長は首を傾げる。「よくわからないけど、私が行ってくるわ」と、今度は園長が静の元へ颯爽と飛び出していった。そして園長が何かやり取りしているのを、保育士たちは不安そうに見守る。だが、戻ってきた園長も先程の亜子先生同様に高揚していた。そしてパンパンと手を打つ。「突然ですが、今からコンサートをします。遊戯室にみんなを集めて」「えっ!」「だっていくらでも弾いてくれるっていうんだもの。本物の桐谷静だったわ!」「わあっ! すごい!」ミーハーな園長と盛り上がる職員たち。春花だけがポカンと置いてきぼりだ。「え、ちょっと、待って――」「ほら、春花先生、子供たち集めて」園内が盛り上がるなか、春花だけは戸惑い浮かない顔をしていた。
里山リトミック幼稚園は、市街地から離れた静かな場所にある。すぐ裏手には小高い丘があり、自然豊かな立地だ。幼稚園では珍しく音楽教育に力を入れており、年長にもなると鍵盤ハーモニカを吹いて鼓笛隊の練習がある。子供たちの明るい笑い声と楽しそうな音色が響き渡るこの場所で、春花は保育士として働いていた。天気の良い日は園庭で園児たちと走り回って遊んだり、ミニ農園と称した畑で植物の観察をしたりする。自然の中に溶け込んだゆったりと穏やかな日常は、春花の心を柔らかく包んで癒してくれていた。「春花先生~!」「はーい」呼ばれて振り向けば、同じ学年の別のクラスを受け持つ亜子先生が、血相を変えて走ってきたところだった。「どうしたんですか?」「さっきから園のまわりをうろうろしている人がいるの。これってヤバイと思わない?」「えっ? 近所のおじいちゃんじゃなく? 不審者ってことです?」「うん、わかんないけど、そんな感じ」「じゃあ急いで子供達を教室に入れなくちゃ」「春花先生は子供たちの誘導と、警察に電話する準備をして。私はちょっと様子見てくるね」「はい、気をつけて」春花は動揺する胸を押さえつつ、園児たちに声をかけ園舎へ避難させた。様子に気付いた園長たちも通報の準備をする。そして騒然となる中、息を切らせて戻ってきた亜子先生は、先程とはうって変わって高揚していた。
静は黙りこくった。 葉月は困ったようにため息を吐く。「葉月先生~、レッスンの時間なんだけど?」「あ、ごめんなさい、野々部さん。今行きますね」黙り込んで動かなくなってしまった静を置き去りに、生徒に呼ばれた葉月はいそいそとレッスン室へ向かう。「あ、そうそう。春花先生はお元気? 今どうしてるの?」「ちょっと、野々部さん……」葉月は困った顔でチラリと静を見るが、すぐに野々部の方へ向き直り、わざとらしく咳払いをしてから告げた。「春花先生は幼稚園の先生になったんですよ」「あー、そうだったわね。確か、里山リトミック幼稚園だったかしら? 年取ると忘れっぽくて困るわぁ」二人は歓談しながらレッスン室へ入っていく。そして重厚な扉がパタリと閉まった。「野々部さん~」「だって葉月先生がいつまでも意地悪してるから~。どうせ教えるつもりだったんでしょ」「そうですけど、もうちょっとお灸据えてもよかったかなって」「あら、葉月先生って意外と腹黒ね」「やだっ、野々部さんったら。やめてくださいよぉ」レッスン室内でそんな愉快な会話が繰り広げられているとは露知らず。静は見えなくなった二人に深々と頭を下げてから店を去った。里山リトミック幼稚園。それを頭に刻み込む。 そこに春花がいる。
「ああそうだわ。この機会にあなたに文句を言いたかったのよね。確かにあなたはすごい。この若さで海外公演を大成功に修めた。ピアニスト桐谷静は立派よ。でもプライベートの桐谷静のことを私は知らない。ニュースや週刊紙で報道されてることしか知らないわ。なあに、あの三神メイサとの熱愛報道」「あれは……」「違うって言いたいんでしょう? そうかもしれないわ。だって私の知ってる桐谷静は、間違いなく山名さんを愛していたもの。三神メイサに心変わりするなんてあり得ないと思う。だけどね、その報道を聞いたときの山名さんの気持ちがわかる? それに対してちゃんとフォローはしたの? してないなら、あなたは山名さんではなく、三神メイサを取ったのよ。まあ報道なんてあることないこと書くからね、誰も鵜呑みになんてしないでしょうけど。でも日本で待ってる山名さんには、とんでもなくつらいことだったでしょうね」「そんな……」静は絶句した。春花のことを愛している。きちんと言葉にもしていたつもりだった。けれどそれは本当に春花に伝わっていたのだろうか。もっともっとできることがあったのではないだろうか。春花のことを一番に考えていると思っていたのは独りよがりで、結局ピアノのことが一番だったのだろうか。一番に考えなくてはいけないものを、間違えたのかもしれない。