修は口の端を少しだけ引き上げて、小さく笑った。 「......そうだといいけどな。でも、侑子。俺は『いい女』なんて、別に求めてないんだ」 その言葉を聞いた瞬間、侑子の心がぎゅっと痛んだ。 ―やっぱり。彼の中にいるのは、まだ若子なの? あの女は、もう結婚して、子どもまでいるのに。 「侑子、この世界で......若子以外の誰かと本当に一緒になる日が来るとしたら― その人は、きっとお前しかいない」 彼の声は低くて、でも確かだった。 侑子はそれを聞いた瞬間、涙が浮かんだ。 胸の中で、まるで色とりどりの花火がぱぁんと咲いたみたいに、喜びが爆発した。 ―まさか修が、自分にそんなことを言ってくれるなんて。 まるで夢みたい。 自分は、修にとって「唯一」の存在になりかけている。 「修......私、修がどんな選択をしても、幸せでいてくれたらいいの。 もし私が、修の隣にいられるなら、それはすごく光栄なこと。でも、もし叶わなくても......ちゃんと祝福する」 口ではそう言っても、侑子の心は小躍りするほど嬉しかった。 ―私は、修のそばにいたい。 ずっと一緒にいたい。 そのためなら、なんだってやってみせる。 修と結婚して、子どもを産んで......それが、私の望む幸せ。 絶対に負けない。絶対に、この手で掴み取る。 修は黙ったまま、じっと侑子を見つめていた。 そして、そっと手を伸ばして、彼女をやさしく抱き寄せた。 その手は彼女の頬を撫で、頭をなでるようにして、やさしく包み込んだ。 「......侑子、お前って、ほんとに優しいな」 ―もし、人生で最初に出会ったのが侑子だったなら。 自分は、違う道を選んでいたのだろうか。 修の胸の中で、侑子はとびきり幸せそうに笑っていた。 けれど、その笑顔は―次第に、変わっていく。 瞳の奥から、冷たい光が滲み出す。 そっと、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめる。 腰を強く掴み、唇の端には笑みを浮かべながらも―その瞳は、狂気じみた光を帯びていた。 彼女の瞳の奥には、燃えるような執念と、抑えきれない占有欲が渦巻いていた。 ...... 「冴島さん......絶対に目を覚まして。きっと大丈夫だから」 若子は防護服を着込み、集中治
......よくよく考えたら、西也も少し可哀想だった。 いつも誰かに殴られて、ボロボロになってる。 「若子、朝ごはん買ってきたよ。ちゃんと食べな?」 「......ありがとう」 若子は手渡された紙袋を受け取ると、穏やかに微笑んだ。 「でも西也、あなたはもう帰って休んで。まだ顔も腫れてるし、無理しちゃだめ」 「平気だよ。少しだけ、そばにいさせて。お前を放っておけないんだ」 「......西也、そんなこと言わなくていいよ」 「でも、そうしたいんだ」 彼のまなざしは、まっすぐだった。 「お前が彼のそばにいるなら......俺は、お前のそばにいる。それだけ」 若子は黙って頷き、感謝の気持ちを込めた視線を送った。 「......ありがとう、西也。そうだ、暁はどうしてるの?」 「元気にしてるよ......会いに来る?抱っこする?」 「......ううん。まだ小さいし、免疫力も弱いし......病院に連れてくるのはよくないよ」 「そっか。じゃあ......お昼に一度帰って、暁の顔だけでも見ない?ちゃんとご飯食べて、ちょっと抱っこして、それからすぐ戻って来たらいい」 「......」 若子は少し迷いながらも、視線を病室の方へ向けた。 「若子、お前がどれだけヴィンセントのことを心配してるかは分かってる。でも、暁はお前の子どもでもあるんだよ......もう何日も会ってないんだろ?本当は会いたいはずだよね」 「......じゃあ、少しだけ......帰る。会いたいし」 そう答えた若子に、西也はほんの少し、表情を緩めた。 「うん。それでいいよ。若子、ありがとう」 「じゃあ、まずは朝ごはん食べよ。休憩ラウンジに行こう。俺もまだ食べてないし、一緒に食べよう?」 若子はこくりと頷いて、ふたり並んで歩き出した。 西也は若子と一緒に休憩スペースに移動し、テーブルに朝ごはんを並べた。 だが、彼の表情にはどこか元気がなかった。箸を持っていても、ほとんど食べていない。 「若子、ちゃんと食べなきゃダメだよ」 「......西也、頑張ってるよ。けど、ちょっと......」 心の中がいっぱいで、食欲なんてとても湧いてこなかった。 「だったら、もっとちゃんと食べなきゃダメだよ。身体が資本なんだから」
修は侑子の腰に腕を回し、まるで恋人同士のように寄り添っていた。ふたりの姿はあまりにも親密で、まるで愛し合っているかのような雰囲気だった。 その光景を目にした瞬間、若子の目が一瞬ぼんやりと揺らいだ。 ―修と、山田さん?どうしてふたりが一緒に? しかも、まるで当然のように、並んで現れるなんて...... そんな若子の背後で、その様子を見ていた西也は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。 いいぞ、その調子。 前夫とその「今カノ」がこれだけラブラブなら、さすがの若子も諦めがつくだろう。 藤沢......お前ってやつは本当に都合のいい「駒」だな。自分が何をしてるのかもわかってない。ここまできてあの女を連れてくるとは......もはや渣なのか、ただの馬鹿なのか、こっちが困るくらいだ。 見ろよ。わざわざ若子の目の前で「幸せアピール」なんてしてる時点で、勝負なんて最初からついてる。 若子は俺のもの。お前なんかに、譲る気は一切ない。 修は若子と西也に気づいても、侑子の腰から腕を離そうとしなかった。いや、むしろ、さらに強く抱き寄せる。 ―あたかも、「俺はいま幸せだ」と言わんばかりに。 侑子はその視線に気づき、そっと修の顔を見上げた。でも、彼の表情からはなにも読み取れない。ただ、彼の腕だけが、いつもより強く彼女を抱いていた。 ......愛されている、なんて感じじゃなかった。これは、ただの「見せつけ」だ。 彼女もわかっていた。これは復讐―前妻と、その「新しい男」に向けた、ささやかな意地だった。 ゆっくりと、修は侑子を抱いたまま、若子の目の前に立った。 若子は伏し目がちに、彼の手元に視線を落とす。その手は、しっかりと侑子の腰に回されていた。 口元に、わずかな笑みが浮かんだ。 ―本当に、仲がいいのね。 でも、それもそうか。山田さんは今、修の子をお腹に抱えている。 修が気を遣うのも当然だ。しっかり支えてあげなきゃ、転んだりしたら大変だもんね。守るべき存在......か。 でも若子は、ふと、昔のことを思い出してしまった。 修と離婚したあのとき―自分だって、妊娠していた。 お腹に、小さな命が宿っていたのに。 それを伝えようと、勇気を出して言葉を用意していたのに。 「あなた、父親になるんだよ」って、喜んで
1時間後― 若子は集中治療室の前で、ずっと歩き回っていた。 神様、お願い。冴島さんを、早く目覚めさせて。 絶対に死んじゃダメ。お願い、お願い......彼が死ぬなんて、そんなの間違ってる。 あんな残酷なやり方で、彼の妹を奪っておいて......今度は彼まで奪うつもりなの? 彼の妹を傷つけた連中は、全員が報いを受けた。あいつらは罰せられるべきだった。あんな奴らがのうのうと生きてて、善人が苦しんで死ぬなんて、そんなの許せない。 どうして神様は、そんな理不尽を見過ごしてるの? この世界には、悪人が平然と他人を傷つけながら、幸せに生きてる一方で、本当にいい人が、耐えがたい苦しみに耐えてる。 お願い......もう、冴島さんを苦しめないで。これからの人生くらい、穏やかに歩ませてあげてよ...... 「松本さん」 不意に、背後から声がした。 振り向いた若子の目に飛び込んできたのは、侑子の姿だった。修は―いなかった。 思わず眉をひそめる若子。その隙に、侑子はにこやかに近づいてきた。 まるで余裕に満ちた微笑みをたたえて、彼女の目の前に立つ。 似ていた。 目の前の彼女の顔―どこか、若子に似ている。 修がなぜこの人を選んだのか、少しだけ察してしまった気がして、若子は何とも言えない気持ちになる。 「山田さん、修と一緒じゃなかった?彼はどこに?」 「修なら、電話を取りに行ったの。何か急用みたいで、しばらく戻ってこなかったから、私もちょっとだけお散歩してたの。そしたら、偶然ここに来ちゃって......あなたに会えるなんて思わなかった」 若子は淡々と答える。 「......そう。じゃあ、本当に偶然ね」 でも―本当に、偶然だろうか? この病棟の、この時間に、偶然だなんて。 若子の心に、微かに疑念の影が差し込んだ。 まるで......最初から、ここに来るつもりだったみたい。 侑子が一歩近づく。 若子は、ひとつ後ずさった。 「山田さん、何か用がある?もし本当にただの散歩でここに来たっていうなら、そろそろ戻ったほうがいいんじゃない?修が電話終わって、あなたがいなかったら心配するでしょうし」 「大丈夫よ。どうやら会社の重要な話みたいで、まだまだかかりそうなの。せっかくこうして会えたのも縁ってこ
若子の顔から、さっと表情が消えた。 もう、礼儀なんて見せる気にもなれなかった。 冷たい目で侑子を見据え、バッサリ言い放つ。 「お互いに言い争いになる前に、さっさと出て行ってくれる?」 侑子の言葉は勘違いだらけだし、その態度も傲慢そのもの。話す価値なんてない。 「ここは公共の場所よ。私がここに立ってることの何が悪いの?―ねぇ、『遠藤夫人』」 わざとらしく強調されたその呼び名に、若子の眉がぴくりと動いた。 「旦那がいるくせに、前夫に未練たらたら。しかも失踪劇まで演じて......演技派にもほどがあるわね?」 「いい加減にして。あなた、何が起きたのか本当にわかってるの?何も知らないくせに中途半端な知識で口出すなんて―浅はかだわ」 「へぇ、『浅はか』ね?聞いた?私、浅はかですって」 侑子はあざ笑うように言葉を続ける。 「浅はかでも、少なくとも人の男に手を出したりしないから。こっちは彼の子を身ごもってるの。あんたみたいに恥知らずな真似、できないわ」 「......少しは恥を知ったら?」 「恥を?あんたが言う?笑わせないで」 拳をぎゅっと握りしめた侑子の顔には、もう以前の穏やかさなんて一片も残っていなかった。ただただ、むき出しの憎しみがそこにあった。 「松本さん、あんたって本当に手段を選ばない女よね。修を取り戻すために失踪して、探させて......でも結局失敗。可哀想にね?今回の作戦、完全に裏目に出たわけ。修はますます私を大切にしてくれるようになったの」 彼女はゆっくりと自分の唇に指を這わせた。 「昨日の夜、私たちがどうしてたか......知りたい? ねぇ、彼、ここの使い方がほんとに好きなの」 唇の端をなぞるその指先は、妙にいやらしくて― 「それからね......彼の指って長くて、ほんっとに気持ちいいの。触れられるたびに、私もう......魂まで飛んでっちゃうのよね。他のことなんて、もう言うまでもないけど」 若子の胸の中に、突如として波のような嫌悪感が押し寄せてきた。 ......聞きたくない。そんなことまで、いちいち。 気持ち悪い。吐き気がする。 「......そう。気に入ってるなら、それでいいじゃない。だったらふたりで続けてればいいわ。わざわざ私の前で見せびらかさなくていい。そう
松本若子は小さな体を布団に包み込み、お腹を優しく撫でながら、ほっと息をついた。よかった、赤ちゃんは無事だ。昨晩、修が帰ってきて、彼女と親密になろうとした。夫婦として2ヶ月会っていなかったため、彼女は彼を拒むことができなかった。藤沢修はすでに身支度を整え、グレーのハンドメイドスーツに包まれた長身で洗練された彼の姿は、貴族的で魅力的だった。彼は椅子に座り、タブレットを操作しながら、ゆったりとした動作で指を動かしていた。その仕草には、わずかな気だるさとセクシーさが漂っていた。彼は、ベッドの上で布団に包まって自分を見つめている彼女に気づき、淡々と言った。「目が覚めた?朝ごはんを食べにおいで」「うんうん」松本若子はパジャマを着て、顔を赤らめながらベッドから降りた。ダイニングで、松本若子はフォークで皿の卵をつつきながら、左手でお腹を撫で、緊張と期待が入り混じった声で言った。「あなたに話があるの」「俺も話がある」藤沢修も同時に口を開いた。「…」二人は顔を見合わせた。沈黙の後、藤沢修が言った。「先に話してくれ」「いや、あなたからどうぞ」彼が自分から話を切り出すことは滅多にない。彼は皿の目玉焼きをゆっくりと切りながら言った。「離婚協議書を用意させた。後で届けさせるから、不満があれば言ってくれ。修正させるから、できるだけ早くサインしてくれ」「…」松本若子は呆然とし、頭の中が真っ白になった。椅子に座っているにもかかわらず、今にも倒れそうな感覚だった。呼吸することさえ忘れてしまった。「あなた、私たちが離婚するって言ったの?」彼女はかすれた声で尋ねた。そのトーンには信じられないという気持ちが込められていた。密かに自分の足を摘んで、悪夢から目覚めようとさえしていた。「そうだ」彼の返事は、冷たさすら感じさせないほど平静だった。松本若子の頭は一瞬で混乱した。昨夜まで二人で最も親密な行為をしていたというのに、今では何でもないように離婚を切り出すなんて!彼女はお腹を押さえ、目に涙が浮かんだ。「もし私たちに…」「雅子が帰国した。だから俺たちの契約結婚も終わりだ」「…」この1年間の甘い生活で、彼女はそのことをほとんど忘れかけていた。彼らは契約結婚をしていたのだ。最初から彼の心には別の女性がいて、いつか離婚す
彼女はうつむきながら、苦笑いを浮かべた。自分にはもう何を贅沢に望む権利があるというのだろうか?彼と結婚できたことで、彼女はすでに来世の運まで使い果たしてしまった。彼女の両親はSKグループの普通の従業員だったが、火災に巻き込まれ、操作室に閉じ込められてしまった。しかし、死の間際に重要なシステムを停止させたことで、有毒物質の漏洩を防ぎ、多くの人命を救うことができた。当時、ニュースメディアはその出来事を何日間も連日報道し、彼女の両親が外界と交わした最後の通話記録も残された。わずか10歳だった彼女は、仕方なく叔母と一緒に暮らすことになった。しかし、叔母は煙草と酒が好きで、さらにギャンブルにも手を出していたため、1年後にはSKグループからの賠償金をすべてギャンブルで使い果たしてしまった。彼女が11歳の時、叔母は彼女をSKグループの門前に置き去りにした。松本若子はリュックを抱えながら、会社の門前で二日間待ち続けた。彼女は空腹で疲れ果てていたが、SKグループの会長が通りかかり、彼女を家に連れて帰った。それ以来、会長は彼女の学費を負担し、生活の面倒を見てくれた。そして彼女が成長すると、会長の孫である藤沢修と結婚させた。藤沢修はその結婚に反対しなかったが、暗に松本若子にこう告げた。「たとえ結婚しても、あなたに感情を与えることはできない。あの女が戻ってきたら、いつでもこの結婚は終わりにする。その時は、何も異議を唱えてはいけない」その言葉を聞いた時、彼女の心はまるで刃物で切りつけられたように痛んだ。だが、もし自分が彼との結婚を拒めば、祖母はきっとこのことを藤沢修のせいにし、怒りが収まらないだろう。彼女はそのことで祖母が体調を崩すのを恐れて、どんなに辛くても頷くしかなかった。「大丈夫、私もあなたのことを兄のように思っているだけで、男女の感情はないわ。離婚したいときはいつでも言って、私はあなたを縛りつけたりしないから」彼らの結婚は、こうして始まった。結婚後、彼は彼女をまるで宝物のように大切に扱った。誰もが藤沢修が彼女を深く愛していると思っていたが、彼女だけは知っていた。彼が彼女に優しくするのは、愛ではなく責任感からだった。そして今、その責任も終わった。松本若子は皿の中の最後の一口の卵を食べ終えると、立ち上がった。「お腹い
「そんなことはないわ」松本若子は少し怒りを感じながら答えた。もし本当にそう思っていたなら、昨夜、妊娠しているにもかかわらず彼に触れさせたりはしなかったはずだ。藤沢修はそれ以上何も言わず、彼女を抱きかかえて部屋に戻り、ベッドにそっと寝かせた。その一つ一つの動作が優しく丁寧だった。松本若子は涙を堪えるため、ほとんどすべての力を使い果たした。彼が彼女の服を整えるとき、大きな手が彼女のお腹に触れた。松本若子は胸がざわめき、急いで彼の手を掴んで押し返した。彼女のお腹はまだ平坦だったが、なぜか本能的に焦りを感じ、何かを知られるのではないかと心配だった。藤沢修は一瞬動きを止め、「どうした?」と尋ねた。彼女は離婚が近いから、今は彼に触れてほしくないのか?「何でもないわ。ただ、昨夜よく眠れなくて、頭が少しぼんやりしているだけ」彼女はそう言って言い訳をした。「医者を呼ぶか?顔色が良くないぞ」彼は心配そうに彼女の額に手を当てた。熱はなかった。しかし、どこか違和感を覚えていた。「本当に大丈夫だから」医者に診せたら、妊娠がばれてしまうかもしれない。「少し寝れば治るから」「若子、最後にもう一度だけチャンスをあげる。正直に話すか、病院に行くか、どっちにする?」彼は、彼女が何かを隠していることを見抜けないとでも思っているのか?松本若子は苦笑いを浮かべ、「あまりにも長い間、私たちは親密にならなかったから、昨夜急にあんなことになって、ちょっと慣れなくて。まだ体がついていけてないの。病院に行くのはやめておこう。恥ずかしいから、少し休めば大丈夫」彼女の説明に、彼は少しばかりの恥ずかしさを感じたようで、すぐに布団を引き上げて彼女に掛けた。「それなら、もっと早く言えばよかったのに。起きなくてもいいんだ。朝食はベッドに持ってくるから」松本若子は布団の中で拳を握りしめ、涙を堪えた。彼は残酷だ。どうして離婚を切り出した後でも、こんなに彼女を気遣うことができるのだろう?彼はいつでも身軽に去ることができるが、彼女は彼のために痛みを抱え、そこから抜け出すことができない。藤沢修は時計を見て、何か用事があるようだった。「あなた…いや、藤沢さん、忙しいなら先に行って。私は少し休むわ」「藤沢さん」という言葉が口から出ると、藤沢修は眉をひそ
若子の顔から、さっと表情が消えた。 もう、礼儀なんて見せる気にもなれなかった。 冷たい目で侑子を見据え、バッサリ言い放つ。 「お互いに言い争いになる前に、さっさと出て行ってくれる?」 侑子の言葉は勘違いだらけだし、その態度も傲慢そのもの。話す価値なんてない。 「ここは公共の場所よ。私がここに立ってることの何が悪いの?―ねぇ、『遠藤夫人』」 わざとらしく強調されたその呼び名に、若子の眉がぴくりと動いた。 「旦那がいるくせに、前夫に未練たらたら。しかも失踪劇まで演じて......演技派にもほどがあるわね?」 「いい加減にして。あなた、何が起きたのか本当にわかってるの?何も知らないくせに中途半端な知識で口出すなんて―浅はかだわ」 「へぇ、『浅はか』ね?聞いた?私、浅はかですって」 侑子はあざ笑うように言葉を続ける。 「浅はかでも、少なくとも人の男に手を出したりしないから。こっちは彼の子を身ごもってるの。あんたみたいに恥知らずな真似、できないわ」 「......少しは恥を知ったら?」 「恥を?あんたが言う?笑わせないで」 拳をぎゅっと握りしめた侑子の顔には、もう以前の穏やかさなんて一片も残っていなかった。ただただ、むき出しの憎しみがそこにあった。 「松本さん、あんたって本当に手段を選ばない女よね。修を取り戻すために失踪して、探させて......でも結局失敗。可哀想にね?今回の作戦、完全に裏目に出たわけ。修はますます私を大切にしてくれるようになったの」 彼女はゆっくりと自分の唇に指を這わせた。 「昨日の夜、私たちがどうしてたか......知りたい? ねぇ、彼、ここの使い方がほんとに好きなの」 唇の端をなぞるその指先は、妙にいやらしくて― 「それからね......彼の指って長くて、ほんっとに気持ちいいの。触れられるたびに、私もう......魂まで飛んでっちゃうのよね。他のことなんて、もう言うまでもないけど」 若子の胸の中に、突如として波のような嫌悪感が押し寄せてきた。 ......聞きたくない。そんなことまで、いちいち。 気持ち悪い。吐き気がする。 「......そう。気に入ってるなら、それでいいじゃない。だったらふたりで続けてればいいわ。わざわざ私の前で見せびらかさなくていい。そう
1時間後― 若子は集中治療室の前で、ずっと歩き回っていた。 神様、お願い。冴島さんを、早く目覚めさせて。 絶対に死んじゃダメ。お願い、お願い......彼が死ぬなんて、そんなの間違ってる。 あんな残酷なやり方で、彼の妹を奪っておいて......今度は彼まで奪うつもりなの? 彼の妹を傷つけた連中は、全員が報いを受けた。あいつらは罰せられるべきだった。あんな奴らがのうのうと生きてて、善人が苦しんで死ぬなんて、そんなの許せない。 どうして神様は、そんな理不尽を見過ごしてるの? この世界には、悪人が平然と他人を傷つけながら、幸せに生きてる一方で、本当にいい人が、耐えがたい苦しみに耐えてる。 お願い......もう、冴島さんを苦しめないで。これからの人生くらい、穏やかに歩ませてあげてよ...... 「松本さん」 不意に、背後から声がした。 振り向いた若子の目に飛び込んできたのは、侑子の姿だった。修は―いなかった。 思わず眉をひそめる若子。その隙に、侑子はにこやかに近づいてきた。 まるで余裕に満ちた微笑みをたたえて、彼女の目の前に立つ。 似ていた。 目の前の彼女の顔―どこか、若子に似ている。 修がなぜこの人を選んだのか、少しだけ察してしまった気がして、若子は何とも言えない気持ちになる。 「山田さん、修と一緒じゃなかった?彼はどこに?」 「修なら、電話を取りに行ったの。何か急用みたいで、しばらく戻ってこなかったから、私もちょっとだけお散歩してたの。そしたら、偶然ここに来ちゃって......あなたに会えるなんて思わなかった」 若子は淡々と答える。 「......そう。じゃあ、本当に偶然ね」 でも―本当に、偶然だろうか? この病棟の、この時間に、偶然だなんて。 若子の心に、微かに疑念の影が差し込んだ。 まるで......最初から、ここに来るつもりだったみたい。 侑子が一歩近づく。 若子は、ひとつ後ずさった。 「山田さん、何か用がある?もし本当にただの散歩でここに来たっていうなら、そろそろ戻ったほうがいいんじゃない?修が電話終わって、あなたがいなかったら心配するでしょうし」 「大丈夫よ。どうやら会社の重要な話みたいで、まだまだかかりそうなの。せっかくこうして会えたのも縁ってこ
修は侑子の腰に腕を回し、まるで恋人同士のように寄り添っていた。ふたりの姿はあまりにも親密で、まるで愛し合っているかのような雰囲気だった。 その光景を目にした瞬間、若子の目が一瞬ぼんやりと揺らいだ。 ―修と、山田さん?どうしてふたりが一緒に? しかも、まるで当然のように、並んで現れるなんて...... そんな若子の背後で、その様子を見ていた西也は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。 いいぞ、その調子。 前夫とその「今カノ」がこれだけラブラブなら、さすがの若子も諦めがつくだろう。 藤沢......お前ってやつは本当に都合のいい「駒」だな。自分が何をしてるのかもわかってない。ここまできてあの女を連れてくるとは......もはや渣なのか、ただの馬鹿なのか、こっちが困るくらいだ。 見ろよ。わざわざ若子の目の前で「幸せアピール」なんてしてる時点で、勝負なんて最初からついてる。 若子は俺のもの。お前なんかに、譲る気は一切ない。 修は若子と西也に気づいても、侑子の腰から腕を離そうとしなかった。いや、むしろ、さらに強く抱き寄せる。 ―あたかも、「俺はいま幸せだ」と言わんばかりに。 侑子はその視線に気づき、そっと修の顔を見上げた。でも、彼の表情からはなにも読み取れない。ただ、彼の腕だけが、いつもより強く彼女を抱いていた。 ......愛されている、なんて感じじゃなかった。これは、ただの「見せつけ」だ。 彼女もわかっていた。これは復讐―前妻と、その「新しい男」に向けた、ささやかな意地だった。 ゆっくりと、修は侑子を抱いたまま、若子の目の前に立った。 若子は伏し目がちに、彼の手元に視線を落とす。その手は、しっかりと侑子の腰に回されていた。 口元に、わずかな笑みが浮かんだ。 ―本当に、仲がいいのね。 でも、それもそうか。山田さんは今、修の子をお腹に抱えている。 修が気を遣うのも当然だ。しっかり支えてあげなきゃ、転んだりしたら大変だもんね。守るべき存在......か。 でも若子は、ふと、昔のことを思い出してしまった。 修と離婚したあのとき―自分だって、妊娠していた。 お腹に、小さな命が宿っていたのに。 それを伝えようと、勇気を出して言葉を用意していたのに。 「あなた、父親になるんだよ」って、喜んで
......よくよく考えたら、西也も少し可哀想だった。 いつも誰かに殴られて、ボロボロになってる。 「若子、朝ごはん買ってきたよ。ちゃんと食べな?」 「......ありがとう」 若子は手渡された紙袋を受け取ると、穏やかに微笑んだ。 「でも西也、あなたはもう帰って休んで。まだ顔も腫れてるし、無理しちゃだめ」 「平気だよ。少しだけ、そばにいさせて。お前を放っておけないんだ」 「......西也、そんなこと言わなくていいよ」 「でも、そうしたいんだ」 彼のまなざしは、まっすぐだった。 「お前が彼のそばにいるなら......俺は、お前のそばにいる。それだけ」 若子は黙って頷き、感謝の気持ちを込めた視線を送った。 「......ありがとう、西也。そうだ、暁はどうしてるの?」 「元気にしてるよ......会いに来る?抱っこする?」 「......ううん。まだ小さいし、免疫力も弱いし......病院に連れてくるのはよくないよ」 「そっか。じゃあ......お昼に一度帰って、暁の顔だけでも見ない?ちゃんとご飯食べて、ちょっと抱っこして、それからすぐ戻って来たらいい」 「......」 若子は少し迷いながらも、視線を病室の方へ向けた。 「若子、お前がどれだけヴィンセントのことを心配してるかは分かってる。でも、暁はお前の子どもでもあるんだよ......もう何日も会ってないんだろ?本当は会いたいはずだよね」 「......じゃあ、少しだけ......帰る。会いたいし」 そう答えた若子に、西也はほんの少し、表情を緩めた。 「うん。それでいいよ。若子、ありがとう」 「じゃあ、まずは朝ごはん食べよ。休憩ラウンジに行こう。俺もまだ食べてないし、一緒に食べよう?」 若子はこくりと頷いて、ふたり並んで歩き出した。 西也は若子と一緒に休憩スペースに移動し、テーブルに朝ごはんを並べた。 だが、彼の表情にはどこか元気がなかった。箸を持っていても、ほとんど食べていない。 「若子、ちゃんと食べなきゃダメだよ」 「......西也、頑張ってるよ。けど、ちょっと......」 心の中がいっぱいで、食欲なんてとても湧いてこなかった。 「だったら、もっとちゃんと食べなきゃダメだよ。身体が資本なんだから」
修は口の端を少しだけ引き上げて、小さく笑った。 「......そうだといいけどな。でも、侑子。俺は『いい女』なんて、別に求めてないんだ」 その言葉を聞いた瞬間、侑子の心がぎゅっと痛んだ。 ―やっぱり。彼の中にいるのは、まだ若子なの? あの女は、もう結婚して、子どもまでいるのに。 「侑子、この世界で......若子以外の誰かと本当に一緒になる日が来るとしたら― その人は、きっとお前しかいない」 彼の声は低くて、でも確かだった。 侑子はそれを聞いた瞬間、涙が浮かんだ。 胸の中で、まるで色とりどりの花火がぱぁんと咲いたみたいに、喜びが爆発した。 ―まさか修が、自分にそんなことを言ってくれるなんて。 まるで夢みたい。 自分は、修にとって「唯一」の存在になりかけている。 「修......私、修がどんな選択をしても、幸せでいてくれたらいいの。 もし私が、修の隣にいられるなら、それはすごく光栄なこと。でも、もし叶わなくても......ちゃんと祝福する」 口ではそう言っても、侑子の心は小躍りするほど嬉しかった。 ―私は、修のそばにいたい。 ずっと一緒にいたい。 そのためなら、なんだってやってみせる。 修と結婚して、子どもを産んで......それが、私の望む幸せ。 絶対に負けない。絶対に、この手で掴み取る。 修は黙ったまま、じっと侑子を見つめていた。 そして、そっと手を伸ばして、彼女をやさしく抱き寄せた。 その手は彼女の頬を撫で、頭をなでるようにして、やさしく包み込んだ。 「......侑子、お前って、ほんとに優しいな」 ―もし、人生で最初に出会ったのが侑子だったなら。 自分は、違う道を選んでいたのだろうか。 修の胸の中で、侑子はとびきり幸せそうに笑っていた。 けれど、その笑顔は―次第に、変わっていく。 瞳の奥から、冷たい光が滲み出す。 そっと、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめる。 腰を強く掴み、唇の端には笑みを浮かべながらも―その瞳は、狂気じみた光を帯びていた。 彼女の瞳の奥には、燃えるような執念と、抑えきれない占有欲が渦巻いていた。 ...... 「冴島さん......絶対に目を覚まして。きっと大丈夫だから」 若子は防護服を着込み、集中治
車がニューヨークの賑やかな街をすり抜けるように走っていた。 病院へ向かう途中、窓の外の風景はめまぐるしく流れ、高くそびえる摩天楼と、せわしなく行き交う人々が、まるで一枚の生きた都市画のように交差していく。 車内は、静寂に包まれていた。 運転席に座る修は、黙って前を見つめていた。 きりっとした横顔には陰影が落ち、眉間にはうっすらと深い思索の色が浮かんでいる。黒く澄んだ瞳はどこまでも深く、どこか遠くの想いを抱えているように見えた。 その横顔を、助手席に座る侑子はじっと見つめていた。 ―何度見ても、惹かれてしまう。 その整った顔立ち、その優雅な横顔の曲線、一つひとつがまるで芸術品のようで、目が離せなかった。 彼の眉がふとわずかに寄る。 何かを考えているのだろう。きっと、彼の胸の内には、誰にも触れさせない何かがある。 侑子はそっと、彼の手に触れた。 「修......元気出して。今日のお天気、すっごく綺麗よ。きっと、すべてうまくいくわ」 修は彼女の言葉に微笑みを返した。 穏やかで、やさしい笑顔だった。 「そうだね。きっと、全部うまくいく」 そう言いながらも、彼の視線は再び窓の外へと戻った。 流れる街の光景、高層ビルが空を切るように立ち並び、人々が足早にすれ違っていく。 一人ひとりが、きっとそれぞれの物語を持っている。 その中には、修と同じように、誰かを失い、誰かに許され、あるいは永遠に離れてしまった人もいるかもしれない。 だけど、彼の目には、今この瞬間すれ違っていく人たちは、ただの「通行人」でしかない。 名前も顔も、すぐに忘れてしまう。 自分自身も― この雑踏の中を歩けば、他人の人生の中でただの「通行人」になるのだろう。 誰の記憶にも残らず、擦れ違うだけの存在。 けれど、どんな人にも物語がある。 それがどんなに小さなものでも、喜びでも、痛みでも―確かに、そこにあるのだ。 修は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。 ―その瞬間、胸の奥にチクリと痛みが走る。 彼は反射的に心臓のあたりを押さえた。眉間には深いシワが寄り、表情が少しだけ歪む。 その様子を見ていた侑子は、すぐさま身を乗り出して彼を抱きしめた。 「修、大丈夫!?苦しそうだったけど......どこか痛むの?
ベッドに戻った侑子は、横になってもどうしても眠れなかった。 何度も寝返りを打って、目を閉じても、心の奥がざわざわして―落ち着かなかった。 遠藤西也は、確かに酷い人間だ。 彼女と修を殺しかけた男。許せるわけがない。むしろ、死んでしまえばいいとさえ思っていた。 修を傷つけるような人間なんて、いなくなればいい。 ―なのに。 なぜか、胸の奥が落ち着かない。モヤモヤする。 西也が逮捕されて、刑務所に入ると考えると、どこか引っかかる。 その理由に気づいたとき―侑子は、バッと起き上がった。 もし、西也がこのままいなくなったら。 そうなったら......若子と修の間に、もう何の障害もなくなってしまうんじゃない? まさか、修は―それを狙ってる? 西也を牢に送って、若子を手に入れるつもり?まさか、「パパ役」までやる気じゃないよね? それに、あの松本若子って女―どうせ旦那が死んでも泣きもせず、あっさり修のところに戻るんだ。 そういう軽薄な女だもの。絶対に、そう。 思い当たったとたん、侑子はさっきまでの勝ち誇った気持ちが一気に冷めていった。 ダメだ。 あの男を刑務所に送っちゃダメ。そうなったら、誰が若子と修を止められる? 修の気持ちがあの女に戻ってしまったら―終わりだ。 侑子は胸の奥に焦りを感じながら、毛布をきつく握りしめた。 どうしたらいいのかわからなくて、ただただ混乱するばかり。 気がつけば、ぽろぽろと涙が落ちていた。 このままじゃダメ。修と若子がくっついてしまう。そうなる前に、何かしなきゃ。 ......気づけば、いつのまにか眠っていた。 その夜の後半―修は自分の部屋に戻ってこなかった。 そして、侑子は夢を見た。 夢の中で、西也は刑務所に入れられていた。 若子はそのことをどこか嬉しそうに見下ろし、すぐに修の胸に飛び込んでいく。 その光景に、侑子の心は―ズタズタに引き裂かれた。 ...... 朝― 高層ビルの隙間から差し込む最初の陽光が地面を照らし、静かだった街がゆっくりと目を覚まし始める。 緑豊かな木々と手入れの行き届いた庭園に囲まれたその別荘も、やさしい朝の気配に包まれていた。 朝の空気はひんやりと澄んでいて、木の葉が風に揺れて、ささやくような音を立て
あのとき、西也は修だけじゃなく、自分も殺しかけた―侑子はその記憶が今も胸に焼きついていた。 「侑子、あのときのこと、怖かったよな」 修が穏やかに声をかけると、侑子は小さく頷いた。 「修、監視カメラが全部壊されてると思ってたけど......まさか、まだ残ってたなんて」 「ここにはピンホールカメラも仕掛けてあったんだ。万が一の備えでね。今回はそれが役に立った」 「うん、さすが修」 侑子は微笑みながら頷き、画面をじっと見つめた。 「それで......この映像、どうするつもりなの?」 「警察に提出するよ。これは重罪だ。少なくとも十年以上は牢屋行きだ」 「......十年くらいじゃ、生ぬるいわ」 侑子は唇をきゅっと結び、悔しそうに言った。 「だって、あの人―私たちを本気で殺そうとしたのよ?もし修があのとき機転を利かせなかったら、もう私たち二人とも......あの人、本当に悪人だったのね」 「侑子......」 修は彼女の腰に手を回し、抱き寄せる。 「でも今、俺たちは無事だ。こうして生きてる。 あいつには必ず、やったことの代償を払わせる。俺は一番優秀な弁護士を雇って告発する。やつの罪は最低でも十年以上だ。できれば終身刑を喰らわせて、アメリカの牢獄で一生を終えさせたい」 「うん......修、そうしよう!」 侑子は嬉しそうに頷き、そのまま修の胸元に顔を埋めた。 「修を傷つけようとする人は、私は絶対に許せない。この映像、いつ警察に出すの?」 「明日、病院に行ったあとで提出するよ」 「だったら、先に警察に提出してから、病院に付き添ってくれない?」 修は少し考えてから、穏やかに言った。 「侑子、警察に提出したら、きっと捜査に協力することになる。時間がかかるはずだ。だから、まずはお前の診察を午前中で済ませて、午後に映像を渡しに行けば、その後たっぷり警察に対応できる。お前にも証言してもらう必要があるからね」 「うん......修の言うとおりね。私、少し浅はかだった」 侑子は小さく頷いてそう言った。 「気にするな」 修は彼女の肩を抱き寄せるようにして言う。 「もう遅いし、お前は先に休んで」 「じゃあ......修は?」 「俺は、ここでもう少しだけ座ってるよ。気にせず休んでくれ」
侑子に対してしてしまったことは、修自身もよく分かっていなかった。 衝動的で、理性なんてひとかけらも残っていなかった。 彼女は心臓に病を抱えている。いつ命が尽きてもおかしくない。 その彼女と、ああなってしまった今― もし、侑子を見捨てたら。裏切ったら。 心臓発作を起こすんじゃないか―そんな不安が頭をよぎる。 修は今、心から願っていた。 「彼女に合う心臓を見つけたい。手術を受けさせて、健康な身体にしてやりたい」 その日が来るまで、自分が責任を持って彼女を守らなければならない。 だって、彼女はその心も身体も、すべてを修に捧げてくれたのだから。 修は静かに部屋を出て、ひとりでリビングへ向かった。 明かりをつけ、周囲を見渡す。 ―監視カメラは、すべて壊されていた。 あの日、西也が家に誰もいない隙を狙って、この邸宅へ侵入してきた。 西也はバカじゃない。まず監視設備がどこにあるかを調べて、それを潰してから動いたに違いない。 結果―すべての映像は、証拠にならなかった。 修はその点は認めていた。西也は確かに頭の切れる男だ。 だが―どれだけ聡明でも、完璧な人間なんていない。 どこかに、必ずほころびがある。 そして今回は―その「ほころび」が、ついに生まれた。 修はこの別荘のリビング、全体を見渡せる位置に、極小の隠しカメラを設置していた。 そのカメラは、天井のど真ん中―シャンデリアの真上に巧妙に仕込まれていた。 だからこそ、視界はばっちり。それでいて、誰にも気づかれにくい。 この家はもともと人が滅多に来ない場所だった。もしものときに備えて、見える場所に普通の監視カメラを設置し、さらに破壊される可能性を考慮して、別ルートの「隠しカメラ」も用意していたのだ。 そして今、その針の穴のような小さなカメラが、沈黙のまま、すべてを記録していた。 確認したところ、壊されてはいない。 西也は、そこまで気づけなかった。 修はソファに腰を下ろし、膝の上にノートパソコンを置いた。 その手で、静かに操作を始めた― ほどなくして、修のノートパソコンの画面に映像が現れた。 そこには、西也が部下を連れてこの別荘に侵入してくる姿が、はっきりと映っていた。 ―ここはアメリカ。 銃を所持して他人の家