翔太は俯いたまま、小さな声で言った。「ママに言っても無駄なんだ。だってあの日、ママはあの人たちにわざと足を引っかけられて転んだのに、誰も助けてくれなかった。ママはみんなの前で笑いものにされて......誰も庇ってくれなかった。そんなママじゃ僕のことなんて守れない」そしてさらに言葉を絞り出す。「さっきも健太のママ、僕のママが怜の監護者だって知った途端、あの子に跪いて謝れって言った。ママを全然怖がってなかった。もし今日、悪いことをしたのが僕だったら......僕も跪かされてたの?」その言葉に、雅臣と影斗の視線が同時に三谷夫人へと突き刺さる。彼女は顔面蒼白になり、今にも膝から崩れ落ちそうだった。翔太は続ける。「それに、おばあちゃんは言ったんだ。僕は将来、神谷家の跡取りだから、自分のことは自分で解決しろ、親に泣きつくなって」影斗の黒い瞳に、深い翳りが落ちる。――愛に浸って育つ子どもと、一度も愛を感じられない子どもとは違う。翔太が勉強で常にトップを取れるのは、家族がそこに力を注いできたからだろう。だが、たかが五歳。理屈では割り切れず、恐怖と不安に飲み込まれるのは当然だ。けれど、星に対してだけは我が儘で甘える――それは、彼女の愛を存分に受けてきた証だった。ありふれた愛は軽んじられる。だが、怜のように渇望してきた子は、それを決して手放さない。翔太の言葉が場を凍りつかせる。張り詰めた沈黙を破ったのは、影斗の低く艶を帯びた声だった。「母親が見下され、外で笑いものになるのは、突き詰めれば――家族や夫の無能さゆえだ」彼の眼差しは、青ざめた三谷夫人を一瞥し、次いで雅臣に向かう。「翔太くんは、自分の母親が理不尽に辱められるのを目の当たりにした。だが、家族からは何の庇いもなく、むしろ叱責されたんだ」その声音はやわらかく、それでいて一言ごとに刃を潜ませていた。「神谷さん。無能な男だけが、自分の妻への侮辱を放っておける――こんな言葉を聞いたことはないか?どうせ今でも分かっていないのだろう。星ちゃんがなぜ離婚を選んだのか。彼女が大げさだと片付け、己の過ちに気づこうともしない」唇に微笑を浮かべながら、彼は冷ややかに言い放つ。「堂々たる神谷グループの妻が、取るに足ら
彼らは翔太を取り囲んだ。その映像を目にした雅臣の眉間に深いしわが刻まれ、三谷夫人の顔色は蒼白に変わる。ただ画面を見るだけでも、健太たち三人が明らかに敵意をもって翔太を囲んでいるのがわかった。しかもその手際は慣れたもので、一度や二度ではない。雅臣の漆黒の瞳は、じわじわと暗さを増していく。やがて、健太の声がはっきりと響いた。「この前、ママが言ってたんだ。おまえの母さん、中卒でアルファベットすらろくに読めないってさ。俺たちみたいな貴族学校の子どもには到底かなわないって」「ここのみんな、おまえの恥ずかしい母親のこと、まだ知らないよな」「でもすぐに広まるさ。俺たちが広めてやるからな!」――最悪の静寂が訪れる。誰ひとり声を発さず、健太の嘲笑だけが映像から流れ続けた。雅臣の冷えきった視線が三谷夫人に突き刺さる。彼の眼光に触れた瞬間、三谷夫人の身体は震え、魂が抜けるような恐怖に襲われる。普段どんなに星を陰で罵ろうと構わない。だが公然と子どもの口から侮辱させる――それはあまりに愚かで無礼だった。しかも、言葉の端々からして、翔太はいまに始まったことではなく、以前の幼稚園時代からずっと彼らに狙われてきたのだと知れる。星の顔も重く沈んでいく。翔太が幼稚園でいじめを受けていたなんて、想像すらしていなかった。そして原因の一端が自分にある――そう突きつけられた。思い返せば、あの頃翔太の様子が不自然に塞ぎ込んでいた時期があった。何度問いかけても答えず、そのまま綾子に預けられ、一か月ほどそこで過ごした。自分が会えるのは夕食のひとときだけ。週末は習い事で忙しく会う暇もなかった。翔太の態度が冷たくなり始めたのは、ちょうどその時期からだ。当初は清子の存在が原因だと思っていた。だが今なら分かる。清子だけではない。――あのとき、翔太はすでにいじめのターゲットにされていたのだ。映像はすべてを映し出した。怜が手を出した理由もはっきりした。健太たちは星を侮辱した――それだけだった。六歳にしてあれほど卑しい言葉を並べられるのは、周囲の大人の影響以外にあり得ない。雅臣の唇は固く結ばれ、その端麗な顔立ちに氷の仮面が張り付く。彼は翔太を見据え、冷たく鋭い声を投げた。「――いつからだ
再度かけ直しても、電話の向こうは誰も出なかった。園長らは狼狽しきりに、救いを求めるように雅臣を見つめる。「神谷さん、どうかお見捨てにならないでください......私たちは皆、あなたのご指示どおりに動いただけで」星の平手打ちを浴びたばかりの雅臣の顔色は、重く険しい。「俺がいつそんな指示を出した」園長は今にも泣き出しそうだった。「ですが、確かに伝えられたんです。雅臣さんのご命令だと......!」その言葉に、清子の背筋がひやりとした。「私たちに直接伝えてきたのは......雅臣さんの古くからのご友人、山田勇さんです」「私たちのような小者が、あなた達みたいな大物の方々に逆らえると思いますか」雅臣の顔はさらに険しさを増し、すぐさま電話をかける。「今すぐ俺のところに来い!」取りつく島もなく一方的に切られた回線に、清子は指先が震えた。ここで勇に連絡してやりたいが、この場でスマホをいじれば自らの関与を白状するようなもの。それでも、いずれ露見するだろう――どうせ仕掛けたのは勇で、自分は言葉を整えただけ。当初、勇は複数の保護者に暗に示し、子どもたちに怜を狙わせようとした。だが清子は慌てて止めた。怜の体に傷が増えれば、いずれ露見する。しかし孤立させるなら話は別だ。「友達付き合いなんて心の問題。遊びたくないと言えば、それで済む。誰も強制できない」心を切り裂く孤立は、肉体の傷より残酷だ。それに、証拠も残らない。完璧な方法な――はずだった。だが予想より早く事が表沙汰になってしまった。映像はさらに進み、ついに事の発端が映し出される。星はようやく悟った。どうして翔太も怜も、この件を口にしなかったのか。――六歳の子どもに、あれほどあからさまに笑われていたのだ。胸の奥に深い無力感が押し寄せ、星は自分を責める。彼女は怜へと目を向ける。「ここ数日帰ってこなかったのも、何も言わなかったのも......私を心配させたくなかったから、でしょう?」怜はこのとき、もういつものように可憐な笑顔で取り繕うことはしなかった。うつむいたまま、小さな声を絞り出す。「......星野おばさんが知ったら、僕のせいで余計に大変になると思ったの。だから黙ってた。僕は構わないけど、星
星には分かっていた。怜は決して理由もなく手を出す子ではない。彼女は視線を角に立つ健太へと向ける。「健太くん、どうしてケンカになったのか、みんなに言ってちょうだい」健太は口を開きかけたが、怜の目とぶつかった瞬間、怯えたように顔を伏せ、声を失った。三谷夫人が慌てて息子の前に立ちふさがる。「うちの子を脅すんじゃないよ!」雅臣もただならぬ気配を察し、低く響く声で口を開いた。「監視映像を、もう少し前から流したらどうだ」星は教師たちを見やる。「映像は、ここまでしか残っていません」教師たちの顔色が一斉に曇る。実際には最初から目にしていた。だが神谷家に関わると知り、あえて途中からしか出さなかったのだ。もし――翔太がいじめられていたと雅臣に知られれば、園は無事では済まない。影斗は彼らの表情を見て、すぐに悟った。唇に冷ややかな弧を浮かべる。「神谷雅臣に逆らうのは怖いが、俺を敵に回すのは怖くないと?自分の保身のために、うちの子に罪を着せるのか。教師や園長がそんな姑息な真似をして、どうやって子どもを教育するつもりだ」その声音は氷の刃のように鋭く、室内の空気を一瞬で凍りつかせる。「この園も、一度大掃除が必要だな」彼は携帯を取り出し、素早く番号を押す。「園の映像をすべて調べろ。ついでに、ここの園長と教師を総入れ替えしろ」園長と教師たちの顔に、焦りの色が広がった。だが雅臣が控えているのを意識すると、再び強がるように表情を整える。影斗はその様子を見逃さず、目を細める。「随分と肝が据わってるな。よほどの後ろ盾があるとでも思ってるか」その視線が横合いの雅臣をかすめる。雅臣はわずかに眉をひそめたが、黙したままだった。およそ五分後、影斗の端末に完全版の映像が届いた。彼はその場で再生させた。映像には音声まで記録されており、翔太と怜の会話もはっきりと聞こえた。――「みんながお前を避けてる」その一言が流れた瞬間、場は水を打ったように静まり返る。星の胸に、ようやく合点がいった。ここ数日、怜が自分のもとへ戻らなかった理由――それは園でいじめを受けていたからだ。まさか、こんな幼稚園でまで、そんなことが起きるなんて!彼女の視線は氷の刃のように冷たく雅臣に突き刺さ
彼女の目に一瞬、狼狽の色がよぎった。この男の素性は詳しく知らなくても、その全身から漂う気迫だけで、ただ者ではないと分かる。星と影斗が監視映像を確認しているところへ、雅臣と清子も到着した。殴ったのは翔太ではないとはいえ、今回の騒ぎの発端には翔太が関わっている。そのため、幼稚園側は翔太の保護者にも声をかけていたのだ。清子は翔太に何かあったと聞き、怜が堪えきれずに翔太と揉めたのかと思い込み、慌ててついてきた。二人が事務室に入った時には、すでに星と影斗が並んで映像を見ていた。清子が柔らかく声をかける。「翔太くん、誰かにいじめられたの?」翔太は一瞬ためらったが、首を横に振る。清子の声音はますます甘くなる。「大丈夫よ、翔太くん。誰がいじめたとしても、パパと清子おばさんが必ず守ってあげるから」清子の含みのある言葉に、星は視線を上げようともしなかった。わざわざ相手をするのも時間の無駄に思えた。映像は現場から少し離れた位置のもので、音声は拾えていない。だが画面は鮮明で、確かに怜が先に手を出した様子が映っている。星は眉を寄せる。「いったいあの子たちは何を言ったの?なぜ怜くんが先に手を出したの?」雅臣と清子の姿を目にして、三谷夫人の勢いは明らかに弱まった。それでも強気を装い、吐き捨てるように言う。「何を言われたにせよ、人を殴っていい理由にはならないでしょう」その時、不意に翔太の小さな声が響いた。「健太たちが僕をいじめようとしたから、怜が止めてくれただけだよ」場にいた全員の視線が翔太に注がれる。清子は驚いたように目を見張った。「翔太くん、あなたと怜くん、ずっと仲が悪かったんじゃなかったの?本当に、あなたのために?」翔太と怜の不和は、幼稚園の子どもたちにも先生たちにも周知の事実だ。翔太はこくりと頷く。「うん、間違いない」その瞬間、三谷夫人の甲高い声が響き、場を切り裂いた。「そんなはずない!うちの子は素直でいい子なのよ、翔太くんをいじめるわけがない!」彼女は翔太に鋭い視線を向ける。「翔太くん、いくらお母さんをかばいたいからって、嘘をついちゃだめよ」「僕は嘘なんかついてない!」翔太は必死に否定する。三谷夫人はまるで聞く耳を持たず、なおも食い下
翔太は、その光景をじっと見つめていた。小さな唇を固く結びしめ、まるで血が通っていないかのように白くなっている。星が怜の保護者だと聞いた瞬間に、健太の母親があらわにしたあの軽蔑と侮蔑。まるで自分の母親など人として数えられないと言わんばかりの目。――みんな、母を見下している。やっぱり母が恥をかくのは、間違っていることなのか?しかも、母は自分を守ってくれない。星はそんな女の醜悪な顔つきを見て、唇の端を冷ややかに上げた。「跪いて謝れですって?健太くんのお母さん、あなた今、自分が何を言っているのか分かっているの?」黒と白のコントラストが鮮やかな瞳が、鋭く相手を射抜く。その光は氷のように冴え冴えとしていた。「もう一度言おうか?」健太の母親はなおも居丈高に言い返そうとした。「なにを怖がる必要があるっていうの、私は――」けれど、その声は途中で途切れる。園長や教師たちが、どこか異様な目つきでこちらを見ていたのだ。いくらなんでも、子どもに跪いて謝れだなんて......ここに通うのは皆、裕福か名家の子息ばかり。そんな時代錯誤の物言いに、心の中で眉をひそめない者はいない。怜の保護者が普通の人間だとしても、そこまで侮辱するのは筋違いだろう。健太の母親は、ようやく自分の失言に気づいた。大人を攻撃するならまだしも、幼子に強要するのは明らかに度が過ぎている。ふてくされたように口を曲げ、目の奥に一瞬だけ憎悪を走らせると、言葉をすり替えた。「子に教えぬは親の責任。子どもが過ちを犯したなら、大人が責任を取るべきよ。あんたが保護者なら、代わりに跪いて謝るのが筋じゃない?」星は、まるで滑稽な冗談でも聞いたかのように笑った。「健太くんのお母さん――跪けなんて、何世紀前の話?あなたに命令する資格があるとでも?」健太の母親は一気に顔を紅潮させ、怒りに歪める。「子どもが間違いを犯したら、保護者が責任を負うのは当然でしょうが!」星は唇に冷ややかな笑みを残したまま、言葉を重ねた。「そんなに理屈を並べるなら――世間に裁いてもらいましょうか」そう言うや、スマホを取り出し、画面に指を走らせてライブ配信を始めようとする。健太の母親の顔色が一瞬で変わった。星が今や「慈善大使」として注目を