LOGIN現在の化粧技術は、もはや神業の域に達しており、かつての変装術にも引けを取らない。巧みに施せば、性別なんていとも簡単に変えられる。怜央が追跡をかわすなど、造作もないことだった。J市は全面封鎖されている。すべての車両が、検問対象だ。前方の検問を見て、運転手が小声で言った。「司馬さん、検問があります」怜央は星を一瞥し、薄い唇をわずかに動かした。「何を怖がってる。どうせ、誰にも分かりはしない」やがて、怜央の乗る車の番が来た。怜央が目配せすると、運転手が車を降りた。運転手は免許証を差し出す。その中には、札束が一つ、忍ばせてあった。「急いでいるんです。少し、融通を利かせていただけませんか。この車には、皆さんが探している人物はいません。不安でしたら、どうぞご確認を」前方の窓は開いており、そのやり取りは、はっきりと車内に届いていた。怜央も素直に、半分ほど窓を開けた。星は、すでに足元のマットの下に放り込まれている。検査員たちは、運転手の金には手を伸ばさず、中を軽く見渡した。「本当に、他には誰もいないのか?」「ええ。私たち二人だけです」その間、星は終始、うつ伏せのまま動かない。意識は完全に落ちているようで、助けを求めることすらできず、反応もない。怜央の口元に、微かな笑みが浮かんだ。彼は、検査員に視線を送る。――この検査自体が、怜央の仕組んだ芝居だった。目的は、星に徹底的な絶望を味わわせ、その先で、本当の終わりを与えること。あえて彼女を後部座席に放り、他人に助けを求める「可能性」を与える。救われたと思わせてから、再び、自分の前へ引き戻す。その瞬間は、さぞ愉快なはずだった。だが、この女は、完全に意識を失っているようだ。その分、楽しみが一つ減った。とはいえ、星を弄ぶために、いつまでも時間を浪費するわけにもいかない。航平の人間たちが、今も彼らを追っているのだから。怜央は言った。「行け」運転手が車に戻る。車は、再び走り出した。窓の外は、墨を流したような夜。すでに、深夜を回っている。未明の街路には、車の影もまばらだ。運転手は、あえて人目の少ない道を選び、周囲は、異様なほど静まり返っていた。怜央は、道中ずっと、部下か
怜央は、通話が切れた電話を見つめ、視線を揺らした。――仁志は、本当にこちらの行動を把握しているのか。――それとも、ただのブラフか。怜央は、位置を特定されるのを避けるため、そもそも携帯電話を身につけていなかった。何かあれば、部下の電話を使えば済む。一方、朝陽は昼頃、怜央に急遽呼び出されたばかりだ。事情も分からず来たため、当然のように携帯を持っている。そもそも、仮に怜央が携帯を持ってくるなと言ったとしても、朝陽が従うはずもない。二人はそこまで親しい間柄ではない。もし、怜央に手を出されたとしても、助けを呼ぶことすらできなくなる。朝陽は、怜央と仁志のやり取りを、おおよそ聞いていた。そして低く言った。「真偽はともかく、もし航平たちが俺の携帯を特定したら、俺たちの居場所はすぐに割れる」朝陽は電話を部下に差し出した。「処分しろ。ここは長居する場所じゃない。すぐに移動すべきだ」怜央も理屈は分かっている。だが、それでも星を、あっさり逃がす気にはなれなかった。しばし沈黙したあと、命じる。「来い。こいつらも、連れていく」朝陽は愕然とし、まぶたがぴくりと跳ねた。「怜央......正気か?もう十分に懲らしめただろう。今、J市は封鎖されている。俺たち二人でさえ、簡単には出られない。そこに女を二人も連れて行けば、どれだけ目立つか分かっているはずだ。彼女たちを連れていれば、すぐに見つかる」朝陽は、本気で思った。――こいつは、狂っている。明日香が私生児だという話が、本当に星から流れたものかどうかは、まだ確証がない。たとえ評判に傷がついたとしても、明日香自身が致命的な被害を受けたわけではない。それなのに、怜央は執拗に星をいたぶる。どう考えても、行き過ぎだ。怜央も数秒、思案する。こいつらを連れて行けば、標的が大きすぎる――そのことは、彼自身も理解しているようだった。朝陽が、内心ほっと息をついた、その瞬間。怜央が、再び口を開いた。「中村という女は、一時的に解放しろ。あいつらの注意を引かせる。その隙に、俺たちはJ市を出る」結局のところ――星だけは、連れて行くつもりなのだ。朝陽は、星を一瞥した。――この女、怜央の一族でも皆殺しに
怜央は眉をつり上げた。「ほう?」朝陽は、ただ者ではない。世の中に、都合のいい偶然など存在しないと知っている。朝陽は怜央に目配せをしてから、電話に出た。「溝口さん、何か用かい」仁志は機内で衛星電話を手にし、淡々と告げた。「司馬怜央に伝えてください。今すぐ、星野さんを解放しろと。さもなければ、溝口家は司馬家と――命が尽きるまでやり合います」朝陽は一瞬、言葉を失い、反射的に怜央を見た。「溝口さん、何の話か、よく分からない......」言い終える前に、仁志の冷ややかな声が割り込む。「もう分かっています。あなたたちは一緒にいる。怜央に電話を代わってください」朝陽は一瞬ためらったが、結局、電話を渡した。――溝口家当主が、なぜ星を知っている?――二人は、いったいどんな関係なんだ?怜央は電話を受け取った。「溝口さん。何か?」仁志は言った。「星野さんを解放してください。そうすれば、あなたに一つ、借りを作りましょう」怜央は知っている。優芽利が、溝口家の当主に強い関心を示し、嫁ぎたいとまで思っていることを。一方で仁志は、理由は分からないが、正体を隠したまま星のそばにいた。そして、今のこの電話。どう考えても、ただ事ではない。怜央は、可笑しくなった。――離婚歴があり、子どもまでいる女に、この男が、人に言えない感情を抱いているだと?怜央は視線を落とし、床に転がる星を見やった。この女に、そこまでの魅力があるのか?そう思いながらも、口ではこう言った。「俺は今、Z国にはいない。何か勘違いしてるんじゃないか?」仁志の声は、冷たかった。「とぼけないでください。僕が何を言っているか、分かっているはずです」怜央は、なおもかわした。「溝口さん。物を言うには証拠が要る。何の証拠もなく人を疑うのは、感心しないな」だが、そのとき、電話の向こうから報告が入った。「溝口さん。相手の現在地を特定しました」仁志は短く「分かった」と答え、即座に通話を切った。怜央は、切れた電話を見つめ、顔色を沈めた。――してやられた。……機内で、部下が不安そうに尋ねた。「溝口さん。本当に、これでうまくいくのでしょうか。もし相手が引っか
彼女は痛みに顔をゆがめ、全身が痙攣し、汗の粒が雨のように床へ落ちていった。星の意識は一瞬遠のき、まるで自分が死にかけているように思えた。朝陽は様子がおかしいと気づき、慌てて制止した。「怜央、もういい。死人を出すな」怜央の唇には残忍な笑みが浮かんでいた。彼は足をどけ、星にわずかな時間を与える。「星野さん、俺はまだ遊び足りないんだ。そんなに早く死ぬなよ。あなたが死ねば――そのあとは、あなたの親友に全部押しつけるしかなくなる」朝陽の顔色が変わった。「怜央、そのへんでやめとけ。相手は女だ......手を潰したいなら、いっそ切り落とさせればいい。そんな苦しめる必要はないだろう?」怜央はゆっくりと一本のナイフを抜き出した。「恐怖を味わわせ、痛みを覚えさせなければ、世の中には敵に回したらいけない奴がいるってことを、こいつは、一生理解しない。今回、徹底的に叩き伏せておかなければ、また同じことを繰り返すだけだ」朝陽は、怜央は本当に狂っている、と心底思った。巻き込まれた自分が愚かだったと、今さらながら後悔し始める。「だが......」言い終わらぬうちに、怜央は既に星の様子が落ち着いたと判断したのか、再び足を上げ、星の手へと踏み下ろした。漆黒に磨き上げられた革靴が、星の手の上をぐりぐりと踏みつける。見ているだけで痛みが伝わってきそうで、ましてや声を上げることすら許されていない。星の瞳孔は、次第に焦点を失っていった。――人は死の間際に、知っている人の顔を見るのだろうか。母の姿。共にヴァイオリンを学んだ奏。学生時代の彩香。一緒に楽団を組んだ澄玲......さらに、雅臣。生まれたばかりの翔太......浮遊する思考は、また別の景色を映し出す。明日香の誕生日、雲井家の人々が彼女へ向けたあの甘い慈しみの表情。明日香はまるでお姫様のように美しく、自分は――あの世界に紛れ込んだ灰かぶり娘のようだった。急に、たまらなく疲れた。もう、立っているどころか、意識を保つことさえ難しい。意識が揺らぐ中、彩香の泣き声が聞こえた。「星!星!寝ないで!お願い、寝ちゃだめ!」彩香が泣いている姿を、星は今まで一度も見たことがなかった。彼女はいつも太陽のように明る
ここまで来ても、彼女はまだ指を折ろうとしていた。怜央という男は――大切に思う相手には、一言千金。だが仇に対しては......ただの遊びにすぎない。怜央は眉をわずかに上げ、星の自ら差し出すような態度に、意外そうな色を浮かべた。数秒だけ考えるふりをし、「しかし、星野さんに自分でやらせないとなると......我々が弱い女を寄ってたかって痛めつけた、ということになる。その後、あなたが告げ口でもしたら厄介だ」言葉こそそう言ったが、顔には一片の心配もなかった。星は、怜央の真意が自分に無理やりやらせることではないと理解していた。血の気の失せた唇を、かすかに開く。「では......怜央さんの考えは?」怜央は、蛇のような微笑を浮かべた。「動けないなら、無理をさせる必要はない。――こうしよう。俺があなたの指を折る。そのとき、あなたが一声でも叫べば、その声の数だけ、中村さんを襲わせる。どうだ?」朝陽も思わず眉根を寄せた。痛みの最中に声を出すかどうか――そんなもの理性で抑えられるものではない。まして十本の指の痛みは、人間が最も耐えがたい痛みの一つ。叫ばないということは、身体の防御反応そのものを封じるのに等しい。朝陽は怜央がやりすぎるのを恐れた。「......怜央、もういいだろう。教訓は十分与えた。これ以上やれば、ヴァイオリンどころか、命に関わる。星が消えてから時間も経っている。外ではもう大騒ぎだ。今すぐ引き上げないと危険だ」怜央は横目で彼を一瞥した。「何を恐れる?星がこちらにいる限り、誰も軽挙妄動はしない。......やりたくないなら、そこに立って見ていろ」朝陽は言葉を失った。俺が考えていた折るだけなど、子供の遊びか......こいつの残酷さは......次元が違う。星は今、飛ぶ鳥を落とす勢いの国際的演奏家。このままいけば、優勝は確実。その手を壊し、ヴァイオリンを壊し、未来を壊し、人生そのものを壊す――それだけで十分な罰のはずだ。いま怜央がやっているのは、もはや拷問であり、朝陽の価値観の底をも超えていた。思考が漂う中、彩香の叫びが響く。「怜央!卑怯で最低で下劣な男!女一人をそこまで痛めつけて、それでも男なの?
彩香の目は真っ赤に染まり、裂けるような声をあげた。「星、やめて!私にさせて!私が我慢すればいいの、あなたが犠牲になる必要なんてない!」怜央は眉をひそめた。「うるさい」その意味を理解した護衛が、容赦なく彩香の頬を打ち据えた。彩香は床に倒れ込んだが、それでも諦めなかった。恐怖より、胸の奥に湧き上がる怒りのほうが勝っていた。彼女は怜央を睨みつけ、生涯で最も毒のある言葉を吐き続けた。だが怜央は、微動だにしない。怒りを見せるどころか、彩香に視線すら向けなかった。――彼にとっては、蟻にすら及ばない存在なのだ。その時だった。「......ボキッ」乾いた小さな音。空気が、一瞬で凍りついた。彩香は叫ぶことを忘れ、呆然と星を見つめた。朝陽でさえ視線を向け、その目にわずかな驚愕が浮かぶ。――この女、やはり容赦がない。将来、間違いなく明日香の脅威になる。怜央の先見の明に、朝陽はぞっとした。星の顔色は雪のように白く、額には冷や汗が滲む。喉からは抑えようのない苦悶の声が漏れた。手からハンマーが転がり落ち、視界が暗転しそうになる。だが――怜央の声が、地獄の底から響くかのようにゆっくりと落ちてきた。「星野さん。何を待っているんだ?次の一本だ」激痛で頭が割れるように痛み、ハンマーを拾い上げる力さえ残っていない。怜央は、その様子を見ても少しの同情も示さず、冷たく笑った。「ふん、もう限界か。......では少し休ませてやろう」彼は指で軽く合図をした。「始めろ」近づいてきたのは、油ぎった中年の男だった。太った腹、濁った目、見るだけで吐き気を催すような外見。彩香の顔から血の気が引く。男は嬉々として手を伸ばし、彼女の服を裂いた。「ビリッ!」彩香の頬を涙が伝う。唇を噛みしめ、血が滲むほどに噛み締めても、叫び声だけはあげまいと必死だった。――叫べば、星がまた自分の指を折る。それだけは、絶対に嫌だった。だが――「......ッ!」星が、ゆらりと顔を上げる。痛みの霞む視界の中、再びハンマーを掴み、迷いなく自分の指へ振り下ろした。「ボキッ!」骨の砕ける音。彩香の悲鳴は、声にならないまま喉で潰れた。星は朦朧とした目で