邸に戻ると宴の準備で弟子たちが忙しく動いていた。白冰は進み具合を確認するため、玄帝堂から戻って来て間もなかったが、抜かりがあってはならないと広間や厨房を見て回っていた。
白冰が厨房に足を踏み入れると、気付いた弟子たちが慌てて挨拶をしてくる。まさかこんな所に公子が来るとは誰も思っていなかったようだ。
「手を止めさせてしまい申し訳ないね。気にせずに続けてくれ。おや。君は客人だから休んでいて構わないのに」
蓮の花の模様の白い衣の者たちの中に黒い衣が混ざって悪目立ちしているので、思わず声をかける。金虎の公子たちの従者である清婉である。
食材を両手に抱えたままこちらに挨拶をしてきた青年は、包丁を持つ雪鈴とまな板を持つ雪陽に挟まれていた。どうやら料理を手伝っているようだ。
「いやぁ。何かしていないと落ち着かなくて。どうせならお手伝いをと思って」
「清婉殿は手際が良いし、すぐに理解してくれて助かります」
こくりと雪鈴の言葉に雪陽が頷く。
広い厨房にはこの三人と他に五人ほど弟子たちがいた。白群の一族は従者を召し抱えてはおらず、弟子たちがその役目を担っている。
弟子たちを纏めているのは雪鈴と雪陽のふたりで、その下に現在は二十人ほどの弟子がいる。まだ術士として修業中の者たちだ。術士として称号を得た者たちは宗主を主とし、命令に従い各地の怪異を治めている。
年に一度だけ皆が集まる日があるが、それ以外は基本的に邸を空けていることがほとんどだった。
「白冰様、何かご入り用ですか?」
必要なものでもあるのかと思ったのか、雪鈴が首を傾げて訊ねてきた。両方の袖を紐で括って汚れないように腕を出して、包丁を手に持つ雪鈴は、まだ若いのにまるで皆の母親のように見える。
「いや。一応主宰なので進み具合を確認しに来ただけだよ。邪魔になる前に去るから、私のことは気にしないでくれ」
大きな鍋の方からいい香りのする厨房に長居しても腹が減るだけなので、白冰はぐるりと見回して大扇を揺らしさっさと出て行った。
「白冰様は公子の中の公子って感じで素晴らしい方ですね」
たまに怖いけど······と清婉は本音の方はしっかりと心の中で呟く。
「俺たちの師でもある。術式や陣は白冰様が、剣術や体術は白笶様がそれぞれ指南してくれている」
「あんなに若いのに!? やはりふたりそろってすごい方々なんですね」
雪陽はまな板を置いて抑揚なく話しているが、清婉が嫌みではなく純粋に自分たちの師を褒めてくれるので、どこか誇らしげであった。
✿〜読み方参照〜✿
白冰《はくひょう》、白笶《びゃくや》、雪鈴《せつれい》、雪陽《せつよう》、清婉《せいえん》
玄帝《げんてい》堂、金虎《きんこ》、白群《びゃくぐん》、
白群の一族は少し特殊で、宗家である直系の白家とそこから分かれた分家が三家存在する。雪家、霧家、雨家の三家で、それぞれ操れる水の力が違っていた。 白家は宗家なのですべてを司る力を持ち、他の三家はそれぞれ使える力が限られていた。雪鈴たちは名の通り雪家で、氷を司る能力だけを持つ。「ふたりもお若いのにしっかりしていて、白群の方々はみなさん、術士のお手本のような方々ばかりなんですね、」 作業をしながら、慣れた手つきで清婉が独り言のように呟く。雪陽はその言葉に自虐的な笑みを浮かべた。「いや。そんな立派な人間ばかりじゃないさ。それに本当の意味で該当するのは、宗家の人たちくらいだろうな。一族の中でも双子は昔からあまりよく思われていなくて、俺たちは雪家から事実上絶縁されている。親族たちさえ見限った俺たちを、宗主である白漣様が引き取ってくれたおかげで、今こうしてここにいられる」 清婉はなんだか悲しい気持ちになる。立派な家柄に生まれたのに、ただ双子だというだけで絶縁されてしまうなんて。けれども宗主はやはりすごいお方だと改めて感心する。「雪陽、珍しいね。その話を他人にするなんて。それほど清婉殿が気に入ってるんだね」 横で聞いていた雪鈴が、ふふっと嬉しそうに微笑する。包丁のとんとんという音と一緒に、優しい声音が右側から発せられる。「そうなの?」「え? なんで私に聞くの?」 雪陽は首を傾げて雪鈴に訊ねる。あはは······と雪鈴は無自覚だったらしい雪陽に、困ったように笑いかける。 そんな仲の良いふたりに挟まれ、清婉はどこかの賑やかしい公子たちを思い浮かべて、なんてここは平穏なんだとしみじみ思う。「おふたりが今のおふたりであること、私はとても嬉しいです」 人参と大根を薄く切って花のような飾りを作り上げながら、清婉は満足げに頷いた。それは何気なく呟いた言葉で特に何も考えていなかったため、横にいるふたりがどんな表情をしているかなどまったく気にしていない様子で。「よし、できた。どうですか、こんな感じで飾ると彩が出て皿全体が美しく見えるんですよ。無駄な才能ですが、私の唯一の特技です」「すごいです! こんなの高い料亭でしか見たことないですよっ」「なにこれどうなってるの? すごい才能」 ふたりは目を輝かせて、皿の上の飾り切りで作られた、先ほどまでただの人参と大根だった
邸に戻ると宴の準備で弟子たちが忙しく動いていた。白冰は進み具合を確認するため、玄帝堂から戻って来て間もなかったが、抜かりがあってはならないと広間や厨房を見て回っていた。 白冰が厨房に足を踏み入れると、気付いた弟子たちが慌てて挨拶をしてくる。まさかこんな所に公子が来るとは誰も思っていなかったようだ。「手を止めさせてしまい申し訳ないね。気にせずに続けてくれ。おや。君は客人だから休んでいて構わないのに」 蓮の花の模様の白い衣の者たちの中に黒い衣が混ざって悪目立ちしているので、思わず声をかける。金虎の公子たちの従者である清婉である。 食材を両手に抱えたままこちらに挨拶をしてきた青年は、包丁を持つ雪鈴とまな板を持つ雪陽に挟まれていた。どうやら料理を手伝っているようだ。「いやぁ。何かしていないと落ち着かなくて。どうせならお手伝いをと思って」「清婉殿は手際が良いし、すぐに理解してくれて助かります」 こくりと雪鈴の言葉に雪陽が頷く。 広い厨房にはこの三人と他に五人ほど弟子たちがいた。白群の一族は従者を召し抱えてはおらず、弟子たちがその役目を担っている。 弟子たちを纏めているのは雪鈴と雪陽のふたりで、その下に現在は二十人ほどの弟子がいる。まだ術士として修業中の者たちだ。術士として称号を得た者たちは宗主を主とし、命令に従い各地の怪異を治めている。 年に一度だけ皆が集まる日があるが、それ以外は基本的に邸を空けていることがほとんどだった。「白冰様、何かご入り用ですか?」 必要なものでもあるのかと思ったのか、雪鈴が首を傾げて訊ねてきた。両方の袖を紐で括って汚れないように腕を出して、包丁を手に持つ雪鈴は、まだ若いのにまるで皆の母親のように見える。「いや。一応主宰なので進み具合を確認しに来ただけだよ。邪魔になる前に去るから、私のことは気にしないでくれ」 大きな鍋の方からいい香りのする厨房に長居しても腹が減るだけなので、白冰はぐるりと見回して大扇を揺らしさっさと出て行った。「白冰様は公子の中の公子って感じで素晴らしい方ですね」 たまに怖いけど······と清婉は本音の方はしっかりと心の中で呟く。「俺たちの師でもある。術式や陣は白冰様が、剣術や体術は白笶様がそれぞれ指南してくれている」「あんなに若いのに!? やはりふたりそろってすごい方々なんですね」 雪陽は
白鳴村から離れ、一行は碧水の都、白群の敷地に辿り着いていた。 白漣宗主と白冰、白笶の三人は邸に戻るなり、雪鈴たちに金虎の三人の客人を任せると、早々と宝玉を持って出て行った。行き先は裏手に聳える霊山にある玄武堂で、宝玉を祭壇に戻し封印するのが目的だった。 烏哭が動き出したということは、封じられていた宗主や四天、傀儡にされた妖獣や妖者たちが、どこかに潜んでいるということだ。だがそうなるともうひとつの疑問が浮かぶ。それらを封じていた神子の魂はどうなってしまったのかと。 玄帝堂はひんやりとしており、まるで氷でできた廟のようだ。奥に続く道は一本で、天井は高いが堂自体はそこまで広くはなく、少し歩くと最奥へと辿り着いた。 最奥は湧き水で満たされており、洞穴の青白い光が反射しているのか、水の色も青緑色の不思議な色合いを浮かべている。底が見えるくらいの透明さはこの堂の神聖さを物語っており、その中心にある祭壇まで続く道は等間隔に並べられた四つの岩の上を歩く必要があった。 祭壇の上に宝玉がぴったりとはまるように造られた白い磁器の宝玉台があり、白漣は白い袋から取り出した玄武の漆黒色の宝玉を丁寧に収めた。洞穴の底から湧いている水の音だけが静寂の中響き渡り、祭壇から戻って来た宗主の前に白冰と白笶が寄って来る。「この堂の入口の結界を強化し、さらに複数の封印を施す」 ふたりは各々頷く。三人は洞穴の外に出ると重い扉を閉める。最後に宗主である白漣が、持っていた鍵を使って錠前をかけた。宗主を挟んで横に並んだ白冰と白笶が同時に印を結ぶ。それぞれの前に紋様の違う陣が現れ、三重の封印が施される。「これで当面は心配いらないだろう。さあ、邸に戻ろう」 三人は玄武が祀られている霊山を後にし、客人の待つ邸へと戻るのだった。✿〜読み方参照〜✿白笶《びゃくや》、白漣《はくれん》、白冰《はくひょう》、雪鈴《せつれい》白鳴《はくめい》村、碧水《へきすい》、白群《びゃくぐん》、金虎《きんこ》、烏哭《うこく》、傀儡《かいらい》、玄帝《げんてい》堂、
「おかしい······確かにもう一着分、替えの衣があったはずなのに」「もしかして置いてきちゃったのかな? 邸の中は何度も確認して忘れ物はないはずなんだけど、」「なにか探し物?」 無明は竜虎にくっついたまま、横でうんうん唸っているふたりに首を傾げる。同時に振り向いた双子に恥ずかしい姿を見られ、いい加減離れろ、と竜虎は無明の身体を押し退けた。「どうしたの? なにがないの?」 押し退けられた無明はそのまま地面に手を付き、荷物を漁っているふたりの間に顔を覗かせる。自分たちの間に割って入ってきた無明に気付いたふたりは、手を止めて同時にそれぞれ左右に顔を向けた。「白笶様の替えの衣が見当たらないんです」 雪鈴が困った顔で笑みを浮かべる。無明はそれに対して思い当たる出来事があった。 おそらくふたりが探しているのは、奉納舞の後、口紅の毒に侵され意識を失っている時に掛けてもらった衣のことだろう。結局その後に返しそびれてしまい、碧水に着いて落ち着いてから返そうと思っていた。「清婉、俺の荷物はどこにある?」「あ、はい、ここに。どうしたんですか、急に」 ふたりの後ろで地面に座り込んだ無明に袋を渡し、清婉は不思議そうにその様子を眺めている。「······あった。この衣、公子様に借りてたんだ。俺が直接返してくる」「え? あ、はい······なぜ?」 混乱して、雪鈴は最終的に首を傾げた。(あいつ······またなんかやらかしたのか? 嫌な予感しかしない) 竜虎は中心にいる無明の姿に、眉を顰める。そしてその腕の中にある薄青の衣を見るなり、あの時の光景を思い出す。 白笶が膝の上で眠っている無明の唇を拭っていた、あの光景を。そして後悔する。真っ赤になった顔が真っ青になり、あの恥知らず! と怒りが込み上げてくる。 それぞれに疑問符を浮かべている者たちをよそに、無明はまっすぐに白笶に駆け寄る。白冰や白漣はその姿を見るなり気を利かせたのか、そそくさとその場から離れていった。「はい、これ。やっと返せて良かった。俺が着させてあげるね」「いや、そんなことはさせられない」 いいから、いいから、と無明は持っていた衣を左腕に掛けて背中に回ると、血で汚れた無残な状態となっている衣に手をかける。皆が各々の気持ちで見守る中、ひとり楽しそうに無明が白笶の衣を脱がせ、新しい衣を着せ替える
竜虎は青空を見上げた時、ふたつの影が目に入った。途中からひとつの影だけどんどん近づいて来て、それがなにかわかった途端、呆けていた顔がさあぁあとわかりやすく青ざめていった。「ちょ····っ!? あの馬鹿! なにを考えてるんだ!」「竜虎様どうし····ええーーーっ!? 無明様!?」 清婉は突然声を上げた竜虎に驚き、その視線の先を見上げてさらに驚愕する。「ぎゃーーーなにしてるんですかっ!!」「嘘だろ····、ま、待った! さすがに無理!」 無理と言いつつも、落ちてくるものをなんとか受け止めるために手を広げ、顔を上にしたまま慌てて後ろへ前へと足を右往左往させて叫ぶ。「あ、あぶな·····うぐっ!? 」 強い衝撃で一瞬目の前が真っ暗になり、そのまま後ろによろめき大きく尻もちをついて座り込むと同時に、首に抱きついているその重さとぬくもりに安堵する。「いてて······お前、空から落ちてくるとか······馬鹿なのか」「へへ。竜虎、清婉、ただいまっ」「ただいま、じゃない! 何回攫われたら気が済むんだっ! っていうか、これから助けに行くって時に自力で戻ってくるなっ」「こちらも大変だったんですよ! 恐ろしい蟷螂の妖獣が村をこんな状態にしてしまったんです! 竜虎様は身を挺して私を守ってくださったり! 白群の皆さまがすごいのなんのっ」 ふたりの横で清婉が涙目で昨夜の説明をするが、早口すぎてまったく内容が入ってこなかった。「遠くから見えた村の様子を見て不安になったよ。ふたりとも、怪我はしてない?」「お前こそよく無事に戻れたな。ああ、まあそうだよな、白笶公子が一緒だったんだもんな、無事に決まってるか······」 抱きついたまま離れない無明を無理に剥がすこともなく、竜虎はその細い身体に腕を回したままいつものように愚痴を言う。 横にあるはずの顔を見ることができない。今、自分はどんな顔をしているのだろう。春の匂いの残る風が舞い、葉っぱが浮き上がった快晴の空を見上げたまま顔を歪める。(ほら、言ってるそばからやってきたぞ) 視線の先にもうひとつの影が慌てて地面に降りてきた。まさかあの高さから飛び降りるとは思いもよらなかったのだろう。 白笶は見たこともないくらい青ざめた顔でこちらの様子を遠くから窺ってきた。そして怪我をしていないのを目視で確認すると、すっとい
「······消えちゃった?」 本当ならあの少年を捕まえて、事の次第を知る必要があった。それに、なぜあの少年はわざわざ自分の目的を話したのか。宝玉を狙っていることを口にすれば、それ以降手に入れるのが難しくなるだろう。それでも奪えるとという自信があるのか、それとも他になにか理由があるのか。 無明は顎に手を当ててうーんと思考を巡らせていると、それを遮るように頭の上に手が置かれた。「君のおかげで助かった」 いつの間にか傍らに控えていた白笶が、小さい子どもにするように頭を撫でて褒めてくれたので、無明はなんだか嬉しくなって、自然と笑顔がこぼれた。「公子様も格好良かったよ?」「君の方がすごい」「う、うん、ありがと。それにしても、あっさり逃げていったのが気になるよね····」 結局、あの少年がなぜ玄武の宝玉を狙っていたのか。村の人たちをあんな目に遭わせたのか、なにひとつわからないままだ。「あの子は、何者だったんだろう」「宝玉を狙うなら、いずれまた会うことになる」 無明は頷きそれから鬼蜘蛛の方に視線を向けた。鬼蜘蛛は大人しく糸の結界の内側でお辞儀をするかのように頭をさげ、そしてなにかを訴えるようにキュウキュウと独特な声を出した。「君は罪を犯したけど、あの子が操らなければ静かに暮らしていたんでしょう? 碧水の人たちや白群の術士の人たちには申し訳ないけど、見逃してあげることはできないかな?」 このまま洞窟を出てみんなと合流すれば疑われることはないはず。何年、何十年、もしかしたら何百年と人を襲わずに生きてきたかもしれない妖獣が、操られることでその力を使われ、利用されるなんてなんだか可哀想だし理不尽だと思った。 もちろんその手にかかってしまった人たちのことを想えば、それこそ理不尽であったと言わざるを得ないが。「君の想うままに、」 白笶は目を細めて、笛を握っている無明の右手を取る。そこに付いている赤い紐飾りが気になっているようだった。 鬼蜘蛛はふたりに頭を下げ、そのまま洞窟のさらに暗い奥の方へと消えていった。それを確かめてから、白笶は改めて無明を見つめる。「夜が明ける前に、ここを出よう」「うん。そうだね、早くみんなの所に戻ろう」 朝になれば自分たちを皆が捜し回るだろう。そうなれば色々と言い訳を考えるのが面倒になる。「足元に気を付けて」 手を握った