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第980話

Author: 佐藤 月汐夜
「そこはもういいから、動かないで。私が片づけるわ」香蘭は、桃がぼんやりしたまま手を切ったりしないか心配になり、慌てて制止した。

「あなたと雅彦、何かあったんじゃないの?」香蘭は手際よく床のガラスの破片を掃除しながら尋ねた。

桃は一瞬動きを止め、目を逸らした。「な……何もないよ」

「ごまかさないで。この前私が彼に電話したとき、あなたが警察に連れていかれたことを彼は知らなかったのよ?会社のことで何かあったなら、あの人が社長なんだから知らないはずないでしょう。いったい何があったの?」

香蘭の目は鋭く、桃に逃げ道を与えようとはしなかった。

桃は俯いたまま、胸の奥に溜め込んでいたつらさが一気にこみ上げてきて、この数日間に起きたことを、包み隠さず全て話した。

香蘭は、当然ながら娘の話を信じた。すべて聞き終えて、思わず眉をひそめる。

まさか、あの莉子という女がここまで手段を選ばないとは――

雅彦の気を引くために、何度も自殺未遂までしてみせるなんて。その執念、普通じゃない。

香蘭は心配そうな表情を浮かべた。あんな狂気じみた女、まともに相手にしてはいけない。

これこそが、彼女が以前から桃と雅彦の交際に反対していた一番の理由だった。

雅彦のような男は、その地位と影響力ゆえに、次から次へと色んな女が群がってくる。そんな状況では、身も心も疲れ果ててしまう。

以前は、彼の誠意ある態度と桃の強い意志があったからこそ、香蘭も渋々認めたのだ。

だが、いざ一緒になったからには、こうした問題から逃げることはできない。

「桃、前にも言ったけど、彼と一緒になるってことは、こういうことにも向き合わなきゃいけないのよ。だから聞くけど――今、後悔してる?それとも、まだ彼を手放したくないって思ってる?」

桃はしばし茫然とした。後悔してるのだろうか?

雅彦への気持ちは、変わっていない。今もなお、彼を愛している。

そして、あんな裏表のある女に、自分の夫を譲るなんて、絶対に嫌だ。

桃は首を横に振った。「後悔はしてない……でも、どうすればいいのか分からないの」

「彼女がやっていることなんて簡単よ。あなたたちの信頼関係を少しずつ壊して、あなたを不安にさせて、距離を生ませるのが目的なの。もしあなたが怒って彼から離れれば、それは彼女の思うつぼ。でも、逆にあなたが動じなければ、彼女は次の一手
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