ホテルのスタッフは、最初は様子を見に行こうとした。もし家庭暴力などの事件なら、見て見ぬふりをするわけにはいかない。しかし、顔を上げた瞬間、そこにいたのが雅彦だとわかり、その圧のある冷ややかな表情に、誰もが言葉を飲み込んだ。このホテルは、すでに菊池グループから多額の出資を受けており、雅彦は実質的なオーナーでもある。彼に逆らえば、どうなるかなど考えるまでもない。誰も、彼の家庭問題に口を挟もうとはしなかった。誰一人助けてくれない現実に、桃は絶望した。そのまま雅彦に連れられ、彼がいつでも使えるように確保していたプレジデンシャルスイートへと押し込まれた。そして、雅彦はそのまま桃の体をベッドへと投げ出した。キングサイズのベッドに放り出された桃は、体が弾み、腰を痛めそうになりながら転がった。必死に体を起こし、逃げ出そうと身をよじった瞬間、雅彦の手が彼女の顎をがっちりと掴んだ。「ここまで来て、まだ逃げようなんて思ってるのか?」桃は彼の視線を避け、目を逸らしながら言った。「家に帰りたい。こんなところ、いたくない」「誰と一緒にいたいんだ?今日の君のそばにいた、あの男か?――あいつの顔を見るだけで、全部の苦しみが消えたのか?俺よりも、あいつの方がずっと幸せに見えるってか?」冷たい声が、室内に低く響いた。桃はその言葉に、心底うんざりしたように笑った。「そうよ。少なくとも、狂ったあなたと一緒にいるより、誰か他の人と一緒のがマシだから」その言葉が言い終わる前に、雅彦は顔を近づけ、強引に彼女の唇を塞いだ。まるで感情をぶつけるかのように、荒々しく、そして痛々しいほどに唇を押しつけた。これ以上、彼女の口から何も聞きたくなかった。傷つけられる言葉を、もうこれ以上――桃は必死に顔を背けようとしたが、逃げ場などなかった。そして、彼の舌が入り込んできたその瞬間――桃は迷わず、強く噛んだ。「……っ!」鋭い痛みに雅彦は眉をしかめたが、それでも唇を離さなかった。むしろ、その痛みが彼をさらに刺激したようで、彼の目は赤く染まり、激しさが増していった。まるで、怒りと悔しさを唇にぶつけるかのように。桃は口いっぱいに広がる鉄の味に、ようやく恐怖を実感した。舌を傷つけるというのは、簡単なことじゃない。けれど、雅彦はそれでもなお彼女を放そうとしなかった。
次の瞬間、雅彦は桃の手をぐっと掴み、彼女の体を無理やり車内に引き戻した。ちょうど車のドアを開けようとしていた桃は、その拍子に助手席へと倒れ込んだ。雅彦は自分のネクタイを解き、彼女の両手を縛り始めた。「……っ!?」突然の行動に、桃は目を見開いた。まさか、彼がここまで狂ったようなことをするなんて思ってもみなかった。彼女は必死にもがき、手足を使って雅彦を叩いたり蹴ったりしながら叫んだ。「やめて!何するつもりなの?放してよ!」「放す?一生、放さない。桃、お前が俺のそばから逃げようとするなら……こうするしかない。無理やりでも、お前を俺のそばに繋ぎとめるしかない……」雅彦の声は低く、どこか狂っているようだった。それでも、彼はネクタイをさらにきつく締めた。黒いネクタイが、桃の白く細い手首にきつく巻きつけられ、黒と白の対比が鮮やかだった。痛みに顔をしかめた桃の胸に、怒りと悔しさが込み上げた。そのまま、勢いよく雅彦の腕に噛みついた。桃の噛みつきは本気だった。その歯形からはすぐに血がにじみ出し、彼女の口の中に鉄の味が広がった。それでも雅彦は、一切顔色を変えなかった。むしろ――笑ったのだ。「いいじゃないか……これで、お前の爪痕を、永遠に残せた」その冷たく歪んだ笑みに、桃はぞくりとした不安を覚え、慌てて彼の腕から口を離す。恐怖を滲ませた目で雅彦を見つめた。「まだわからないの?私を行かせて。じゃないと……本気で、あなたを憎むことになる」彼女のその怯えた瞳を見て、雅彦の胸にはどうしようもない虚しさが広がった。やっと一緒になれたはずなのに、彼女の心には恐怖しか残っていなかったのか。「それでもいい。憎まれても、お前と無関係になるよりはマシだ」淡々と呟いた雅彦は、ハンドルを切り、車を別の方向へと走らせた。桃はその道に見覚えがなかった。そしてすぐに察した。「どこへ行くの?ここ、病院じゃないよね?」「病院なんて、人が多すぎて逃げられる可能性があるだろ?安心して。ちゃんと一流の医者を呼ぶから。……だから怖がるな」そう言う雅彦の横顔は、あくまで穏やかで、まるで普通のことを話しているかのようだった。けれど桃には、その言葉がどうしようもなく恐ろしく感じられた。「やだ……降ろして!今すぐ降ろしてよ!!」彼女は必死に身をよじり、手首のネクタイを
「……いやだ」雅彦は、桃の言葉を即座に否定した。その声音には、迷いがなかった。「桃、そんな意地を張るようなこと言わないでくれ。俺たちは、別れたりしない」動揺が、彼の心を揺さぶっていた。まさか、桃の口から別れの言葉が出るなんて、思ってもみなかった。「確かに、最近の俺は君をちゃんと見てなかった。君の気持ちを、ないがしろにしてしまった。全部、俺が悪い。……でも、それには理由があるんだ。せめて、俺にやり直す機会をくれないか?」そう言いながら、雅彦は車を路肩に停め、両手で桃の肩をしっかりと掴んだ。疲れきった顔色。血色のない唇。目の下には、薄く浮かぶクマ。彼女のそんな姿を見て、彼はようやく気づいた。最近の二人の関係には、確かに問題が生じていた。きちんと向き合って、解決しなければならない。でも、いきなり終わりなんて、そんなのあまりにも早すぎる。少なくとも、自分には猶予が必要だった。変わっていく姿を、彼女に見せるために。「雅彦、あなた、本当に私のこと、信じてる?私がどんなことを言っても、あなたは迷わず信じてくれるの?」桃の声は静かだった。しかし、その瞳は、まっすぐ彼の心を見透かしているようだった。雅彦は、言葉を失った。彼は、てっきり桃が求めるのは「浮気してないって誓って」とか、「愛してるって言って」みたいな言葉だと思っていた。でも違った。彼女が求めていたのは、無条件の信頼だった。疑うことなく、自分の味方でいてくれるという確信だった。けれど、一度たりとも彼女を疑ったことがないか?その問いかけに、雅彦は何も答えられなかった。彼の一瞬の迷いを見た瞬間、桃にはすべてが分かってしまった。もし本当に信じてくれていたなら、きっと何の迷いもなく、頷いてくれたはずだ。けれど、雅彦にはそれができなかった。結局、彼は心のどこかで、彼女を完全に信じきれていなかったのだ。ちょうど、さっきレストランで佐俊の顔を見ただけで、事情も聞かずに、彼女がその男の姿にかつての佐和を重ねていると決めつけた。桃は大きく息を吸い込み、滲みそうになる涙を堪えた。「もう、答えは出てるでしょ?」「もし本当に信じてくれてたら、私が莉子を追い詰めて自殺未遂させたなんて、思ったりしなかったはずよ」「本当に私を信じていたなら、ちゃんと調べて、真実を明らかにしてくれたはず
「それじゃあ、私……あなたに感謝すべきかしら?あなたのお心遣いのおかげで、今夜は私の夫をあなたのもとに行かせずに済んだんだから」桃は冷たく言い返した。もはや理性を保つことなど、どうでもよくなっていた。分かっている。莉子がわざと、雅彦に同情させようとしていることくらい、ちゃんと分かっている。でも、もう我慢なんてできなかった。「どうか、誤解しないでください。私と雅彦の間には何もありません。私はただ……」莉子の声はか細く、まるで傷ついた子猫のように震えていた。桃は思わず笑ってしまった。ここまでして、雅彦と自分の間を引き裂こうとするなんて、その演技力には感心すら覚える。「もういいわ。これで目的は果たせたんでしょ?今日だけじゃなく、雅彦はこれからずっとあなたのそばにいるでしょうし。おめでとう、莉子。思い通りになって、さぞ嬉しいでしょうね?」そう言い終えると、桃はスマホをそのまま雅彦に放り投げた。けれど、彼はそれを受け取ることもせず、ただ黙って彼女を見つめていた。その目に映る桃は、何の感情も湧かない人形のように見えた。まるでこの出来事など、彼女の心をかすりもしないようだった。「桃、もし君が嫌なら、今後は他の者を代わりに行かせるよ。だから、そんなふうに言わないでくれ……」「ううん、行けばいいじゃない。どうせ行かなかったら、また自殺するとか言い出すんでしょう?それで私が責められるくらいなら、いっそあなたが行ったほうがマシよ。もっとも、本気で死ぬ勇気なんて、彼女にはないでしょうけどね」冷たい笑みが、彼女の唇の端に浮かんだ。どうせ何を言っても、あなたが疑ってるのは私のほうで、悪いのも全部、私のほうなんでしょう。「莉子の手術はもうすぐだ。それが終われば、彼女も俺を頼らなくなる。そうしたら、きっと以前の生活に戻れるよ」「もう、戻れないわ」桃の声は静かだったが、はっきりとした拒絶がそこにあった。不思議なものね。昨日までは、母の言葉に励まされてこの人の心を繋ぎとめたい、子供たちにちゃんとした家庭を与えたいって、そう思っていたのに。今はもう、その気持ちすら、どこかへ消えてしまった。信じる気持ちが壊れてしまったら、もう、何をどう頑張っても、元には戻らない。彼と一生を共にしたいと思っていたあの気持ちも、今は、ただただ、しんどいだけだ
桃は一歩だけ身を引いた。その目には、どこまでも冷めきった光が宿っていた。「……大丈夫。わざわざ連れて行かなくても、大丈夫だから。」その口調はあまりにも淡々としていて、感情が一切読み取れない。だからこそ――雅彦の胸に、不安が広がっていった。むしろ怒鳴られたほうが良かった。泣かれても、叩かれても構わなかった。けれど、この静けさ――まるで、すでに何も期待していないような冷たい反応こそが、一番怖い。感情の終わりは、怒りや悲しみではなく、無なのだと、雅彦は痛感した。いつの間に、こんなところまで来てしまったんだろう?その疑問が心を締めつけ、雅彦はふと気づいた。このままでは、もう引き返せなくなるかもしれないと。だからこそ、彼は次の瞬間、桃の言葉を遮るように彼女の体を抱き上げた。一切の拒否を許さず、そのまま駐車していた車へと連れて行った。桃は抵抗しようとしたが、無駄だと悟ると、そのまま静かに身を委ねた。助手席に座らされた桃は、黙って顔を窓のほうへ向けた。その横顔には、話しかける余地すらない冷たさがあった。雅彦はどう声をかければいいのか分からず、無言のまま車を発進させた。車内には、重たい沈黙が流れていた。息をするのさえ苦しいほどの、重く張り詰めた空気。しばらく走っていたそのとき、沈黙を切り裂くように、突然携帯が鳴った。画面をちらりと見ると、表示されていた名前は莉子だった。雅彦は、すぐに電話を切った。この状況でその電話に出れば、桃が何を思うかは分かりきっていた。だが、間をおかずにまたかかってきた。桃は鳴り続ける音に気づき、無表情のまま画面を見た。そこに映っていた莉子という名前に、口元がゆがんだ。「――へえ。さすが仲がいいね。少しの間も離れていられないの?どうして出ないの?きっと彼女、待ちくたびれてるわよ?」「桃……お願いだから、そんな言い方しないでくれ。今は君を病院に連れていくところだ。余計なことは考えなくていい。」「……また、私の思いすぎってやつ?」桃の声は、乾いた笑い混じりだった。莉子の挑発も、雅彦の身体に残っていた別の女の痕跡も全部、自分の勝手な妄想だったというのか。胸の奥が、ひどく痛んだ。それでも、どこか壊れたような衝動に突き動かされ、桃は助手席のスマホを手に取った。ワンタッチでスピーカーをオン
雅彦は認めざるを得なかった。あの、佐和にどこか似ている男が桃を抱き寄せた瞬間、自分の中に湧き上がった感情は、紛れもなく嫉妬だった。どれだけ努力しても無駄なのではないか、最終的に、桃の心の中では、やはり佐和のほうが上なのだ。その思いは、どうしようもなく虚しく、力が抜けるようなものだった。そして、雅彦という男は、常にすべてを掌握してきた。そんな彼にとって、この「無力感」こそが、最も忌まわしい感情だった。「……そうね。もしかしたら、後悔してるのかもしれない」桃がぽつりと呟いた。もし、あの時の未来を知っていたら、もしかしたら、自分は佐和を引き止めていたかもしれない。そうすれば、彼は死なずにすんだのではないか。そして、自分も、かつて一番嫌っていたような、無力で嫉妬心にまみれた女に成り下がることもなかったのかもしれない。その言葉が、雅彦の胸を鋭く貫いた。まるで胸の真ん中にぽっかりと穴が空き、そこに冷たい風が吹き抜けていくようだった。「……だから、佐和に似た顔を持つ男とやり直そうとしてるのか?その未練を、今さら埋めようと?」雅彦は、歯を食いしばって言った。桃は、あまりにも理不尽なその言葉に思わず笑ってしまった。「——じゃあ、あなたは?莉子を抱きしめてた時、私がどう感じるかなんて考えたことある?それとも、男だからって、そういうことは許されるって思ってるの?私は、あなたと同じことをしただけ。なのに、私だけが非難されなきゃいけないの?」「俺と莉子がいつ、そんな関係だった?それに、俺が触れたのは、彼女が立てない時だけだ。彼女は寝たきりの患者なんだぞ」「患者だから、抱きしめても許されるのよね。じゃあ私が、めまいでふらついて、スープを運んでたスタッフにぶつかりそうになって、佐俊さんに引っ張られて助けられただけって言ったら……あなたは信じる?」桃の瞳は冷たく澄み、声には一片の感情もこもっていなかった。雅彦は、ようやくそこで、初めて桃の顔をよく見た。頬にいつもの血色はなく、唇は乾いてひび割れていた。確かに、あまり体調が良さそうには見えなかった。……怒りが、少し収まっていく。さっきまでは頭に血が上っていて、そんなことに気づく余裕などなかった。だが、こうして見ると、確かに彼女の不調は本当なのかもしれない。「……どこか悪いのか?熱があるのか?