支配人は逡巡した。「それは……恐らく難しいですね。あのフロアには他のお客様もいらっしゃいますし、プライバシーに関わる問題です。私の一存では決められませんので、上の者に確認を取る必要があるかと」美羽は淡々と答えた。「確認してもらって構いません。ただ知って欲しいです、私はいつでも警察に通報できます。ストーカー被害を受けたんですから。警察が来れば、当然監視カメラの映像を確認する権限がありますよね?」支配人は場慣れした笑みを浮かべた。「ですが、お客様は実際に被害を受けていませんよね?ストーカーというのも推測に過ぎません。警察が来ても立件される可能性は低いですし、令状がなければ、私どもも映像を提供する義務はないのです」美羽はわずかに唇を歪めた。「あら、そうですか。でも昨夜、19階に滞在していた夜月社長も17階にいらっしゃって、危うくそのストーカーに傷つかれそうになったんですよ?」「……!」「夜月社長」という言葉が出た瞬間、支配人の表情が変わった。彼は改めてサービス係に確認を取った。サービス係が耳打ちすると、支配人の顔はさらに険しくなった。彼は「少々お待ちください」と言い残し、携帯を手に廊下へ出ていった。事情を上司に報告するためだ。「……というわけなんです、紫藤様」電話の向こうの男が訝しげな声を出した。「翔太にまで関わる話か?」支配人は低く答えた。「はい。ですからお伺いしたく……監視カメラの映像を見せてもよろしいでしょうか?」「女一人だろ?名前は?」「苗字は真田といいますが、下の名前はまだ……確認いたしましょうか?」電話口の男が急に笑い声を漏らした。「真田?美羽か?へえ、あいつか」支配人には、その笑いがどこか悪ぶったように聞こえた。「なら構わねえよ。見せてやれ」「かしこまりました」電話を切った男は携帯を置き、豪邸のプライベートプールへ飛び込んだ。水しぶきを上げながら自由に泳ぎ、気分を晴らしていた。支配人は戻ってきて、美羽に伝えた。「当ホテルは常に『お客様第一』の理念で運営しております。お客様のご要望であれば、当然お応えいたします」立派な言葉を並べる支配人に、美羽はただ黙ってうなずいた。やがて映像が再生された。美羽は身を乗り出すようにして画面を見つめた。――やはり。マス
幸いなことに、美羽という人間は、昔から独立して生きてきた。誰かに慰めてもらう必要も、気持ちを宥めてもらう必要もない。どれほど感情が崩れ落ちても、水をぶちまけるように吐き出してしまえば、それで終わりだった。彼女は深く息を吐き、次第に落ち着きを取り戻した。焦らなくていい。焦らなくていい。もう一度挑戦すればいい。必ず、立ち上がってみせる――……その頃、翔太は部屋に戻る気になれず、下へ降りようとエレベーターの「下り」ボタンを押した。上階から降りてきたエレベーターの扉が開くと、中に立っていたのは直樹だった。直樹は彼の顔に残る赤い手形と、彼がいる階数に気づき、きりっとした眉を上げた。「真田秘書に会いに来たのか?」翔太が「真田助手」と呼ぶのは嘲りだが、直樹が「真田秘書」と呼ぶのは単なる習慣だった。なぜそんな習慣があるのか。――美羽が翔太の傍に3年間もいたからだ。その事実を思い出すと、翔太の表情はさらに冷え込んだ。彼は何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。直樹はさすがに彼の親友だけあって、何もかも分かっているようだった。「仲違いしたんだな?その平手打ちは真田秘書にやられたのか?」翔太は無表情に答えた。「玉の輿に乗ったつもりで、自分の立場をわきまえなくなっただけだ」――それは、彼女は慶太と付き合ったということだろうか。直樹は鼻をこすりながら苦笑した。「翔太、お前……気づいてないのか?」「何を?」「真田秘書が去ってから――いや、正確に言えば、彼女が慶太と親しくなってからだ。お前、彼女のことばかり気にしてる」「俺はただ、二人が目障りなだけだ」直樹は首を振った。違う、と。彼の見立てでは――翔太はこれまで「美羽は自分を離れるはずがない」と信じ切っていた。だからこそ余裕で構えていられた。だが今、美羽は自ら離れ、しかも別の男と一緒にいる。彼の過剰な執着と振る舞いは、動揺と恐れの裏返しではないのか。翔太からすれば、直樹の言葉は恋愛脳のたわごとに過ぎなかった。――恋愛脳の人間は、恋愛中心で物事を考えるのだ。彼にとって美羽とは「借りをまだ返していない女」。それが終わるまでは、彼女が安穏と暮らすなど許すつもりはない。ただ一つ確かなのは――「……奴は本当に目障りだ」直樹は眉をひそめた
パシン――乾いた音が響いた。暗く静まり返った部屋の中で、その音は鮮明すぎるほどだった。翔太は28年の人生で、平手打ちを受けたのはこれが初めてだった。――いや、正確には数か月前にも彼女に打たれたことがある。そのとき彼は、「道具を使うだけだ」と言ったのだ。だが今回は、美羽の一撃は、前よりもずっと重く、容赦なかった。美羽はソファに押し倒されたまま、怒りに胸を激しく上下させ、暗闇の中で彼と向き合っていた。遮光カーテンのおかげで部屋は完全な闇に包まれ、目の前にあるはずの翔太の表情すら見えなかった。わずか30センチほどの距離しかないのに――翔太の吐息は冷たく整っていて、凍りつくような気配を漂わせている。二人はまるで檻の中に閉じ込められた獣同士のように、一歩も退かず、死闘を続けようとしているかのようだった。そのとき突然、入口から電子音が響き、誰かがカードキーでドアを開けたのだ。美羽は迷うことなく翔太を突き飛ばし、素早く身を起こして服を整えた。同時に、心に疑問がよぎった――入ってきたのは誰?この部屋には、彼女一人しか泊まっていないはずなのに。次の瞬間、部屋のライトがパッと点いた。突如浴びせられた光に視覚が刺激され、美羽は思わず目を閉じた。しばらくしてから眉をひそめ、ドアの方を見やった。……そこに立っていたのは、二人のホテル従業員だった。従業員たちは、部屋の中で一人の男と女が絡み合う姿を目にし、呆気にとられたが、すぐに何かを察したように慌てて謝罪した。「申し訳ございません!大変失礼いたしました……!実はフロントにお電話をいただきまして、『1702号室のドアが開かない』と。確認のためカードキーで入室したのですが……まさか……本当に失礼いたしました!すぐ退出いたします!」美羽は険しい声で問い返した。「誰がそんな電話を?この部屋に泊まっているのは私一人です。電話なんてしていません」「えっ……その、電話をくださったのは男性で……『自分は1702号室の宿泊客、名前は真田だ』と……」従業員が説明している間に、翔太はすでにシャツを整え終えていた。彼は無表情のまま美羽を見つめたが、彼女が視線を合わせないのを見ると、何も言わずに従業員たちを横切り、そのまま部屋を出て行った。彼が1702号室を出た直後、廊下の
翔太はそのまま電話を切り、同時に身をひねって彼女が飛び込んでくる体を避けた。部屋はカーテンを引いてあったので、光は全く差し込まなかった。暗闇の中で美羽は空を切り、足元でカーペットの端につまずきよろめいた。まだ体勢を整える前に、翔太が背後から覆いかぶさり、彼女をそのまま壁へ押し付け、顔を壁に向けたまま抑え込んだ。まるで猫を弄ぶように、彼女を自在に翻弄している!美羽の両手は背後で制され、呼吸が荒くなるほど怒りに震え、思わず罵声を浴びせた。「翔太!今すぐ私の部屋から出ていって!じゃないと――」「じゃないと?」酒に麻痺したような冷たい声が返った。「じゃないとどうする?もし本当に俺が何かしたら、君は騒ぎ立てる勇気があるのか?」美羽の全身が凍りついた。「当ててみようか。悠真は君に何を約束した?慶太がプロジェクトに加わって相川グループの発言力を拡大、その見返りにプロジェクト終了後、君を相川グループに入れる。違うか?じゃあ逆に、俺が相川グループをこのプロジェクトから叩き出す可能性、君は考えたことがあるか?君のせいでプロジェクトを失った相川グループが、本当に君を受け入れると思うか?その唯一の仕事すら、なくなるかもしれないぞ?」――脅迫。これは隠そうともしない、権力を振りかざした脅迫!「で、何がしたいわけ?」美羽は逆に笑い出した。「枕営業?私があんたを拒んだら相川グループを排除して、私から仕事を奪うつもり?」翔太は彼女の手をさらに強く握った。「俺をそんなに下劣だと言うのか?」「下劣じゃなきゃ、今あんたは何をしてるの!」「下劣といえばな……俺なんか、君の相川教授にはまだまだ及ばないな」「自分が腐ってるからって、他人まで巻き込むな!」「随分と庇うな――彼は婚約者がいるくせに、君と関係を持とうとしてる。要するに、君を情婦に仕立て上げようとしてるんだ。あいつが腐ってないとでも?最初から色仕掛けで近づいてきただけだろ」「私と相川教授のことを、あんたが口出しする資格はない!翔太、あんたは碧雲の社長で、夜月家の一人息子なんでしょ。女を無理やりどうにかするなんて、それこそ身分を落とす行為じゃない!」彼より、自分はずっと弱い。美羽はとりあえず言葉で矛を収めたが、胸の奥では怒りが風船のように膨らみ続けていた。―
「じゃあ、誰だと思った?」翔太は鋭い眼差しで言った。「ここでメッセージを送っていただけだが……それも真田助手の邪魔になるのか?」「……」――おかしい。直樹と彼の秘書は20階、翔太と秘書の清美、それに紫音は19階。慶太と自分は17階。なのに、どうして彼がここに?慶太を探しに来た?まさか自分を?美羽の目がわずかに揺れた。だがそれより先に、彼女は今の二人の体勢があまりに不自然だと気づいた。しかも、彼の身体から強い酒の匂いがした。デパートから戻ったあと、さらに飲みに出たのか?「夜月社長、放してください」美羽はすぐに言った。だが翔太は、彼女の首に巻かれたマフラーを見ていた。慶太がかけてくれたものだ。彼の視線は、冷たく深まっていった。思い出しているのは、このところ彼女と慶太のあれこれだ。さらに床に目を落とすと、彼女が落とした袋の中身が散らばっていた。一番上には――ブラジャー。淡いピンク。レース付き。彼の視線に気づき、美羽は歯を食いしばり声を荒げた。「夜月社長!放してください!」彼はゆっくり顔を上げて彼女を見た。「もう大きくなったのに、こんな少女趣味のを。……まあ、センスは悪くない」その「大きい」という言葉には、別の含みがあった。美羽は赤面などせず、怒りだけを抱いた。「夜月社長、言葉のセクハラも立派なセクハラです。自重してください!」「セクハラ?褒めただけだろう。……他のやつが褒めれば褒め言葉、俺が言えばセクハラか?」声音には冗談めいた色はなかった。だが語気はどうしても悪意を帯びた。意味が分からない。美羽がもがいても、彼は放さなかった。「慶太とカップルみたいな服を買って、下着まで?それで3時間も部屋に一緒?」美羽は唇を固く結んだ。――違う。下着を買ったのは、寒さで洗濯物が乾きにくいと思ったから。替えを用意しただけ。しかも、買っていた時には慶太は別の物を見に行っていた。だが――そんなことを、わざわざ彼に説明する必要はない。彼女は突然、彼の背後に向かって声を張った。「相川教授!」一瞬、翔太の注意が逸れた。美羽はその隙に腕を振り解き、散らばった服をかき集めて立ち去ろうとした。彼女の顔は氷のように冷え切っている。もともと彼と月咲、紫音の関係に
滝岡市に着いてから、美羽は星煌市よりも気温がずっと低いことに気づいた。持ってきた服では足りず、近くのデパートにダウンを買いに行こうと思った。ちょうどホテルのロビーで慶太に会い、彼も服が足りないことが分かり、二人は互いにからかい合いながら連れ立って出かけた。美羽はベージュのダウンを、慶太は同じデザインの黒を選んだ。慶太がほかの服を見に行っている間に、彼が支払おうとするのを避けるため、美羽は先に会計を済ませた。「美羽」背後から慶太に呼ばれ、振り返ると、彼はマフラーを彼女の首にかけてくれた。「マフラーもあれば、もっと暖かいよ」彼が整えてくれる間、美羽は髪が少し乱れた気がして、ゴムを解いて結び直した。その様子は自然で親密、まるで恋人同士のように見えた。そして、その光景を、偶然同じデパートに来ていた翔太と紫音が目撃していた。二人はしばらく眺めてから、紫音が笑みを浮かべて口を開いた。「これは相川社長をからかえそうね。兄として、恋愛の面では次男に及ばないだけじゃなくて、今では三男にも追い抜かれてしまったみたい」美羽と慶太も視線を外に向けた。赤いワンピースにスーツ姿。男がカートを押し、女がその腕にしなだれかかっている。慶太は微笑んで声をかけた。「奇遇ですね。夜月社長と千早マネージャーもお買い物ですか?」美羽は私的に翔太と関わりたくなかった。礼儀正しく笑みながら、「私たちはもう買い終わりましたので、先に失礼しますね」と言った。「一緒に行きましょうよ。私たちも買い終わりましたわ」紫音にそう言われてしまっては、美羽も断れず、共にレジへ向かうことになった。紫音のカゴには日用品やお菓子が並んでいる。翔太のような人物がこうして買い物をしていること、そして彼と紫音の関係は、なにやら含みを持たせる光景だった。レジ横の棚には避妊具が置かれていて、紫音が肘で翔太をつついた。「ねぇ、翔太くん、それ買わない?」翔太は冷ややかに彼女を一瞥しただけだった。その「翔太くん」という呼び方は、どこかで女が男を「パパ」と呼ぶ時のように妙に艶めいていた。さらに紫音は振り返って、二人に笑いかけた。「相川教授と真田さんも、備えておいた方がいいんじゃないですか?」慶太はメガネを押し上げ、淡々とした表情を崩さなかったが、それは彼