これから秘密の夜会へと出かけるように寝間着から着替えたリザレリスは、隙をついてこっそりと部屋を忍び出た。
コソドロのようにひたひたと、薄暗くなったヴァンパイア宮殿の、広い廊下と階段を進んでいく。
その途上だった。リザレリスは、前方にある一室の前でディリアスの姿を視認すると、柱の影にサッと身を潜めた。そこから彼女は、死角となる位置を見極めながら、そ〜っと近づいていき、耳をそばだてる。
なぜ彼女は、そんな危険な行動を取るのだろうか?
「俺...わたしのことを、話しているよな......?」
そう。ディリアスは何やらただならぬ雰囲気で小太りの重臣と話し込んでいるのだが、その内容はリザレリスについてのことらしかった。しかも聞こえてくる会話の断片から推察するに、王女を議題にした会議後だったようだ。
終了し退室してからも深刻に話し込むのは、その会議が相当に紛糾したからであろうか。
「まあ王女だから、そりゃ重臣たちで会議もするよな......」
そう考えて納得するも、リザレリスはどこか腑に落ちない。
というのも......。
ディリアスによれば、現在の〔ブラッドヘルム〕は王不在だという。つい先日、王が崩御してしまったからだ。なので、数年前に王が病床に伏してから今に至るまで、ディリアスが摂政として内政も外交も取り仕切っていた。
そして王に世継ぎはなく、未だ次期国王も定まっていない。まさにそのタイミングで、リザレリスは目覚めたのだった。これは〔ブラッドヘルム〕にしてみれば、天佑と言っていいだろう。
さて......。
このような状況で、目覚めた王女についての会議を、果たして王女抜きでやるだろうか?
「くそ。もっと近づかないとちゃんと聞こえないな......」
そう思ったリザレリスが、これでもかと耳を伸ばした時だった。
「それでも王女殿下の政略結婚には最大限慎重であるべきだ!」
ディリアスが語気を荒げて大声を上げた。次の瞬間、リザレリスの口から無意識に声が洩れる。
「えっ??」
即座にリザレリスはハッとして、両手で口を塞いだ。それからそっと後ずさると、その場から離れようときびすを返した。とその時。彼女の視界の先に、ちょうど廊下の角から曲がって出てきた侍女長が現れる。
「王女殿下?」
動こうとするも間に合わなかった。ルイーズはリザレリスの姿を確認するなり、呼びかけながら近づいてきた。
リザレリスは取りつくろった表情を浮かべてやり過ごそうとするが、またもやハッとして後ろに振り向く。
「お、王女殿下、いつからそこに?」
ディリアスが愕然としていた。どうしていいかわからなくなったリザレリスは、ダッと駆け出す。
「王女殿下!」
ディリアスの声を背中に、リザレリスはその場から走り去っていく。
俺が政略結婚?フザけんな!そんなの嫌に決まってるだろ!
彼女は心の中で叫びながら、何もかもから逃げ出すように無我夢中で駆けていった。
やがて城の出口と見られる大きな扉の前まで来て、リザレリスは立ち止まった。
重々しくそびえる扉の高さは、一般的な女子高生程度の身長である彼女の何倍もある。華奢な彼女ひとりで開けられるものなのだろうか。
「王女殿下!」
背後から追っ手の声が響いてくる。迷っている暇はない。リザレリスは両手を扉に押し当てた。
「うーん!」
全体重を込めて扉を押すも、びくともしない。このままでは追っ手に捕まってしまう。その時。
「王女殿下」
他の者たちに先立って何者かが側面からリザレリスに迫ってきた。リザレリスはそちらに振り向く。
「お、おまえは!」
彼女の目に飛び込んできたのは、生贄の美少年エミル・グレーアムだった。
「王女殿下。何をなさっているのですか」
彼はもうすぐそこまで来ていた。リザレリスは唇を噛み、扉から手を離して諦めた。もう逃げられない。
「てゆーか、仮に城から出たところでどうなるわけでもないんだよな......」
途端に冷静な思考を取り戻したリザレリスは、その場にしゃがみ込んでうなだれた。
「王女殿下は、外に出ようとなさっていたのですか?」
エミルが歩み寄ってきて膝をついた。
リザレリスはうつむいたまま答える。「街を見たくて。最初は......」
「最初は、というと、今は違うのですか?」
「逃げたくて......」
「そう...ですか」
エミルはそれ以上は何も訊かず、しおれた花のような儚げな彼女の横顔を見つめる。
「おまえもわたしを捕まえにきたんだろ。早くどこへでもわたしを連れてけよ」
リザレリスは投げやりな口調で言い捨てた。それに対してエミルは、不自然なまでにうやうやしく応じる。
「......イエス・ユア・ハイネス(かしこまりました)」
次の瞬間だった。
「えっ??」
予想外の出来事にリザレリスは驚く。なんとエミルが、いきなり彼女のことをお姫様抱っこで抱きかかえ上げたからだ。決して体の大きくない美少年にしてはやけに力強い。
「お、王女にこんなことするのって、無礼なんじゃねーの?」
あたふたとするリザレリスに、エミルは困惑した笑顔を向けた。
「おっしゃるとおりです。私ごとき生け贄が王女殿下に対してこのような行為、無礼極まりありません。ですので私はどんな罰でも甘んじて受ける所存です。たとえ死罪でも」
「はあ?おまえなに言って...」
「王女殿下。舌を噛んでしまいますので少々口を噤んでいただけないでしょうか」
そう言ってリザレリスを沈黙させたエミルは、ここから信じられない動きを見せる。
「!!」
リザリレスは目を見張った。自分を抱えたまま、舞い上がる旋風の如く城内を翔け抜けていくエミル・グレーアムに。
まるでジェットコースターにでも乗った心持ちのリザレリスは、思わずエミルの首に腕を回してひしと抱きついた。
「エミルが王女殿下を!?」ディリアスと重臣たちは、疾風となったエミルを追っていくも、すぐに見失ってしまった。
「リザさま。おはようございます」起きるなり若くて美しい侍女がやさしく声をかけてきた。「おはよう。マデリーン」リザレリスが応えると、マデリーンは満面の笑みを浮かべた。「本日も朝からリザさまはとってもお可愛くていらっしゃいます」「マデリーンのほうこそ朝から美人だな」元遊び人らしくリザレリスも調子良く返した。するとマデリーンの顔がトロけるようにほころぶ。「そ、そんな、リザさまからそのようなお言葉をいただけるなんて」気をよくしたリザレリスは、マデリーンの頬にそっと手を触れる。「こんな綺麗な侍女がいてくれて、俺...わたしは幸せだぜ」「はあ!」マデリーンは膝から崩れ落ちた。「まったく朝から何をやっているんですか」後ろからルイーズが呆れながらやってきた。
【25】夜、皆が帰っていった後。リザレリスが自室に戻っていってから、居間でエミルはルイーズに訊ねた。言うまでもなくマデリーンについてのことだ。確かに彼女は、まるで人が変わったようにリザレリスへ従順になった。しかし彼女がリザレリスを傷つけたことは事実。それなのに侍女として彼女を迎え入れたのはどういうことなのか。「もちろん無条件に受け入れたのではありません。マデリーン・ラッチェンは、私の課した試験に合格したので採用しました」これがルイーズの回答だった。そして彼女はこうも付け加えた。「マデリーン・ラッチェンは、何もかも正直に話してくれましたよ。その上で彼女はリザレリス王女殿下の侍女になりたいと申しました。そんな彼女に対し、私は通常よりも遥かに厳しく試験と審査を行いました。しかし彼女は合格しました。ハッキリ言いましょう。彼女は優秀です。今後、彼女は必ず役立ってくれると私は判断しました」その説明は、エミルを納得させるに余りあるものだった。ルイーズという人間のことをエミルはよく知っている。彼女の課す試験と審査というものが、どれだけ厳しいのかを知っていた。エミルにとって彼女は、真の信頼に足る人物だった。彼は彼女を尊敬もしていた。「ルイーズさんがそう言うなら、そういうことなのでしょう」エミルが納得して見せると、ルイーズは口元を緩めた。
こうしてすっかり楽しい雰囲気となった彼らへ、サプライズが起こったのは夕食の時だった。食卓に着いた彼らのもとへ、ルイーズの指示に従い侍女が料理を運んでくる。最初は誰も気にしなかったが、ふと皆の視線が彼女に貼りついて固まった。ルイーズが満を持してといった具合に、咳払いをひとつする。「彼女は、本日から新しく侍女として入って参りました。マデリーン・ラッチェンです」侍女姿となったマデリーンは、リザレリスたちに顔を向け、挨拶する。「改めまして、本日よりリザレリス王女殿下の侍女としてこちらに勤めさせていただきます、マデリーン・ラッチェンです。どうぞよろしくお願いいたします」部屋に沈黙が訪れる。誰にも理解が追いつかない。皆が口を半開きにする中、フェリックスが吹き出した。「これは参ったな。さすがに僕にも予想外だったよ」笑い声を上げるフェリックスに、マデリーンが体を向ける。「フェリックス様の温情ある措置があったからこそ、今の私があります。本当にありがとうございました」彼女の謝意に対しフェリックスが会釈した時、ようやくリザレリスたちも一斉に声を上げた。「えええー!?」
放課後、肩を落として校舎から出てくるリザリレスを待っていたのは、レイナードとフェリックスだった。このタイミングでこのふたりが待っていたということは、理由はひとつだろう。「リザも聞いていると思うけど」とフェリックスは前置きして、リザレリスの反応を窺ってきた。リザリレスは無言で頷く。それを確認すると、彼は申し訳なさそうな顔を浮かべた。「彼女が自分自身で決めたことだから、これ以上は僕にもどうにもできない」そんなフェリックスに、レイナードは言う。「いや、兄貴は最大限のことをやってくれた。俺なんか最初からなんもできてねえ」レイナードは悔しさに唇を噛んだ。空気が重くなっている彼らを、周囲の生徒たちは不思議そうに眺めていた。いったい王子ふたりが一年生と何を話しているんだろう、という目で。マズイと思ったエミルとクララが視線を交わし合う。「早く参りましょう!」エミルとクララに促され、リザレリスたちは歩き出した。一行が乗り込んだ馬車がリザリレスの屋敷に到着すると、クララが遠慮がちに口をひらく。「ほ、本当に、私までよろしいんですか?」「当たり前じゃん。こんな日だからこそ今日はみんなで楽しみたいんだよ。クララもいてくんなきゃ困る」
人気のない校舎の裏庭までやって来ると、マデリーンが立ち止まり、こちらへ振り向いた。彼女は周囲を見まわしてから、クララへ顔を向ける。「巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」自分への謝罪にびっくりしたクララは、慌てて手を横に振った。「わ、私は、むしろ加害者側で」「違う。貴女も私の被害者よ。それに貴女がいなければ本当に取り返しのつかないことになっていたかもしれない」「そ、そんな、私は」「ごめんなさい。そして、ブラッドヘルム王女様を救ってくれてありがとう」「わ、私は、できることをやっただけです」クララは複雑な胸中で恐縮するが、マデリーンの様子には安堵していた。それからマデリーンは、改まってリザリレスの方へ向く。「ブラッドヘルムさん。いえ、リザレリス王女殿下」「は、はい」やけに畏まった様子にリザリレスはやや戸惑うが、このあとさらに困惑させられる。マデリーンが跪いてきたのだ。「この度は、多大なご迷惑を
【24】シルヴィアンナと取り巻きは、教室で呆気に取られていた。あの日の翌日以降、リザリレスが何も気にしていないからだ。怒るでもなければ怖がるでもなし。文句すら言ってこない。ただ何事もなかったように、教室でも外でも普通に明るく楽しく過ごしている。「どういうことなんでしょう......」取り巻きが言うと、シルヴィアンナはふんと鼻を鳴らす。「それよりもラッチェン先輩の停学処分が気になるわ。あの人、いったい何をやったの?」「さあ。あのあと私たちはそのまま帰ってしまいましたから......」「そういう約束だったからそれは仕方ないわ。ただ、あの人の停学処分の理由がわからないと、何となくわたくしたちも大人しくせざるをえないじゃない」マデリーン・ラッチェン停学については、一年生の間でも噂が広がっていた。何せマデリーンは第二王子の恋人だった女。その彼女が停学処分となったのだから、何かと勘ぐられ、囁かれてしまうのは仕方がないことだろう。ただし噂はどれも憶測レベルで、信憑性に欠けるものだった。 「し、シルヴィア様の、おっしゃるとおりです」おずおずと取り巻きは答えた。そうとしか答えようがなかった。シルヴィアンナは苛立ちを滲ませる。