〝好き〟を思いだすファンタジー。 ブラック労働に疲れ果て絵を描くことを忘れてしまった元美大生の社畜OL、相川るん。いちばん一緒にいたくない元カレと共に事故死し、目覚めた先は…〝魔界〟 そこで魔王から命じられたのは、絵を描くか子を産むことで創造の力を魔界に呼び戻すこと。でも絵はもう描けない。じゃあ婚活…って、元カレとはゼッタイ無理だし…頼りのマッチング業者から紹介されたのは初手からスライム⁉︎ よく考えたらここは魔界。人間なんているはずがない! 犬男に猫男はたまた吸血鬼の伯爵…次々現れる人外のマッチング相手。 でもなんだかノンビリしてて、ちょっとヘンテコな魔界の暮らしも悪くない。 〝好き〟を思い出す、のんびり魔界のスローライフ。ここにゆっくりとスタート。
ดูเพิ่มเติม金曜夜の新宿は、ゴールデンウィーク前の賑わいだ。どこの通りもごった返している。
雑居ビルの居酒屋で、わたしたち三人は待ち合わせしていた。
狭く、古いエレベーターがゆっくりと昇っていく、
地元の高校の同級生、
そろって上京した三人組だ。扉が開くなり、ふたりが手を振ってきた。
「ひさしぶり〜! 二年ぶりだね」「もうそんなになるんだね〜」
店内は賑やかだが、わたしたちも仕切り個室で再会の乾杯をした。
「るん、いまもギャラリーの仕事してるの?」そう聞かれて、ちょっと気恥ずかしいのには理由がある。
「まあね。社畜だけどね」
「うちらの出世頭だね〜」
「まあ、何をもって出世とするかだけどね……」
わたしはレモンサワーを一口飲んで、苦笑する。
アートディレクションという仕事は好きだ。クライアント相手に企画を通してデザインや展示をまとめていくのは、創作に似たやりがいがある。
「ディレクターだって!」
「やっぱ凄そうじゃん!」「でも、まだサポートだから……要はただの画廊スタッフだよ」
わたしは苦笑する。要はまだ見習い。十年目の使いっぱしりだ。
家も帰れば寝るだけのワンルーム。 慢性的な睡眠不足と、目の奥にじわじわ来ている老眼の兆し。 そして、おなじ場所の空気を吸うだけで心を錆びつかせる上司の身勝手。「かっこいい〜」なんて、とてもとても……
そんな仕事はまだできてないし、三人で思い描いていた生活でもない。それでもユッコとちーちゃんは、目を輝かせてくれる。
「るんるんってさ、美大行ってたよね? てことは今も自分で描いてるの?」
「確かに! るんの絵、めっちゃ上手かったもんね!」「いやいや、もう描いてないよ。今は企画側の仕事だから」
「企画側?」
「うん。ギャラリーの展示のしかたを企画したり……」
「え、なにそれ、やっぱかっこよ……! 展示ってどうやって決まるの?」
簡単に言うと、どのアーティストの作品を、どう見せるかを決める仕事だ。
例えば、この前の企画というかサポートした展示は、インド美術の企画展だったんだけど……
「並べるだけじゃなくて、〝見え方〟を工夫するのね」たとえば、柔和な微笑みにしなやかなポーズをしたおっとり系お姉さん女神パールヴァティ像を、現代の美少女アニメのフィギュア作品と並べて、腰のひねりや繊細な指先のポーズや笑顔に、時間と空間を超えた表現の可能性や共通性を感じてもらったり──。
「六〇〇年前のインドと現代日本のサブカルチャーが、おんなじような造形物に癒しや美を感じていたんだっておもうと、ふふってなるでしょ?」
そうすると〝推し〟も信仰の一形態なんだな、とか。
わたしは微笑む。
そう。いい作品も、ただあるだけじゃダメなんだ。
同じモノでも展示の仕方次第で、人が笑ったり、泣いたり、驚いたりする。 つまり、見に来た人の感情が動く。すなわち〝感動〟する。
そこは、絵を描けなくなったわたしには、今、唯一の表現の場だと言える。
「やだな、ちょっと語っちゃって…… きもかったでしょ。ごめん。」わたしは二人に謝った。
でもちーちゃんもユッコも首をふった。
「でもそれで言うとさ、るんるん、昔は自分で描く側だったじゃん? なんで展示する側になったの?」
サワーの氷が、音を立てた。
騒がしいはずの居酒屋に。「……そっちのほうが向いてたから、かな」
でもこれは、嘘。
根が深く、きっと長いイップスだ。
でも、微笑む。
「忙しくて描いてる時間もないし、ね」
ちーちゃんは、何かを察してくれたかのようにうなずいた。
「そっか……」
高校の時からそうだった。 ちーちゃんには、少しだけいつも、わたしの内側が見えている。 「でもさ、るんるんの絵、私たち好きだったよ。また見てみたいな」でも、その言葉はまだ、わたしの中ではちょっとした禁句で、空気を変えるように、ユッコが手を合わせて言った。
「でもさ、像の展示とか、クライアントってどんなお客さんたち?」
「んー、このあいだは六波羅蜜寺に行ったよ。職員さんもお坊さんがいっぱいでさ」
「出会いじゃん、すごー! いいなあー!」目を輝かす友人たちに、私は軟骨の串をつまみながら言った。
「でも用があったのは、人間じゃなくて、像だからね」
「像?」
「うん。空也上人の像。ほら、口から、こうやって仏さんが出てるお坊さんの像、見たことない?」
「…。あー!! 資料集で見たかも!」 「ミイラみたいで結構怖かったよね!」そのとき、ちーちゃんの携帯が、地震速報みたいなアラート音で鳴った。
「……あ。ハルだ」
ハルト。
その名も禁句だ。わたしは胸の奥がざわつくのを感じた。「ごめんね、なんか今ちょうど出張で東京来てるって言うから……」
ちーちゃんは申し訳なさそうに上目遣いをした。
わたしは平静を装う。
「そりゃ、顔くらいだすよね」
もう十年会っていない幼馴染。
彼氏……だったこともある。
それがいま新宿駅に着いたと言うのだ。
発信者の通知には、[魔王]とある。 わたしは小さく息を吐いて、着信画面をスライドした。「もしもし……」 すると、ウィスカーの軽薄な声から転じて、やたらと荘厳な声がちっぽけな公園に響く。『どうだ、相川るん。スライムとはうまくいっているか』「ええ、おかげさまで」 びっくりさせられた怒り半分、そして皮肉半分でそう返すと、魔王は重々しく言葉を続けた。『いま送ったアプリは〝正のエネルギー〟の貯まり具合を数値で確認するアプリだ』「そうなんだ。」 なんかもう、あきらかにおかしなことを聞き慣れちゃってる自分の耳がこわい。「それでアイコンが魔王のツノなんだ。なんかびっくりして損しちゃった」 そう言うと、魔王はフフフと笑った。『お前が生を終えるまでに貯めておかねばならぬ正のエネルギーの量……そして、現時点での残高を確認できるようにしておいた』「……そうなんだ。待って、開いてみる」 わたしは通話をつなぎながら、そのアプリをタップした。 出てきた画面には、やたらと立派な金文字で、こう書かれていた。【 残高:‑500,000 】「……え」 目を疑った。二度見してから、袖でこすって三度見した。「いや、ちょっと魔王!? マイナスってどういうこと!? しかも五十万て……え、ケタ四つくらい間違ってない!?」 しかし、魔王の声は、まったく動じない。『当然であろう。忘れたか。お前がいかに元の世界で負のエネルギーを帯びていたのかを』「……!」 貯金もないが、欲しいものは貯めて買う。そえだけは祖母の言いつけを守って生きてきたつもりだ。 でも、言われてみれば、ネガティブ思考はダダ漏れにしてきたかもしれない。 なぜ
ひきつった笑顔のまま、冷や汗を浮かべ、空を見上げる。 どうかしてるよね、わたしったら、無一文でデートにきてた。 ふとハルトのことが頭にうかぶ。 そういえば、デート代、だしたことなかった。 アオがブランコを左右に揺らしながら、自作っぽい歌を歌い始めた。いよいよこれは……後にひけなくなってきた…… ふと、空にウィスカーの詐欺づらが浮かんで見えた。 不本意ながら、今は彼しか頼るすべがない……「……ごめん、まってて、ちょっと電話する」 わたしはアオに断って、パーカーの前ポケからスマホを出した。 『──はいもし! あなたの婚活、全面サポート、ウィスカー商会でございます!』 その声のデカさもあるが、わたしはウィスカーが居る場所の騒がしさに、通話口から耳を遠ざけた。『おお。相川さまですねー? アオさまはいかかですかー? こちらは順調ですよー、明日にもまた新しいお相手をご紹介できそうでございますーー』 お昼中だった様子だ。なんか申し訳ないけど、しかたない。「あのね、ちょっとだけいいかな……!」 アオが飽きたのか気を利かせたのか、ブランコから降りて、ぴょんぴょん跳ねて行き、砂場で遊び始める様子を目に、わたしは声をひそめて言った。「……まずは報告なんだけど、ウィスカーさん、ご紹介のスライム、ホントに五歳でした。本人が自供しました」 ウィスカーは、やや沈黙を置いた。『──申し訳ない』「……いいけどさ」 でも成人っていう点では、ウィスカーも間違っていない。「……でもね、今後わたしのマッチングではね、わたしの元いた世界の倫理観で候補者を
聞けば、アオは半年前、森で魔獣に襲われて母親のスライムとはぐれてしまったらしい。 わたしは小さな彼を見た。「じゃあ、ママとはぐれて……それから、ずっとアオさん、一人ぼっちなの?」 彼は、うつむいたまま、小さな体でブランコを漕いでいる。「──うん」「親戚とかは?」 いるといえば、たくさんいるらしい。 でも、この世界のスライムの間では、親とはぐれた時点でそれは独り立ちを意味する。「そうなんだ……。なんか、生まれた時点で一人前っていうのも大変っていうか、さみしいものなんだね……」 同じく子供の頃、父親とはぐれた者として、わたしの胸が痛んだ。 けれど、わたしには一緒に火事を生き延びた祖母がいた。 それすらもいないアオの気持ちが、分かるとは、とても言えないけど…… けれど一人になった時、こうして公園に足がむいてしまう気持ちは、なんか分かる気がした。 ハルトとはじめて会ったのも、こんな公園だったから。 わたしは、アオに言った。「ごはん、ちゃんと食べてる?」 すると青いスライムの子供は、うん、と言った。「水と草とか、葉っぱ」「──あ、ごめん」おばちゃん、なんか泣けてきた……。 アオは慌てているのか、青い体の表面をぶるぶる振るった。「あ。泣かないで。ぼくたちって、それで充分な身体だから」「……そうなの?」「うん。おやつは花の蜜とかね」 アオは、にっかりと笑って見せる。「でもそれ以上をしようとすると、それなりにカロリーはいるかなぁ」「……そ、それ以上って、どういうこと?」 脱皮とか?「そうか、さっき言って
砂場とブランコだけの公園。 花壇には水仙やチューリップが咲いている。 なんだかんだでスライムの隣のブランコに、わたしも腰掛けているが、「ええっ、やっぱり、きみ子供だったの!?」 あらためて本人から五歳だと聞くと、さすがに……うろたえるしかない。 周囲の目が気になって、辺りを思わず見まわしてしまった。 すると、そんなわたしに青いスライムは、申し訳なさそうにブランコを止めながら表情を曇らせた。「ごめんね、ぼく、さびしくって、つい……」 アオと言う名前は事実らしいが、このスライム、ウィスカーには偽りの姿を見せていたらしい。「偽りの……すがた?」わたしが言うと、アオと名乗る五歳のスライムは誇らしげな笑顔を見せた。「うん。ぼく、変身ができるんだ」 真相は、スライム年齢でいう五歳。 つまり人間でいうところでも同じ、五歳だというが、たしかに精神的にも肉体的に大人は大人。 ウィスカーの言っていたことは、一周まわって事実だったわけか。 「……んー。でも、この婚活マッチングは、ナシってことか」 母性っていうか、保護欲は刺激されるけど、幸か不幸か恋愛感情は湧きそうにない。 わたしはホッとした。 でも同時に、相手にも申し訳ないような気持ちになった。 「……でもアオさんにも、こうやって、お時間もらっちゃって。」 そんなことないよとアオは、ぷるぷると顔しかない全身を振った。「ううん。こうやって久しぶりに誰かとお話しできたし、ぼくは大満足かな」 なんていうか、可愛い。 しかも言動がどこか、やはり五歳にしては大人びている。
スマホのマップアプリはなぜか、Wi-Fiなしに機能している。 わだちの残る土の道を三本杉まで駆けて、辻の地蔵を右に走ると、待ち合わせの小さな公園がツツジの垣根もむこうに見えてきた。 わたしは公園の塀に背もたれして、息を整えた。 なにしろデートなんて十四年ぶりだ。 しかもスライムがその相手と言うのも、初めてだし。 すべてがシュミレーション不可だ。 …… こんな困難な状況、新人研修のときの飛び込み営業でもなかったよ? てか、人間じゃないものに、なんて声かけたらいいんだ。 スライムにお天気か? 公園だし遊具か? 花壇の植生か? ていうか、そもそも、スライムと会話はできるのか!? スマホを見ると、待ち合わせ時間までは、まだ三分ある。 わたしは公園の塀に身をかがめたまま、中の様子を覗き込んでいく。 すると砂場の向こうに、ふたつ並びのブランコが見えた。その片方で水風船ほどの青い物体が見えた。 それが、楽しそうにブランコを漕いでいる。「……か、」 わたしは、顔を、垣根の後ろに引っ込める。「か、かわいすぎるかよ……」 なぜ赤面しているんだ、わたしは。 我に帰れと、自分の頬にビンタをする。「──グッ……!」 ……いや、あれで、成人、だと!? わたしはスマホを取り出し、あの婚活業者の名刺をもとにウサギ男に電話をかける。 たしかあのウィスカー、マッチング相手のスライムは人間換算で成人の年齢だと言っていた。 でもブランコをこいでいるアレは。どう見たって五歳児だ。『──はいもし! あなたの素敵な婚活、全面サポート、ウ
婚活業者のウィスカーが紹介したのは、青スライムのオス。 資料によれば、年齢は人間でいうところの成人。 まあ、三十二のわたしの精神年齢とは、釣り合うかもしれない。「──でもね、ウィスカーさん、スライムと人間って、その……」 交配、つまり子供ができるのかどうかの問題もある。 すると、ウィスカーは、ウサギ顔の口で、はっきりと断言した。「はい。融合と分裂で、交配は可能ですね」 ゆ、融合?! それって、むしろ、わたしが食べられちゃうってことでは……?! ウィスカーは、じっ、とわたしの顔を見た。「そうとも言いますね」 だめじゃん! いや、しかも、わたし自身もそうだけど、人間って、スライムに恋愛感情を抱けるものなの?「ううーん、どうなんでしょうかウィスカーさん!」 頭を抱えて、そう考えこんでいたら、ウィスカーは横で、そそくさと帰り支度を始めていた。 「──え、この状況で帰る?」「大丈夫です。愛はすべてを超えますので」 赤い目が、笑っていない。 ……もしかして、こいつ、客はあくまで魔王、か? そんなわたしの目にも構わず、ウサギ執事のウィスカーは鞄を抱きあげた。「では私はこれで。──あ。そちらの世界のお茶、草っぽくて美味しかったです」「いや、そうじゃなく……」 引き留めるわたしの手を背にウサギの執事は、玄関と駐車スペースのある家の表に向けて跳ねて行った。 ……とは言え、そのアオさんとのマッチングは、もう決まってしまったわけだしな。 待ち合わせ時間も13:00と迫っているしで、とにかくわたしは縁側から立ち上がる。「──よし、きょうはまずチュートリアルということで!」 そうなると、次の問題はデートに着ていく服がないことだ。 いや、洋服が無いわけではない。 現にこうして、わたしはベッドの上いっぱいに服を広げ、あぐらをかいて頭を悩ませている。 「いろいろと支度しておく」と豪語した魔王だけあって、湖畔に蘇ったこの生家には、むしろ多すぎるほどの衣装が用意されていた。 ただし、それらの全ては十七の頃、わたしが欲しかった服ばかり。 なんというか…… 当時の物欲と願望がそのまま反映されている。 つまるとこと、どれを広げてみても、三十二の今には、心理的なキツさがある。 いやサイズ的にはキツくないんだけど……! ──で
いや、ちょっと待って、三年で三千人とマッチングって…… 「そ、そうなんだ」 わたしは胸を撫で下ろした。 「よかった…… さすがに日に八人とデートは多すぎるよね……」 なんか、もうすでに、どっと疲れが来て、苦笑するしかなかった。 ウィスカーも、白ウサギそのものな口元を上げて笑む。 「ただし。こちらも魔王さまからのお仕事ということで、どんどんマッチングを組まさせていただきますから、そのおつもりで」 なんか、スマホで読んでた異世界スローライフとなんか違うな…… もっとラクそうと言うか、苦が少ないと言うかご都合主義というか…… まぁ。どこにいっても、お仕事はそれなりに大変だってことだろう。 「しょうちしました……。どうか、お手柔らかに……」 こちらとしてもハルトとの強制復縁は避けたい。だからお見合いっていうか、この異世界マッチングを、数でこなしていくしかない。 だったら、どうせなら幸せに添い遂げられそうな、それこそ魔王が言ったように〝幸福感に包まれながら最期を迎えられるような〟良いパートナーがほしい。 よし、前向きに考えよう。マッチング希望者が三千人あれば、なかには一発くらい大当たりもあるだろうさと。 「よーし」わたしは顔をこすりあげて言った。 「じゃ、まず今日は面談から、ってわけですね。よろしくお願いします、ウィスカーさん」 ウィスカーはうなずいた。 「承知しました。では早速。相川さま側のマッチング相手に対するご希望は?」 わたしは腕を組んだ。王宮に置いてきたミイラのことを考えながら。 「……うーん。保護者きどりとか、束縛してこないひとかな」 「はい。自由にさせてほしい、と。あと他には……?」 「遠距離はむりかな。なるだけ徒歩圏内で」 あと将来像の押し付けとか、仕事への口出しとか、そのくせ野球の日には連絡が取れなくなるとか…… って、ぜんぶハルトの逆だな。うっかり笑っちゃった。 でもこうなったら、ほんとうに心から好きになれる人がいいもんな。本音でいこう。 そのほうがきっと、日々の中で〝正のエネルギー〟を集められそうだし。 すると、つられたようにウサギも、わたしの見ている空を見上げて言った。 「──では、」 そしてファイルをめくりながら、やはり最初ですし、魔王さまのご推薦のこの方がよろし
スマホを手に取る。 鳴動は、着信ではなく、アラームだった。 画面表示の時刻は「10:28」。「──そっか。お客さん、来るんだっけ」 ふと、そこで思い立って、わたしは賭けをする気持ちで、目を閉じた。 これでつぎに目を開けた時、三茶のマンションの天井が見えたらこれは、いわゆる夢オチだなと。 また急いで身支度をして、駅で並んで、身体が持ち上がるような田園都市線に身を押し込むんだ。 それで渋谷駅まで行く。 そして道玄坂を登って…… 忙しすぎて毎日走っていた元の世界と、 暇すぎて不安になる魔界という異世界。 元の世界と、あの魔界。 どっちに、わたしは居たいんだろう。 ──閉じていた目を、わたしは開けた。 けれど場所は変わらず、湖畔の裏庭。 と、言うことは、異世界転生は現実だったんだ。 スマホの時計も、「10:31」のまま。 わたしは、仕方なしに鼻をこする。「ハラ、くくるしかないか……」 気乗りしないけれど、生き返るための婚活を──。 そうなると……まもなく魔王が手配した〝マッチング業者〟とやらが来る、十一時じゃないか。「うわ、ヤッバ!」 急に、お仕事感がぶり返してきた。「マジか! なんもしてない……」 わたしは洗面所に走った。 鏡の前で髪をとめ、水道の蛇口をひねると、そこに前、鏡に映る自分の姿に…… わたしは、驚愕した。 ──若返っていた。 魔王は「いろいろと支度はしておく」と言っていた。 でも、それは化粧水だけじゃなかったようだ。 わたしの容姿というか、身体そのものが、女子高生のころに戻っている。 たしかに昨夜は「腰が痛い」だの「老眼」だの「高血圧」だの言ったけれど、だからと言って、ティーンに戻すのは、ちょっと年齢差別がひどくないかと、ちょっと魔王にムカついた。 すると気になって、わたしは、前髪の生え際にある傷を確かめた。 傷跡は、まだ新しい縫い跡として、残っていた。 水を止めるのも忘れて、わたしは視線を落とした。 もしかして、昨日、ふたりして事故に遭う直前、ハルトが言いかけたのは、この傷のことだったのかなと。 ──午前十一時。 玄関のチャイムが鳴った。 ひとり暮らしの心得で、チェーン錠をしたまま応対する。 ……が、訪問者の姿を見て、わたしはあまりのファンタジーさ加減に力が抜けた。 ─
仰向けに、ベッドで横になる。 しかし、出社しなくて良いとなると…… シンプルに退屈だな。 十一時には来客の予定があるけれど、それまでこうしてベッドの上でゴロゴロしているのも、なんだかもったいない。 スマホを手にしても、地図以外のアプリがない。 仰向けになっていると、昨晩、魔王とした契約が思い浮かんでくる……。 『……よいか、相川るん。 余の魔力は、負のエネルギーを帯びながら死んだ魂を、他の世界からこの魔界へ引き込むことで召喚することができる。 そして逆もまた然り。〝正のエネルギー〟を蓄えれば、次に来る死の瞬間、お前たちを元の世界に押し上げてやることもできよう。 だが、〝正のエネルギー〟つまり、創造の喜びを貯めるのは容易ではない。 いずれ分かることだが、時間がかかるのだ。 その間も、お前の肉体は魔界で歳を重ねる。 だが心配は要らぬ。元の世界へ戻れば、見た目も年齢も、死ぬ前の姿へと戻っているはずだ。 よいか、相川るん。 お前は、お前の絵を描き、あるいは繁殖し、生み出し育むという創造の喜び、すなわち〝正のエネルギー〟を存分に集めよ。 そのこつは、楽しむことだ。 それが心臓に飽和した状態、すなわち、喜びに満たされた上で次の死を迎えた瞬間、お前たちの帰還は果たされる。 そして、その頃には、この魔界にも再び創造の力が満ち溢れるていることだろう……』 ──いつの間にか、眠っていた。 朝か。昼か。 ベッドサイドに身を起こし、明るい寝室で、ぼんやりとする。 手が、うっかり化粧ポーチを引き寄せていた。 いや違う。ここは三茶じゃない。 魔界だ。 もうしばらく出社する予定なんてないのに、手が勝手にポーチを探していたあたり、社畜の強い呪縛を感じる。 「やめた、やめたぁ」 放り出して、髪も二度寝の激しい寝癖のまま、台所で湯を沸かしはじめた。 ──にしても、うっかり明日のことを考えると、不安になるくらいヒマだ。 ほぼっていうか、状況的には完全無職のわたしは、この湖畔に蘇った生家で、いったい何をしたらいいのか。 腕を組んでわたしは考える。 なんでも出来るはずなのに、何をしたいのかが分からない。 じゃあまた横になるかって言うと、このまま寝たら、きっと夜通し起きてることになるんだろう
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