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「ガシャン!」テーブルの上のティーカップが滑り落ち、その音と同時に佐藤茂の体も床に崩れ落ちた。ちょうどその時、部屋に入ってきた青山がその光景を見て、慌てて駆け寄る。「旦那様!足がお悪いのですから、無理に歩かないでください!」彼が支えようと手を伸ばすと、佐藤はそれを手で制した。額には細かな汗が滲み、荒い呼吸を二度ほど繰り返してから、傍らのテーブルに手をついてようやく立ち上がる。佐藤茂は冷静に言った。「足が不自由なのは、自分が一番よく分かっている。いちいち言わなくていい」「……そんなつもりで言ったわけじゃありません」佐藤は視線を落とし、自分の脚を見つめた。歩けないわけではない。だが――もう、かつてのようには歩けない。佐藤プロの当主として、こんな姿を人前に晒すわけにはいかない。だから彼は車椅子に身を預け、足の不自由な男を演じ続けるしかなかった。「瀬川さんと黒澤が結婚式を挙げる。以前まとめた祝いの品のリストをもう一度作り直せ。それと、リハビリの器具をもう一度運び入れておけ」佐藤の声は静かで、まるで何気ない日常の指示のようだった。しかし青山は眉をひそめ、低い声で言った。「旦那様……もう、足はリハビリに耐えられる状態ではありません」十数年もの間、佐藤茂は車椅子で過ごしてきた。脚の筋肉はとうに正常なものではなく、ただ立ち上がるだけでも限界に近い。この十数年間、佐藤は少しでも動かせるようにと鍛錬を欠かさなかったが――それでも、あと半月で普通に歩けるようになるなど、到底不可能な話だ。「結婚式に障がいのある人間が出席するなんて、縁起が悪い」「旦那様、それは反対です」「私のことを決める権利が、あなたにあるのか?」佐藤茂は青山を一瞥し、低く命じた。「言った通りにしろ。あとは余計な口を出すな」青山は黙り込んだまま、結局その指示に従うしかなかった。やがて、階上ではリハビリ用の器具が次々と佐藤茂の部屋へ運び込まれていった。その様子をリビングで見ていた幸江は、思わず手にしていたお菓子を食べるのをやめ、口をぽかんと開けた。「ちょ、ちょっと待って……何これ?まさか佐藤さんの部屋にジムでも作る気?」幸江は青山の肩を軽く叩きながら尋ねた。「ねえ青山、これ一体どういうこと?佐藤さん、気が変わったの?」「……ええ」「気
「それなら昨夜、ひとこと教えてくれればよかったじゃない!」「言う暇なんてなかったんだって!」口げんか寸前の二人を見て、真奈が苦笑しながら口を挟んだ。「まあまあ、仕方ないわよ。伊藤、帰ってきてすぐ酔っ払ってたんでしょ?それじゃ結婚式の話どころじゃなかったはずだもの」その言葉に、幸江はハッとした。自分がうっかり余計なことを口にしたと気づき、慌てて逃げ出した。「美琴!待てって!」そう叫ぶと、伊藤は慌てて幸江の後を追っていった。真奈は騒がしく駆け回る二人の背中を眺めながら、すでに二度目のくせに、まだ人目を気にして隠していることに呆れた。「夜も明けないうちから、現場の取り締まりか?」その時、背後から黒澤がそっと腕を回して抱きしめる。真奈はその腕の中で苦笑した。「寝ようとしてただけよ。ただ……隣が騒がしすぎたの」これまで真奈は、伊藤がここまで騒がしい人間だとは思ってもみなかった。黒澤と本当に気の合う親友だと、改めて実感する。「これからは、少し離れたところに住んだ方が良さそうね」黒澤はくすっと笑い、真奈の髪を優しくかき混ぜながら言った。「あと半月で花嫁だ。黒澤遼介の妻になる覚悟はできてるか?」「もちろん。いつでも準備万端よ」真奈は黒澤を見上げ、目を細めて問い返した。「じゃあ、黒澤様。あなたの方は――瀬川真奈の夫になる準備、できてる?」「この日を、ずっと待っていた」「だから答えは……」「はい。瀬川真奈の夫になる準備はできている。いつでも迎えにいけるさ」黒澤は身をかがめ、真奈の唇にそっと口づけた。真奈の頬がじんわりと熱を帯び、白い肌に淡い紅が差す。もともと血色のいい唇がさらに艶を増し、今の真奈は息をのむほどに美しかった。黒澤は込み上げる熱を必死に抑えながら、彼女を横抱きにして寝室へと戻った。真奈は彼の肩を軽く叩く。「もう、やめてってば。あなた、まだ傷が治ってないのよ」「平気だ」黒澤の視線は彼女の唇に吸い寄せられる。真奈がそっと唇を噛む仕草さえ、彼には抗いがたい誘惑に見えた。この数日、怪我のせいでずっと抑えてきた。けれど――愛する人を目の前にすれば、もう理性など保てない。黒澤は身をかがめ、唇を重ねた。その口づけは深く、熱を帯び、どこか支配的な激しさを含んでいた。真奈の体はその熱に溶か
翌朝、幸江はそっと伊藤の寝室のドアを開け、忍び足で自分の部屋へ戻ろうとしていた。だが、ほんの数歩進んだところで背後から声が飛んだ。「美琴さん、朝からどうして裸足なの?」幸江はびくりと肩を跳ねさせ、振り返ると、パジャマ姿の真奈が後ろに立っていた。幸江の手にはまだハイヒールをぶら下げていて、慌ててそれを背中に隠しながら言い訳する。「だって、音を立てたらあなたたちを起こしちゃうでしょ?」真奈は赤くなった幸江の顔を見て、片眉を上げた。「昨夜……また飲みすぎたの?」「誰が飲みすぎたっての!飲んでないし!飲みすぎたのは智彦よ!親切で部屋まで運んであげたら、あの人がしつこく腕を掴んで離さないのよ!そのまま一緒に寝落ちしちゃっただけ!」幸江は手をひらひらと振って言った。「ただ、みんなに変な誤解をされて、印象が悪くなるのが嫌だっただけよ」「へえ……」真奈は「なるほどね」とでも言いたげな顔をした。幸江は慌てて声を上げる。「本当なんだから!」「わかってるよ、美琴さん。説明しなくても」その穏やかな表情を見て、幸江は確信した――完全に誤解されている。しかも真奈の視線は、いつのまにか自分の着ている男物のシャツに向かっていた。その視線に気づいた瞬間、幸江はハッとして、慌てて言い訳を並べた。「ち、違うのよ!昨夜あの人、私に思いっきり吐いたの!仕方なくそのまま彼のシャツを借りて着てただけ!」「キィッ」伊藤は寝癖のついた頭を掻きながら、眠そうな顔でドアを開けた。幸江と真奈を交互に見て、ぼんやりとした声で言う。「お前ら、朝っぱらから俺の部屋の前で何してんだ?」伊藤は左右を見回しても、何が起きているのかまるで分からない様子だった。幸江はすかさず言った。「智彦!早く言いなさいよ!昨日の夜、酔っ払って私を離さなかった挙句、服に吐いたのはあんたでしょ!」「は?」まだ頭が完全に起きていない伊藤の脳は、完全にフリーズしていた。だが、幸江が必死に目で合図を送ってくるのを見て、ようやく察したように頭を叩き、言った。「ああ、そうだったな。昨日は俺が飲み過ぎて、美琴さんが部屋まで送ってくれたんだ。で、俺がしつこく腕を掴んで離さなくて……ついでに吐いちまったんだよ」伊藤はまるで録音機のように、同じ言葉をもう一度繰り返した。真奈はため息をつき、
「美琴さん、さっき話してた拉致事件って、いつ頃の話だったの?」「そうね……もう十年以上前になるかしら。私が小学校を卒業した頃だから、十二歳くらいだったと思う」「じゃあ、それって十六年前?」「そんなところね」真奈は心の中で計算した。十六年前――佐藤茂と幸江は同い年。つまりその頃、佐藤茂も十二歳だった。十二歳でそんな災難に遭ったなんて、想像するだけで胸が痛む。「さてと、噂話もこのくらいにしておきましょう。パックして、そろそろ美容のために寝なくちゃ」幸江は大きくあくびをしながら、のんびりと立ち上がった。すると真奈がふいに声をかけた。「美琴さん、今夜はどの部屋で休むの?」「え、どこって……もちろん自分の部屋よ!」幸江は慌てて言い訳する。真奈は軽くまばたきをして、いたずらっぽく言った。「遼介は今夜帰ってこないみたいだし、たまには一緒に寝ない?」自分が勘違いしていたことに気づき、幸江は慌てて照れ隠しをした。「あら、私と智彦のことを……そう思ったの?」「まあ、分かる人には分かるってだけ」真奈は「察してね」と言わんばかりの視線を幸江に向けた。大人なんだから、そういう一時の衝動だってある。でも――弟の親友と寝るなんて、さすがに節操がなさすぎる。幸江は顔を真っ赤にして、口ごもりながら言った。「真奈!あなたってもっとおしとやかで真面目な子だと思ってたのに……どうして、どうしてそんなこと考えるのよ!」「美琴さん、おしとやかでおとなしいなんて、私に似合わないでしょ。少し言い方を変えたら?私をもう少し正確に表す言葉で」幸江の顔は真っ赤になった。「もうパックなんてしない!寝るわ!」彼女が真奈のベッドに上がろうとしたその瞬間、背後からぐいっと誰かの手が伸び、服の後ろ襟をつかまれた。黒澤が低い声で言う。「美琴さん、俺の妻のベッドに乗るな」気づいた時には、幸江はすでに真奈のベッドから一メートルほど離れた場所に立っていた。真奈は黒澤の姿を見て、思わず目を瞬かせた。「どうして帰ってきたの?結婚式の準備で忙しいんじゃなかったの?」「車で帰ってきた」「夜中にわざわざ?」「妻を一人で家に置いておくわけにはいかないだろ」黒澤の口元に、ふっと浅い笑みが浮かんだ。その様子を見た幸江は、思わず鳥肌を立てた
幸江は真顔で言った。「実のところ、佐藤さんは港城のゴシップなんてまったく目を通していないのよ」「……」真奈は何か複雑な事情でもあるのかと思っていたが、単に気にも留めていなかっただけだと知って拍子抜けした。「あなた知らないでしょうけど、この件、港城ではすっかり噂になってて、海城でも知ってる人がいるくらいなの。でも佐藤さんは普段ほとんど外に出ないし、ニュースなんて全然見ないのよ。佐藤家は情報を仕入れるのが得意だけど、ご本人はそういうのに頭を使うのが面倒でね。そんなゴシップ、最初から記憶に残ってないの。ところが、どういうわけか話がどんどん大きくなっていったのよ」幸江は思わず舌を巻き、続けた。「たしか数年前のことだったわ。美桜が海城に来たの。ほんの二日くらいの滞在だったけど、そのときに佐藤さんを訪ねてきたのよ。二人はちょっとした挨拶を交わしただけ。晩餐会のような場で『こんばんは』『お元気そうで』みたいな当たり障りのない会話をしただけなのに、記者に見つかってしまったの。その後、尾ひれがついて二人は付き合ってたなんて話になった。でも実際のところ、佐藤さん本人は自分のスキャンダルが出回ってるなんて、まるで知らなかったのよ」「結局、二人には大した関係なんてなかったってこと?」「その通りよ」幸江は困ったように首を振って続けた。「最初はね、あの佐藤茂という堅物が、ようやく恋を知ったのかと思ったの。私が楽しみにしていた華やかな御曹司の恋物語は、始まる前にあっけなく終わっちゃったのよ」幸江の言葉を聞いて、真奈も思わず残念な気持ちになった。もしできることなら、生きているうちに佐藤茂が誰かを本気で好きになるところを見てみたい。「じゃあ……佐藤茂って、今まで誰かを好きになったこともないの?」「私の知る限り、一度もないわね」幸江はほとんど確信めいた口調で答えた。「佐藤茂は、生まれた時から佐藤家の後継ぎとして育てられてきたの。子どもの頃に何度か佐藤家へ遊びに行ったことがあるけど、彼はいつもベランダのデッキチェアで本を読んでいたわ。私たちが遊んでいるときも、食事をしているときも、ずっと本を手放さなかったの。当時はただの本の虫だと思っていたけど、後になって、彼の頭の回転が私たちとは比べものにならないほど速いってわかったの。大人たちが一言話せば、次に何を言うかす
「最も大切な人からの贈り物?」真奈はうなずいた。「ウィリアムが言っていました。石渕さんからの贈り物だそうです」佐藤茂は視線をそらし、静かに言った。「薬は確かに貴重ですが、彼女からのものは……口にしません」ちょうどその時、ドアの外では青山が湯気の立つお粥を盆に載せて入ってきた。扉を開けた瞬間、真奈と佐藤茂が話しているのが目に入った。青山が引き返そうとしたのを見て、真奈はすぐに言った。「佐藤さんのお見舞いに伺いましたが、もう大丈夫です」そしてもう一度佐藤茂に目を向けた。「佐藤さん、ゆっくり休んでください。これで失礼します」佐藤茂は何も言わなかった。真奈が部屋を出ていき、青山が静かにドアを閉める。「旦那様、この薬には何の問題もありません。ウィリアムも確認しました。同じものを再現できるそうです」「結構だ」佐藤茂は手を伸ばして、テーブルの上の薬をそのままゴミ箱に放り投げた。「今後、石渕美桜から送られてきたものは、私に見せなくていい」「旦那様、でも石渕さんも善意で……」「彼女の善意が何を意味するか、改めて説明する必要があるか?」青山は黙り込んだ。佐藤茂の瞳には一片の揺らぎもなく、氷を張った湖面のように冷ややかだった。「過去も現在も未来も、私の決断は変わらない。たとえ死にかけても、誰一人として私に代わって決めることはできない」「かしこまりました、旦那様」青山はうつむいた。一方には生、もう一方には死。命を救う薬を選ぶことは、美桜の陣営に身を置くことを意味する。その薬を捨てることは、自ら退路を断つことだ。美桜は心理戦を仕掛け、旦那様自身に生死の選択を委ねた。たとえ命を救う薬が目の前にあっても――あの人と比べれば、旦那様が迷いなく薬を捨てるだろうことを、美桜もよくわかっていた。命など、旦那様にとっては決していちばん大切なものではない。その頃、客間では真奈がスマホで佐藤茂と美桜の噂を検索していた。隣で見ていた幸江が、夢中になっている真奈の様子に思わず声をかけた。「真奈、何見てるの?」「ゴシップよ」「……え?」幸江はお菓子を食べながら覗き込み、画面の文字を見て目を丸くした。「ちょっと!佐藤プロの当主と石渕家の令嬢に忘れられない恋があったですって?この三流記者、よくもまあこんな記事を書けるわね」