桜井が水を差し出しながら部屋に戻ってきた。「瀬川さん、ワインセラーで倒れていたんですよ。ボスがわざわざ抱えてお運びになったんです」真奈は黙って水を一気に飲み干した。喉の奥がようやく潤い、言葉が出せるようになった。顔を上げると、向かいには立花が立っていた。ゆるく羽織ったガウン姿で、髪はやや乱れ、目の下には薄く影が落ちている。額には疲れの色が濃く滲んでいた。「瀬川、いい加減にしろ」彼は冷ややかに言った。「たかが掃除でワインセラーで倒れて、真夜中に大騒ぎ。人の睡眠を妨げるためにやってるのか?」その言葉に、真奈はすぐさま反論した。「私はちゃんと掃除するつもりだったの!でもそっちの無表情の人、あの人が私を脅したのよ!私、誰にも迷惑かけてないのに、なんでそんな目に遭わなきゃいけないの?」立花の表情はますます険しくなった。「俺が彼にお前を脅せと命じたとでも?」「じゃなきゃ、あの人が勝手に殺しにくる理由ある?」そう言って真奈はシャツの袖をまくった。白い布の下からあらわになったのは、いくつかの青あざ。「脅されなくても、絞め殺されるところだったんだから!」真奈の腕に浮かぶ青あざを見た瞬間、立花はわずかに眉をひそめた。「瀬川さん、誤解しないでください。ボスに瀬川さんを傷つけるつもりはありませんでした。すべては馬場さんの独断で……ボスはすでに彼を叱責していますし、それに、瀬川さんの体力を戻すために、たくさん食べ物もご用意して――」「余計なことを言うな。出て行け!」立花の顔が冷え冷えとした怒気を帯びると、桜井はビクつきながら慌てて部屋を出ていった。そのやり取りのあと、真奈はようやくテーブルの上に並べられた菓子や軽食に気づいた。「……これ、あなたが用意させたの?」「うちの犬のためだ。お前にやるつもりはない」「……立花社長、本当にお腹が空いてるのよ。冗談やめてくれない?」彼女は朝から何も口にしておらず、点滴の影響か、目が覚めた途端に強烈な空腹感に襲われていた。だが、立花はその訴えを無視し、椅子を引いて真奈の正面に座り込んだ。「食べたいなら、先に俺の質問に答えろ」「どうぞ、ご質問を」「忠司は、お前に洗剤を取ってくるよう頼まれたと言っている。つまり、お前が彼を陥れたということだ」「私が?私が彼を陥れたって……」真奈は
しかし、立花の前に立つ馬場はうつむいたまま、低く訴えるように言った。「ボス、これは瀬川の仕組んだ罠です。どうか、俺をお信じください」それに対して、立花は冷然とした声で返す。「彼女が気絶を装っていると言うのなら、今すぐ斬ってみろ。本当に目を覚ますかどうか、確かめてみろ」「承知いたしました」馬場は迷いも見せず、腰に差していたナイフを抜き、刃を真奈の喉元に当てた。だが、ベッドに横たわる彼女は、微動だにしなかった。その様子を目の当たりにし、馬場の顔色にもわずかに陰がさした。立花はグラスを置き、冷ややかに言い放つ。「俺たちのような仕事をしていて、人が本当に気を失ってるのか、演技かも見分けられないようじゃ、話にならないな」医者の先ほどの検査は、言ってみれば余計な確認だった。立花にはわかっていた。馬場もまた、彼女が本当に気を失っていることを感じ取っていたはずだ。ただ、あの場の空気に飲まれ、冷静さを欠いただけのこと。立花は静かに口を開いた。「お前が俺の身を案じてくれているのは、ちゃんとわかっている。だが、相手は所詮ひとりの女だ。どれだけ頭が切れようが、この洛城で俺を出し抜けるほど甘くはない」「……はい、ボス」立花は淡々と言った。「もう遅い。休め」「ですが……」「明日は俺が彼女を連れて現場を見せる。お前はもう心配しなくていい」立花が自ら真奈を連れて現場を回ると聞き、馬場は内心の不安を拭えなかったが、今はただ頷くしかなかった。「……承知しました、ボス」馬場が部屋を後にすると、立花はゆっくりとベッドのそばに近づき、真奈の頬を軽く叩いた。「起きろ」ベッドの上の真奈は反応せず、ただ叩かれたことで眉をしかめただけだった。苛立ち混じりに彼は指先で彼女の頬をぐいとつまみ、横に置いてあった白粥の器を手に取った。無理やりでも食わせようと、粥を口元へ運ぶ。だが、粥は彼女の頬を伝い、ぽたりとシーツに落ちていくだけだった。食べようとする反応など、微塵もない。その光景に、立花の胸の奥に言いようのない苛立ちが込み上げた。勢いよく立ち上がり、ドアを開け放つ。その音に驚いた桜井が、廊下で身をすくめた。「ボス……何かご指示でしょうか?」立花は眉をひそめて言った。「一時間以内に起こせって、言ったよな?」桜井は答える。「ボス、医者はすでに点滴
立花は、馬場が普段から嘘をつかないことを知っていた。だからこそ、すぐに視線を再びメイドへ向け、冷たく問いただした。「その後、何があった?続けて話せ!」「その後は……瀬川さんが、立花社長を傷つけるつもりはないって言って、馬場さんに許してほしいって頼んだみたいでした。でも馬場さんが……怒ったように見えて……そのあと、瀬川さんが倒れたんです」メイドは自分が見たことを一つ残らず、正直に語った。馬場はその証言に反論できず、しかし淡々とした口調で言い返した。「……瀬川に洗剤を取ってきてほしいと言われたから、仕方なく二階に上がりました。戻った時には、入口の見張りがいなくなっていたから慌てて地下へ戻ったんです。そこで彼女が隅で何かをこそこそしているのを見かけたから、様子を確認しようとした。それだけの話です。その後の出来事は、彼女の仕組んだ茶番に過ぎません。ボス、あの女の言葉を信じてはいけません」「……つまり、あの気絶も演技だと?」「間違いありません」馬場は真剣に言った。「俺は彼女に指一本触れていません。気絶が偽物だと証明できれば、彼女の嘘はすべて崩れます」立花は無言で馬場を一瞥し、それから倒れたままの真奈に視線を落とす。沈黙の時間が流れる中、迷いがその瞳にかすかに宿った――そのとき、桜井が駆け寄ってきた。「ボス、お医者様をお連れしました」「ああ」立花は医師に視線を向けながら手を軽く動かし、診察を促した。医師は真奈の前にしゃがみ込み、まずは下まぶたをめくって確認し、それから人中を指で押す。だが、真奈はぴくりとも反応を見せなかった。続いて、医師は診察機器を取り出し、いくつかの基本的なチェックを行う。それらが終わると、静かに器具を片づけた。立花は眉をひそめたまま、低く問いかける。「……いったいどうなっている?」「立花社長、この方は一時的な昏睡状態にあります。初見では低血糖によるものと思われます。今すぐ静脈点滴が必要です。可能であれば、もう少し温かく快適な場所へ運んでいただけますか?」その言葉に、立花はすぐさま馬場へ視線を向けた。馬場は一瞬、呆気に取られたように固まったが、すぐに言い返す。「……そんなはずはありません!演技に決まっています!」医者は言った。「このタイプの昏睡は、簡単に装えるものではありません。ただ、確認のために
メイドの身体はその場で凍りつき、一歩も動けなくなった。「俺は何もしていない。なぜ逃げる?」馬場の冷たい声が室内に響く。「そ、そうです……馬場さんは何も……何もしてません……」メイドは慌てて首を横に振り続けた。タイミングを見計らったように、真奈が大声で叫ぶ。「馬場さん、あなたが私に不満を抱いているのは分かっている。でも、私は本当に立花社長に害を与えるつもりなんてないの。どうか……お願い、殺さないで!」それを聞いた馬場の目が鋭く光る。すぐにこれが真奈の仕掛けた芝居だと気づき、瞳に一瞬、殺意が宿った。「……瀬川真奈。お前……!」彼が動こうとした、その瞬間。真奈はぱたりと目を閉じ、まるで糸が切れたようにその場に倒れた。その光景に、メイドは顔面蒼白となり、悲鳴をあげて階段へと駆け上がる。「だ、誰か来てください!瀬川さんが……瀬川さんが気を失いました!」馬場は倒れた真奈をじっと見下ろし、眉を深くひそめる。二階、立花の寝室の前。桜井が慌てた様子でドアをノックした。「ボス!大変です!」「入れ」桜井がドアを開けると、ちょうど立花が着替えているところだった。桜井はすぐに頭を下げて言った。「ボス……瀬川さんが、ワインセラーで気を失いました……」「気を失った?」立花は顔を上げ、声を冷たくした。「忠司は?」「……倒れた時、馬場さんがそばにいたそうです。メイドの話では……馬場さんが瀬川さんを殺そうとしたって……」その言葉を聞いた立花の眉間に、さらに深い皺が刻まれた。無言で上着を肩に引っかけると、そのまま部屋を出ていく。地下室にはすでに人が集まっており、空気は張りつめていた。だが、立花が姿を見せると、人々は一斉に道を開けた。真奈はまだ床に横たわっていた。周囲の者たちは誰一人として声を発せず、下を向いたまま息を潜めている。「……なぜ、まだ連れて上がらせない?何を突っ立ってる?さっさと運べ!」その一言に、メイドたちは怯えて声も出せず、身を固くしていた。やがて、馬場が一歩前に出て口を開く。「……ボス、それは……俺の判断です」それが馬場の判断だったと知ると、立花の表情はみるみる険しくなった。「……きちんと見張っておけと言ったはずだ。なのに、この有様か?納得のいく説明をしてもらおうか」「ボス……この件は俺とは無関係です。あれは
真奈は視線を落とし、荒れ放題のワインセラーを見渡した。これは……清掃員が十人いたとしても、一晩で片付けるなんて無理だ。立花が、明らかに自分を困らせようとしているのは間違いない。やはり、彼にカジノへ直接連れて行ってもらうには――別の手を考えないとダメかもしれない。真奈は、馬場が戻ってくる前にと素早くワインセラーを抜け出し、一階へと駆け下りた。一階の廊下で彼女を見つけたメイドが、顔をしかめながら声をかける。「瀬川さん、どうして出ていらしたんですか?ボスからのご指示で、今夜中に片付けが終わらない限り、ここを出てはいけないと伺ってます」「一人だと怖くて……馬場さん、見かけなかった?さっきまで下にいたのに、気がついたら姿が見えなくなってて」真奈の言葉に、メイドは少し安心したように口を開いた。「さっき、馬場さんが上の階に上がっていくのを見かけました。すぐ戻ってくると思いますよ。瀬川さんがお一人で不安なら、私が一緒にお手伝いしましょうか?」それを聞いた真奈は、少し困ったように眉を下げて言った。「でも……立花社長は、馬場さん以外の人に私を見張らせるのを許していないの。実はさっき、下の階の洗剤が切れてるのに気づいて……申し訳ないけど、一本取ってきてもらえる?私は下で待っているから」「わかりました。それでは、先に戻っていてください。すぐに持っていきます」「ありがとう」メイドがその場を離れるのを確認すると、真奈はすぐに踵を返し、地下室のワインセラーへと戻っていった。それから数分後。洗剤のボトルを手に、馬場が戻ってきた。だが、1階のはずのメイドの姿はどこにも見当たらない。不審に思った馬場は眉をひそめ、地下室へと向かった。そこには、ひと気がまるでなかった。「……瀬川さん?」馬場の声ががらんとした地下室に響き渡る。返ってくるのは自分の声の反響だけで、他には何の気配も感じられない。「瀬川さん、隠れてるなら出てきなさい」馬場は足音を響かせながら、ワインセラーの最奥へと進んでいった。中は相変わらず荒れていたが、真奈の姿は見えなかった。馬場は冷たく言った。「……出てこないと、容赦しないぞ」「ガシャン!」不意に、奥の隅から何かが落ちる音が響いた。馬場はすぐにその音が南東の隅から聞こえたことを察知し、無言のままそちらへ向かう。歩み
「……なぜだ?」「社長には分からないの?あの人、私に敵意丸出しだよ。あなたの目が届かないところで刺されそうで怖い」「忠司はそんな人間じゃない。それに、彼は俺の命令しか聞かない」「でも嫌なの。私、立花社長に直接連れて行ってほしい」わがままであることは明らかだった。立花は片眉を上げて、皮肉っぽく言う。「俺がわざわざ案内役をするとはな。さすがは瀬川家のお嬢様、面子がでかい」「だって、社長が一緒にいてくれれば、誰かに殺される心配もないし?」言葉の端々には、明らかに馬場へのあてつけが込められていた。それを廊下の外で聞いていた馬場は、眉間にしわを寄せる。立花は、わざとらしく駄々をこねる真奈の様子をじっと見つめたあと、なぜか小さくうなずいた。「俺が連れて行くのも、まあ不可能じゃない」その言葉を聞いた瞬間、真奈の目がぱっと輝く。だが次の瞬間、立花は淡々とこう続けた。「だがな、それじゃ俺の時間が無駄になる。今日のお前の騒ぎで、俺のワインセラーはどうなった?誰が片付けるんだ?」「立花社長、それは冗談でしょう?この屋敷には使用人が大勢いるじゃないの」「使用人にも手当てが必要だ」立花の言外の意図は、嫌というほどはっきりしていた。真奈は口元を引きつらせるように笑い、しぶしぶ言った。「……わかったわ。私が片付ける」「一晩で全部片付けられるなら、案内の件は考えてやってもいい。ただし、終わらなければ――」「大丈夫。今すぐ取りかかるわ」そう言って、真奈はきびすを返して部屋を出ようとした。だが、すぐに立花の鋭い声が飛ぶ。「待て」「……社長、まだ何か?」「着替えてから出ろ」そう言いながら、立花はソファの横にあった白いシャツをひょいと掴み、真奈に放った。手にした男性用のシャツをちらりと見て、真奈は「ありがと」とだけ口にすると、さっさと部屋を出ていった。馬場が部屋に入ってくる。立花は命じた。「見張っておけ。何かあったらすぐに俺に報告しろ」「承知しました、ボス」馬場はそのまま真奈の後を追って、ワインセラーへと向かった。真奈が足を踏み入れると同時に、馬場はすでに指示を出していた。中にいた使用人たちはすべて退出させられ、残されたのは彼女ひとり。掃除のすべてを任されることとなった。ワインセラーの中は、倒れた樽があちこ