「あの娘はこれから友達を沢山作って、恋も一杯して、そしていつか結婚して子供たちに囲まれて静かに暮らす」 クーカは目を細めて『妹』の姿を見ていた。「そんな平凡な人生を送っていくの……」 打球を撃ち返せずに悔しがる妹。その妹を励ます友人たち。微笑ましい光景だ。「どれも…… お前には手の届かないものだな」 そんな様子を見ながら先島が言った。 「人は平凡なんかつまらないと言うけど、私から見れば眩しいくらいに羨ましいわ……」 実の姉が生存している事を知らない『妹』は、周りに居る友人たちと屈託なく笑っている。「彼女は私とは違う人生を送っていって欲しい。 それが私の残された願い…… 誰にも邪魔はさせないわ」 きっと何事も無ければ、妹の隣で共に光り輝いていたであろう自分の青春に思いを馳せていた。「……お前はそれで良いのか?」 先島が尋ねた。「物心付いてから今までに覚えたのは、人の殺し方と獲物を追い詰めるコツだけよ……」 クーカは口元に薄い笑いを浮かべがら言った。自分の人生にあるのは硝煙と血の匂いだけだ。今、居なくなっても誰も気に留めないし振り返られもしない。「……今更、どうにもならないわ」 きっと、どこか遠い国の知らない街の路地裏で、ひっそりと始末されるのが運命なのだと悟っている。風に吹かれると消えてしまう煙のようなものだ。「俺たちなら違う人生を送れるように手配できる」 俺たちとは先島が所属する組織の事だ。「表の世界に戻ってこないか? このまま暗闇の中をいくら走っても何も見えないままだぞ……」 先島は彼女をスカウトしようとしていた。殺し屋になるしかなかった不遇の人生を思いやっている訳ではない。 何とかして絶望の中で足掻いている少女を救いたかったの
小高い丘の上。 平日の午後。住宅街に設置されている児童公園には散策する人すらいない。 その児童公園は小高くなっている丘の上にあった。そして、公園の眼下にあるテニスコートが一望できていた。 テニスコートには部活なのだろうか、付近の中学校の生徒たちがラケットを振るっていた。 そんな学生たちをクーカはベンチに座ってぼんやりと眺めていた。「ここに居たのか…… 探したよ……」 クーカがチョコンと座るベンチの隣に先島が腰を掛けて来た。「……」 クーカは先島がやって来た事に関心が無いようだ。気が付いて無いかのように無言でコートを眺めている。 眼下に見えるテニスコートからは、テニスボールを撃ち返す音が響いて来た。それに交じって仲間を応援する声もする。 それは平和な日本を満喫するどこにでもある風景だ。「俺にもあんな時代があったな……」 生徒たちの上げる嬌声を聞きながら先島がポツリと言う感じで言った。「周りに居る大人は全部自分の味方だと信じていたもんさ」 そんな学生たちを見ながら、先島がおもむろに口を開いた。「無心に部活に打ち込んで、家に帰ってからは勉強そっちのけでゲームばかりやっていたっけ……」 もちろん人間関係の煩わしさもあったが、大人となって足枷だらけになった今とは雲泥の差だ。「……」 クーカは先島の話に関心が無いのか無言のままだった。 二人が見つめるコートの中に、一人の女子生徒が歩み出て来た。どうやら打球を受ける練習を行うようだ。 それを見ていた先島がおもむろに口を開いた。「彼女の名前は親谷野々花(おやたにののは)。年齢は14歳の中学生……」「成績は中くらいで友人は多数。 勉強は大嫌いだがスポーツは大好き」「まあ、どこにでも居る平均的な
(急がないとクーカの足取りが消えてしまう……) あの銃撃戦の跡にクーカの死体は無かったと聞く。もっとも素人に毛の生えた程度の連中では歯が立たないのは解っていた事だ。恐らくは無事に脱出している物だと考えていた。(まずは当日の監視カメラ映像を藤井に頼むか……) ポケットから携帯電話を取り出そうとした。カツンと何かに触れた感覚がある。 先島は上着のポケットにメモリスティックがある事に気が付いた。「なんだ?」 もちろん、そのメモリスティックは自分のものではない。会社の物でもない。「……」 先島は車に積んであるノートパソコンを起動した。メモリスティックの中身をチェックする為だ。 ノートパソコンに差し込んで中身を確認したが0バイトと表示押されている。それが増々不信感へと掻き立てた。「これは…… クーカが使っていた奴なのか?」 先日の事件があった時。 怪我で気を失う寸前に、くーかが何かを落としていたのを思い出した。殆ど無意識のうちに握り込んでいたのであろう。 きっと、先島を救助してくれた隊員は、私物と思ってポケットに入れてくれたらしい。 問題は中身が何なのかだ。「物理トラックを解析トレースしてみるか……」 ファイルの消去と言っても、単純な消去では物理的な領域を消されている事は少ない。ファイル消去後に何も操作されていなければ中身自体は残っている可能性が高いのだ。それを読み出せる状態にしてあげれば消去ファイルを復活させることは可能だ。 先島は自分のパソコンにインストールされている復元ツールを使って復活させる事にした。作業自体は難しくは無い。ツールが示すコマンドを認証していくだけだ。後はツールが推測して勝手にやってくれるのだ。 ほんの一時間程度で終了した。 もう一度メモリスティックの中身を表示させてみると、そこには改変前と改変後のファイルがあった。「やはり、何
都内の病院。 医者が言う事を聞かない人種はどこにでもいる。 先島もその一人だ。傍に居る医者は渋い顔をしていた。「どうしても。 仕事に戻らないといけないんですよ」 病院のベッドから起き上がった先島は、そんな言い訳にもならない事口にしていた。 ところが、先島の担当医は首を縦に振らない。一緒に居た看護師もあきれた顔をしている。「せめて縫い合わせた所が融着するまでは退院は許可できません」 そう言ってメガネの下から先島を睨んでいる。 致命傷では無かったが、弾は身体をすり抜けているのだ。少し動けば再び出血してしまうのが分かっている。そうなれば命に係わるので反対しているのだった。「いいえ。 自分が担当している事件は時間との勝負なので……」 そんな事は意にも介さずに自分の荷物(元々そんなに無かったが)をまとめ上げていた。 病院に見舞いに来ていた青山に、車を置いていってくれと頼んでおいたのだ。「駄目なものは駄目だと言っている」 医者は更に言い募ったが、先島は医者の忠告を無視しながら身支度をしていた。「歩ければそれでいいんで……退院しますね?」 先島は既に上着を羽織っていた。元より人の言う事を聞かない男だ。「万が一の事が有っても責任は持てんよ?」 医者は最後まで首を縦に振らなかった。「元々、自分の命は使い捨てですから……」 先島は自嘲気味に言いながら病室を後にした。 そんな先島の後姿を見ながら、医者は首を振りながらため息をついた。手元のボードに何かを書きつけて、次の患者の診察の為に歩み去った。 工場が無事に爆破されたのは知っている。青山がこっそりと教えてくれた。きっとクーカが始末してくれたのに違いない。(大人としては是非とも礼を言わないとな……) 工場はボイラー設備で不具合が発生して、『小規模な火災』が発生したと処
クーカは手近な樹に向かって手を伸ばした。 指先を何枚かの葉が滑っていく。 やがてガシッとした手ごたえがあった。枝を捕まえる事に成功したのだ。しかし、クーカの身体と落下速度を支える事が出来ない枝は直ぐに折れてしまった。 でも、クーカの身体を樹木の傍に引き寄せる手掛かりにはなった。クーカは何本かの枝の間を転げる様に落下していく。「うぐっ!」 一番下と思われる枝に腹をしたたかに打ち付けたクーカが呻き声を上げてしまった。彼女とて痛みは感じるのだ。「ぐはっ」 枝から地面に落ちたクーカは、肺の空気を全て吐き出してしまったかのような声が出てしまった。(は、早く…… 工場の敷地から脱出しないと拘束されてしまう……) 彼女は朦朧とした意識の中、脱出の事だけに専念した。クーカは痛みを無視する事が出来る様に訓練は受けている。痛みも彼女にとっては雑念の一種なのだ。すぐに立ち上がって周りを見渡し用水路を目指した。ヨハンセンが待機していると言っていたからだ。(ここからなら、拾い上げポイントまでたどり着ける……) クーカは工場のすぐそばを流れる用水路に飛び込んでいった。先島の事もチラリとよぎったが、まずは自分の安全が優先だと判断したのであった。 工場が吹き飛び爆炎を上げるのを鹿目は虚ろな目で見ていた。色々と画策したが何一つ手に入ることが出来なかったのだ。(どこで、間違ったのだ?) 挫折を知らない鹿目は戸惑っていた。彼の間違いはクーカを歯車の一つとして扱ってしまった事なのだろう。「ふっ、これでも私は日本を思っての行動だったのだがね……」 鹿目はぽつりと漏らした。傍には室長と藤井が控えている。藤井は鹿目との接触を全て室長に報告していたらしい。「人間のクローン技術は、今後の日本が強くなっていく為には必要な物なんだよ……」「……」 隣に
鹿目の工場。 目的の物を手に入れたクーカは台座の隠し扉から出て来た。もはや室内には物言わぬ骸しかいない。辺りを見回して少しだけため息を付いた。自分が入って来たエレベーターの出入り口に向かっていった。(応援が降りて来ているかも……) ひょっとしたらと身構えながら覗き込んでみる。しかし、誰もエレベーターシャフトには居なかった。急に応答が途絶したので対応が分からないのであろう。 クーカがシャフトを見上げると、自分が入って来た入り口は机のような物で塞がれてしまっている。エレベーターの箱は四階と五階の間で停止しているらしかった。(二階…… いいや、三階だったら待ち伏せされる可能性が薄いはず……) 自分が入って来た壁が塞がれているという事は、そこで待ち伏せされているに違いないと踏んでいた。自分でもそうするからだ。 安全に表に出る為には彼らの裏をかかないといけない。別段、殲滅しても構わないのだが、厄介な荷物を背負っているので避けたいところだ。(そこでジッとしててね……) 一階の塞がれた穴に向かって、そう心の中で呟くと一気に跳躍した。 クーカはエレベーターシャフトの中を、ジグザグに跳躍しながら登っていく。彼女の持っている身体能力の御陰だ。「んっ!」 三階のエレベーター口に辿り着いたクーカは、扉をこじ開けて中に入って行った。 すると『ズズンッ』とビルが振動するのが分かった。研究所の爆発が始まったみたいだ。小規模な爆発の連鎖で建物の構造を弱くしてから一気に破壊する。爆破解体と呼ばれる手法だ。(その後で焼夷爆弾で完全に燃やしてしまうと……) 外国のウィルス専門の研究機関では、燃焼温度が三千度にもなるテルミット反応爆薬が使われる。ここもそうしているに違いないと確信していた。証拠をもみ消すには完全に消滅させる必要があるのだろう。「……」 少し急ぐ必要性を感じていた