どうしてそんな日が来たのかは分からない。まさか運命がそう決めたのだろうか? 翌日。その日は祝日だった。ただ悠馬の学校では祝日を利用し、こうなきの施設点検が予定されていた。朝、悠馬はブレザーの制服に着替えると自室のケージにスーパー・ラバットを戻した。「今日は学校の用事で、僕ら一年のクラス委員は参加しなければならないんだ。午後には帰ってくるからね」 悠馬はスーパー・ラバットにそう話しかけた。スーパー・ラバットはといえば、ケージの中からじっと悠馬を見つめている。「じゃあ、待っててね」 悠馬が手を振る。スーパー・ラバットは悠馬から目を離さなかった。ドアを開けて部屋を出るとき、もう一度、振り返ってみる。スーパー・ラバットはまだ悠馬を見つめている。 悠馬は部屋に戻って、ケージの中からスーパー・ラバットを抱き上げた。 「行ってきます」 悠馬が声をかける。不思議なウサギ、スーパー・ラバットと、また何度目かのキスをした。 知らないうちに、スーパー・ラバットと唇を重ねていたのだ。 悠馬はもう一度、スーパー・ラバットをケージに戻し、今度は後を振り返ることなく部屋を飛び出していた。 悠馬が家を出てしばらく経った頃のこと。ふたりの家政婦が自宅の清掃をするため尋ねてきた。 母の芽衣と荒川先生が応対する。「私たちは出かけますが、後のことよろしくお願いします」「そうだ、先輩。ウサギを庭のケージに移さなければ」「そうだった」 母の芽衣が思い出したように叫ぶ。「全く、ずっと庭のケージでいいと思うんだけど」「その件は、また悠くんと相談しましょうよ」 母と荒川さんの相談が、果たしてどういう結果をもたらすのか? 今の悠馬は何も知らない。
悠馬が自分の部屋に入ると、ベッドの上にスーパー・ラバットがいた。 いつもと同じ。部屋の中のケージから、知らないうちに飛び出してベッドの上にちょこんと座っている。 悠馬に気がついたらピョンと跳ね上がり、無重力状態でフワフワと浮かびながら、最後は悠馬の胸の中に着地。悠馬は真っ白で大きなメスのウサギ、スーパー・ラバットを、悠馬の性格と同じく優しく丁寧に、そしてしっかり受け止める。 スーパー・ラバットはパッと悠馬の唇にキッス。そのまま、悠馬に優しく頬ずりしてくる。「君って本当に人間みたいだね」 悠馬が優しく問いかける。「時々、君がサ。僕の恋人みたいに感じることがあるんだ」 スーパー・ラバットがもう一度、悠馬の唇にキッス。ウサギなのに、悠馬の言葉が分かるのだろうか?「僕って婚約者がいたんだよ。信じる? こんな陰キャラにさ」 悠馬はスーパー・ラバットを抱きしめたまま、ベッドに横になった。 母親の芽衣と荒川先生は、悠馬を天文部に入部させ、将来は悠馬と荒川先生と結婚させて芽衣の研究を手伝わせようと綿密な計画を立てている。 今の悠馬には、それに抵抗するだけの勇気がなかった。 婚約者だった筈の彩良先生は、悠馬に背を向けて田辺さんと結婚して、悠馬の前から去った。そして今も行方不明のまま。もう二度と会うこともないかもしれない。母や荒川先生の願いに逆らうだけの強い理由なんか今はない。 悠馬に出来ることは、誰かに自分の思いを伝えることだけ。 悠馬はスマホを開いた。 彩良先生とのツーショットをディスプレイ画面に呼び出した。ディスプレイ画面の中では、今でも悠馬と彩良先生は婚約者のままなのに…。「スーパー・ラバット。彼女が僕の婚約者なんだよ」 悠馬はスマホの画面をスーパー・ラバットの鼻先に近づける。そのまま、ポロポロ涙を流した。「どうなんだろう?」 悠馬の声が途切れ途切れとなった。「今でも、僕って」 悠馬は、か細い声を出した。「彩良先生の婚約者のままなんだろうか?」 悠馬の声は慟哭に変わった。スーパー・ラバットが、長いお耳で悠馬の顔を優しく愛しそうになでた。 前足で、悠馬の胸をしっかりとつかんで離さなかった。 しばらくの後、悠馬はスマホを手にしたまま、眠りにおちていた。 疲れたのか? それとも何かの力が働いたのだろうか? スヤスヤと眠る悠馬の
「ただいま」 学校から帰宅した健は、恐る恐る一階の廊下から、応接室にいる母と荒川先生に声をかけた。「おかえり」「おかえりなさい」 テーブルの上には英語の本や書類、パソコンが置かれている。月の研究についての相談中の模様。 呼び止められ、将来の予定について問い詰められずに済みそう。 健はふたりの気が変わらないうちにと、急いで自分の部屋に入った。母の芽衣と荒川先生が、どんな話をしていたのかは何も知らない。「天王星を発見したウィリアム・ハーシェルの息子でイギリスの天文学者、ジョン・ハーシェル(1792~1871)は『月の人類』の中で、ハッキリ、月に住むセレネイ人とテレバシーで語り合ったと言っている。セレネイ人は、『自分の目はどんなに遠いものでも見えるし、どんな遠いところでも音声が聞こえる。今、私にはあなたの顔がハッキリ見える。何か飲み物をすする音もハッキリ聞こえる』とテレパシーで語ったそうよ」「セレネイ人は、月からハーシェルの姿が見えた。それにハーシェルの声も……。そんなことがあり得るのでしょうか?」「研究家の間でも色々な意見があるの。アメリカの天文学者、サイモン・ニューカム(1835~1909)はこう書いているわね。『セレネイ人は、まず遠近を切り替える目で目標物を定め、次に目標物とその周辺から発せられる音声を耳でとらえるのではないか』 この場合は、望遠鏡を見ていたハーシェルの視線にまず気がついたのだろうという訳ね。ただしこれはハーシェルの書いていることが事実ならばという場合。ハーシェルの子孫はハッキリ、『『月の人類』は元々、口述で書かれた私家本だったのに、SF作家、H・G・ウェルズ(1866~1946)の友人だった助手のハーラン・オーグルビー(ウェルズの代表作『宇宙戦争』に登場するオーグルビーのモデルとされる)が、金儲けに父を利用し勝手に増補した。先祖が月に住むセレネイ人なる荒唐無稽な存在を信じていたと云われるのは耐え難い』と語っている」「それじゃあ、ハーシェルが描いたとされる、このセレネイ人の絵も実はオーグルビーが……」「現在ではそう云われているわね」 ふたりは、ハーシェルが描いたというセレネイ人の絵に目をこらしていた。 絵を見ていた芽衣が、ハッと思い出したように言った。「明日、家政婦に家の中を大掃除して貰う。あのウサギも外のウ
キラリー公主の言葉に、誰もすぐには返事が出来なかった。アマンが全員を代表するように発言した。「具体的にはどうされるおつもりです」 キラーリ公主がひとりひとりの顔を見渡す。「直ちに地球の調査を終了し月に帰還するよう、ムーン・ラット・キッスに連絡を入れる」 アマンが重ねて尋ねる。「もし帰らなければ?」 「そんなこと決まっているだろう」 エブリー・スタインが横柄な口調で言う。「オレが地球に行って命令する。応じなければムーン・ラット・キッスは高齢のため、地球で死亡したことになる」 アマンが畳みかけるように質問を続ける。「では月に帰還すれば問題はありませんね」 キラーリ公主が首をかしげる。「問題はまだ残っているでしょう。地球総攻撃を彼女に説明する。それで納得すれば全ては解決する。ただあの女は、間違いなく同意しないと思う」 「もし同意しなければ?」 エブリー・スタインがアマンを嘲るように見すえる。「それぐらい分からんか? あの女は地球からの帰還後、病死したことになるのだ。盛大な葬儀が執り行われることになろう」 アマンは首を振った。「ムーン・ラット・キッス女王の正体がいまだにハッキリと分かっていないのに危険です。冥王星と金星を滅ぼしたことを忘れたのですか?」 エブリー・スタインが鼻で笑う。「それは随分昔の出来事だ。今見れば、軍事的にはたいしたものでもないだろう」 「しかし」 「アマン、お前は軍人じゃないのか?」 エブリー・スタインが頭からアマンを見下した態度をとった。「戦うのが怖いというなら、お前は軍人ではなく、平凡な家庭の主婦として暮らす方がよいかもしれないな」 アマンが何か言いかけるのを、キラーリ公主が制した。「アマン。あなたの意見はよく覚えておく。ありがとう……」
「今後の地球総攻撃は、ひとえにセレネイ国軍の働きにかかっている」 キラーリ公主の大声が、王宮の奥の会議室に響き渡った。 会議室には大きな円形のデスクが置かれ、軍の幹部が勢ぞろいしていた。 その中にはアマンの姿もあった。アマンの隣の席には、眼鏡をかけたスーツ姿の男性がいる。 キラーリ公主は会議室の中央に立ち、幹部一同を見回している。隣ではエブリー・スタインが、姉の七光りの下、出席者を見下したように薄い笑いを浮かべている。 キラーリ公主はいつものセクシーな下着姿ではない。シルバーに輝く詰襟の軍服姿。少し小さめに作られており、バストの大きさ、美しい体の曲線が強調されている。膝上のミニスカートからはダーク・ブラウンのタイツを履いた長い脚が伸びている。 いつものけだるさは微塵と見られない。どちらの姿が、本物のキラーリ公主なのか? それを知るのは本人だけなのかもしれない。「そしてもうひとつ重要なのは、ムーン・ラット・キッス女王の動きだ」 キラーリ公主がスーツの男性に頭を下げる。エブリー・スタインは知らん顔をしていた。「クラーク・ダン博士。先ほどのアマンの説明に補足願えますか」 スーツ姿の男性が立ち上がると、眼鏡の縁に指をかけ、ゆっくりと話し始める。「ムーン・ラット族の目と耳が異常に発達している点ですが、彼らが話をすることが出来なかったことと関係あるかと思われます」「ムーン・ラット族がしゃべれない。しかし、キッス女王は……」「本来、彼らはテレパシーのような能力を持ち、それをお互いの意思疎通にしていたものと思われます。」 キラーリ公主が首をかしげる。「それじゃあ、キッス女王の会話というのは?」「テレパシーの具現化をしているかと思います。キッス女王の目と耳は、恐らく他のムーン・ラット族と比べ物にならないほど発達しているかと思われます。耳の部分に集積、すなわち保存された無数の音声を瞬時に編集して再生しているのです。つまりキッス女王の発する言葉というのは、編集された再生音声に過ぎないのです」 出席者の軍幹部が顔を見合わせる。キラーリ公主が腕を前で組む。「いずれにしても……」 キラーリ公主の声が大きくなる。「あの女について分かっていることはあまりにも少ない。王宮に『ゼンダ・システム』を導入したから、私たちの会話を聞かれることはないと思
「ムーン・ラット・キッス女王は自分の耳で聞いた音声を集積、つまり保存することが出来ます。そしてそれをいつでも再生することが出来ます。再生の音量を調整することも出来ます。さらに保存した音声を、保存したほかの音声と組み合わせて編集することも出来ます」「そんな能力、ぜったい持って欲しくはない女。あなたもそう思うでしょ」 キラーリ公主はため息をついた。 読者のみなさんは覚えているだろうか? 悠馬の危機に突然、聞こえてきたパトカーのサイレンや刑事の声。そういえば、悠馬が録画していたテレビドラマには全く同じ音声があった。 まさかムーン・ラット・キッスがテレビの音声を保存して、いざというときに役立てたとでもいうのだろうか? それじゃあ、ムーン・ラット・キッスは悠馬のすぐ近くにいるのだろうか?「さらにムーン・ラット・キッスの視力は、遠近両方切り替えることが出来ます」「まさか、地球の光景を見ることが出来るというワケ?」「ここは月の裏側です。両目の逆方向にある物体を見ることは出来ないようです。見えるのは、あくまで前方ということになります。ただサライ主任から月の表側に設置してある望遠鏡の映像の提供を受けていました。恐らくコンピュータに送信してもらっていたのでしょう。これなら地球の様子を見ることが可能になります」「要するに狂った女に鋭い刃物を持たせる結果になったワケね。あったまくるな」「精神的に異常なのか、それは私には分かりかねます」 アマンは冷静に説明を進める。「それでこの嫌われ者のおばあちゃんは、ずっと地球の様子を見て聞いていて、地球の何かに興味を持った。だから私たちの地球総攻撃を延期させたというワケ?」「私はそのように考えてます。今となっては取り返しがつきませんが、多分、サライさんは詳しい事情を知っていたかと……」「だけどしょうがないじゃない。法律に違反したんだし……。アマン姉さんの話を聞かなかったのは反省してる。サライの両親には、私からたくさんの年金をあげるし、アマン姉さんには新しい車、買ってあげる。これで手を打ってよ」「分かりました」 アマンは苦笑した。子どもの頃、実の姉妹のように暮らした日々を思い出している。「サライ主任のコンピュータを解析しています。いずれ詳しい事情が分かるかと」「お願い」