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第106話

Author: 冷凍梨
2日ほど休みを取れ。

風波が過ぎてから戻ればいい。

――なるほど。八雲が突然「全身検査」などと言い出したのは、私をしばらく人目から遠ざけるためだったのか。

「じゃあ私は?2日休んだ方がいいの?」

葵が、私も気になっていたことを口にした。

「必要ない」八雲の返事はきっぱりとしていた。「俺たち神経外科は他人の目を恐れない」

鼻の奥がつんと痛み、私は手のひらを強く握りしめた。少しでも音を立てまいと。

ふと手元の点滴管を見下ろした。脳裏には、彼が慎重に輸液スタンドを持ち上げてくれていた姿がよみがえった。

私は歯を食いしばり、そのまま針を引き抜いた。

誰も予想しなかっただろう――私は朝の勤務に姿を現した。

看護師長がクリップホルダーを抱える私を見て駆け寄り、心配そうに言った。「昨日は倒れたでしょ。少しくらい休んだら?」

「大丈夫です。打たれ強いですから」わざと軽く答えた。「休んだら給料が減っちゃいますしね」

看護師長は呆れたように首を振った。「まあいいけど、もし本当に無理になったらすぐ言うのよ。無理だけは禁物だからね」

私は軽くうなずき、彼女が続けるのを聞いた。「そうそう、昨日のあの動画、今朝消されてたわよ。優月ちゃん、知ってる?」

私は首を振った。けれど八雲と葵の会話を思い出し、おそらく彼の仕業だろうと推測した。

――可愛い「後輩」の評判を守るために。

そう考えると、無理に口角を引き上げてみせた。「じゃあ行きましょう。回診に」

噂話に対する覚悟はしていた。だが時に、噂より恐ろしいのは人の偏見だ。

案の定、脳外科の患者を回診していたときのこと。

患者の夫がどこからか私のことを聞きつけ、どうしても私に診てもらいたくないと声を荒らげた。

「こんな、出世のために同門を陥れる女に、俺の妻を任せられるか!責任者を呼べ!医者を替えろ!」

身長180センチを超える大男が私の前に立ちはだかり、指を突きつけた。

胸の奥に怒りが広がったが、私は辛抱強く言葉を返した。

「ご家族の方、落ち着いてください。たとえ医師を交代するにしても、私が回診を終えてからでなければ――」

言い終える前に、強く突き飛ばされた。

「ガンッ!」と音を立て、額が壁の角にぶつかた。

「黙れ!さっさと責任者を呼べ――」男の言葉が途中で止まった。

胸ぐらをつかまれ、声が喉に詰ま
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Comments (1)
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カナリア
葵は最初から疑ってるだけでここまで目の敵にしてるの? いまいち分からないんだけど… もう見切りつけて出た方がいいけど、お父さんが問題なの? 派手ずきな母は捨ててもいいと思うけど… なんで義理家族にも嫌われて本人にも疎まれ愛人に嫌がらせされながらその立ち位置にいるのか もういいんじゃないかなぁ 次の展開に進めてー
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