同僚で婚約者の颯(はやて)を母に紹介する日だった夜、彼は私に電話で別れを告げてきた。そして、翌日出社すると同僚の七條璃子は身分を隠していたが、実は社長の孫娘だと判明。近々結婚するため公にしたが、その相手と言うのは昨夜別れたばかりの颯だった。四年間、彼に尽くし結婚の約束までした矢先の出来事に動揺するが、彼は今まで見せたことのない冷酷な表情で私にこう言い放った。「お前には飽きたんだよ。璃子と一緒になれば俺は会社の跡継ぎだ。璃子は何でも分け与えてくれる」 私は怒りと屈辱で彼の隣を去る決意をした―――
View More午後六時四十分、この日、母に同僚で恋人でもある颯(はやて)を紹介するため、待ち合わせ場所の店の前で彼の到着をずっと待っていた。
約束の時間まであと二十分。時間に遅れたことがない颯のことだから、もうそろそろ着くはずだ―――――
しかし、颯はなかなか姿を見せず、電話をしても繋がらない。メッセージも既読にならないことに胸に嫌な予感が広がる。
「佐奈のこと、人生を掛けて幸せにする。だから結婚してください」、あの時くれた誓いの言葉が、心の中でざらついて消えた。そして、待ち合わせに十分過ぎてからようやく颯から電話がかかってきた。
「颯、今どこにいる?心配したんだよ。何かあった?」
「ごめん。行けなくなった。」
「どうしたの。具合でも悪い?」
「そうじゃないんだ。佐奈、俺たち今日で終わりにしよう。今までありがとう」
「え?颯?どういうこと?ちゃんと説明して………」
ツーツーツーツー
颯は、私の話を遮って電話を切った。すぐに掛けなおしたが電話には出ない。電話が切れて数秒後の着信に気がつかないわけがない。その後も颯から折り返しがくることはなかった。
(なんで?急に別れるなんてどういうこと?昨日の夜までいつも通りだったじゃない。どういうこと?)
母には、急な打ち合わせが入ったと説明して二人だけで食事をした。頭の中では、颯のプロポーズや先ほどの電話の言葉が交互に繰り返されていた。
翌日、一睡もできずに頭がボーとする中、会社に行くと辺りが騒々しい。
みんな周りを気にしながらひそひそと話をしている。同期に「おはよう」と声をかけると、彼女はすぐに私のところに来て腕を掴み、人がほとんど来ることの無い非常口前の部屋へと直行した。「佐奈、大変なことになったよ。聞いて。総務の七條さんいるでしょ。彼女、実は社長の実の孫娘だったんだって。それを隠して入社してたらしいんだけど、婚約者ともうすぐ結婚するからって、昨夜、残業中に総務部の取締役がうちの部門長に話をしにきたの。」
「七條さんが―――?」
七條璃子。直接話したことはなかったが、艶々の黒髪で凛とした佇まいが美しく、女優にもなれそうな容姿で有名な人だ。まさかそんな美人が社長の孫娘だったなんて驚いた。しかし、それ以上に驚いたのはこの後だった。
「それで婚約者と言うのがね……松田さんなの。二人、社内恋愛していたみたい」
(嘘でしょ。松田って颯のこと?だって颯は、私にプロポーズしてくれて昨日も母に紹介する約束をしていたのに……)
昨日、待ち合わせ場所に訪れず別れを告げた理由も分かったが、頭の理解が追いつかない。颯がそんなことするはずがない、何かの間違いだと思ったが、そんな思いはすぐに打ちのめされた。
遠くからエレベーターが到着した音が聞こえると、辺りが先ほどよりも、より一層ザワザワとしたどよめきに溢れていた。視線を移すと、そこには颯と七條璃子が仲睦まじく並んで歩いている。
璃子は、颯の腕に軽く手を絡ませて微笑んでいる。颯は、佐奈と付き合っていた頃には見せなかった、どこか緊張した笑顔を浮かべていた。
(噂は本当だと言うの?社内恋愛っていつから?だって私たちは四年も付き合っていたのに。その期間も颯は七條さんと付き合っていたの?)
昼休みに差し掛かる前、颯の周りに人がいないことを確認してからそっと近寄り話しかける。
「松田さん、話があるんですけれど今いいですか?」
「忙しいから無理だ。それと今後は璃子以外の女性とは仕事以外の話はしないことにしたから話しかけないでくれ。業務で用があっても話しかけずに社内メールにするように。」
(仕事以外の話はしないって、それなら昨日の話はいつならいいの?それとも社内恋愛で社内の出来事だから社内メールでも送っていいわけ?)
「それでしたら、社内メールにて昨夜の件と今までの経緯を時系列で記載してお送りしますね。なんなら、七條さんと総務部長や関係各所も宛先に入れて送付した方がいいですか?」
私が笑顔で言うと、颯は殺気に満ちた目で私を睨みつけてきた。
「そんなことしたらどうなっているか、分かっているだろうな。この会社にいられなくなるようにすることも出来るんだぞ」
「それは自分の実力ではなく、周りの力を借りて、でしょ?どういうことか分かるように説明してくれない?」
颯は手元の時計を確認すると時刻は十二時一分を指していた。
「これから璃子と約束しているんだ。変な誤解を与えるようなことはしないでもらえるか?」
颯は私との会話を切り上げてその場を去って行った。
突然の婚約破棄、新しい恋人は社長令嬢、引越しと目まぐるしく変わっていく颯の日常、そして取り残された私――――家に帰り、ベッドの中に入ったが眠ることが出来ず頭の中に何度も颯が出てくる。もっとも、今は憎しみと悲しみで楽しい気持ちにはなれなかった。(何やっているんだろう。結局、颯は私より将来も社長の座が約束されている七條さんを相手に選んだってことか。恋愛より地位、愛よりお金を選んだんだよね)普段なら気にならない、時計のチクチクチクチクと動く秒針の音がやけに大きく聞こえてくる。規則的で、そして機械的に動く音に、早く切り替えるように急かされているような気分になり胸がざわついた。これからも同じ部門で彼のサポートをするかと思うと嫌気がさす。サポートした先にあるのは颯と璃子の将来、そして会社での新しい役職だ。颯の仕事がうまく行くように、二人で残業して何度も打ち合わせを重ねた。颯が評価されるのが自分の事のように嬉しくて、仕事でもプライベートでも、付き合っていた四年間支え続けてきたつもりだ。「佐奈っ、ありがとう。佐奈のおかげで頑張れる。好きだよ」そう言って、私を抱きながら耳元で囁く颯を見て幸せな気持ちに包まれた。好きな人に好きと言われ、二人で同じ目標に向かい頑張っている時、そして成果として現れた時の達成感は格別でハイタッチをしてギュッと強く抱きしめあっていた。(心が一つになったと感じる瞬間を今まで何度も味わってきたと思ったけれど、颯は違ったのかな。私のうぬぼれなのかな……)電気を消して暗くなった天井を眺めながら、頭に浮かぶのは颯の事ばかりだった。この日も眠れずに長い長い夜を過ごした――――颯と七條さんが付き合っているという噂が流れてから二週間が経った。この日、颯の席に七條さんがやってきた。社内で噂を十分に知れ渡っており、颯のところに業務で全く関りのない七條さんがやってきても驚く者は誰もいない。「颯、ランチ一緒に食べない?」「ごめん。今日は午後一から打ち合わせで外に行く時間はないんだ」「えーつまらないの。いいや、また今度行こうね」私は、聞こえないふりをしてパソコンのモニターに集中して文章を打ち続けていた。「チッ―――――」突然、舌打ちをした時の小さな音が背後から聞こえて動揺が隠せなかった。私の隣の席は、颯。そして座っている颯に話しかけているのは、七條さん
仕事が終わり、颯のアパートに行ったがまだ帰ってきていないようで部屋の電気は点いていなかった。このままじゃ終われない。二人だけで会って颯の口からしっかりと話を聞きたかった。仕方なくアパートが見える近くのカフェでコーヒーとサンドイッチを食べながら、颯の帰宅を待っていたが、いつまで経っても颯は姿をあらわさない。ホットコーヒーはすっかり冷めきってしまい、時計の針が二十二時を指そうとしていた時に、店員が閉店を告げに来て店から出されてしまった。(もう仕事終わっているはずなのに、もしかして七條さんと一緒なのかな……)朝、颯の腕に手を添えている七條さんの姿を思い出すと胸が切なくて苦しかった。緊張した様子で微笑んでいる颯は、付き合ったばかりの笑顔とそっくりだった。だけど、それは私がこの四年間二股を掛けられていたと認めたくないからそう見えるのかもしれない。外に出ると辺りはすっかり暗くなり夜風が冷たい。颯のアパートをもう一度見て、諦めて家に帰ろうとした時のことだった。私服姿の颯がアパートに向かって歩いてきた。「颯……。」 「佐奈?こんなところで何しているんだ。」 私がいるとは思っていなかった颯は驚いて後ずさりをしたが、すぐに表情を元に戻し昼間話しかけたような冷酷な顔になった。「何って颯と話がしたくて。なんで私服なの?スーツは?会社帰りじゃないの?」 「もうここには住んでいない。それに昼間、璃子以外の女性とは仕事以外の話はしないって言ったのを忘れたのか。こういうことはもうやめてくれ」颯は私の顔を見ようともせずに通り過ぎようとしたので、思わず腕を掴んで引き留めた。「それならちゃんと話してよ。プロポーズされたのに突然別れを告げられて納得できると思うの?」 「気安く触るな。お前には飽きたんだよ。結婚しようだなんてどうかしていた。そう思ったからやめることにしたんだ。」 「何それ……最低」 「そうか。でも璃子はそんな事言わないぞ。璃子は、俺のことを愛してくれている。それに、将来も約束してあの会社の跡継ぎになって欲しいと言われて。何でも分け与えてくれるんだ。」颯は、嘲笑うように乾いた声で「ふっ」と口元を緩めていた。「ああ、そうだ。渡していた合鍵を返してもらえるか。もうこの部屋は引っ越して返却が必要なんだ。社長が今後の璃子との生活のためにマンションを用意してくれたから、
午後六時四十分、この日、母に同僚で恋人でもある颯(はやて)を紹介するため、待ち合わせ場所の店の前で彼の到着をずっと待っていた。約束の時間まであと二十分。時間に遅れたことがない颯のことだから、もうそろそろ着くはずだ―――――しかし、颯はなかなか姿を見せず、電話をしても繋がらない。メッセージも既読にならないことに胸に嫌な予感が広がる。「佐奈のこと、人生を掛けて幸せにする。だから結婚してください」、あの時くれた誓いの言葉が、心の中でざらついて消えた。そして、待ち合わせに十分過ぎてからようやく颯から電話がかかってきた。「颯、今どこにいる?心配したんだよ。何かあった?」 「ごめん。行けなくなった。」 「どうしたの。具合でも悪い?」 「そうじゃないんだ。佐奈、俺たち今日で終わりにしよう。今までありがとう」 「え?颯?どういうこと?ちゃんと説明して………」ツーツーツーツー颯は、私の話を遮って電話を切った。すぐに掛けなおしたが電話には出ない。電話が切れて数秒後の着信に気がつかないわけがない。その後も颯から折り返しがくることはなかった。(なんで?急に別れるなんてどういうこと?昨日の夜までいつも通りだったじゃない。どういうこと?)母には、急な打ち合わせが入ったと説明して二人だけで食事をした。頭の中では、颯のプロポーズや先ほどの電話の言葉が交互に繰り返されていた。翌日、一睡もできずに頭がボーとする中、会社に行くと辺りが騒々しい。みんな周りを気にしながらひそひそと話をしている。同期に「おはよう」と声をかけると、彼女はすぐに私のところに来て腕を掴み、人がほとんど来ることの無い非常口前の部屋へと直行した。「佐奈、大変なことになったよ。聞いて。総務の七條さんいるでしょ。彼女、実は社長の実の孫娘だったんだって。それを隠して入社してたらしいんだけど、婚約者ともうすぐ結婚するからって、昨夜、残業中に総務部の取締役がうちの部門長に話をしにきたの。」「七條さんが―――?」七條璃子。直接話したことはなかったが、艶々の黒髪で凛とした佇まいが美しく、女優にもなれそうな容姿で有名な人だ。まさかそんな美人が社長の孫娘だったなんて驚いた。しかし、それ以上に驚いたのはこの後だった。「それで婚約者と言うのがね……松田さんなの。二人、社内恋愛していたみたい」(嘘でしょ。松田って颯のこ
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