八雲は私の目の前で電話に出た。幼い少女の声がスピーカーから漏れて、女の子は嬉しそうに話した。「八雲先輩、クラスメートから聞いたよ。駐車場で八雲先輩が見たんだって。本当?」男は指でポンとハンドルに当てて、穏やかな口調で、「ああ、俺だ」と答えた。「本当?いきなりすぎてびっくりしたよ!」それを聞いて、八雲はまるで向こうからの一字一句も聞き逃したくないように、更に耳をスピーカーに近づけた。気づかれがたい笑みがその顔に浮かんだ。「あっ、また何か変なことを言っちゃったかな」松島葵は自問自答しているように、少し怯えているような口調で口を開いた。「もしかしたら、八雲先輩は用事があって大学に来たかもしれないし」女の子は到底若かった。何を考えているのかすら隠せないし、探り方もバレバレだ。しかし八雲は嫌ではなさそうだった。そして突然話題を変えて、「もう食べた?」と聞いた。そう言いながら、その細くて綺麗な目を私の顔に走らせた。そしてようやく体をドアのほうに傾けた。さっきは絶対にもう私の存在を忘れただろう。二人で少しお喋りをしてから、八雲はやっと電話を切った。その男の顔に浮かぶ喜びを見て、私はついに気がついた。八雲はわざわざ私を医学部まで送ってきたわけではなく、会いたい人に会いに来るから、ついでに私も連れてきただけだ。そう。またついでに。私たちは3年間も一緒に暮らしてきて、八雲が珍しく私を目的地まで送ってくれたのは、まさか好きな女の子に会いに来るためだったなんて。心はまるで針に刺さられたように、チクチクと痛み出した。私はもやもやする気持ちを抑えて、シートベルトを外した。「今夜は当直だから」男は低い声で、説明しているように言った。「帰れないんだ」当直。私は心の中で嗤った。その口実、八雲はまだ使い飽きないんだね?私はサクッと車から降りたが、顔を上げると、向こうのそのきゅるんきゅるんな目と視線が合った。葵が既に来ていた。女の子は冬のJK制服を着ていて、黒いハイソックスとスニーカーとコーデして、まさに清楚系の美少女で、なんという可愛らしい姿だった。目と目が合った時、その顔に浮かんでいた笑顔は明らかに固まった。私へ向けた視線も探っているように私の身に走らせた。そうだろう。結婚証明書では、
そう。私は採用されたのだ。しかし東市協和病院の脳神経外科ではなく、麻酔科だ。あまりに急すぎるサプライズで、喜んでいいのか、悔しがっていいのかすら分からなかった。脳神経外科専門で毎年試験で1位を取っている私は、最終的にまさか副専門の麻酔科学で東市協和病院に入ったとは、誰も予想しなかっただろう。だけど松島葵の名前は、脳神経外科のリストに入っていて、すごく目立っていた。同じく採用されたのは、他の大学院の医学部の修士1名だった。二つの枠に、私はいなかった。「決まったわ」電話の向こうで、加藤さんはペラペラと話し続けていた。「必ずいい芝居にして、満員御礼にするから、私が用意してあげるわ」加藤さんは冗談で言い出すわけがないと分かっているから、私はすぐに止めた。「そんなに急がなくても。まずは......考えさせて」私の口調から躊躇いを感じたか、加藤さんは不満そうに言った。「優月、まさか前に言ったことは私を誤魔化すために作った理由じゃないよね?」私は眉間をギュッとつまんで、ため息混じりに言った。「正式に顔を出しに行くのは来週の月曜日からだから、この2日間は準備するだけでいいんじゃない?私にも時間がほしいし」正直に聞こえる口調で言ったから、加藤さんもこれ以上疑いをせず、未練がありながらもやっと電話を切った。私はもう一度東市協和病院の公式サイトに視線を向けた。「麻酔科」という3文字に目が離れなかった。知っているのだ。これは今唯一東市協和病院で務められる方法だと。それに、唯一仕事上で八雲と繋がりができる形だと。八雲が気にしなさそうな形で。しかし、麻酔科医は、脳神経外科医とは全く違う分野だ。私はちゃんとできるのかな?このチャンスは掴むか、諦めるか、私は迷った。それで、私は佐々木教授に電話して、研究施設棟での待ち合わせを約束した。すでに60歳を過ぎた年寄りは、老眼鏡をかけていて、頭を垂れている私を見たら、からかうように言った。「たった1年のインターン期間だし、何が怖いんだ?」私は素直に答えた。「麻酔科医になろうとは思ってなかったです」その年寄りは目の前の盆栽をいじりながら話していた。「君は特別入試の面接の時だって、脳神経外科医になろうと思ってなかったじゃん。だが結局、紀戸くんのためにこの専門にしただ
本当に八雲の主催だった。この瞬間、私は心の中で泣き笑いした。妻として、自分の夫の性格に関してはよく知っている自信がある。八雲は静かな場所が好きだから、一般的には、絶対にパーティーなどに行くわけがない。私が紀戸家に嫁入りしたこの3年間、そのような珍しい状況は1回か2回しかなかった。なのにたったこの半ヶ月で、その例外はもう2回もあった。目の前のこの純真無垢な女の子のために。お祝い?奢り?じゃあ私は?お茶を淹れてあげるためにいるのか?心が不意に真っ二つに分けられた。半分は失望の気持ちで、半分は羨ましい気持ちだった。「いや、私はいい」私は軽い口調で言った。「約束があるから」それを聞いて、葵は小さくため息をついて、「じゃあまた今度ね、水辺先輩」と優しく言った。元気な女の子がぴょんぴょんと視界から消えていくのを見送ってから、私は即座にスマホを開いて、ロック画面に映っているスケジュールを確認した。記憶が正しければ、今夜は八雲の当直のはずだ。ということは、この男は葵の就職を祝うために、同僚と当直の日を入れ替えたの?驚きと恐れが混ざって、心から溢れ出した。私は深呼吸をして、浩賢に電話をした。「そうだよ。今日の紀戸先生は丸くなったな」スピーカーから、藤原浩賢の気楽な声が聞こえた。「知ってるだろ。あいつのような仕事熱心な人、1ヶ月間でも1回休みを取るとは限らなかったのに、水辺さんのお祝いをするために、僕と当直を替えたとは。きっと水辺さんのことを大事にしてるだろ」私はスマホを握りしめた。色々な感情が心の中で渦巻いていたが、苦しみだけが溢れ出した。浩賢は知らなかった。その私のことを大事に思っている八雲は、自分のすべての優しさを、他の人に捧げた。私ではなかった。「水辺さん?」私の声が聞こえなかったからか、浩賢は少し声量を下げた。「このことは内緒にしてね。紀戸先生はきっとサプライズにするつもりだったから......」「サプライズ」という言葉が耳に入って、私の心臓はギュッとなって、ずっと抑えていた感情は最終的に爆発してしまった。浩賢に異常を気付けられないように、私は平気そうな口調で言った。「ありがとう、藤原先生。じゃあまた」電話を切ったら、私は医学部の道を沿って、前へ歩き出して。一周回ってからま
家に帰ってから、私は荷物の片付けを始めた。八雲に追い出されるより、自分で離れたほうがいいと思ったからだ。スーツケースがいっぱいになりそうなところで、リビングからいきなり物音がした。あっという間に、男のでかくてまっすぐな姿が寝室のドアの前に現れた。八雲が帰ってきた。いつものきちんと整えている姿とは違って、今の八雲はシャツの襟が完全に乱れて、少し緩んでいるネクタイがその首につけられていた。ダウンライトの欠片のような灯りに照らされて、なぜかその男はすぐにバラバラに崩れそうな感じに見えた。おかしい。しばらく見つめ合っていたら、私は平然たる顔でスーツケースを閉めたが、男のイライラしているような声が聞こえた。「何拗ねてんだ?」拗ねてる?私はその言葉を噛み締めて、心の中で笑い出した。今更、まだ私と芝居を続けるつもりなの?伸縮ハンドルを握りしめて、私は胸元の息苦しい感じを抑えて、平気そうな口調で話した。「拗ねてないわ。どうせ契約期間は最後の2ヶ月しかないし、いっそ早めに......」「もう演技が続けられないのか?」八雲は私の口を挟んだ。そして鼻で笑った。「まだ東市協和病院にも入ってないのに、そんなに急いで俺との関係を断ちたいのか?」関係を断つ?私は眉を上げて、また視線を八雲の顔に向けた。いつものはっきりした目鼻立ちで、いつもの欠点のない輪郭なのに、どうしてこの瞬間、こんなにも馴染みがなく見えるだろう?こうなったら、私はいっそ破れかぶれになった。「そうね。紀戸先生があんなに邪魔をしてきたのに、きっと私が結局上手く東市協和病院に入れたとは思わなかったでしょ?」皮肉な言葉が私の口から出た。男は少し嫌気の差した目をして、全身にも近寄りがたい空気が纏われていた。どうやら怒ったみたいだ。わざと怒らせたわけではないが。私はさり気なく視線を戻して、スーツケースを持って、ドアのほうに向かった。しかし突然、男の長い腕に止められた。近づくと、男の体からのアルコールの匂いがついに鼻に入った。また酒が飲んだ。そう。あのストイックな紀戸先生は、また自分の悪魔ちゃんのために、お酒を飲んでしまった。「退いて」私は冷たい態度で言ったつもりだが、出した声には、結局辛さが混ざってしまった。情けないことに。
加藤さんと私は義母の向こうに並んで座っていた。座ったばかりで、私は困惑した目を加藤さんに向けた。加藤さんはデキャンタを扱いながら、私の困惑に答えた。「あんた、東市協和病院に採用されたんでしょ?そんなにめでたいこと、もちろんお義母さんにも教えないと」言い終わって、加藤さんは義母のほうを見た。その目で隠さずに自慢と誇りを現していた。分かるべきだった。加藤さんの性格からして、何もしないわけがないと。ただ、まさか直接に義母を呼び出したとは思わなかった。色々経験してきた義母は、それだけでは驚かなかった。ただ全く動じない表情で言った。「ただの麻酔科のインターン生でしょ?何をそんなにはしゃいでるの?」どうやら義母も話を聞いたみたいだ。「そう言わないでよ、玉惠さん」加藤さんは上手な言い回しで、ペラペラと話しだした。「うちの優月は二重専攻なのよ。麻酔科は優月の非凡な才能で、異例として採用されたわよ」義母は眉を上げて、嫌気の差した顔をした。「それで?わざわざ私をここまで呼び出して、ただそんなことを自慢するため?忘れないでよね。うちの八雲は東市協和病院の首席執刀医なのよ」その傲慢な口調を聞いて、加藤さんは一瞬表情が固まった。でもすぐに情緒を安定させて、にこにこしながら言った。「もう、玉惠さんったら。八雲くんが優秀なのは、周知のことじゃない?だからこそ、優月は自ら東市協和病院で就職するチャンスを諦めて、安心して全身全霊で紀戸家のために子孫を残すことができるもん」そして、私に目配せをした。たぶん、義母の前で誠意を示してほしいということだ。私はギュッと手を握りしめて、少し躊躇した結果、何も言わなかった。その言い回しに、義母は意外と納得しているようだった。頷きながら、「自覚を持てればいいわ」と言った。加藤さんも愛想笑いをして、ゆっくりと話を進めた。「この3年間で、優月はどんな子なのか、玉惠さんもよく分かったでしょ?それに今も、紀戸家のために自分の明るい進路を捨てたのよ。かなりの忠誠心だわ」義母は私の身に目を走らせて、顔色はようやく少し柔らかくなった。「でもね」加藤さんは急に話題を変えて、私の手を取って言った。「優月は八雲くんと結婚してもう3年も経ったのに、二人の関係はまだ公表されてないでしょ?もしいき
高価で、売る?私は信じられないような目で八雲を見た。一瞬だけ、本当に自分の聞き間違いではないかと疑った。まさか、「売る」という言い方をするなんて。加藤さんも明らかにその言い方に驚いた。彼女は口を開いて、困った顔で説明した。「違う。八雲くん、勘違いしないで。お義母さんも二人のために思ってるからこうしたのよ。それに優月がそんなに八雲くんのことを愛してきて、そんなことを言ったら、優月は悲しむわよ」八雲は暗い顔で、もう一度目録に目を走らせた。そして怒りの混ざった声でこう言った。「こんなに細かい目録まで用意してきて、優月、お前ら結構遠くまで企んでんな?」お前らって。それは加藤さんと私のことだった。八雲の目からして、私は彼と結婚するために色々な悪巧みを企んできた。そして水辺家も彼に罠を仕掛けるために色々工夫してきたのだ。この前、この男は少なくともマナーとして、礼儀正しく振る舞ったが、今はまさか私の前で加藤さんを、私の母を責めたなんて。私のことを何だと思っているの?胸元のチクチクと痛かった感覚はもやもやした苦しみに変わった。八雲と過ごしたこの3年間の日々が脳裏に蘇ると同時に、私の顔色もどんどん真っ青になっていった。私はついにはっきりと分かったのだ。八雲は最初から、私を眼中に置いていないかもしれないと。そう思って、私は苦笑いして、八雲と視線を合わせた。落ち着いた口調で言った。「ごめんね。紀戸先生に余計な心配をさせてしまったね」まだ話している途中で、私はもう八雲から目録を取り戻した。その上に書いてある文字に目を通した瞬間、私の心はまるで何かに切られているように疼き出した。目録に書いてある結納品、紀戸家は絶対に出せる。これ以上出しても痛くないくらいだ。ただ、八雲の渡したい人は、私ではないのだ。びりっと音がして、数秒間も経たずに、紙は私の手の中でバラバラに引き裂かれた。加藤さんはそれを見て、目を丸くした。そして大声量で悲鳴を上げた。「こ......これはブライダル業者に丸2日間もかけて作ってもらったものなのよ......ちょっと、な、なんてことをするの?」そう言って、加藤さんは義母のほうに目を向けた。それで義母はまた私のほうに目を向けて、無慈悲な口調で言った。「ただ軽く非難されただけなのに、何先に怒り出してるの?
夜9時、私はクタクタな体で家に戻ったら、マンションの上がり口で加藤さんとば会った。今の加藤さんはメイクが完全に落ちて、負け犬のように、無気力に隅っこでしゃがんでいた。私を見た瞬間、彼女はすぐに立ち上がって、大きい歩幅で私の前まで歩いてきた、そして怒りを帯びた口調で叱った。「優月、偉いわね。よくも私を裏切ったね?」私はため息混じりに言った。「先に階段を上がろう」「私に八雲くんに合わせる顔などあると思う?」泣き腫らした両目を丸くした加藤さんは、私を睨んでいた。「今あんたは玉惠に仕事のために妊娠の準備を疎かにするって思い込まれてるし、紀戸家のことが眼中にないって思われてるし。こうなったら、どうすればいいって言うの?」それを聞いて、辛い気持ちが私の胸に秘められた。「考えたわ。今すぐ一緒に紀戸家の実家に行こう」黙りこくっている私を見て、加藤さんは前髪を手櫛で治しながら、空元気で言った。「すぐにお義母さんに謝って、就職のことはただ一時の迷いだと説明しなさい」私も目を丸くした。そして加藤さんのほうを見た。「それで?」「妊娠の準備をして、子どもを産む」加藤さんは明確的に考えを述べた。「上手く紀戸家の子どもを孕むことができたら、玉惠はもう何の口出しもできないわ」そのぷんぷん怒っている顔を見て、怒りのあまり、私は逆に笑い出した。しばらくしたら、私はゆっくりと口を開いた。「母さん、今になってまだ分からないの?私たちが紀戸家に依存してる限り、頭を上げることもできないわよ」それを聞いた加藤さんは一瞬呆然とした。そして不満な目つきで私を睨んで、短気を起こした。「だから?私だって紀戸家なんかに依存したくないのよ。しかし今お父さんはまだ療養所で横になってるし、妹も、パリで学業を終えるまであと2年もあるし、それらの費用はどうするの?」私は困惑した目を加藤さんに向けた。目が合った瞬間、加藤さんは慌てながら手で口を覆った。それから何かを隠そうとしているようで、目を逸らした。「療養費、学費」深く息を吸って、私は隠しきれない不安を帯びた口調で言った。「それらは紀戸家と何の関係があるの?」加藤さんは何も言わずにいた。でもさっきよりも明らかに弱気になった様子だった。とある推測が脳裏に浮かんで、私は更に追い詰めた。「母
嫌な思いを?私は困惑の目をして、八雲のほうを向いた。そして置き場のない借用証書を見て、しばらくの間、何を言えばいいか分からなかった。「紀戸家の奥さん」という身分に何の関係があるの?この間、私たちは2人とも何も言わずにいた。広い部屋の中で、時計の針の音だけが響いていた。沈黙がしばらく続いていたら、私は自ら口を開いた。「借金がちょっと多すぎるから、分割払いで返すしかないけど、紀戸先生はどうかご了承を」男の固い顔にようやく薄い感情が浮かんだ。波も立たない瞳で私の手にある証書に視線を落として、次の瞬間、ゆるゆると手を伸ばして、やっと証書を受け取ってくれた。それからすぐに、八雲は証書から目を外して、手に持っている証書を揺らしながら聞いた。「説明は?」私は父の治療費用と妹の学費のことを八雲に告げた。説明し終わったら、また補足した。「前は何も知らなかったけど、紀戸先生はご心配なく、この借金は1円も欠かさず全部返すから」「分割払いだけど」と、私は心の中で、少し弱気に言った。「それで?」八雲が問い詰めてきた。少しの間考えていたら、私は自分の考えを素直に言った。「契約期限が切れても、変わらず月に1回返すから」つまり、夫婦の関係を終えても、この借用証書はずっと有効だということだ。水辺家の娘として、約束したことは決して破ることはない。「水辺優月」八雲は急に声のトーンを上げて、私の名前を呼んだ。そして軽蔑の口調で言った。「それでえらいって褒められたいと思う?」私が何か返そうとしているところで、目覚まし時計のアラームに中断させられた。気づいたら、もう月曜日の朝だ。今日は私が麻酔科に顔を出しに行く日だ。これ以上八雲と言い合わたくないし、私は目覚まし時計のほうに指を差した。「ごめん。出勤の時間だ」八雲はそれを聞いて、ギュッと眉を上げてから、振り向いて寝室に入った。1時間後、私はちゃんと2号診療棟の5階の麻酔科に現れた。予定時間より半時間も早く着いたが、診療科の人はすでにたくさん集まっていた。看護師長の高橋愛茉(たかはし えま)先生は私の名前を聞いてから、みんなの視線を引き寄せて、一緒に私を囲んだ。そして微笑みながら、言った。「この方が青葉先生が異例として採用したインターン生よ。かなりの美人なのね!」
実は私はお酒にそんなに強くはないのだ。それに飲んだのはロイヤルサルートウィスキーのような度数の高いお酒だし、二杯飲み干した後、少し気持ち悪くなった。でも食事会のボードゲームは楽しいことが目的だから、呼ばれたのに飲まないなら、つまり楽しめないということだ。そんなふうに見られないように、私も付き合わなければいけない。しかしこのお酒は、何グラスも何グラスも飲まされて、切りがなかった。あっという間に、私はもう四杯、五杯ぐらいも飲まされた。また薔薇子にグラスを挙げるよう言われた時、ずっと雰囲気を和らげている葵は突然口を開いた。「水辺先輩はもう何グラスも飲んじゃったよ。今回はやめてあげよう?」八雲がいる限り、葵の発言には誰も逆らえないのだ。予想通りに、葵がそう言った瞬間、私に飲ませようとしたそのインターン生はすぐに前言を撤回した。「分かった。松島先生がそう言うのなら、今回はやめておこう」私は心でほっとした。ゲームの終盤に、やっと葵に回った。女の子は並んでいる札に目を走らせて、数秒間迷っていたら、その中から1枚引いた。ダイヤ9だった。ルールでは、罰ゲームに三杯飲まなければならない。葵は仕方がないようにペロッと舌を出して、微笑みながら、「なんか今日ついてないね」と言った。そして、グラスを上げようとしたが、薔薇子に止められた。「葵ちゃんは元々アルコールアレルギーだから、やめたほうがいいよ」葵はその綺麗な目をパチパチさせて、気にしていないような口調で返した。「そういうわけにはいかないよ。ルールはルールだし、破るような真似はしたくないの......」女の子は甘い声で言ったが、強い決意も感じた。その声を聞いて、私まで心が痛くなってきた。私はなんとか重い瞼を開けて、そのほうに目を向けたら、八雲はいつの間にかもう立ち上がって、葵からグラスを奪った。一杯、二杯、三杯。葵の代わりに罰を受けた。迷いもせずに。みんなの前で自分の彼女を庇っている彼氏のように。八雲が葵をそんなに大事に庇っているのはもう初めてではないのに、どうして私の心は、こんなにもチクチクと痛いのだろう?さっき自分が何杯も飲まされたことを思い返して、ただ鼻がツンとしてきた感じがして、涙も止まらずに零れ落ちていた。たぶん酔ってしまったのだ。心が裂か
ネイビーのピークドラペル着痩せスーツに、黒いウールインナー。今の八雲は高貴で威厳な空気を纏っているが、どこか若者の青春感も感じた。いつも事務的なスーツを纏って、革靴を履いている八雲とは全然違っている。しかしその隣の葵と並んだら、意外と違和感がなかった。たぶん、葵に合わせているだろう。さっきまで賑やかだった個室も八雲が来たことで静寂に包まれた。更に、何人かのインターン生はもじもじしてきて、緊張で息を吸うこともできなかった。これが紀戸八雲だ。どこまで行っても、迫力が半端ない。だけどこのような緊張感に満ちた雰囲気に、葵は気楽に八雲のそばに立っていて、恋愛中の少女のような顔をしていた。「八雲先輩、ここにいるみんなは東市協和病院で新しくできた友達なの」八雲は小幅に頷いて、低い声で「座りな」と言った。余計な言葉もなく、短い一言だった。そこ男の顔にほんの少しの表情の変化すら見えなかった。その時、女の子は私のことも忘れずに、きゅるんとした目で、「水辺先輩はここに座って」と言った。八雲の右側に、葵と薔薇子の二人を隔てた席だった。テーブルの周りの位置からして、一応半特等席ではある。どうやらしばらくは抜け出せないみたいだ。しかしこの場の雰囲気は、まるで大学院で学部長が開いた会議みたいで、あまりにも真面目すぎて、誰も雑談を始める勇気がなかった。こうなると、今日のディスカッションコーナーもそのままなしになりそうだ。先程までは大らかだった薔薇子も今襟を正して、ただこそこそと葵に目配せした。葵は少し照れているような笑みで聞いた。「みんな揃ったし、盛り上がるために、まずはゲームをやらない?八雲先輩はどう思う?」「葵次第だ」短い言葉だったが、「葵の言うことなら何でもい聞く」みたいな溺愛が感じられた。それを聞いた薔薇子は1組のトランプを取り出して、口を開いた。「紀戸先生もそう言いましたし、『花魁13人』......というゲームはどう?」薔薇子は天才的なムードメーカーだった。その言葉で、固かった雰囲気はやっと柔らかくなった。ゲームのルールも簡単だ。ジョーカー抜きで札を並んでから、1人ずつ札を1枚引く。違う数字にはそれぞれのルールがあって、札が全部引かれたら、ゲーム終了だ。店員がお酒や果物を持ってきたら、薔薇子
葵が突然現れたことに、看護師長も私もびっくりした。それに、最初の一言から彼氏というプライベートのことについて問いかけてきたなんて。私たちはあくまでもただの同僚で、そこまで仲が良いわけでもないと思うけど。それにその質問に、本当にどう答えばいいか分からなかった。彼氏はいないけど、夫はいる。しかもこの契約上の夫は、ちょうど松島葵の八雲お兄ちゃんだ、とか言うわけにはいかないだろう。葵はたぶん最初から看護師長と私の会話を聞いていたと思うが、一旦そのようなことを言ってしまえば、きっと大変なことになる。否定しようとしたら、看護師長が先に話題を変えてくれた。「この子が脳神経外科に入職したばっかりの天才ちゃんなのよね。うちの優月ちゃんとも知り合いなの?」葵は大人しく「はい」と言ったが、目をじっと私の身に凝らしていた。まるで何か証拠を見つけようとしているかのように。「水辺先輩は私たちの医学部での人気者なんですよ」「この方が葵のよく言ってた水辺先輩ですね」その隣の看護師は私の体に目を走らせて、言った。にこにこしながら、「やっぱ只者じゃないですね」その人は脳神経外科の新入りの看護師で、名前は尾崎薔薇子(おざき ばらこ)らしい。もし考えが当たったら、昨日葵とお手洗いで噂話をしたのもこの人だ。私たち4人でお互いに自己紹介をして、ワイワイ喋っていたら、「彼氏」という話題も二度と出てくることはなかった。お手洗いから出てから、私たちはそのままそれぞれの診療科に向かった。しかし間もなく、葵と薔薇子がいきなり追いついてきた。女の子は目を細めながら言った。「そうだ水辺先輩、今夜はインターン生での打ち上げがあるんだけど、先輩も遊びに来ませんか?」実は私はそういう賑やかな場面が苦手だが、そこで、薔薇子も補足した。「各診療科のインターン生も来ますよ。これを機に、みんなでお互いと知り合って、これからの仕事にも役立つと思いますわ」それを聞いて、私も一理あると思った。麻酔科は元々協力が主な診療科で、毎日各診療科とコミュニケーションを取らないといけない。非公式な打ち上げだが、これからはここでの居心地も良くなるし、人脈を広げることもできるし、行ってもいいかもしれない。「じゃあ場所を水辺先輩のスマホに送りますね」葵は明るくて親切な口調で言った。「夜
証拠?私は少し呆然として、また視線を八雲の手にある薬に落とした。それで、ついにその言葉の意味が分かった。私に警告しているのだ。少し嫌な気持ちになった私は、皮肉な言葉を並べた。「それは残念ね。地下駐車場で会った時、紀戸先生はスマホを取り出して、写真を残すべきだったね」驚いたことに、自分もこのからかうような言い方ができるとは。八雲の瞳から一瞬の動揺が見えた。明らかに八雲も私がこのような皮肉な言葉で返すとは思っていないようで、表情まで固くなった感じがした。八雲がぼんやりしているうちに、私はもう一度手を伸ばして、薬を取り戻して、八雲の前で開けた。火傷したのは事実だし、八雲の機嫌がちょっと斜めだからって、自分のことを大切にしないわけにもいかないだろう?ここ3年間、私はあんなに色々我慢してきたのに、この男は振り向きもしなかった。だから今は、自分のことを優先したいのだ。そう思って、私は薬を指に乗せて、じっくりと火傷のところに塗り始めた。しかし後ろ首は自分ではよく見えないから、私は鏡を見ながら2回塗っても、上手く火傷したところに広げられなかった。少しまごまごしている時、腰からいきなり誰からに抱かれた感じがして、足も床から離れた。私は八雲に洗面台に持ち上げられた。驚いた目で眉を上げたら、次の瞬間、首から冷たい感覚が伝わった。薄いタコのできている指先が私の肌に走り回って、馴染のあるような、ないような感触に私はゾクッとした。まさか八雲が私に薬を塗ってくれているとは。私は思わず指が震えた。そっと目を逸らしたが、情けないことに、ほっぺたはまだ燃やされているように熱かった。この男は一体何がしたいか分からないが、この狭い洗面台に完全に固定されて、私は薄めな不快感がした。私たちの距離は近すぎた。その吐息に薄々感じられるほど、ちょっとだけ見上げたら男の襟ぐりから男らしい胸筋が薄々見えるほど近かった。脳内にとっさに浮かんだのは、激しく絡まり合う画面だった。この瞬間、私は呼吸も荒くなった。「あ......ありがとう、紀戸先生」八雲の指先を避けた途端、私は平気そうなふりをした。しかし喉から声が出た瞬間、このガラガラで優しい声で、私の動揺がバレてしまった。もやもやした気分で、私は目を閉じて、まつ毛もびくびくと震えていた。そこ
4人が一箇所に固まった時、なんか最近みんなとバッタリ会いすぎないって思った。特に向こうのその紀戸先生、結婚証明書に載っている夫と。前回会ったのは、まだ1時間前のことだったのに。このような頻度では、さすがに、すぐには慣れないのだ。もちろん、同じくらいこの場にいづらいのは、隣に立っている藤原浩賢だ。その顔に気まずそうな目が見えた。しかし女の子の思考は単純で、それに気付かずに、ただ私の手にある薬を見つめながら、言った。「水辺先輩は怪我しましたの?藤原先生がわざわざお薬を用意してあげましたのね?」話題に出さなかったらまだいいが、これでは、全員の視線が私の右手にある火傷用の薬に集まってしまった。浩賢はすぐに答えた。「1本多く用意したから、ちょうど水辺先生が火傷したみたいで、あげたんだ」噛み噛みに説明した後、またちらっと八雲のほうに視線を向けた。しかし八雲は何も反応がなかった。逆にそのそばにいる葵は何度も私に目を走らせて、困惑した目で問いかけた。「水辺先輩はどこを怪我しちゃったの?」私は軽く襟を引っ張って、平気そうな口調で言った。「大丈夫。大した怪我じゃないよ」でもその子は思ったよりも賢かった。私の細かい仕草から火傷したところを察したみたいだ。それで、「藤原先生は先輩に優しいね」と感心した。それを聞いた浩賢は一瞬ぼんやりして、緊張感に満ちた目でちらっと私を見てから、八雲のほうを見つめて言った。「紀戸先生、何か言ってよ」かなり焦っているような声だった。明らかに八雲に誤解されることを怖がっていたのだ。だけど八雲は相変わらずその波の立たないような様子で、しばらく経ったら、ようやくゆるりと口を開いた。「藤原先生と水辺先生とのことだろう、俺が口を出すことじゃないだろ?」浩賢と私のこと?私は驚いて、思わず眉を上げた。自分の聞き間違いではないかと疑うところだった。それなのにそのようなことを言い出した男は、今はただ紳士のような振る舞いでいた。はっ、それが私の夫だ。戸籍法で、私たちは一蓮托生で、互恵関係であるべきだった。しかし今、その人はそばにいる女の子に忠誠を誓うために、戸籍に載っている自分の妻を他の男に投げるなんてことまでするとは。すごい忠誠だね。私は拳を握りしめたが、仕方がないと思った。何か返そ
気持ちを整理できたら、私はまた相談室に戻った。八雲はもう去っていって、豊鬼先生と何人かのスタッフしか残っていなかった。「今日は紀戸先生がいらっしゃったおかげで助かったんだ」豊鬼先生はまるで災難から幸い生き残ったように、ニヤニヤしながら私の顔に目を走らせた。「次にあの方に会ったら、ちゃんとお礼を言うんだぞ」お礼。私はこの言葉を噛み締めて、それから松島葵たちがお手洗いでの会話を思い返して、この瞬間、思わず鼻で笑った。八雲は葵のために助けに来たし、この場にいた他の人は、どう見ても濡れ衣を着せようとしたし、感謝することなど、できないわ。「水辺さんも今日麻酔科の役に立ったな」豊鬼先生は黙っている私を見て、態度はさっきよりは明らかに柔らかくなった。「俺は水辺さんの痛い気持ちが分かるよ。でもな、麻酔科医はみんなそれを乗り越えてきたんだ。いい意味では、経験を積んだし」その意味深い口調を聞くと、なんか本当に私のことを思っているように聞こえた。もしかして、私の考えすぎだった?「その子はたぶんちょっとショックを受けたから」他のスタッフも相槌を打った。「もうすぐ退勤時間だし、早めに帰らせて休ませよう?」豊鬼先生はちらっと私のほうに目を向けて、頷きながらその意見に賛成した。「分かった。じゃあ時間通りに退勤していいよ」この件はこれで完全に解決した。ただその茶湯にかけられた感覚の余韻は確かに凄まじいものだった。エレベーターがいつの間にか、地下1階に着いたことにすら気付かなかった。偶然のことに、隣のエレベーターから、藤原浩賢もちょうど出てきた。目と目が合った瞬間、ほっぺたが少し膨らんでいる男は少し驚いて、そして早足で私に向かって歩いてきた。茶色のコーデュロイジャケットに、ベージュ系の丸首ウールシャツ。白衣を脱いだ浩賢は今、カジュアルで、シティボーイ系のように見えた。「奇遇だね、水辺先生」浩賢は優しく話しかけてくれた。その穏やかな目を私の体に軽く走らせたら、聞いた。「もしかして退勤した?」私は曇った顔で頷いた。医者にとって残業はいつものことだから、時間通りに退勤できるのは、濡れ衣を着せられた補償みたいなものだった。結構情けないから言いづらかった。「そういえば、麻酔科にちょっとしたトラブルが
「訴える権利があります」という一言で、この場にいる全員も震え上がって、息を殺した。調停委員たちも驚きのあまり目を丸くした。そう。八雲は変わらずあの何に対しても無関心な八雲だったが、今日の医療トラブルに対処している時は、理性的で強気で、一歩も譲らなかった。たった二言三言で、さっきのようなとんでもない大騒ぎを鎮めた。中年女性も「訴える」という言葉を聞いた瞬間、信じられないような顔をした。口が何度か動いたけど、結局何も言わなかった。この時、豊鬼先生は前に出て、この騒ぎに終止符を打った。「あの、田中さん、紀戸先生の話もお聞きになったのでしょう?この方は当院の若い医師で一番優秀な外科専門家でございます。なので、どうかご安心ください。ね?」そう言って、豊鬼先生は調停委員に目で合図した。それで、調停委員たちは中年女性を支えながら床から起こした。「紀戸先生がそう言ったのなら、もう少し状況を見ておくわ」中年女性は自分で自分の面子を立てながら、外に行こうとした。それを見たみんなは安心したが、八雲だけが不満そうに眉を顰めて、いきなり「待ってください」と足を止めさせた。ここにいるみんなは困惑した目を八雲に向けた。そしてその鋭い目つきは私に向けられた。男の黒い瞳には少し不快な感情が混ざった。「人を傷つけたのに、謝りもしないですか?」謝る?八雲が、患者の家族に私に謝らせるなんて?さっきあの中年女性はどれほどの大騒ぎを起こしたか見なかったの?このような時に、他のみんなは一刻も早くこの厄介者に帰ってもらおうとしているのに、八雲はまさか彼女を私に謝らせるとは?かなりの変化球を打ったね。しかしなぜか、少しキュンとした。患者の家族はもちろん私に謝る気なんてないのだ。ほら、今はただドアの前で足を止めて、じっと私を見つめているだけだ。八雲もその人の考えが分かっている。「もし医者が患者の治療をして命を救ってあげたのに、敬意を持たれないのなら、これからは誰が患者たちに責任を取るのですか?」理屈のある言葉に、中年女性は数秒間迷っていたら、私に目を走らせて、軽く「ごめん」と言った。なんとか一件落着か。茶湯に汚された汚れもまだ残っているし、1コップに入っていたお茶にそのままかけられて、服ももうびしょびしょだ。中年女性がドアから出た
「それって大事か?」私の不満を聞いて、豊鬼先生ははっきりと答えてくれなかった。ただこう言った。「手術は、元々2科で協力して取り組んでこそ成功したものだ。東市協和病院の一員として、今はお前に患者の家族と話し合いに行かせるんだから、光栄に思え」光栄?今、濡れ衣を着せられても光栄に思わなきゃいけないの?直感だが、そう簡単なことではない気がする。私が何も返事しないのを見て、豊鬼先生は言い続けた。「それに、患者の家族の言った後遺症は、全部麻酔の後の正常反応なんだ。回復するにも時間が必要だ。お前は、その回復期間のことを患者の家族にちゃんと説明すればいいんだ」それを聞いた私は、困惑した顔で豊鬼先生の顔を見ていた。「患者の家族に説明するだけ?」「ああ。つまり患者の家族に豆知識を教えるってことだ」豊鬼先生は即答した。「このようなトラブルは我々診療科では珍しいことじゃないんだ。インターン生のお前は、そういう経験をするのもいずれのことだ。お前らの面接で『対応力』も聞かれただろ?今こそそれを鍛える時だ」そう言ったら、また私を急かした。豊鬼先生の言葉にも一理あるし、私もすぐに追いついていった。15分後、私は豊鬼先生と一緒に相談室に着いた。見上げたら、地味な格好をしていて憂鬱な目をしている中年女性がすぐそこに座っていた。その顔から薄々怒りを感じた。見れば患者の家族だと分かった。豊鬼先生はすぐにそのほうに向かって、誠意を持ってその女性に頭を下げた。「田中さん、大変お待たせいたしました。インターン生を連れてお詫びに参りました」言い終わった途端、私に目配せした。私もすぐに豊鬼先生の合図が分かって、早足でその女性の前まで来て、挨拶をした。中年女性はただ険しい目つきで私を睨んで、何も言わなかった。患者の家族の気持ちは分かるので、私もできるだけ怒らせないように穏やかな口調で口を開いた。「田中さんでございますよね。田中さんのお怒りはごもっともです。旦那さんのことがご心配の気持ちは承知しておりますが、その、気管カニューレを用いた麻酔の後はですね、確かに嗄声などの症状が起こると存じます。ですがそこはご安心くだ......」「またそれ?」中年女性はいきなり私の話を中断させた。そして声のトーンも上げて、周りに視線を走らせ
病院の食堂は、元から人混みで、八雲自身もどこまで行っても注目されるような人気者なのに、このような時にいきなり「目立たがり屋」とか言って、私のプライドを踏み潰した。この瞬間、私は気まずくてたまらなくなった。ただ指導先生に出された宿題を終わらせただけなのに、どこが目立たがり屋なの?もしかして葵の言った動画と関係しているの?困惑しているうちに、葵はまた私の顔を立てようとした。「八雲先輩は知らないかもしれないけど、水辺先生は医学部の時から上位に入れるくらい手際がいいのよ。同僚たちに褒められるのも、当然だと思いますわ」言い終わったら、私のほうに視線を向けた。そのきゅるんとした目から、少し気まずさが感じられた。この子は到底甘かった。八雲は知らないかもしれないって?知れ渡ったあの首席執刀医、紀戸先生がスタンフォード大学に行く前に、私たちは医学部で会うことも少なくなかった。医学部で開催された医学生技術大会だけでも、何回かライバルとして勝負してきた。私の実力、八雲ははっきり分かっているはずだ。なのに、わざと私を人の前で恥をかかせた。そう思って、どこかからの怒りが胸元に湧き上がってきて、正気を失ってしまうほどイライラしてきた。「手際がいいから何だ?」男の際立つ声がまた食堂で響いた。八雲は厳しい顔で私を睨んで、批判し続けた。「医者のやるべきことは人の命を救うことだ。手際を自慢することじゃない。水辺先生はどうやら昨日自分が手術室あわあわしている姿を忘れたようだね」軽蔑な口調に、その人を見下している態度。八雲の言っている一字一句にも、心が刺さられたように、ヒリヒリと疼いた。私たち、敵なの?そうでもないよね?「夫婦は二世」という言葉があるが、八雲が葵のことを大切にしているみたいに、私のことも大切にしてほしいとは望んでいないけど、そこまで私に嫌がらせをしなくてもいいだろう。そんなに私のことが嫌いなの?こんなに大勢の前で私に恥をかかさないと気持ちよくならないの?そうだよね。紀戸八雲だから、みんなの前でこのようなちっぽけなインターン生を叱る時、私の味方になってくれる人などいないのだ。まるで胸元が石で詰まっているように、胸苦しかった。私は顔を上げて、恐れずに八雲と視線を合わせて、口を開いた。「紀戸先生はどこから私が