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第162話

Author: 冷凍梨
私は葵の提案に思わず息を呑んだ。

八雲がどんな立場の人間で、紀戸家が東市でどれほどの地位を持つか――少女が詳しく知らなくても、耳にしたことくらいはあるはずだ。

そんな人を、そう簡単に「連絡してみて」なんて言えるものじゃない。

それに「名ばかりの紀戸奥さん」である私に頼むなんて……

もしこの東市協和病院で、八雲との距離を序列で並べるなら――どう考えても、私は末席にも入らない。

それなのに、なぜ彼女はわざわざ私を?

まさか、私と八雲の間に「何か」を感じ取って、探りを入れてきたのだろうか。

さっき彼女が玉恵の車の去っていく後ろ姿を見つめていた様子を思い出し、私は逆に問い返した。「松島先生、冗談でしょう。松島先生が紀戸家と連絡を取れないのに、私のような麻酔科のインターンにできるわけがないよ」

「正直に言うと、私だって、八雲先輩とそんな関係では……」葵は真剣な面持ちで、言葉を選びながら続けた。「ただ今回は事が急すぎて……他に頼れる人がいなくて」

私は彼女を見つめ、静かに言った。「残念だけど、その件は力になれないよ」

きっぱりと言い切ると、彼女は困ったように指先で上着の裾をいじり、おずおずと口を開いた。「水辺先輩、聞いた話なんだけど……藤原先生って、八雲先輩の中学の同級生なんだね。もしかしたら、藤原先生経由なら紀戸家の連絡先が――」

その瞬間、私はようやく合点がいった。

なるほど、彼女は遠回しに、私から浩賢へ話を持っていかせたかったのだ。

けれど、今の状況で私は彼を巻き込みたくない。むしろ、少しでも関係を切り離したい立場だ。

だからやんわりと断った。「松島先生、あなたも知ってるでしょう。厚労省は今、正式に調査を始めてる。こんな時は、余計な動きをしない方がいいと思うよ」

私の意図を察したのか、葵は無理に笑みを作り、「ごめん、私の考えが浅はかった……水辺先輩、笑わないでね」と、気まずそうに言った。

その時、携帯の着信音が私たちの間に割り込んだ。

――看護師長からだ。

「すぐに管理棟へ来て。例の事情聴取よ」低く緊迫した声だった。

葵のスマホにも、同じ通知メッセージが届いたようだ。

私たちは顔を見合わせ、そのまま管理棟へ向かった。

エレベーターを降りた瞬間、遠くから浩賢がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。

距離が縮まると、彼は私の額を見て眉を
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Comments (1)
goodnovel comment avatar
U Tomi
主人公、機転きかせてなりやらやってるが、強迫かけられて尽くす、守る意味ある?アホみたい。期限切れる1ヶ月が引き延ばしで、長い。悲劇のヒロインを読みたかったわけやないのに。柵にって何処まで続くの?誰も巻き込みたくない、干渉されたくないならやりようがあるのでは?
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