共有

第51話

作者: 冷凍梨
まさか看護師長が浩賢におじのことを話していたとは思わず、私は一瞬、言葉を失った。

浩賢は私の戸惑いに気づいたか、すぐに説明してくれた。「看護師長が桜井さんと話してる時に、たまたま聞こえただけ。こういうことこそ、俺か八雲に直接言えばよかったのに」

八雲の名前が出た瞬間、私は思わず眉をひそめた。

正直に言えば、八雲に頼むくらいなら、朝一から並んで診察券を取った方がマシ。

「あっ、でもそんなことより」浩賢は笑いながら話を戻した。「明日の11時に患者さんを神経外科の外来に連れてきて。当番医は、俺が昔お世話になった奥村先生なので、俺から一声かけておくよ。臨時診察ならできるはず」

私は少し迷って聞いた「それって規則違反にならない?」

「ならないよ。受付の最後に追加するだけだし」彼はあっさりと答えた。「患者さんには、あまり早く来ないよう伝えてね」

まさかあれほど厄介だった件がこんなにもあっさり解決するなんて。私は心から感謝して、お礼を言った。

すると、浩賢は少し照れたように頭をかいた。「友達なんだから、そんなにかしこまらないで」

私は返事をしようとしたが、「あら、水辺先生と藤原先生じゃないですか!」おなじみの大きな声で、薔薇子が割り込んできた。

振り返ると、葵と薔薇子がこちらに向かってくるのを見た。

葵はすでに私服に着替えていて、顔色もあまり良くなかった。

薔薇子はニヤニヤしながら私を見て言った。「今日、水辺先生はお休みではないでしょうか?それなのに、わざわざ病院に来て藤原先生に会いに来たのですか?」

この子、やたら私と浩賢の関係にこだわる。

私は黙っていたが、浩賢が代わりに口を開いた。「俺の記憶が正しければ、今日の午後は松島先生の担当じゃなかった?」

突然名前を出された葵は一瞬きょとんとして、青白い顔に動揺の色が浮かんだ。薔薇子がすぐにフォローに入った。「勤務表では確かにそうなっていましたが、松島先生の体調が優れなくて、紀戸先生が彼女の様子を知っていて、私に先に送って休ませるよう言ってくれたんです」

その話を聞いた葵は伏し目がちに、自責の混じった声で言った。「私のせいで迷惑かけてしまって、ごめんなさい。仕事に影響が出なければいいんですけど」

「大丈夫よ」薔薇子は私たちの前で彼女を慰めるように言い、どこか誇らしげな口調だった。「紀戸副主任が許可し
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第224話

    天井の非常灯が青白く点滅し、まるで手術室の無影灯のようだ。私ははっきりと感じた。エレベーターが半階ほど激しく落下した後で止まり、わずかな揺れが残っていることを。「星空バンケットホール」は十九階にある。ざっと計算すると、今エレベーターが止まっているのは十八階前後だろう。この高さでさらに何かが起きたら――私は、奈落の底へ落ちてしまう。死の気配が、息苦しいほど胸を締めつけた。私は横でちらちら光る携帯の画面を見つめながら、ゆっくりと身をかがめた。だが、画面には【圏外】の表示。形のない絶望が胸の奥から込み上げてきた。頭上のかすかな明かりを頼りに、私はエレベーターの前方へと身を寄せ、非常ボタンを探った。慎重に指先で触れると――そのボタンは接着剤で固められ、壊されていた。すべてがあまりに出来すぎていて、まるで最初から仕組まれていたかのようだ。私は絶望的な気持ちで手を引っ込めた。再びエレベーターがわずかに軋み、体が浮くような感覚に襲われた。慌てて手すりを握ったが、膝は勝手に震えていた。そのとき――頭上から、あの人の声が響いた。「今、水辺先生の血中酸素濃度はどれくらいまで下がっているんだろうね?」私は驚愕のあまり顔を上げた。恐怖と怒りが入り混じる。それでも、最後の矜持を保ちながら言い返した。「そんな卑劣な手しか使えないの?なぜ姿を見せないの?電話越しにしか話せないなんて、そんなに人前に出られないの?」嘲るような笑い声が返ってきた。「言っただろう?挑発しても無駄だって。ひとつ忠告しておこう。このエレベーターを支えてるロープは、あと五分しかもたない。五分のあいだに助けが来るか、自力で脱出できるか……それは水辺先生の運次第だ」笑い声が次第に遠ざかっていく。私は緊張でスマートフォンを握りしめ、再び画面を確認したが、依然として【圏外】のままだ。時刻を見て、あの「謎の声」が言っていた残り五分を思い出し、胸の奥が恐怖と無力感で締めつけられた。――あと五分。もし、あの男の言葉が本当なら、残り三百秒で誰にも気づかれなければ……まるで溺れる者が必死にもがくように、私は喉が裂けるほどの声で助けを叫んだ。だが、時間は無情に過ぎていく。スマートフォンの時計が残り二分を示したとき、私はもう声も出なくなっていた。それに

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第223話

    八雲も、そのことには気づいていたのだろう。彼はいつだって、葵の感情を誰よりも早く察してきた。たとえ今、この場で注目を浴びているのが私であっても。胸の奥に空虚さが広がり、心臓が海水に浸されたようにじんと痛んだ。私は平然を装いながら水を口に含んだが、その瞬間――携帯が震えた。この時間に、誰が?不思議に思いながらバッグを開け、画面を見た瞬間、心臓が激しく鳴り響いた。またしても、あの「050」から始まる仮想番号。すでに捕まったはずの青木マネージャーたちの顔が頭をよぎり、私は苛立ちながら通話を切った。だが、二秒も経たぬうちに、再び振動。発信者は同じ番号。私は画面を手で覆い、眉間に皺を寄せた。「どうした?」浩賢が私の様子に気づき、心配そうに訊いた。「何かあったのか?」私は首を横に振り、振動が止まない携帯を握りしめながら、とっさに言い訳をした。「ちょっとお手洗いに行ってくるね」宴会場を出て、深く息を吸い込み、通話ボタンを押した。次の瞬間――受話口から、あの独特で人を惑わすような声が響いた。「へぇ、水辺先生は思っていたより賢くて、面白い人だね」「あなた、誰?」私はそっと録音ボタンを押し、「何が目的?」と問い返した。「誰かなんて、どうでもいいさ」相手は気だるげに笑いながら言った。「たださっきの水辺先生のパフォーマンス、六十点ってところかな」「さっきのパフォーマンス」……?その言葉を反芻しながら、さきほどの「コーヒーをこぼした」出来事が脳裏によぎった。「まさか……私の発表原稿を台無しにしたの、あなたなの?」信じられない思いで問い詰めると、受話口の向こうから、不気味な笑い声が響いた。しかもその笑いは、長く続いた。やがて彼が、低く冷たい声で言った。「そんな子供じみたことに、興味ないよ」その声色には、ぞっとするような鋭さがあった。私は切り込むように言った。「じゃあ、何が目的なの?はっきり言えば?」「目的なんてないさ。ただ、水辺先生が自分で『スタートボタン』を押したゲームだからね。続ける義務はあるだろ?」彼はゆっくりとした調子で言った。「それと……今夜のドレス、とても似合ってるよ。綺麗だ」……ドレス?私は思わず視線を落とし、自分の衣装を確かめた。そしてふと顔を上げた瞬間、廊下の奥を通り過ぎる

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第222話

    私は、数多のゲストたちの視線を背に、ゆっくりと壇上へと上がった。森本院長が言っていた通り、今の私の経歴では、本来ここに立ち、業界で功績を上げた大御所たちと並ぶ資格などない。しかも不運なことに、発表原稿は最も大事な瞬間に台無しになってしまった。つまり、今日この場で皆の認めと称賛を得ようと思えば、それは想像の百倍、千倍も難しいということ。いや、下手をすれば大恥をかくかもしれない。東市協和病院の顔に泥を塗り、外で囁かれている偏見と敵意を証明してしまう。――もしかすると、やめた方が賢明なのかもしれない。少なくとも体面だけは保てる。けれど私は、それを選ばなかった。水辺優月という人間は、決して臆病者ではない。たとえ困難だと分かっていても、私は迷わず壇上に立った。下を見れば、疑念、軽蔑、好奇、戸惑い――さまざまな感情が混じった視線が私に注がれている。私は深く息を吸い込み、二分間のスピーチを始めた。「手術中に患者の脳機能を覚醒させる際、最も危険なのは技術的なミスではなく、痛みに対する傲慢さです。……」不思議なことに、原稿が読めなくなっているはずなのに、実際に話し始めるとほとんど詰まることはなかった。検証済みのデータや内容が、まるでプロジェクターに映し出された映像のように頭の中で浮かび上がっていく。話せば話すほど興奮し、楽しくなっていく。気づけば、長いと思っていた二分間は、あっという間に過ぎていた。スピーチを終えると、私は深く一礼した。だが、会場は水を打ったように静まり返っている。胸の奥がわずかに沈んだ。――やはり駄目だったのか。そう思って壇を降りようとした、その瞬間。耳に飛び込んできたのは、雷鳴のような拍手の音だった。驚いて顔を上げると、同業者たちの目には、はっきりと「認めた」という感情が宿っている。鼻の奥がつんと熱くなり、私はそっと拳を握りしめた。人前で涙をこぼしてしまわないように。司会者がちょうど壇上に上がってきて、私の手を握った。「いやぁ、今の水辺先生のスピーチ、本当に驚かされました。まさか東市協和病院の麻酔科インターンだったなんて!それと――」彼女は一呼吸おいて、にっこりと笑った。「皆さん、もっと驚くことがあります。今の二分間の発表、水辺先生は原稿なしで話していました。これからが末恐ろしいですね

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第221話

    この言葉が出た途端、さっきまで私のことを噂していた数人の顔色が一変した。その中の一人のゲストが浩賢をじっと見つめ、少し間を置いてから突然口を開いた。「どうりで見覚えがあると思ったら、記者会見で水辺先生を救ったあの藤原先生じゃないですか。その格好を見るに……お二人、実は恋人同士なんじゃ?」その言葉に私は完全に面食らった。視線を浩賢に数秒だけ止め、説明しようと口を開きかけたその時――浩賢が半ば冗談めかして言った。「その質問は、今日の討論テーマには入ってませんよ。もしどうしても知りたいなら、交流会のあとで話しましょう。費用は入りません」そう言って、彼は私に目で合図を送り、私を席の方へと導いた。振り返ると、先ほど発表した数人の目には明らかな軽蔑と嘲りが浮かんでいた。さっきまで葵に対する態度とはまるで正反対。ふと見ると、同じくインターンである葵は、八雲の隣に寄り添い、皆からの賞賛と喝采を受けている。「そんな言葉、気にすることないよ」浩賢は私の心の中を見透かしたように言った。「今日ここに来られただけで十分ラッキーさ。こっそり教えるけど、今夜のデザートはミシュランの巨匠が手がけた特製だって。あとで全部味見しよう」その穏やかな笑顔に、私はふっと肩の力が抜けた。――そうだ、誤解や偏見なんてどこにでもある。そんな人たちのせいで気分を乱す必要なんてない。二分間のスピーチが終わったら、思いきり食事を楽しめばいい。だが、葵が私の隣に座ることになるとは、思いもしなかった。彼女は少し落ち着かない様子で私を見つめ、弁解するように言った。「主催者にお願いしたんです。八雲先輩は業界の大御所ですから、壇上に座るのが当然でしょう?私はそんな立場じゃないので、主催者が急きょ席を変えてくれたんです……」――なるほど、気が利く子だ。私は軽く微笑んで答えた。「そうか」やがて交流会が、参加者たちの期待の中で幕を開けた。主催者は順番に業界のさまざまなレベルのゲストを壇上へ招き、その中にはニュースで見たことのある人物も何人かいた。おかげで実に勉強になった。時間が刻一刻と過ぎ、もうすぐ私の前の発表者の番になった。心臓が高鳴り、握っていた原稿をさらに強く握りしめた。「学術誌に掲載された内容だし、大丈夫だよ、水辺先生」浩賢は私の緊張に気づき、優しく励

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第220話

    ここで八雲に会うなんて、予想外でもあり、同時にどこか納得もいくことだ。神経学の新世代で頭角を現している研究者たちの中で、この分野に関わる限り、彼を避けて通ることはできないのだから。もし私と浩賢がここに来られたのが運なら、八雲は間違いなく実力でこの場に立っている。何しろ主催側が八雲に用意した名札は金の箔押しで、席も壇上。それに比べ、私たちの名札はただの「参加者」でしかない。葵もまた、八雲のおかげで、通常ならインターンが入れないような交流会に、いとも簡単に参加していた。私と浩賢が苦労して手に入れた招待状を、あの子は軽々と手にしていたのだ。しかも会場に入った途端、彼女はまるで舞台の主役のように持ち上げられていた。「なんと、紀戸先生の助手でしたか。そりゃあ腕前も一流でしょう。若いのに見上げたものだ」「松島さん、本当に才色兼備ですね。紀戸先生と並んでいる姿を見ると、思わず『お似合いの二人』という言葉が浮かびますよ」その人は笑顔を浮かべ、媚びるような口調で続けた。「まさに理想のカップルですね」「そうですそうです、ほんとお似合いですよ」こうしたお世辞も無理はない。何しろ八雲はこれまで、どんな学会でも女性を伴って現れたことがなかったから。白霞市の時でさえ、葵は単なる「助手のインターン」として同行しただけ。だが今夜は違う。彼女は堂々と八雲の腕に手を絡めている。この業界の人たちは皆、人を見る目がある。こんな重要な場に、名も知らぬ美女のインターンを連れてくる――それが何を意味するのか、察しがつかないわけがない。公正無私で知られた脳神経外科の伝説が、ほんの少しでも私情を見せた瞬間、理由は誰の目にも明らかだ。だからこそ、皆こぞって葵を持ち上げた。それは同時に、八雲への「顔立て」でもあった。もちろん、こんな優遇を「名ばかりの紀戸奥さん」である私が享受したことは一度もない。現実はとうに理解していたはずなのに、彼が葵を公私混同するほどに可愛がる様子を目の当たりにすると、胸の奥がずしんと痛んだ。「皆さん、褒めすぎですよ」注目を浴びる中、葵はいつものように素直で可愛らしい笑みを浮かべ、甘い声で言った。「今年のインターンには優秀な方がたくさんいらっしゃいます。たとえば水辺先輩なんて、私なんかまだまだ及びません」彼女は私の

  • 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた   第219話

    彼は言葉を濁した。どうやら言えない事情があるようで、私はそれ以上追及せず、二人で一緒に森本院長のオフィスへ入った。森本院長は私たちを見るなり、机の上の招待状を指先で押しやり、冗談めかして言った。「いやあ、君たちも災い転じて福となすってやつだな。ほら、見てごらん」私は浩賢と目を合わせ、そっと招待状を開いた。中を覗くと、それは「脳科学・麻酔学地域交流会」の招待状だった。この学会のことは以前、柳沢教授から聞いたことがある。全国規模ほどではないが、北部の名だたる神経学の専門家たちが一堂に会するという。そしてそこには、なんと浩賢と私の名前が並んで印字されていた。会場は東市南郊にある最大級の星付きホテル、最上階の「星空バンケットホール」。「主催側が急きょ追加したんだよ」私たちが黙っていると、森本院長が説明を続けた。「今回の件で君たちは業界中を驚かせたからね。本来、インターンが招待されるなんて前代未聞だ。この交流会も六年続いてるけど、こんなのは初めてだよ」私は招待状を見つめながら胸が高鳴り、思わず聞いた。「何か準備しておいた方がいいでしょうか?」「普通にしていればいい。東市協和病院の顔を潰さなければそれで十分だ」森本院長は軽く手を振った。麻酔科に戻ってすぐ、私はこのことを看護師長に伝えた。看護師長は驚きと興奮を隠せない様子で言った。「やっぱり藤原くんがお祖父さんの叱責を受けた甲斐があったわね。ほら、ちゃんと招待状が届いたじゃないの」「……叱責?」私は思わず聞き返した。「藤原先生が、ですか?」看護師長は不思議そうに私を見た。「藤原くん、何も言ってなかったの?」聞けば、浩賢は警察の捜査を手伝う際、使ってはいけないコネや設備を動かしたらしく、それで彼の祖父に厳しく叱られたのだという。あのとき彼が言葉を濁した理由が、ようやく分かった。……またしても、彼に借りができてしまった。「今夜は学会なんでしょ?だったら優月ちゃん、ちゃんとおめかししなさい」看護師長は、私が口を開かないのを見て、腕時計を確認しながら続いた。「今ならメイクの予約も間に合うわ。藤原くんに任せなさい、彼は交友関係広いから」こうして定時を迎えると、浩賢が迎えに来て、私たち二人でデパートの近くにあるプライベートサロンへ向かった。担当してくれたのは

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status