「青森様、『デス・メモリアル』のお申し込みが完了いたしました」
スタッフは契約書を青森琴羽(あおもり ことは)の前へ差し出しながら、説明を続けた。
「本日以降、当社の記録スタッフが常時お客様を追跡し、映像を撮影いたします。行動や居場所を問わず、人生の最期を迎えるその瞬間まで、すべてを記録させていただきます」
琴羽は黙ってペンを手に取り、ためらうことなく署名欄に自分の名前を書き記した。
彼女がこの「デス・メモリアル」を申し込んだ理由は単純だ。末期の癌が見つかり、医師から告げられた余命はわずか一か月だからだ。
自分が亡くなった後、人生の最期を記録した映像を全世界公開してほしいと、琴羽は「デス・メモリアル」の運営側に依頼した。
実の両親である青森健志(あおもり たけし)と静子(しずこ)に。そして婚約者の西沢正樹(にしざわ まさき)と、幼なじみの藤井智則(ふじい とものり)に見て欲しかったのだ。
自分が人生の最後の一か月を、どんな思いで生きたのかを。
スタッフが帰った後、部屋の扉が勢いよく開かれた。飛び込んできた正樹と智則はこわばった表情のまま琴羽の腕を掴み、事情を説明する間もなく彼女を外へ連れ出そうとする。
「琴羽、急げ!薫がまた手首を切ったんだ。今病院に運ばれてる。すぐ来てくれ、輸血が必要なんだ!」
琴羽は抵抗しなかった――今月だけで七回目だからだ。
青森薫(あおもり かおる)。青森家の令嬢として育てられた彼女は、うつ病を理由に何度も自傷行為を繰り返していた。そして大量出血を起こすたびに輸血が必要になり、琴羽が呼び出される。
まるで予備の血液袋のように。
琴羽の両腕には数え切れないほどの注射痕が残っていたが、そのほとんどは薫のために刻まれたものだった。
病院へ到着し、病室の前までたどり着いた瞬間だった。
乾いた音とともに頬に激しい衝撃が走り、続けざまにもう一発叩かれた。
琴羽は顔をあげると、目の前には健志と静子が立っている。二人の目に怒りと非難が浮かんでいた。
「あんた、また薫に何を言ったの?薫はうつ病なのよ!刺激しちゃいけないって分かってるでしょう!」
正樹と智則は一応琴羽をかばうように前へ出たものの、それは彼女を守るためではなかった。
「静子さん、健志さん、もうやめてください。まずは薫に輸血してもらわないと」
直後、琴羽は採血前の検査室へ連れて行かれる。
誰一人帰ろうとせず、全員が琴羽の検査結果を待っていたのは、これが初めてだった。しかしそれは琴羽を気遣っているわけではない。
誰もが救命処置室の様子を気にしていた。彼らが心配しているのは薫だけだった。
琴羽は口元をわずかに歪め、悲しみに胸を締め付けられながら、俯いた。
しばらくして、検査結果を手にした医師が現れる。
「青森さん、癌なんですよね?こんな状態で献血なんてできません。無茶にもほどがあります」
全員が一斉に振り返ったものの、その驚きは長く続かなかった。
健志は真っ先に検査結果を奪い取ると、中身を確認することすらせず、その場で紙を引き裂く。
細かな紙片が床へ散らばった。
「琴羽、お前はどこまで性根が腐ってるんだ?今まで散々薫をいじめてきたくせに、今度は癌だと嘘をついて同情を買うつもりか?医者まで買収して偽の診断書を作らせるなんて、本当に呆れたやつだ!」
正樹の視線も氷のように冷たかった。「琴羽、献血したくないからって、その言い訳はさすがに無理がある。家では十分騒いだんだろ?まだ満足しないのか?」
智則も鼻で笑った。「子供の頃から君が一番丈夫だった。風邪だって滅多に引かなかったのに、嘘をつくならもう少しマシなのを考えてくれよ」
琴羽は黙ったまま全員を見つめた。本来なら誰よりも近しい存在のはずなのに、今の彼らは見知らぬ他人よりも遠い。
「……嘘じゃない。私は本当に癌なの」
だが、その言葉も今までと同じように、誰の心にも届かなかった。結局、琴羽は無理やり採血室へ連れて行かれ、看護師に血を抜かれることになる。
太い針が血管へ刺さった瞬間、何度も経験したはずの痛みが全身を駆け抜けた。もう慣れたと思っていたのに、胸の奥は強く締めつけられ、まるで誰かに心臓を握り潰されているようだった。
琴羽の脳裏に、時折こんな考えが浮かぶ。
薫がここまで大切な存在なら、最初から自分を引き取らなければよかったのに、と。
自分の出自が明かされないままだったら、一生使用人の娘として生き、薫は青森家の令嬢として何不自由なく暮らしていただろう。そのまま交わらない人生のほうが、きっと幸せだった。
琴羽の人生は、どこか歪だった。
二十年以上も母親だと思っていた女性は、死の間際になって突然ある秘密を打ち明けた。
――自分と静子は同じ日に娘を産んだ。そして自分の娘が裕福な暮らしができるよう、二人の赤ん坊を入れ替えたと。
つまり、本来青森家の娘として育つはずだったのは琴羽であり、薫は使用人の娘だったのだ。
その秘密を告白すると、彼女はほどなく息を引き取った。
だが、その時にはすでに薫は二十年以上にわたって青森家の娘として育てられ、両親の愛情を一身に受けながら暮らしていた。
だからこそ、自分たちの実の娘ではないと知っても、健志と静子は薫を手放そうとはしなかった。
一方で、実の娘として迎え入れられた琴羽は、皮肉にも彼らの間に割り込んできた異物のような存在になってしまった。
もっとも、最初からこうだったわけではない。取り違えの事実が明らかになった当初、健志も静子も本気で琴羽を不憫に思っていた。本来なら可愛がられて育つはずだった娘が、使用人の娘として苦労を重ねてきたのだ。
二人は失われた二十数年を埋めるように愛情を注ぎ、これからはすべてを琴羽に与えると約束した。西沢家との婚約もまた、本来あるべき形として琴羽へと引き継がれた。
けれど、その頃から薫は変わっていった。自分が「偽物の令嬢」である現実を受け入れられず、何度も琴羽にいじめられたと嘘をつくようになった。
最初は、頬を叩かれ、階段から突き落とされたと嘘をついた。
健志たちはそれを信じた。
やがて薫は、自分がうつ病になったのも、琴羽から長い間いじめを受けたせいだと言い出した。そして、その話もまた疑われることなく受け入れられた。
それ以来、琴羽は冷酷で陰険な人間だと決めつけられ、健志たちが彼女に抱いていたわずかな同情さえ消え失せてしまった。
正樹に至っては言うまでもない。婚約相手は琴羽に変わったが、彼は幼い頃から薫とともに育ってきた。彼の目に映るのはいつも薫であり、守りたいと思う相手もまた薫だった。
両親に愛されないことも、婚約者に想われないことも、琴羽はいつしか受け入れていた。けれど、どうしても理解できないことが一つだけあった。
智則のことだ。
幼い頃からずっと一緒に育ってきた幼なじみ。かつては誰よりも薫を嫌っていたはずの彼が、いつの間にか薫を守るナイトのようになっていた。
智則もまた使用人の息子だ。子供の頃、薫はお嬢様という立場を笠に着て、彼らを見下し、傷つけてきた。
そのたびに智則は悔しそうに唇を噛み、目を赤くしながら琴羽の傷に薬を塗ってくれたものだ。
「琴羽、待ってろよ。いつか絶対に成功して、君に一番いいものをやる。薫なんて見返してやればいい。琴羽こそ、一番幸せになるべきなんだから」
あの日の言葉を、琴羽は今でも覚えている。そして智則も本当に成功した。誰もが認める地位と名声を手に入れたのに、その約束だけはどこかへ置き去りにしてしまった。
彼の瞳はもう琴羽を見ていない。視線の先にいるのは薫だけだ。二十年以上も自分たちを見下し続けてきた少女を、いつしか彼は好きになっていた。
……
採血を終えた頃には、琴羽の身体から力が抜け切っていた。足元がおぼつかず、ふらつきながら廊下を歩いていると、前方の人影に気づかないままつまずきそうになる。
すると背後から静子の不満げな声が聞こえてきた。「あの子、またあんなふうにふらふらして。まるで私たちが虐待でもしているみたいじゃない。本当に大げさなんだから」
琴羽は振り返らなかった。何かを言い返す気力もなく、重たい足を引きずりながら一歩ずつ前へ進む。
その時、救命処置室の扉が開いた。
待ち構えていた健志たちは一斉に駆け寄り、ベッドの上の薫を取り囲む。
「薫、大丈夫か?少しは楽になったか?」智則が真っ先に声を掛ける。
正樹も安堵したように身を乗り出した。「薫、欲しいものがあるなら何でも用意する。だからもう自分を傷つけたりしないでくれ」
静子も涙ぐみながら娘の手を握る。「本当に心配したのよ。あんたに何かあったら、お母さんたちはどうすればいいの?もう二度とこんなことをしちゃ駄目よ」
薫へ優しい言葉をかけた後、健志たちは冷たい視線で琴羽を見た。
「いい加減そんな下手な芝居はやめろ」健志が冷たく言う。「今すぐ家に帰って、薫のために栄養のある食事でも作って持って来い。今回薫を追い詰めたことへの謝罪だと思いなさい。分かったな?」
琴羽は何も答えず、ただ静かに背を向ける。
その時、不意に廊下の向こうで小さな光が瞬いた。「デス・メモリアル」の記録用のカメラから発した光だった。
その赤いランプが琴羽の瞳に映り込み、彼女はかすかに唇を歪めた。
――その映像が公開される日が来れば。誰が嘘をつきで、誰が演技をしていたのか、きっと、すべて明らかになるだろう。