LOGIN翌朝ー。目覚めると、彼女はベッドにおざなりに寝かされていた。見慣れない天井に、見慣れない部屋。それなりのインテリア。「……」それだけで、友梨は自分の立場を思い知らされた。彼女は起き上がると、着替えすらしていない自分のしわくちゃな服を見下ろし、そしてベッドから降りた。鏡に映した全身はどこかみすぼらしく、崩れた化粧と乱れた髪はまるで物乞いのようだったし、腫れ上がった瞼は彼女の魅力の一つであった大きな瞳を台無しにしていた。コンコン…ノックの音に振り返ると、ドアを開けて現れたのは使用人ではなく、昨日ムラドの側で見た女性のうちの一人だった。「おはようっ。よく眠れて…はいないみたいね」「…いえ……」眠れました。…というか、気を失っていたみたいです。そう答えると、その女性は目をパチパチとさせて驚いていた。だが昨日のことを思い出したのか、すぐに神妙な顔つきになった。そして、友梨の瞼の腫れは泣いた為だと思い至ったのか、「ちょっと待っててね」と言い残して部屋を出て行ったと思いきや、すぐさま氷の入った氷嚢を持って戻って来た。「これで冷やして。少しは良くなるわ」「…ありがとう…ございます…」戸惑いながらも受け取ると、その女性はニコッと微笑った。彼女は名前をEmma(エマ)といい、半年前にムラドの女になったのだと言った。彼女は肩までの長さの赤毛と、美しい青い瞳を持っていた。鼻の頭に散らばるソバカスは、彼女の明るい性格をよりキュートに見せていた。「ずいぶん頑張ってたけど、無駄よ。あの人…ていうか、この国に根付いてる考えはそんな簡単にひっくり返らないわ。腹が立つかもしれないけど、大人しく子猫ちゃんになってなさい」「……」「逆らっても、いいことなんてないわよ?大人しく言うことを聞いて、甘えて、尽くしてあげなさい。彼らはそれを望んでいるわ」従順と献身ー。そういうことだったのね…。「……」逆らう気なんか、もうない。友梨は受け取った氷嚢で両目を冷やしながら、コクリと頷いた。エマはそれを見てあからさまにホッと息をつき、そして言った。「大丈夫。子どもさえ産めば解放されるわ」「子ども…?」訊き返すと、エマは驚いたように目を見開いた。「知らなかったの?」「知らないわ。どういうこと?」もう何を言われても驚くことはないと思っていたのに、また爆弾を落と
友梨はそれを目にした途端、どうしようもないほどの恐怖に囚われた。「待って…」ソファの上をじりじりと逃げながら、哀願するように呟いた。が、ムラドは、枝のように撓るその教鞭を掌にピシピシと軽く打ち付けながら、友梨の前に立った。「チャンスをやる。……跪け」教鞭の先で足下を指した。「…わ…分かったわ……」そう言いながらおずおずとソファを降りると、ピシッ!「きゃーっ!」鋭い痛みが腕に飛んできた。「何するの!?」ピシッ!!「…っ……」友梨は痛みに耐え、唇を噛み締めた。なんなの!?なんなの、これ!?「……」ムラドは足下に蹲る彼女を冷たい目で見下ろし、言った。「君には従順さが足りないな。私がいいと言うまでその口を開くな」「でもー!」ピシッー!!「ああっー!」咄嗟に反論をしようとしてしまったせいで、また、今度はかなり強く打たれてしまった。「はぁ…まったく…」彼の呆れたような声音に、友梨の目から涙が溢れ出た。「うぅっ……」ポタポタと床に落ちる涙を見て、ムラドはチッ!と舌打ちをした。「辛気臭い真似はやめろ」そう言われても、溢れる涙を止めることはできなかった。はぁっ…ムラドは苛立たしげに息を吐き出すと、教鞭を置いた。そしてドアの前に立っていた執事を呼ぶと、面倒くさそうに言ったのだった。「あれを適当な所に捨ててこい」「かしこまりました」「ちょっー!」恭しく頭を下げる執事を見て、友梨は絶望の声をあげた。「ちょっと待って!!お願い!待ってー!!」その叫びに、執事はチラリと視線を向け、ムラドは振り返った。「なんだ?」「お願い!もう一度…っ、もう一度だけ、チャンスをくださいっ」「……」「お願いします…っ…」土下座をして頼み込む彼女の姿に絆されたのかなんなのか、気がつくと友梨の視界に彼の足先が入ってきていた。惨めだった。それに、屈辱だった。友梨は、これまで男性に対してこんなにも卑屈な態度をとったことなどもちろんなく、今も胸の中ではギリギリと歯噛みしていた。だけどー。理那人がタクシーの中で言っていたのだ。ここでは女性が一人でふらふらと出歩いていると、思わぬ危険な目に遭うことがあるから気をつけるように…と。特に若い女性はそのまま拐かされる心配があり、一度そういった連中に捕まると、おそらくもう無事には戻って来れない
怜士の息子、准は、自分の番号が晒されようと一向に気にしない男だった。本当に大切な人に渡す番号は別に持っているから、捨て番などどうでもいい…と。理那人が手に入れたのも、この捨て番だった。准の考えはこうだ。「どこにいい話が転がっているか分からないのに、情報を遮断するのはバカげている」確かに無駄な連絡は多い。だがその中の一つにでも引っかかるものがあるなら、それは無駄ではなかったということになる。もちろん、ふざけた内容の電話をわざわざかけてくるような暇人には、この先そんな暇は1ミリも無くなるほどの目に遭わせてやった。そしてそれを繰り返しているうちに、気がついたら無駄な連絡など一つもかかっては来なくなっていた。そのエピソードを後で彼の秘書の本田に聞いた時、理那人は、准に通ずるものがあるような気がして、勝手に仲間意識を持ち始めたのだった。でも本田は、苦笑して言った。「その捨て番、私が管理してるんですけどね…」「……」お疲れ様…と言うしかなく、お詫びに有紗を紹介してやった。なんとなく、彼のおおらかさと有紗の性格が合っているような気がしたからだ。そういえば…彼らは今、どんな感じになっているんだろう?有紗の猛追を本田が躱したのか、それとも絆されたのか…。そんなことをつい考えて黙り込んでしまった理那人は、准の呼びかけにハッと我に返ったのだった。「ああ…すみません。ちょっと考え事をしてました」そう謝ると、向こうから心配げな声が返ってきた。『大丈夫か?無理はするなよ?』「平気です。それに、彼女のことは先ほど手配しました」そう言うと、少しの沈黙の後、微かに安堵の吐息が聞こえた。『そうか…。手間をかけたな』「いいえー」理那人はクスッと笑った。「明後日にはそちらに行きます」その言葉で締め括って、通話を切ったのだった。*高級住宅地を出て少し車で走ったところにある広々とした土地に、ムラドの邸宅はあった。車窓から見える景色には、2階建ての、横に広がる大きな白い邸宅と、その周りを囲むようにある緑の木々。そして邸宅正面には、色とりどりの花が咲き乱れる花畑のような花壇がいくつか配置されていた。「綺麗…」後部座席に座る友梨が思わず呟くと、隣のムラドがクスリと笑った。「少しでもあなたの気が紛れるといいのですが」「私の…?」振り返って尋ねると、彼はその目
「……」理那人は2人を見送った後、使用人に指示して友梨の荷物をまとめさせた。しばらくして執事が持って来た彼女のスマホを受け取ると、理那人はそれを解約し、そして中のSIMカードをトイレに流し、本体もゴミとして捨てた。これで彼女はどこにも連絡することはできず、ムラドにも迷惑をかけることはないだろう。理那人はふぅ…と息を吐き、既に帰国してグループ総裁の座を継ぐ準備をしているだろう准に、電話をした。トゥルルルル…トゥルルルル…『もしもし』何度か呼び出し音を鳴らして、ようやく相手が出た。「おはようございます。准さん」『おはよう。そっちは昼過ぎか?何かあったのか?』「いいえ、別に…」『?…なんだ?』笑いを含んだ理那人の返事に、きっと今彼は眉を寄せているのだろう。そんなことを想像しただけで、理那人はまたふっと笑ってしまった。『理那人?』素っ気ない物言いの割にいろいろと気にかけてくれる彼を、理那人は慕っていた。今もまた、おそらく急に連絡をした自分に何かあったのかと心配してくれているのだろう。子供の頃から普通に自分を気遣ってくれるような友人が周りにいなかった彼は、准と出会って人生が変わったと思っている。始めは彼を利用してやろうと思っていた。准の父親が自分と有紗がこの世に生まれるきっかけになったとはいえ、母はあまり幸せではなかったようだし、そもそもたったの3年で離縁され、国に戻された。自分たち双子を産んでファミリーに貢献だってしたのに、彼女の扱いは良くも悪くもない、丁寧な放置に近いものだった。しかも彼女は、「自分で子供を育てたい」と言ったせいでそれをファミリーへの反抗だと思われて、結局母親になることすら禁じられた。理那人自身は、生まれて母親が離縁されるまでの間に何度か会わせてもらったらしいのだが、たぶんそれを全部合わせても、2日にも満たない時間だったようだ。だからなのか、特別母親を恋しいとか思ったことはない。会ってみたいとは思ったがー。そういう訳で、母親への想いから彼ら…准やその父親を憎んだりもしてはいなかった。ただ、准の父親が理那人の父に頼んで母を自分の周りから排除して、その見返りに、当時まだ足がかりのなかったあの国での起業を手助けする約束をしたと聞いて、チャンスだと思ったのだ。理那人はうんざりしていた。ファミリーは確かに自分を大切
理那人は、そんな彼女をじっと見て尋ねた。「なぜそんなにお金が必要なんですか?」「それはー」友梨は、涙ながらにたどたどしく事情を話した。「だ…だから、私……」しゃくりあげながら話すのを、理那人はただ黙って聞いていた。ソファに座る男たちもずっと黙っていたが、胸中は呆れていた。おいおい、もしかしてその借金を俺たちに払わせようとしてるのか?冗談だろ?それぞれがそんなことを思っていると、理那人が腹の底から出すような深いため息をついた。「友梨さん…あなたはどうしようもない人ですね」「え……?」彼女がポカンと顔を上げると、そこには心底呆れ返った様子の理那人の顔があった。「な、何が…」言いかける友梨の言葉を遮った。「いいですか?その借金は、元々あなたのご両親が返すべきものであって、あなたが負うものではありません。なぜ余計な荷物まで背負おうとするんですか?」「……だって…」だって、私はそのお金で育ててもらったんだし…それに、2人共もう年だからそんなに稼げないし…。と、そんなことを零す彼女を、理那人は呆れるほどバカだと思った。「子供を育てるのは親の義務です。それにお金がかかったからって、そのお金を子供が返す道理がありますか?」「……」「あなたがするべき精算は、芽衣さんの尊厳をくだらない理由で傷つけたことに対する、准さんの怒りです」「でもー!」すっくと立ち上がった理那人を見上げて、友梨は必死に言い募った。「じゃあ!借金はどうやって返したらいいの!?あの人たちには無理だものっ。私がなんとかするしかー」「じゃあ、すればいいのでは?したければね」彼の声は突き放すように冷たかった。温度がなく、軽蔑しきった声。「一つ聞きたいのですが、その借金をあなた自身が返すならまだしも、なぜ彼らが肩代りしないといけないのですか?まさか、あなたを得られるから?」「……」友梨は戸惑った。違うの?身売りするって、そういうことでしょう?その顔を見て、理那人はフッと嘲笑った。「友梨さん…あなた、自分を高く見積もりすぎでは?」「!」「あなたにそれ程の価値はありません」「っ……」友梨は、こんなにも面と向かって「価値がない」と言われるとは思っていなかった。悔しくて、恥ずかしくて…握った拳を震わせながら、つい問い質してしまった。「じゃあ!どんな女に価値が
集まっていた男たちは、互いに顔を見合わせて、そして言った。「1番と言われても、あまり大差ないんだが?」「じゃあ、具体的な資産を教えて」「……」さすがにこの言葉には、男たちの目付きが変わった。「なぜそんなことを?」「いい加減にしろ」「優しくしてやったらすぐこれだ。まったく女って奴は…っ」等と口々に捲し立ててきた。だが決定的な一言は言わなかった。〝黙って俺達の靴を舐めろ〟と。それは、いわゆる奴隷と何ら変わらない扱いだった。彼らは別に妻や恋人を求めているわけではない。珍しい女をコレクションしたいだけなのだ。それなのになんだと?資産を教えろだと?ふざけやがって!そんな感情が噴き出していた。ここにレリーの息子、リナトがいなければ、今頃こんな女など我らに連れ去られていただろう。その後どんな風に扱われようと、俺達の勝手だし、誰にも口出しはさせない。自分たちは、それだけの対価を贈っているではないか!「…っ」友梨は不穏な空気を肌で感じ、一歩後退った。理那人はそんな彼女を見て、内心もう面倒くさくて堪らなかった。もう…なんなんだ。面倒なことばっかり言いやがって…っ。彼は深いため息をつくと、ヴヴンッと彼らの注意を引いた。「皆さん、とりあえず落ち着いてください。友梨さんも、失礼な言動は控えてください」その言葉に、今にも立ち上がりそうだった男たちはソファに座り直し、友梨はホッと息をついた。「友梨さん」だが理那人の次の言葉に、彼女の中にあった彼への淡い期待も崩れ去った。「あなたにそんなことを問う権利は、ここではありません。僕の忠告を聞かなかったあなたの自業自得です。あなたが今するべきことは、彼らの忍耐力に感謝することであって、そうやって駄々をこねることではありません」「駄々…?駄々ですって!?どうしてよ!」どうして私が、私自身を託す相手を選んじゃいけないの!?少しでもいい人の所に行きたいと思うのは、普通のことでしょ!?「どうして、私にそんなに冷たいのよ!?私が何かしたっていうの!?」喚き散らすと、静かに聞き終えた理那人がはぁ…とため息をついた。「あなたは、怒らせてはいけない人を怒らせた。…それだけです」「はぁ!?」怒らせちゃダメな人って、誰よ!?友梨の目から、涙が零れ落ちた。そんな彼女に、彼は言った。「怒らせたでしょう?准さんを