INICIAR SESIÓN世界中が地球温暖化を信じるなか、歴史気候学と地球科学の権威・橘宗一郎だけは、数年以内に地球が急速寒冷化へ向かうと警告していた。だが論文は嘲笑され、マスコミに異端者と叩かれ、彼は学界から追放される。三年後、六月の東京に雪が降り、北米と欧州の穀倉地帯が冷夏と霜害で壊滅。穀物価格は暴騰し、輸出禁止と買い占めが世界を覆う。ようやく各国政府は宗一郎に助けを求めるが、彼は知っていた。これは異常気象ではない。本当の冬は、まだ始まってすらいない。自分を捨てた社会を救うのか、それとも信じた者だけを守るのか。飢餓と寒冷化が文明を食い尽くすなか、一人の学者が人類最後の選択に立ち向かう。
Ver más六月十九日、午前十一時十二分。
東京都心の気温は、四・七度まで下がっていた。
空は朝から鉛を溶かしたような色に沈み、昼が近づいているというのに陽射しらしいものはどこにも見えなかった。通勤途中の会社員たちは季節外れの冷気に首をすくめ、駅前のドラッグストアでは使い捨てカイロが飛ぶように売れ、衣料品店では倉庫へ片づけたばかりの冬物コートを店員たちが慌てて売り場へ戻していた。
それでも、多くの人間はまだ笑っていた。
異常気象。
記録的な冷え込み。
百年に一度。
ニュースでは朝からそんな言葉が並んでいたし、実際、六月に寒い日が一日や二日あったところで世界が終わるわけではない。昨年の夏には四十度を超えた都市がいくつもあり、ほんの数か月前まで、今年もまた記録的猛暑になるだろうと専門家たちは繰り返していた。
だから誰も、本気で恐れてはいなかった。
最初の雪が東京駅の丸の内駅舎の前へ落ちてくるまでは。
黒いスーツの袖に小さな白い粒が張りつき、一人の会社員が「あれ」と声を上げた。その隣を歩いていた若い女性が空を見上げ、今度ははっきりと、「雪じゃない?」と言った。
その声を合図にしたように、人々が立ち止まった。
六月の東京に、雪が降り始めた。
初めは細かな粒だった。やがて風が強まり、白いものは無数に舞い、街路樹の緑の葉へ貼りつき、タクシーの黒い屋根を薄く染めていった。半袖の学生たちが歓声を上げながらスマートフォンを向け、その横では年配の男が笑いながら、「こりゃ珍しいな、写真を撮っておかないと誰も信じないぞ」と妻らしい女性に話している。
ネットには、ほんの数分で映像が溢れた。
《六月に雪とか終わってる》
《東京、マジで雪なんだけど》
《地球温暖化どこ行った》
《会社休みにしてくれ》
冗談と驚きが入り混じった投稿が凄まじい速さで共有され、その一方で気象庁は臨時会見を開き、極めて珍しい寒気の南下による一時的現象である可能性が高いと説明した。
テレビ局も同じだった。
「六月としては百二十七年ぶりとなる都心での降雪が確認されました。ただし現時点では長期的な寒冷化を示すものではなく、専門家は極端な気象現象の一つとして冷静な対応を呼びかけています」
昼前の情報番組で女性アナウンサーがそう読み上げたころ、東京から百八十キロ以上離れた長野県東部の山あいでは、雪はすでに地面を白く覆っていた。
古い集落の外れに、一軒だけ離れて建つ木造家屋がある。
築六十年を超えた農家を改修した住まいで、庭には薪が積まれ、軒下には干し大根用の縄がまだ残っている。六月であれば窓を開け、山から吹き下ろす風を楽しむ季節だったが、その日は居間の中央に置かれた薪ストーブが赤々と燃えていた。
火の前で手をかざしていた老人が、テレビを見ながら呆れたように笑った。
「先生、本当に降っちまったぞ。六月だぞ、六月。俺はここで七十八年生きてるが、こんなの見たことねえよ」
橘宗一郎は返事をしなかった。
窓際に立ったまま、降り続ける雪を見ていた。
五十二歳。
少し伸びた黒髪には白いものが混じり、頬は以前より痩せていた。かつて大学の講義棟で何百人もの学生を前に話していたころは、皺の少ないシャツにジャケットを着込み、いかにも学者らしい風貌だったが、今は灰色のセーターに古いズボンという格好で、無精髭もきれいには剃っていない。
それでも、目だけは変わっていなかった。
物を見るとき、表面ではなく、その奥にある理由を探そうとする目だった。
老人――近所に住む農家の小林重雄が、ストーブへ新しい薪を放り込みながら言った。
「なあ、先生。これは、あれなのか。あんたが前に言ってたやつなのか」
宗一郎はようやく窓から目を離した。
「どの話です」
「とぼけんなよ。俺みたいな百姓でも覚えてる。世界が寒くなるって話だ。あんた、三年前にテレビで散々叩かれてたじゃねえか。あのとき娘が教えてくれてな。『隣に住んでる変わり者の先生、昔はすごい大学教授だったんだって』って」
「変わり者は余計ですよ」
「否定できるのか?」
「できませんね」
宗一郎がそう答えると、重雄は鼻を鳴らして笑った。
この老人は宗一郎がこの集落へ移り住んで以来、彼の経歴を知っても態度を変えなかった数少ない人間だった。難しい論文の話などまるで理解しないし、地球科学と歴史気候学の違いを説明しても、「要するに昔の天気を調べる先生だろ」と一言で済ませる。
宗一郎には、むしろそれがありがたかった。
学会で肩書きを失ったあと、誰かと話すたびに、相手が自分をどう評価しているのか気にする癖がついていたからだ。
重雄はもう一度、窓の向こうを眺めた。
「で、本当に始まったのか?」
宗一郎はすぐには答えなかった。
テレビには渋谷駅前が映っている。
若者たちは雪にはしゃぎ、外国人観光客は傘を差しながら笑っていた。気温表示は四・五度。画面の下には赤い帯が流れ、《北海道、東北、北陸の広い範囲で霜害。農作物への影響を調査中》と出ている。
宗一郎は腕を組んだ。
「違います」
「違うのか?」
「ええ。まだ来ていません」
重雄の笑顔が止まった。
宗一郎は窓の外へ視線を戻した。
「これは入口です」
「先生、お前さん、そういう言い方やめろよ。怖えじゃねえか」
「私だって怖いですよ」
「そういう顔に見えん」
「では、どんな顔をすればいいんです。三年間待っていたことが本当に起き始めたんですよ。笑えばいいのか、泣けばいいのか、自分でも分からない」
宗一郎の声は落ち着いていたが、右手はわずかに震えていた。
重雄はそれに気づいたらしい。
いつもの調子で冗談を続けようとした口を閉じ、代わりに湯呑みへ温かい番茶を注いだ。
「飲め。人間、難しいこと考える前に腹と体を温めた方がいい」
「それは科学的根拠のある助言ですか?」
「七十八年生きた経験則だ。お前さん、歴史が専門なら経験の積み重ねを馬鹿にすんな」
宗一郎は小さく笑った。
「確かに。その通りです」
湯呑みを受け取った直後、テレビの映像が切り替わった。
男性アナウンサーの声が少し上擦っている。
『ここで海外から入ってきたニュースです。カナダ西部アルバータ州の複数地点で六月として観測史上最低となる気温が記録されました。また、フランス北部とドイツ西部でも季節外れの降雪が報告されています』
重雄が振り返る。
宗一郎は黙ったまま画面を見つめた。
続けて、別の映像が映る。
一面の畑。
青々としているはずの小麦畑には白い霜が降り、その間を厚手の上着を着た農家らしい男が歩いていた。
『フランス北部では、この時期としては極めて異例となる最低気温マイナス三度を記録した地域があり、小麦や葡萄への被害が懸念されています』
宗一郎は湯呑みを机へ置いた。
「フランス北部でマイナス三度……」
重雄が聞いた。
「まずいのか?」
「小麦は生育段階によります。ただ、開花期に強い霜を受ければ収量は落ちる。問題はフランスだけじゃない。カナダ、ドイツ、東欧、中国東北部……同じ緯度帯の穀倉地帯で同時に低温が起きているなら」
「起きているなら?」
宗一郎は答えず、机の上に置かれていたノートパソコンを開いた。
古い機械だった。
大学を辞めてからは研究費など出ない。高性能の計算機も研究室の観測機器も使えなくなり、今は市販のパソコンと個人契約したデータベース、それから過去に自分で保存していた膨大な資料だけが頼りだった。
画面に気象観測サイトを開き、北半球の気温偏差図を表示する。
宗一郎の表情が硬くなった。
北米。
北大西洋。
西欧。
シベリア。
東アジア。
冷気の塊が、まるで複数の指で北半球を掴むように伸びていた。
「そんなに悪いのか」
重雄の声は今度こそ冗談ではなかった。
「今日だけを見れば、まだ何とも言えません」
「今日だけを見れば、だろ」
宗一郎は振り返った。
重雄は腕を組んでいた。
「俺は学者じゃねえが、百姓だ。空を見て、土を触って、種を蒔いて、それで飯を食ってきた。先生が本当に何とも思ってねえなら、そんな顔はしない」
「どんな顔です?」
「自分が正しかったことを、後悔してる顔だ」
宗一郎は何も言わなかった。
図星だった。
三年前。
国際地球環境学会の特別シンポジウム。
宗一郎は壇上に立ち、三百枚以上の資料を使って発表した。
過去二千年にわたる東アジアの飢饉記録。
ヨーロッパの葡萄収穫期。
北大西洋の海底堆積物。
グリーンランド氷床コア。
樹木年輪。
太陽活動。
火山活動。
海流変動。
それらを統合すると、従来のモデルでは説明しきれない変動の前兆が現れている。
人類社会は温暖化への対応だけでなく、急激な寒冷化と世界的な食料危機への備えも必要である。
そう訴えた。
会場は静まり返った。
しかし、その静けさは驚きではなかった。
失笑だった。
発表翌日、ニュースサイトには見出しが並んだ。
《著名教授、まさかの氷河期論》
《温暖化対策に水を差す「時代錯誤の学説」》
《科学か陰謀論か》
テレビの討論番組では、宗一郎が発言していない言葉まで勝手に字幕にされ、「地球温暖化は嘘だと主張する教授」と紹介された。
彼は一度もそんなことを言っていなかった。
気温上昇そのものを否定したことなど一度もない。
地球の気候は単純な一本線ではなく、複数の現象が相互作用し、場合によっては極端な揺り戻しが起こる可能性があると言っただけだった。
だが、そんな説明は広まらなかった。
炎上した言葉の方が短く、分かりやすかったからだ。
大学は宗一郎に会見を開くよう求めた。
研究室の廊下では、それまで笑顔で挨拶していた若い研究者が目を合わせなくなった。
共同研究者の一人からは、
「先生、申し訳ありませんが、今回の論文から私の名前を外していただけませんか」
と電話があった。
宗一郎は怒鳴った。
「君は二年前からデータを見ていただろう。私と同じ結論に同意していたじゃないか」
相手はしばらく黙ったあと、
「子供がいるんです」
と答えた。
その言葉を、宗一郎はいまだに忘れられない。
卑怯者だと思った。
同時に、自分には理解できないとも思った。
あのころ、宗一郎の家庭はすでに壊れていたからだ。
妻とは離婚していた。
娘の美咲とも、ほとんど口を利かなくなっていた。
守るべき家庭を持っている人間と、研究以外ほとんど何も残っていなかった自分では、選択の重さが違う。
それでも当時の宗一郎は、そんな事情まで考える余裕がなかった。
「科学者が事実から逃げてどうする」
電話を切る直前、そう吐き捨てた。
それから三年。
大学を追われ、学会の役職を失い、研究費はなくなり、取材依頼も途絶えた。
ある意味では、望んだ通りになった。
誰も彼を相手にしなくなった。
宗一郎は長野の古民家に移り、一人で研究を続けた。
生活費は過去の著書の印税と、企業から時々依頼される歴史資料の監修で賄っていた。
それでも、毎朝六時に起き、世界中の気温と海流と太陽活動を確認する習慣だけは変えなかった。
間違っていてほしかった。
自分の計算などどこかで根本的に狂っていて、十年後には昔の同僚たちが酒の席で、
「あの橘教授、氷河期が来ると言ってたよな」
と笑ってくれればよかった。
それが一番だった。
自分の名誉など戻らなくてもいい。
娘に呆れられたままでもいい。
世界が続くなら、それでよかった。
だが、六月十九日。
雪が降った。
そして北半球の穀倉地帯が、同時に冷え始めている。
宗一郎は画面を見ながら、小さく息を吐いた。
「小林さん」
「なんだ」
「畑に、今年植えたものは?」
「米と蕎麦と、大豆。それから家で食う分の野菜だな」
「今夜、さらに冷えます。できる範囲で覆いをかけてください」
「どのくらい下がる」
「予報より三度は低くなると思います」
「全部は無理だぞ」
「分かっています。それでも、できるだけ」
重雄は宗一郎をじっと見たあと、立ち上がった。
「分かった。息子にも電話する。村の連中にも言ってみる」
「私が言ったとは言わない方がいいですよ」
「なんでだ」
「信じない人もいるでしょう」
「だったら、七十八年百姓やってる俺が空見てそう思ったって言っとくよ。年寄りの勘なら、先生の論文よりは信じる奴もいる」
「それは複雑ですね」
「世の中なんてそんなもんだ。正しいか間違ってるかより、誰が言ったかで人は動く。先生は賢いくせに、そこだけは昔から分かってねえ」
宗一郎は苦笑した。
「耳が痛いですね」
「痛いうちが華だ。じゃあ行ってくる」
玄関へ向かった重雄が、ふと思い出したように振り返った。
「先生」
「はい」
「世界、本当にやばいのか」
宗一郎は少し考えた。
嘘をつくこともできた。
まだ分からない。
今日は珍しい一日なだけだ。
そう言えば、少なくとも目の前の老人を安心させられる。
しかし三年前、宗一郎が最も憎んだのは、不安を与えないという理由で情報を薄め、都合のいい言葉に変えた人間たちだった。
ならば、自分だけ同じことをするわけにはいかない。
「まだ断定はできません。ただ、もし私の予測通りなら……」
一度、言葉を切る。
「今年の秋までに、食料の値段は今とは比べものにならないほど上がります」
重雄の眉が動いた。
「それだけか?」
宗一郎は首を横に振った。
「いいえ。むしろ、それで済めばいい方です」
重雄は何も言わなかった。
やがて玄関の引き戸が閉まり、一人になった家には、薪のはぜる音とテレビの声だけが残った。
宗一郎は再びパソコンへ向かった。
世界の気象観測データを確認する。
カナダ。
異常低温。
フランス。
霜害。
ドイツ。
積雪。
中国東北部。
広範囲で低温注意報。
ロシア西部。
小麦生育遅延。
アメリカ中西部。
平年比マイナス八度。
宗一郎の指が止まった。
「早すぎる」
想定していたより早い。
自分の論文では、本格的な異常低温の連鎖は早くても来年だった。
それが一年近く前倒しになっている。
つまり、自分の予測は正しかったのではない。
間違っていた。
より悪い方向へ。
宗一郎は机の引き出しを開けた。
奥から分厚いファイルを取り出す。
表紙には、黒いペンでこう書かれていた。
『急速寒冷化発生時における初期社会影響予測』
三年前、大学に提出し、採用されなかった報告書だった。
最初のページを開く。
第一段階。
局地的低温。
農作物被害。
第二段階。
主要輸出国の収量低下。
穀物先物価格の急騰。
第三段階。
輸出規制。
買い占め。
国内物流混乱。
第四段階。
国家間の食料争奪。
宗一郎は指で文字をなぞった。
「まだ第一段階だ」
そう呟いたとき、机の上のスマートフォンが震えた。
画面を見て、宗一郎は動きを止めた。
表示されている名前を、一瞬理解できなかった。
東都大学。
地球環境研究科。
三年間、一度も連絡がなかった番号だった。
呼び出し音が続く。
宗一郎は取らなかった。
切れた。
しかし十秒もしないうちに、また鳴った。
同じ番号だった。
三年前なら、何を差し置いてでも取っただろう。
大学に戻れるかもしれない。
研究を続けられるかもしれない。
自分の説明を聞いてくれるかもしれない。
そんな期待を抱いた時期もあった。
今は、何も感じないと思っていた。
実際には違った。
画面を見ているだけで、腹の底から古い怒りが湧き上がった。
研究室を閉鎖された日。
荷物を段ボール箱へ詰めていたとき、廊下を歩いていた元同僚たちが誰一人声をかけなかったこと。
大学の正門を出たとき、報道陣に囲まれて、
「温暖化は嘘だという主張を撤回するつもりはありませんか」
と聞かれたこと。
そして何より、最後の教授会で学部長が言った言葉。
「橘君。君が正しいかどうかは問題ではない。大学という組織にとって、君の存在そのものが負担になっているんだ」
三度目の着信。
宗一郎はようやく電話を取った。
「橘です」
一瞬、向こうが黙った。
その沈黙だけで、誰なのか分かった。
『……橘君。久しぶりだ』
「ええ。三年ぶりですね、佐伯学部長」
『元気にしているか』
宗一郎は思わず笑った。
「六月に雪が降っている日に、三年間連絡のなかった元上司から電話が来て、最初にする話が私の健康ですか」
『相変わらずだな』
「そちらも相変わらずのようで安心しました」
電話の向こうで、小さな息遣いがした。
昔なら、ここで宗一郎が折れた。
相手が言いにくそうにしているなら、自分から本題を促した。
だが今は何も言わず、待った。
数秒の沈黙が、妙に長く感じられた。
やがて佐伯が口を開いた。
『君の論文について話がしたい』
宗一郎は窓を見た。
雪はさらに強くなっていた。
六月の山里が、白く染まり始めている。
「三年前なら」
宗一郎は静かに言った。
「喜んで話しましたよ」
『橘君』
「大学は、私の論文を正式に撤回させようとしましたね」
『事情は分かっているだろう』
「分かっています。だから私は大学を辞めた」
『今は責任の話をしている場合じゃない』
「では、何の話です?」
佐伯の声が低くなった。
『今日のデータを見た。カナダ、ヨーロッパ、中国。それから海水温と北大西洋の観測値もだ。研究科の連中が、君の三年前のモデルをもう一度回している』
宗一郎は目を細めた。
『橘君。君が予測した現象と一致している』
「一致していません」
『何?』
「私の予測より、一年早い」
電話の向こうが静まり返った。
宗一郎は続けた。
「それに、北米内陸部の低温偏差が大きすぎる。北大西洋の海面水温分布も三年前の推定より悪い。もし今の数値が観測誤差でないなら、私が出した最悪想定より進行が速い可能性があります」
『どの程度だ』
「それを調べる設備を奪ったのは、どこの誰でした?」
『橘!』
怒鳴り声が響いた。
宗一郎は驚かなかった。
佐伯はもともと短気な男だった。
ただ、数秒後には向こうの声が変わった。
『……頼む』
それは、宗一郎が初めて聞く声だった。
『頼む、橘。今は、昔のことを横に置いてくれ』
宗一郎は返事をしなかった。
『農林関係から問い合わせが来ている。官邸からもだ。研究科だけじゃ処理できない。君のモデルを完全に理解している人間がいない。君がいなくなってから、あの研究チームは事実上解体したんだ』
「それはお気の毒に」
『分かっている。君が怒るのは当然だ』
「違いますよ」
宗一郎は思ったより穏やかな声で答えた。
「怒っているのは三年前からです。今さら新しく怒ることなんてありません」
『だったら――』
「ただ、佐伯先生」
宗一郎はテレビへ目を向けた。
画面の下に、また新しい速報が流れていた。
《北海道十勝地方、一部地域で最低気温氷点下。農作物への被害拡大》
宗一郎はしばらくそれを見つめた。
「一つだけ、勘違いしないでください」
『何だ』
「私は、大学を助けるために戻る気はありません」
『……分かっている』
「学会の名誉を守るためでもない。私の論文が正しかったと証明して謝罪させるためでもない」
自分で口にしながら、本当にそうなのかと考えた。
正しかったと言わせたい気持ちはある。
頭を下げさせたい。
自分を嘲笑した連中全員を会議室に並べて、三年前の自分の論文を一ページずつ読ませたい。
そのくらいの醜い感情は、今も残っている。
宗一郎はそれを否定しなかった。
人間なのだから当然だと思うことにした。
それでも、それ以上に気になることがあった。
娘がいる。
東京に。
もし予測通りに進めば、危険なのは寒さではない。
最初に壊れるのは食料供給だ。
そして世界でも最も巨大な消費都市の一つである東京は、生産地ではない。
毎日、全国と海外から食べ物を運び続けることで初めて生きている都市だ。
「必要なデータを全部送ってください」
宗一郎は言った。
佐伯が息を呑んだ。
『来てくれるのか』
「先にデータを見ます。そのあと決めます」
『分かった。すぐ送る』
「それと、農作物被害の速報値。国内だけじゃない。北米、欧州、中国、ロシア、インドまで集めてください」
『分かった』
「穀物先物市場も」
『そこまで必要か?』
宗一郎は一瞬黙った。
「佐伯先生」
『何だ』
「三年前、私が提出した報告書を覚えていますか」
『急速寒冷化時の社会影響予測か』
「第一段階の次に何が来るかも?」
電話の向こうで、答えはなかった。
覚えているのだろう。
宗一郎は静かに続けた。
「作物が枯れたあとに起きるのは、寒さじゃありません」
『……食料価格か』
「ええ」
宗一郎は窓の外の雪を見た。
「人は寒さより先に、空腹で壊れます」
電話を切った直後、宗一郎は別の番号を呼び出した。
画面には、「美咲」と表示されている。
指が止まった。
最後に娘と話したのは四か月前だった。
美咲の誕生日。
宗一郎から電話をかけた。
十七分話した。
そのうち十六分は言い争いだった。
それ以来、連絡していない。
今さら電話をして、
食料を買え。
東京を出ろ。
寒冷化が来る。
そう言えば、また同じことになるだろう。
美咲はきっと言う。
また世界の終わりの話?
お父さんにはそれしかないの?
宗一郎は画面を見つめたまま、長い間動けなかった。
テレビでは、六月の雪にはしゃぐ若者たちが映っていた。
その中に娘がいるわけではない。
分かっている。
それでも東京の風景を見ると、美咲の顔が浮かんだ。
宗一郎は通話ボタンを押した。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
四回。
留守番電話へ切り替わる直前、音が止まった。
『……何?』
娘の声だった。
何かあったの、と心配する声ではない。
明らかに面倒そうだった。
宗一郎は苦笑したくなったが、できなかった。
「美咲」
『名前は分かってる。何? 仕事中なんだけど』
「雪は?」
『見れば分かるでしょ。東京中で降ってる。まさか、それを教えるために電話してきたの?』
宗一郎は一度、目を閉じた。
言い方を間違えるな。
三年前と同じことをするな。
だが、娘と話すとなると、どうしても学会発表より難しい。
「今夜から明日にかけて、もっと冷える可能性がある」
『だから?』
「できれば今日中に、水と保存できる食料を買っておいてほしい」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
そして予想通りの声が返ってきた。
『また、それ?』
宗一郎は唇を結んだ。
『お父さん、私、本当に仕事中なの。今日だって朝から雪の取材で現場と局を行ったり来たりしてる。世界が終わるとか、寒冷化が来るとか、そういう話を聞いてる暇ない』
「世界が終わるとは言っていない」
『同じでしょ』
「違う」
『私には同じなの』
宗一郎は言葉を失った。
美咲の声が少し低くなる。
『子供のころからそうだった。旅行に行っても地層を見てるし、誕生日でも研究室にいるし、お母さんと喧嘩したときだって、「今は重要な研究がある」って、そればっかりだった。お父さんの中では、いつも世界の方が家族より大事だった』
「それは……」
『今になって心配されても困る』
宗一郎は反論しようとした。
自分なりに家族を大事にしていた。
研究は遊びではない。
将来のために必要だった。
言い訳はいくらでも浮かんだ。
だが全部飲み込んだ。
美咲がそう感じていたという事実だけは、どんな理屈でも否定できない。
「そうだな」
『え?』
「お前の言う通りだ」
美咲が黙った。
宗一郎が簡単に認めるとは思っていなかったのだろう。
「だから、父親として信用されていないのも分かっている。それでも今回は聞いてくれ」
声が少し掠れた。
「俺を嫌ったままでいい」
『お父さん』
「三か月分とは言わない。一週間分でもいい。水、米、缶詰、乾麺。買える範囲でいいから持っておけ。それから、もし今後数日で食料品の値段が急に上がり始めたら、そのときは俺に連絡してくれ」
『何が起きるの』
宗一郎は答えるまで少し時間がかかった。
「まだ分からない」
『分からないのに、そこまで言うの?』
「ああ」
「お父さんが、『分からない』って言うの、珍しいね」
わずかに、昔の娘の声に戻った気がした。
宗一郎は苦く笑った。
「本当は、分からないことばかりだよ。学者というのは、それを人に悟られないよう難しい言葉で話すのが上手いだけだ」
『最低』
「そうだな」
ほんの少しだけ、美咲が笑った。
その笑いはすぐ消えた。
『……分かった。一応、帰りに買う』
宗一郎の肩から力が抜けた。
「ありがとう」
『でも、買い占めはしないからね』
「もちろんだ」
『じゃあ切る。現場戻るから』
「美咲」
『何?』
宗一郎は言いかけて、やめた。
気をつけろ。
それだけでは足りない。
東京を出ろ、と言いたい。
だが今言えば、また拒絶される。
「いや。仕事、気をつけてな」
『お父さんもね』
電話が切れた。
宗一郎はしばらくスマートフォンを見ていた。
その直後、パソコンに新着メールの通知が次々と表示された。
東都大学。
添付ファイル。
観測データ。
農業被害速報。
衛星情報。
穀物市場速報。
宗一郎はすぐに画面へ向き直った。
メールを開く。
最初のファイルは、北半球の最新気温分布だった。
次。
北大西洋海面水温。
次。
主要穀倉地帯の最低気温。
そして最後に、穀物先物価格。
数字を見た瞬間、宗一郎の背中に冷たいものが走った。
小麦先物価格が、わずか数時間で急上昇している。
市場はすでに気づき始めている。
雪を珍しがって写真を撮っている一般人より早く。
政府より早く。
食料を金として扱う人間たちは、もう動き出していた。
宗一郎は、三年前の報告書を机へ広げた。
第一段階。
農作物被害。
第二段階。
穀物価格急騰。
時計を見る。
午後零時三十七分。
六月十九日。
東京に雪が降り始めてから、まだ二時間も経っていない。
それなのに、第二段階が始まりかけていた。
宗一郎は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「早すぎるだろ……」
思わず、誰にともなく呟いた。
薪ストーブの火が、ぱちりと弾ける。
外では六月の雪が降り続いている。
そして遠く離れた世界の市場では、人間たちがまだ誰も見たことのない冬の値段をつけ始めていた。
第13話 二度目の寒波は、一度目より残酷だった六月二十三日、午前零時十二分。橘宗一郎は、つい数分前まで眠るつもりだった布団から完全に抜け出し、再び仕事机の前に座っていた。枕元から持ってきた眼鏡をかけ、パソコンを立ち上げる。眠る前に落とした部屋の照明も点け直したが、古民家の中はまだ夜の静けさを残しており、ファンの回転音と、壁の時計が刻む小さな音だけが耳についた。画面には、アーロン・グレイから送られてきた北米上空の最新データが表示されている。カナダ北部で形成されつつある巨大な冷気塊。宗一郎は、最初の寒波と比較するため二つの画像を横に並べた。一度目は、大気の流れが大きく蛇行した結果、北極圏の冷気が一気に南へ流れ込んできた。今度は違う。大陸内部で冷気が蓄積し、それを北側から高気圧が押し出そうとしている。速度はまだ読めない。進路も確定していない。それでも、南下した場合に通る可能性が高い場所は、宗一郎にとって最悪に近かった。カナダ南部。アメリカ中西部。世界でも有数の小麦、トウモロコシ、大豆の生産地帯。「どうして、そこなんだよ」思わず日本語で呟いた。通話を繋いだままだったグレイが聞き返す。『何と言った』「何でもありません」『顔を見る限り、私と同じことを考えているようだが』「だったら聞かないでください」『寝起きで機嫌が悪いな』「寝かけた瞬間に起こしたのは誰です」『自然だ』「責任転嫁が上手くなりましたね」グレイが小さく笑った。ほんの数秒。二人とも、すぐ画面へ戻る。
第12話 暖かくなる。それが一番危なかった六月二十二日、午前七時十八分。東京の気温は、九・六度まで戻っていた。前日の同じ時間と比べれば、体感はまるで別の季節だった。九度台が六月として異常に低いことに変わりはないのだが、氷点近くまで落ち込んだ二日前を経験した人々にとっては、十分に「暖かい」と感じられる気温だった。歩道の雪はほとんど消え、ビルの屋根から水滴が落ち、駅へ向かう会社員の中には厚手のダウンジャケットを脱いで腕に抱えている者もいる。テレビでは朝から、《寒波いったん緩む》《週後半は気温回復へ》《東京、最高気温十五度予想》という見出しが並んでいた。そして、ほんの二日前まで空になっていたスーパーの棚にも商品が戻り始めていた。物流会社が夜を徹して配送した結果だった。米。水。乾麺。缶詰。完全ではない。一部の商品は相変わらず購入制限が続いている。それでも棚に商品が並んでいるというだけで、人々の表情は明らかに変わっていた。「ほら、やっぱり大丈夫だったんじゃん」都内のスーパーで、若い男性客が友人へ笑いながら言った。「俺、親に米送れって言われて五キロ二袋も買っちゃったよ」「食えばいいじゃん」「一人暮らしで十キロどうすんだよ」「来年まで持つだろ」二人は笑う。その会話を少し離れた場所から聞いていた美咲は、マイクを持ちながら何とも言えない顔をした。隣でカメラを構えていた佐野が小声で言う。「昨日まで殺気立ってた店と同じとは思えんな」「人間、慣れるの早いですね」「安心
第11話 裏切ったのは、最後まで信じてくれた人だった六月二十一日、午後一時二十二分。世界各地の研究者を集めた緊急オンライン会議が始まったとき、橘宗一郎はすでに機嫌が悪かった。正確に言えば、怒っていた。しかし今までのように、怒りに任せて誰かを責めれば済む状況ではないことも理解していた。パソコンの画面には三十六人の研究者が並んでいる。アメリカ、フランス、ドイツ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アルゼンチン、日本。気候学、海洋学、大気物理学、農業気象学、古気候学、それぞれ専門も国籍も違う人間が、一つの異常事態を理解するために集められていた。その中には三年前、宗一郎の論文を批判した者もいる。逆に、最後まで擁護した者もいる。だからこそ、厄介だった。会議開始前から空気は重かった。誰もが、研究チーム内のドラフト資料が外部へ流れたことを知っている。ニュースでは朝から、《来年も夏は来ない》という言葉が世界中を駆け巡り、食料だけでなく種子、肥料、飼料、防災用品まで買い占めが広がっている。研究者たちは観測データを分析するために集まったはずだった。それなのに、今は互いの顔を疑っている。宗一郎が最も恐れていた状態だった。「始めます」宗一郎は静かに言った。声を荒らげるつもりはなかった。その代わり、普段以上に低い声になった。「最初に、今日の会議では二つの問題を扱います。一つは昨夜からの解析結果。もう一つは、研究チーム内資料の外部流出です」何人かが視線を逸らした。アーロン・グレイが口を開く。『先に解析をやらないか』宗一郎はグレイを見る。「なぜです」
第10話 「来年も夏は来ない」――誰も言っていない言葉が世界を走った六月二十一日、午前六時三分。橘宗一郎が眠れたのは、四十七分だった。目覚まし時計が鳴るより先にスマートフォンの振動で目を覚まし、枕元に手を伸ばしたときには、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。頭の奥には鈍い痛みが残り、口の中は乾ききっている。昨夜の最後の記憶は、パソコンの画面に表示された六十一パーセントという数字と、アーロン・グレイから「一時間でも眠れ」と言われたことだった。カーテンを開くと、窓の向こうは薄暗かった。六月の朝六時。本来なら、とっくに明るい時間だ。しかし空は分厚い雲に覆われ、庭に残った雪が青白く見えるだけで、太陽がどこにあるのかさえ分からない。宗一郎は洗面所で冷たい水を顔に当てた。鏡を見る。目の下には隈があり、髭も伸びている。「救世主の顔じゃないな」昨夜グレイに言われた冗談を思い出して、自嘲気味に呟いた。そもそも救世主などではない。四十七分しか眠れず、娘との関係を三年かけても直しきれず、昔の同僚への恨みもまだ消せずにいる五十二歳の男だ。そんな人間へ、世界中が答えを求め始めている。考えるだけで胃が重くなった。台所へ行くと、テーブルの上に見覚えのない保温容器が置かれていた。蓋には紙が貼ってある。《朝飯。絶対食え。重雄》「いつ入ったんだ……」昨日、玄関の鍵をかけ忘れていたことを思い出す。今度こそ鍵を確認しなければならない。容器の中には、おにぎりが二つと卵焼き、それから焼いた鮭が入っていた。宗一郎は少し迷った。午前六時半から政府との緊急協議。