25 祖父から『詫びを入れろ』と言われて帰った日から匠吾は両親と三人で 数日間家族会議を開き、今後のことを打ち合わせし計画を立てた。 花が退職、島本玲子には社内の人間に自分とのツーショットをばら撒かれ、そんな中自暴自棄にならないほうがおかしいくらいの立ち位置にされて しまったのだ。 誰の目にも花から島本に乗り換えたと映ったことだろう。 これから島本玲子を焼くか煮るか考えていた向坂家にとっては もっけの幸いだ。 解決に向けては一日でも早い方がいい。 早く終わらせてスッキリしたかったから。 ……ということで向阪家では玲子と匠吾との結婚を急いだ。 匠吾は愛想笑いを表情に貼り付け玲子をデートに何度か誘いプロポーズ。 入籍を急ぎ翌月には籍を入れ、式は一年後ということで匠吾は玲子を 妻に迎え入れた。 もちろん、そんなの嘘っぱちで式を挙げるつもりもなく、 籍は入れた振り……で実際のところは事実婚。 知らぬは玲子ばかり。 玲子は玲子でそれとなくリサーチしていて、匠吾の父親が別のグループ会社の取締役などに就いていることも知っており、結婚後はさぞかし豪華で ハイスペックな一戸建てに住めるだろうと考えていたのに蓋を開けてみれば その辺の中古マンションクラスの2LDKだったため、内心憤慨していた。 それでも流石に実家は豪邸だろうと思っていたのにこれまた予想外で、 自分たちと同じマンションに住んでいるのだ。『どういうことなのだ』と、豊かな生活を期待していた玲子はしばらくの間 何もかもが信じがたく戸惑うばかりだった。 祖父との面談のあと、すぐに沙代たち一家は茂から住居を他所に構えるようにとの申し渡しを受けていた。 玲子のことを考えるとちょうどよかった。 しばらくは玲子に一泡吹かせる意味でも、またこんな事でもない限り 普通の狭いマンション暮らしなど経験することも今後生涯自分たちには 無縁のことなのでここはひとまず楽しんで暮らしてみようということになった。 ……ということで沙代夫婦、匠吾夫婦は同じマンションの階違いで 入居した。 息子とのこれからの相談や、嫁の玲子の行動を監視するのにも ちょうどよかったのだ。
26 玲子は匠吾に「お金持ちなのだからせめて新築のマンションで暮らしたい」と要望を伝えた。 それなのに夫から返された返事は『財産を持っているのは祖父や両親であって自分ではない。自分は一介のサラリーマンだからこれ以上の暮らしを望むのであれば 働いてほしい』だった。 豪邸に住み専業主婦になって優雅な暮らしができると思っていたのに 当てのはずれた玲子は落胆するのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 息子と結婚後、玲子が贅沢《リッチ》な生活をしたいというようなことを口走るようになった。 沙代は策略を練り、自分と夫の洋輔はあくまでも二人の結婚には反対であるとの立場をとった。 そしてそのあと、しぶしぶ了承する振りをして玲子に跡継ぎを産めば少しは嫁として認めてやると条件を突き付けていた。 それは、玲子の『お金持ちなのだからせめて新築のマンションで暮らしたい』発言からちょうど3日後のこと。 息子の嫁の姑としてちゃんと諭してやらねばなるまいと…… 沙代は玲子を家に呼びつけた。 「話は匠吾から聞いたわ。 あなたとの結婚をしぶしぶ認めた時にもお話してあったと思うけれども、 跡継ぎを半年以内に妊娠することができればマンションといわず、 土地300坪くらいでそれに見合う戸建てを夫と私からプレゼントするわ。 どう? 玲子さん」 何を言われるのかと戦々恐々として訪れた姑の家で、新築マンション どころではない土地300坪に建てる一戸建てという破格の提案をされ、 天にも昇る気持ちで玲子は家に帰って行った。 釣られた餌にばかり気を取られ、案外難しい注文だということに この時の玲子は気付かずにいた。 玲子が帰った夜のこと、仕事から帰宅した洋輔が開口一番沙代に 問いかけてた。「あの子、どうだった?」「元々心根の卑しい子だから、喰い付き方が半端なかったわよ。 目がキラキラしてたわ。ふふふ」「あとは匠吾の腕の見せ所ということか。大丈夫だろうなぁ? ほんとに匠吾との子ができたら目も当てられないよ」「あなた、止めてっ! そんなおぞましいことを」 夫妻は殊の外真剣だった。 この計画が何らかの形で頓挫した日には、別の復讐を 考えなければならなかったからだ。
27 その日から玲子は子作りをするべく発奮するのだが、対して 夫の匠吾は週末しか相手にしてくれない。 だが妊娠する時はたった一度の夫婦の営みでもするという話も 聞いたことがあり、当初はそんなに焦ってはいなかった。 4か月目に入っても妊娠の兆しはなく、この辺から玲子に焦りが 見え始める。 実は匠吾は軽度ではあるものの不妊と診断を受けていた。 治療次第で子供は授かれるレベルと言われていて、だからこそ 玲子との夫婦生活において、スキンを使わなくてもやり方次第で 妊娠しない方向へもっていけるという根拠があり、家族会議の上での 計画となった。 そんな具合で夫のほうに元々子作りする意志がないものだから 妊娠などするはずもなく、しかし厚顔無恥な玲子も流石にりっぱな家を 買ってもらうために早く妊娠したいなどとは、そこはやはり新婚さん妻で 夫の匠吾には言えなかった。 悶々としていた玲子は、ある日閃いた。 夫と同じ血液型の男を探し、パパになってもらえばいいや、と。 出会い系マッチングアプリで血液型と見た目、学歴などを加味し、 無事? 妊娠し玲子は喜びを噛み締めるのだった。 たまたまこの年からちょうど母子に危険を及ぼす可能性のある羊水からの 採取ではなく母親の血液から簡単にDNA鑑定できるようになっており 天は沙代たちに味方した。 玲子の妊娠7週目を待って玲子にはDNA鑑定であることは伏せ 内臓疾患があると妊娠にリスクが出て来るので検査を受けなさいと 知り合いの病院で血液検査を受けさせた。 念のため匠吾も頬の内側を綿棒で擦るという口腔上皮細胞の採取を行った。 10日後検査結果が簡易書留で送られてきた。 結果は予想通りで匠吾の子ではないと判定が下りたのだった。 正直判定を聞くまで匠吾は内心ドキドキだった。 性交渉をしているからには万が一ということもあったからだ。
28 玲子は妊娠9週目に入ったところで匠吾と共に沙代洋輔夫妻に 呼びつけられた。 出産まではまだ随分と日があるものの約束通り家と土地の話を されるのだろうと義両親に呼ばれた玲子はウキウキだった。 反して匠吾はこんなクソのような女のために花との未来を奪われたのかと 思うと今更ながらに憤懣やるかたない気持ちになるのだった。 そして、そんな玲子を待っていたのは罵倒と慰謝料請求だった。 リビングに設けてある応接コーナーに若夫婦が座ると 後から義両親が対面に座り話し合いとなった。 「玲子さん、あなたやってくれたわね。あなたのくだらない戯言《ザレゴト》で花ちゃんとうちの匠吾との仲を平気でぶち壊したあなただもの、流石よねぇ~」「えっ……」 話がどこへ向かおうとしているのか分からず固まる玲子だった。「DNA検査って知ってるわよね?」「はい」 DNA検査という単語を出され玲子は焦った。 自分の子は疑われているのだろうかと。 検査を勧められたらどうやって切り抜けようか、などと頭の中は そのことでいっぱいになった。 しかし切り抜け方など焦って考える必要などなかった。「これ、検査報告書見てご覧なさい」 渡された書類を見ると夫の匠吾とは親子関係がほぼ0に近いと 書かれてあるのだ。 だけど何故? 自分はDNA検査などしていない。 夫の匠吾だってそんな検査したことなど聞いてない。 何がなにやら分からぬまま❔マークを顔に貼り付けていると 沙代からフォローが入った。 「この間の病院での血縁検査で分かったのよ。 あなたには黙ってたけど……あれって今年からできた新しい方法での DNA検査だったのよ。 あなた不貞を働き、その上托卵する気だったでしょ。 犯罪よ、これって。 慰謝料300万円請求の上、離婚を要求します。 さっさと離婚しないと慰謝料を500万円に増額するわ」
29 玲子は突然のことに隣の匠吾を振り返った。 匠吾は玲子を一瞥することもなく険しい顔で前方を見ているだけだった。 「あなた、ごめんなさい。 お義母さんから早く孫を生みなさいと言われてプレッシャーだったの。 それで……」 「うちの母親が欲しかったのは俺の子だよ。 誰か顔も知らない他所の男の子を欲しがる人間なんていないだろ。 プレッシャーだなんてどの口が言うんだろう。 リッチな暮らしがしたいばかりに勝手にプレッシャー感じてただけだろ? 2、3日猶予を与えるから出て行って。 お金はご両親に建て替えてもらうか、どこかで借りてでも支払うように」* 玲子はひとり、自宅に返された。 匠吾は玲子が家を出て行くまでは両親の部屋で過ごすことにしていた。 そして玲子の実家へも報告書は送られており、すべからく当初の予定通り 沙代たちの計画は準備万端完了したのだった。 玲子は離婚届を置いて迎えに来た両親に連れられて帰って行った。 部屋に残された緑色の紙を匠吾はビリビリに破き、ゴミ箱に捨てた。 次回何かで戸籍を見るまではその実、結婚歴などなかったことを 玲子が知ることはないだろう。『ご愁傷さっま』と匠吾は呟いた。 玲子が愚かだったため復讐に1年も掛からず済んでしまった。* 沙代と洋輔は玲子から巻き上げた慰謝料300万円を持って 再度の謝罪をするために父の自宅を訪れた。 総帥の茂は言った。 「ご苦労様」と。 匠吾しかり沙代も洋輔も元来今回のように人を貶めたりすることのできない人間でこれでやるべき仕事が終わったかと思うとほっとするのだった。 そしてこの後3人は(祖)父や掛居家から離れた土地へと引っ越しして行った。
30 良かったのか悪かったのか……ほどなくして、玲子は自然流産してしまった。 玲子は自分の今回の不遇を浅はかなことをしてしまった自分のせいだと考えていて、沙代や匠吾たちの思惑には幸か不幸か気付かなかった。 そして今回だけに留まらず不運がずっと付いて回る可能性があることにも とんと頭が回らなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 流産のあと、身体が回復すると玲子は近所にあるコンビニで働き出した。 そしてコンビニで働きながら就職活動も開始した。 開始した時期ももうすぐ4月という時期で良かったのかもしれない。 公益財団法人緑の協会というところで契約社員だったからか就職はすぐに決まり、コンビニも申し出てから1か月ちゃんと勤めて辞めることになった。 公園や動物園の受付や案内、イベント運営、施設の広報、ブログ掲載のための記事や画像撮影そして事務一般というのがそこでの割り振られた仕事で、それは何でも屋的で職員の勤怠管理、支払い関連の経理など、座ってする仕事だけでもなく立ち歩いたり座ったりとバランスの良い仕事だった。 5年は長いと感じたが5年契約社員で勤めれば正社員になれるらしいのも魅力のひとつだ。 そんなわけで玲子は『採用が決まりました。来てもらえませんか』との連絡を受け、即座に『ありがとうございます。行きます』と返事をしたのだった。 職場の雰囲気はすごく良かったし、仕事も思っていた通りいろんなことをさせてもらえて楽しく長く続けられそうだと思っていた……のに。 入社して10日ほどして支部長から個室に呼ばれ突然の解雇を言い渡されてしまった。
31 「仕事も意欲的に取り組んでもらっていて言いにくいんだけど 辞めてもらうことになりました。できれば今すぐにでも」「どうしてですか?」 「圧力がかかりました。 あなた、誰かに恨みをかっていませんか? 普通は恨みをかっていたとしても、新しい就職先を解雇されるって ことまではないでしょうけどね。 あなたが恨みをかった相手はおそらく大物なのでしょう。 私が言えるのはこの辺《あたり》までです」 恨み、恨みといえば掛居花と向阪匠吾の仲を引き裂いたことくらいしか 思いつかない。 でも結局匠吾は私と結婚したんだよ……結局自分の不貞のせいで 離縁されてしまったけれども。 犯人は掛居花なのか? だけど会社を辞めさせられるほどの大物だというのなら、 私が匠吾と結婚した時に邪魔するのじゃない? 結婚は阻止しなかったのに会社へは行けなくするって……なんか 変じゃない? いくら考えても玲子には恨みをかってるという人物を特定することが できなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 次はバイトもせずに就職を探すだけに時間を使って過ごし、早々に 前回に負けず劣らず働き甲斐のある事務仕事を見付けた。 しかしこの時もやはり仕事についてすぐに圧力がかかり、仕事を 継続することは叶わなかった。 もう誰かの見えない力のせいでちゃんとした会社には就職できないと 落胆したものの、よくよく考えてみればコンビニでバイトしていた時には 横槍はなかったはず。 そこでしばらく就職活動を断念してバイトで食いつなごうと 玲子は自分の生活の有り方を切り替えることにした。 前回1か月余り働かせてもらったコンビニに連絡を入れると ぜひにと請われ、少し気恥ずかしくもあったが、そこは割り切って 働くことにした。 他のバイトの人とも上手く連携が取れて仕事は順調にいった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして半月ほどした頃、週に何度かコンビニ弁当を買って帰る男性《ひと》から玲子はメモ付きの名刺を貰う。
32 『4月になってあなたの顔を見なくなり、寂しく思っていました。 今回職場復帰したのを知りうれしく思います。 よろしければ一度食事をご一緒していただけませんか。 連絡をいただければうれしいです』と記されていた。 どうしようか、と玲子は考えた。 これといった特徴のない男だったからだ。 就職活動はしばらく中止していたのでバイトのない時間は暇ではある。 たぶん1、2度デートしたら『さよなら』だと思うけど、ちょっと美味しいものをご馳走してもらおうという軽いノリでその田野浩司《たのこうじ》という男との食事を楽しむことにした玲子だった。 夜ごはんに行ったりドライブをしたりと思ってたよりも楽しい時間を過ごせたことでデートは2度までで終わらなかった。 何と言ってもリッチな食事が無料で食べられるのは正規雇用で就職できない玲子にとって大きな魅力だった。 そして数回デートする中で大きな収穫があった。 田野もその父親もサラリーマンだが父方の祖父が今だ健在で資産家らしいということが分かってきて、祖父亡きあと父親にその遺産がいくがもう少しすると生前贈与で孫の田野に幾ばくかのまとまったお金が贈与されることになっていると聞く。 人の良さそうな田野を見ていると結婚後も大事にしてくれそうに見える。 彼ならお給料も全部妻になった自分に管理させてくれそうな気がする。 恋人には物足りないが夫として考えると申し分のない人じゃないか。 相手は元々玲子を気に入っているのだから玲子さえその気になれば……なんのことはない、事は順調にそして素早く進んだ。 交際2か月で婚約をし、それからしばらくして入籍をと考えていた矢先に玲子にまたもや暗雲が立ち込めた。 例の圧力という名の横やりが入ったのだ。
117 遠野さんの分かってます発言はほんとに分かっていての発言なのか、 非常に怪しい。 最後の含み笑いは私を困惑させるのに十分な威力を備えていた。 周囲には隠して付き合っている、というストーリーが彼女の頭の中で 展開されている節がある。 何故なら相原さんと付き合っているのか、という問いかけはなかったからだ。 まぁあれだ、彼女は小説を書く人だから、一般人よりは妄想たくましい 可能性はあるよね。 相原さんとデートしたことなんて絶対知られないようにしなきゃ、だわ。 何気にこういうの疲れるぅ~。「掛居さん、私、夜間保育をして少しずつ相原さんとお近づきに なりたいんです。 それで芦田さんに夜間保育をやりたいってお願いしてみようかと 思ってるんですけど、立候補したら迷惑でしょうか……迷惑になります? ご迷惑ならこの方法は止めなきゃ駄目ですよね」 私は先ほどから遠野さんの言動に驚かされてばかりなんだけど、 今の話を聞いて更に『目玉ドコー』な感覚に陥った。 なんて言うんだろう、彼女のお伺いって控えめさを装った強引な お願いにしか聞こえなくて、少し嫌な感じがする。 元々こういうキャラの女性《ひと》だったのか、はたまた片思いが 高じた所以のものなのか。 よく考えてみたら私が持っていた遠野さんのイメージなんてたまに 社食で昼食を一緒に摂るだけの間柄で何を知っているというのだ。 恋する乙女は貪欲で猪突猛進で私は恋する乙女? の力強さにある意味 感服するところもあるけれど、自分に置き換えてみるに、とてもそんなふう な形での力強さは一生掛かっても持てそうにないや。
116「皆《みんな》モチモチしていて可愛かったぁ~、大満足ぅ~。 掛居さんが抱っこしてた子って凛ちゃんですよね」「あぁ、うん。でもどうして……」 遠野さん、どうして凛ちゃんのこと知ってるのだろう。 「実は2回ほどひとりで昼休みに子供たち、見に行ったことがあって 芦田さんから聞いてたんです。 夜間保育のことか休日のサポート保育のこととか。 私、ちょっと後悔してるんですよー」「えっ?」「その理由が姑息過ぎて余り大きな声では言えないんですけど……」「なになに?」 「小説書くのに忙しいのは本当で、昼休憩の時間も惜しいくらい小説に時間 を割きたいというのも本当ですけど、あのカッコいい相原さんの娘さんが あの保育所にいるということなら話は別です。 こんな大事を知らなかったとは、迂闊でしたぁ~。 今までの時間が悔やまれます。 私なんて掛居さんより先に入社していたというのに。 掛居さん、私の言わんとするところ、分かります?」 「ええ、まぁなんとなくは。 相原さん本人に興味があるってことかな?」「え~いっ、掛居さんだから思い切って話しちゃいますね」 いやっ、話さなくてもいいかな。 だって話を聞いてしまうとなんとなぁ~くだけど後々ややこしいことに 巻き込まれそうな気がするのは取り越し苦労というものかしらん。 「相馬さんも素敵だけど今までの経緯を見ていると、とても並みの人間には 太刀打ちできない感じがして、遠い星っていう感じだから恋のターゲットに ならないでしょ? それに今や掛居さんといい感じみたいだし。 私略奪系は駄目なんですよね」 はぁ~、遠野さんの話を聞いていて私は頭が痛くなってきた。大体、今まで誰それに好意があるなんていう話を出してきたことなんて なかったというのに、いきなりの想い人発言。 しかも相原さんてぇ~、どんな反応すればいいのか困る。「あの、相原さんのことは何も反応できないけども、相馬さんとのことに 関しては、私たち付き合ってないから……」 「分かってますってぇ。むふふ」
115 「じゃあここで。 すみません、送っていただいて。 今日はいろいろとありがとうございました」「いや、これしきのこと。 しかし……ひゃあ~、まじまじとこんな間近で見るのは初めてだけどすごいね、35階建てのマンション。 今度さ、凛も連れて行くからお部屋見学してみたいなぁ~」「いいですよ。片付けないといけないので少し先になりますけどご招待しますね」「ありがたや。一生住めない物件だから楽しみにしてるよ。じゃあ」「はい、また明日」 いやぁ~、なんか相原さんのペースに乗せられて自宅の公開まで……。 私たちの距離が一遍に縮まりそ。 自分でも吃驚。 こういうのもありなの? ありでいいの? 答えはいくら考えても出ないけど、いたずらに拒絶するのもどうなのとも思うし。 それにちゃんと相原さん私の思ったこと分かってくれてるみたいだったし 取り敢えずこの夜、私は自分の胸に訊いてみた。 私は相原さんに恋してる? 恋に落ちた? NOだと思……う。 私は匠吾に向けていた……向かっていた強い恋心を元に考え、答えを導き出した。 素敵な男性《ひと》だな、とは思うけど、知らないことが多すぎる。 恋に落ちてないと昨夜、自分に向けて確認したけれど昨夜に引き続き、翌日になっても自分の気持ちが何気にルンルンしていることに気付いて、やっぱり異性とのデートは知らず知らず心が弾むものなのだなと悟った。 ただこれ以上深く考えようとするのは止めておくことにした。 そして今の自分の気持ちを大事にしようと思うのだった。 それから仕事終わりの金曜日……遠野さん、小暮さんと一緒にランチをしたあとのこと。 小暮さんはいつものようにいそいそと浮かんだアイディアを図にするべくデスクへと戻って行った。 いつもなら2人してデスクに戻るはずの遠野さんから『久しぶりにチビっ子たちを見に行きませんか』と誘われ、私たちは社内保育所へと足を運んだ。 遠野さんはいろいろな子たちと触れ合い、子供たちとの時間を楽しんでいるようだった。 私はというと、私を見付けた凛ちゃんが真っ先に飛んで来たので私はずっと凛ちゃんを抱いたまま他の子たちと触れ合い、昼休み終了の時間まで保育所で過ごした。 そんな私たちの様子をにこやかに見守っている芦田さんの姿が見えた。 子供たちと
114「えーと、私と一緒に食事して怒ってくる恋人的存在の女性がいたりってことはないですね? あとでトラブルに巻き込まれるのは困るのでここは厳しくチェックさせていただきます」「掛居さん、子持ちなんて俺がどんだけ素敵オーラを纏《まと》っていても誰も本気で相手になんてしないから。そういう心配はないよ」「えーっ、そういうものなのかなぁ~。 私は凛ちゃんみたいな可愛い子、いても気にしませんけど……。 あっ、私ったら余計な一言でした。 恋人になりたいとかっていう意味じゃなくてですねその……」 私はやってしまったかも。 微妙にこの辺のことは発言を控えた方がいいレベルだったと気付いたが時すでに遅し。 本心から別に今、相原さんLoveで恋人になれたらいいのに、なんていう恋心から言ったのではなく、常々凛ちゃん好き好き病でつい、口から零れ落ちてしまったというか、零れ落としてしまったのだけれど、なんか変な誤解を招く一言だったよね。 嫌な冷や汗が流れそうになった。 きゃあ~、絶対勘違いさせちゃったよね。『お願い~相原さん、変に受け取らないでぇ~』「いやぁ~、恋愛抜きでも凛のことそんなふうに思ってもらえるなんてうれしいよ。じゃあ子持ち30代、希望あるかな」 「はい、相原さんならばっちり」「そんなふうに言ってもらってうれしいけど……」「けど?」「なかなか出会いの場がないからねー」「ほんとに。仕事ばかりで出会いないですよねー。 世の男女はどうやって結婚するのかしら? そうだ、一度結婚したことのある先輩、どうやって出会ったんですか?」「あー、うー、その話はまた今度ってことで」「楽しみぃー!」 なんだかんだ2人で話しているうちに私たちはいつの間にかマンションの前に着いていた。
113 相原さんとの初デートは音楽と美味しい食事、そして語らえる相手もいて思っていた以上に楽しい時間を過ごすことができた。 こんなに近距離で長時間、洒落た時間を共有したことがなかったので、朗らかに活き活きと話をする相原さんを見ていて不思議な感覚にとらわれた。 私はこれまで交際していない男性と一緒に食事をするという経験がなく、世の中には恋人ではない異性の同僚と一緒に食事をするという経験のある人ってどのくらいいるのだろう? なんて考えたりした。 もちろん相手のことが好きでデートするっていうのは分かるんだけどね。 まだまだ相原さんのことは知らないことだらけだけど、彼と話すのは楽しい。 彼を恋愛対象として見た場合、凛ちゃんのことはさして気にならない……かな。 だけど凛ちゃんママの関係はかなり気にしちゃうかなぁ~などと、少し後からオーダーしたワインをチビチビ飲みながらほろ酔い気分でそんなことを考えたりして、一生懸命話しかけてくれている相原さんの話を途中からスルーしていた。笑って相槌打ってごまかした。『ごめんなさぁ~い』「明日も仕事だから名残惜しいけどお開きとしますか!」「そうですね。今日は心地よい音楽に触れながら美味しいものをいただいて、ふふっ……相原さんのお話も聞けて楽しかったです」「そりゃあ良かった」 支払いを終え、私たちは店の外へ出た。「今日はご馳走さまでした。 でも休日のサポートは仕事なので次があるかは分かりませんけど、もう今日みたいな気遣いはなしでお願いします」「分かった。 休日サポートのお礼は今回だけにするよ。 さてと、家まで送って行くよ」「えっ、でもすぐなので」「一応、夜道で心配だから送らせてよ」「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」「俺たちってさ、お互いの家が近いみたいだし、月に1~2回、週末に食事しようよ。 俺、子持ちで普段飲みに行ったりできないからさ、可愛そうな奴だと思って誘われてやってくれない?」
112 お礼に、たぶんだが……何かご馳走してくれるらしいけどそれを彼は 『デート』と表現した。 シングルなのか既婚なのかは知らないけれど今でこそ子持ちパパだから デートする特定の相手がいるのかもどうかも分からないけど、独身だった頃 はあの見た目と積極的な性格を見るからになかなかな浮名を流していたので はなかろうか。 初めて社外でプライベートに会うのに『デート』という言葉をサラッと 使ったところを見ての私の感想だ。 私たちの初デート? は相原さんお勧めの駅前のカフェだった。 そこはジャズの生演奏が流れていてむちゃくちゃムーディーで恋人たちに もってこいの雰囲気があり、私には腰を下ろすのが躊躇われるほどだ。 お相手が素敵な男性《ひと》ではあるものの、残念ながら 恋人ではないから。 匠吾と付き合ってた時に巡り合いたかった……こんな素敵な夜を過ごせる お店。 昼間はどんな顔《店の様子》をしているのだろう。 駅前に立地していて自宅からも近いので次は平日の昼に来てみようかしら。 「俺たちラッキーだな」「えっ?」「何度か来たことあるけどジャズがスピーカーから流れていることはあって も生演奏は今日が初めてだからさ。うひょぉ~、やっぱ生はいいねー」「へぇ~、そうなんだ」 そっか、じゃあ平日来てもきっと生演奏はないだろうなー。 私たちはオーナー特製のピザと各々チーズのシンプルパスタと ツナときのこのパスタでボスカイオーラーというのを頼み、ジャズの演奏 を楽しんだ。 「掛居さんって家《うち》どの辺だっけ?」「言うタイミング逃してましたけど実は最寄り駅が相原さんと同じで ここから4~5分のところなの」 「まさか駅近のあの35階建てとか?」 ずばりそうなんだけど、相原さんの言い方を聞いていると『まさかね』 と思いながら訊いているのが分かる。 だって分譲で結構なお値段《価格》なのだ。 とてもその辺のサラリーマンやOLが買えるような物件じゃない。 本当のことを言うか適当な話でお茶を濁すか……どうしよう。「お金持ちの親戚が持っていて借りてるんです」「いいな、お金もちの親戚がいるなんて」 「まぁ……そうですね」
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。